時刻:6時45分。「魚と縁がある男」
とても熱すぎて持てないカップに取っ手がなかったら?
それをどう持てばいいのか、わからなくなるのも無理はない。
昔、恩師に言われた言葉だった。意味はわからない。
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足早に歩道を進んでいく。
視界が妙にチラつく。
飲食店が多く並ぶ、それなりに忙しい駅前の大通りにはそれなりの数の歩行者がいて、その合間を縫うようにして歩いていた。通り過ぎ様に時折チラリとレストランを覗くと、魅力的な店が多い。
まだそれほど暑くはない、週末の初夏の夜だった。
ショーン・ベッカーは急いでいた。
招待された恩師の誕生日パーティーは、チャッカマンは火がつかないし。それどころか蝋燭がそもそも無いという準備の悪さで始まり、ショーンは3ブロック先のスーパーまで買いに行く役をかって出ることにした。
地域密着型で地元のスーパーと看板に書いてあるスーパーが見えてきた。
汗をかき始めていた。まだじんわりと湧き上がってきているだけだが、会場に戻る頃には、びっしょりかいているだろう事は容易に想像できて、小さくため息をついた。
ショーンは「地元のスーパーマーケット」
と名乗るスーパーを見て、思わず苦笑いしながら店に入っていく。
それというのも、このスーパーは各地にあるのだが、裕福なエリアのみに店舗を置いて、地元のXスーパーと名乗り、売っているものは他のスーパーよりも上質で、品揃えも所得が多い住民に合わせた物ばかりだからだった。
この国の国民らしい皮肉屋が創業者なのだろう。
そこで突然ショーンは酷く政治的な、そして人類のこれからを思って怒りが湧くようなイメージを見た。ふとしたきっかけで世を憂いたりするのはショーンにとっては日常茶飯事だった。
世を憂い、これから先の悪い未来を想像をすると、空の向こうから震えるような神の怒りを感じた。まるでこの空の向こうの宇宙には神がいて、人間に対して強烈な怒りを覚えているような、失望しているような。そんなエネルギーだった。
「ショーン、考えすぎだ。勝手に神の怒りを感じてるだなんて。そんなことより恩師のために蝋燭を買うぞ」
独言て、スーパーに入る。レモンとライムを買い、さらにペーパータオルとゴミ袋もカゴに入れた。これもパーティで必要になるかもしれない。最後にキャンドルと、チャッカマンをカゴに入れたところで——
——ねぇ! あなたタバコ吸ってる?
ショーンの近くにいた女性客が驚くほど甲高い声で話しかけてきた。瞳孔は開いていて、正常な精神状態には見えなかった。
「……いや、吸っていない」
正確にはショーンはスモーカーであるのだが、この月はタバコを辞めていたのでそういった。それにこの女はハイになっているのか? それとも障害か何かを抱えている女性だろうか。ひどく子供っぽいような空気もある。
ーああ、そう!? 誰か吸ってる気がしたの。お兄さんじゃないのならいいわ!
目を見開いて、背伸びをするようにつま先立ちになって背の低い50歳ほどの女が5歳児のようにそういった。
異様なほどに甲高い声を出す女から逃げるようにセルフレジへ向かい会計を済ましている時——
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いつの間にか、セルフレジでなく店員がショーンの目の前にいて、商品をスキャンしていた。
ー失望させてくれるなよ。嘘をついたな。
シワの多い中年の店員が、大げさに怒っているような表情でそういった。
「……」
ー無視か? 本当に無視する気か?
「俺に言っているのか?」
ーお前以外誰がいるんだ、答えてみろ。
「そんな話しかけ方をする奴がどこにいる、答えてみろ」
ー怒っているのか? なんて太々しいやつだ。
「こっちのセリフだ。人のせいにするなよ」
—何だと!? もういっぺん言ってみろ!
いきなり店員がベッ!とガムを吐きつけてきた。
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「汚ねぇな、この野郎! ぷっ、あははは!」
珍しいほどに激昂したショーンが声を荒げると同時に笑い出す。
いつの間にか水草の中にいて、湿地帯を泳いでいた。なぜか可笑しくてたまらなくて、そのまま笑いを堪えながら、夜の湿原を泳いでいく。
夜の湿原の中のプールは心地良かった。
ナイトプールよりも居心地よく、月明かりは完璧なライティングで、水温も文句なしだった。浮力が多いような水で泳ぐのが酷く簡単で童心に帰ったような気持ちでショーンは平泳ぎを楽しんだ。
ひとしきり泳ぎを楽しんだ後。
湿原は洪水で水没したストリートになっていた。水の中で体の向きを変えスイっと振り返ると、すぐ後ろに先ほどのスーパーが見えた。スーパーだけ水位が天井まで溜まっていて、溺れ死んでいる客、猫にリードと首輪をつけられて、水中を引っ張ってもらっている老人、天井付近の水面から顔を出し、かろうじて息をしている客が見えた。
1ブロックも進むと、水位は下がって普通に歩けるようになった。
気づくと服は乾いていて——
「よし! 服まで乾いてる、気が利く世界じゃないか」
バシャァ!
ラッキーだと思いつつ歩道に移ると、後ろからやってきた車が水たまりの水をショーンにかけて行ってしまった。
「おい! ふざけるな!」
ーおーい、おい。ははは、大丈夫か、兄ちゃん!
その後ろから来た車が窓を下げて声をかけてきた。
「おい! 気をつけてくれ! 速度を落とせ! 水がかかる!」
ーははは! 仕方あるメェ! 車線変更は罪だからな! ははは!
「並走しないでくれ! 微妙に水がかかってくる」
運転手は「あいよ、了解!」 と言ってアクセルを一気に踏み、水を盛大にショーンに引っ掛けて行った。
「おい! ファック、……ファッキン、ヘル。最悪だ……」
そう思いながら前を見ると。
100mほど先の信号の向こうにブラックホールが見えた。ブラックホールを見たことなど無いが、とにかく大きくて輪郭が光り輝いている真っ黒な土星のようなものがあった。
これに飲まれれば死ぬだろう。
それだけは確かなように思えた。
ここで銃で撃たれれば、ここで車に轢かれれば、ここでブラックホールに飲まれれば、死ぬ。
ショーンは経験則で理解していた。
その輪郭が輝く黒い土星が先ほどの車を飲み込んでいく。
その後に続いた車も。
今度はサイレンを鳴らしながら救急車と消防車が突っ込んでいった。
消防士が断末魔の悲鳴を上げて消えた。
救急車の後ろのハッチが開いて、老いた救急隊員と女の隊員がいて、女の方がもう一人を蹴飛ばして自分だけ助かろうと、ブラックホールとは反対側へ飛び降りたが、そのまま宙に浮いて、逃げられない。
ーお願い、ネットで検索して救急車を呼ぼうとしないで! 呼んだ方がいいか、わからない程度の病状なら心臓が爆発しそうになったり、呼吸困難でも呼ばないで! 若い奴は大抵死なないの! ネットで検索しないで! それと死んでいないのなら最初から病院に来ないで! 内科にも皮膚科にももっとひどい症状の人がいるのよ! ならば救急に務めとけ? だからあたしは務めてるでしょ! この人でなしのクソ患者!
そこまで言ったあたりで、その女も飲み込まれて消えた。
ショーンは医者に「かけてもいいけど、放っときゃ治るね!」と言われ続けて病気を何年も放っておいた挙句、他の医者にももっとひどくなったら来てください。と、たらい回しにされ、マシそうな私立病院に行ったら笑顔でさっさと治療してくれた医者が、「ああ、そう言うクソな医者いるよね! あるある! うんうん。これすぐにわかる病気だけどね。いるいる」などと言われたので、飲み込まれた救急隊員には内心、同意できなかった。
それはともかく、ブラックホールは近くの建物を崩壊させ始めた。
「大きくなってる!」
ショーンは、真横に鍵付きで、さらにエンジンまでかかった状態で停車していたトラクターに乗って反対方向へアクセルを全開でかっ飛ばした。
トラクターの操作には慣れてないんだよな。というかトラクターなど運転したことがないのだ。そう思った時には馬に乗っていた。
馬で駆けると、最初アメリカンインディアンのような格好で、二度見した時には胸元を不自然に開き谷間を見せるナースの格好の女が、横についてきた。
本物のナースというより、キャバレーの衣装や何かのコスプレのようだった。
ーねぇ! ナースコス好き?
「いいや! 別に好きじゃないな!」
ーねぇ、じゃあ何でこっち見てんのよ!
「お前が話しかけてきたからだ!」
ーねぇ! ねってば! あんたもモンスターから逃げてきたクチ!?
ナース服からスーツに着替えた女が馬を乗りこなしながら言った。
「ああ、モンスターってあのブラックホールか!?」
ー誰の口がブラックホールやねん! 失礼ね、あんた! 飲み込んだろか!
そんなこと言ってないだろ。という言葉を飲み込んで、早くこの世界から出る術を探そうとショーンは思った。
馬で地下鉄に入っていくと、新幹線がやってきて、馬を乗り捨て、間髪入れずに乗り込んだ。
「危なかった。新幹線なら逃げられるだろう……」
思えば、めちゃくちゃなことを言っていた。が、ショーンは気が付かない。異界に入り込んだ時は大体そのようなものだ。悲劇と喜劇の境界線は重なり、曖昧になり、パニックとマジックは音節が同じだけだ。
新幹線に乗ると、日本人の車掌がやってきて、外国人とマナーの悪い日本人の両方に、音量注意してください。と肩を叩いて回っていた。チケットを見せると、妙な目つきになって、交換所へ行ってください。とだけショーンは言われた。
富士山を通り過ぎてちょっとして、適当な駅で降りた。
「裏・東京駅」
>>リバース・トーキョー・タワー。リバース・トーキョー・タワー。
アナウンスが何度か言った。
「おいおい、やばいぞ。こんな場所に迷い込んでる場合じゃない。この世界はかなり危険な部類だ、どうにか戻らないと」
ショーンはいよいよ追い詰められた。
恩師の誕生日に蝋燭とチャッカマンを買いに行って、そのままバックれた男なんてシャレにならないからだ。
ショーンは高校の頃の友人に引き続き、大学の友人とも疎遠になっていく未来が見えた。公平に言えばすでにそうなっているのだが。
ショーンは自分の孤独っぷりに複雑な思いを抱きつつも、裏・東京駅と自称する駅のホームに意識を向けた。
「ここは本当に日本なのか?」
幼少期に生まれ育った日本に出てきてしまった。懐かしいが、それ以上にイギリスが遠すぎる。
それに裏とついているのも気になった。なんにせよ、ブラックホールから逃げれたのはいいが、早急に元の世界に戻らないとまずい。
ショーンの恩師は繊細な人で、ショーンが現れなければ、それは自分の人徳の無さによるものだと思い込んで、寝込んでしまいそうな人だったからだ。
タタタ。
素早く近づいてきた足音を耳が捉えて、振り向こうとする前に後頭部に衝撃が走り、視界が真っ暗になった。
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目を覚ます、土砂降りの雨の音が聞こえていた。
ボタボタと絶え間なく降る雨粒。
ベッドの上にいて、部屋にはドアがない。広い部屋だが、広さ以前に、全体的に普通の民家のようには思えなかった。
というのも壁や、床、調度品の感じ。窓が無いこと。まるで洞窟をくり抜いて作られた屋敷の中にいるみたいだった。




