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「魚と縁がある男2」

 


 石壁をペンキで塗ったような壁を見ると、ひんやりとして冷たそうで。

 ベッドから降りると実際に床は冷たかった。


 ーお目覚めですか。お待たせして申し訳ございません。いきましょう。


 スーツを着た初老の男がやってきて、ショーンにそう言った。


 男に案内されるがままに歩いていく。

 やはり少し入り組んだ洞窟をくり抜いて作ったような屋敷だった。


 途中で見つけた窓から外を見ると、家屋の明かりがちらほらあってそれ以外は——


 ——夜の海だった。


 海を望む崖などに造られた建物なのだと分かった。


 どこだろうか、ここは。

 さっきまでは東京だったはずだ。今は地中海のどこかだろうか?


 とショーンは思った。


 ゴホン!


 咳払いされて、また歩き出す。


 屋敷の光源は壁際にある蝋燭のみで、揺れる炎がチラチラと動く影をずっと壁に映していた。


 一つの部屋に入ると席につくよう促された。


 向かいにその男が座る。


 ライオンのような髪型の老人だった。顔つきは羊のようでもあったが精悍な犬でもあった。白髪まじりの豊かな髪。皺が刻まれた顔かもしれない。しれないというのも、そのように感じるだけで彼の顔はずっと影だった。顔つきが見えないのだ。


スーツと腕時計は品があり、そこまで主張しないようなデザインだった。



 ーん? 私の時計が気になりますか?


「ああ、いえ……。すいません、ジロジロと……」


 ーIWCですよ。


「ああ、時計の。好きなんですか? そのメーカーが」


 ーん。どうでしょう。まぁ、ユングの本を読んだりしてたんですよ。


「ユング? それと時計が何か?」


 ー知ってますよね。有名な心理学者の。シンクロニシティとか、コンプレックスとか、アーキタイプ、シャドウ、サイコロジカルタイプスとかね。


「はぁ……」


 ーユングは魚のシンボルなどを良く例えに出すように感じたんです。いや実際に多かったかはわからないけど、印象に残っていた。私の中でね。興味を持って調べてみると彼と私は共通点が多少あった。


「へぇ、共通点ですか」


 ーええ、ミドルネームのイニシャルもだし。グスタフね。カール・グスタフ・ユング。他にも色々、ありますよ。魚、駅前の病院。ハイデルベルグ、国境の街、曼荼羅に、塔作りに、石像と会話したり、言語を作ってそれを教えたり、祖父の名に、諸々。



「はぁ……」


 この時はこの老紳士が何を言っているのか、まるで理解できなかった。


 ー少し気になって、暇だし。するとユングの奥方はIWCの娘で、当時スイスでも指折りの資産家だったとかいうんですよ。ネットで見た気がする、確かね。ユングも経営に関わっていた時期もあるとか。そんな話もあったかもしれない。


「へぇ、知らなかった」


 ー私はそれで、へぇ。と思ってIWCの時計を見にいったんです。そしたら時計の裏にね……


 そう言って男が腕時計を外して、その裏面を見せると——


 ーほら、魚のマーク。この横のリューズにもあります。


「ユングに関係してるのですか? あ、先ほど言ってたやつですね」


 ーそうそう。私はそこまで調べてないし。調べてもユングが理由でこのマークが彫られているような情報は見なかった。でもね、理由なんて別にいいですよ。


 ー魚のマークというものが私の中に焼き付いたのです。そして気になって調べている最中に、魚のマークがなぜか裏面に彫られている時計を見つけた。防水性の意味とか言ってるのはあったけど、ユングからインスパイアされたとか、アドバイスされたとかあるのかな。面白くないですか?


 ー何にせよ。それまで私は時計に関しては節操なしでした。適当にコレクションして、それだけ。それでよかったし、どうでも良かった。しかしシンクロニシティみたいなものを感じると、途端にもう生涯これでいい。そう思えたんです。今では他の時計は全て売ってしまって、もうIWCのこれ一本ですよ。IWCは永久補償ですしね。


「へぇ、確かに似合ってますね」


 ー魚はね。キリストを意味するシンボルでもあるらしいですよ。


「そこにもシンクロニシティがあるんですか?」


 ーええ、そうなんです。私はね。救世主に憧れたんです。正確にはヒーローとかでもいいけど。伝え方は今はどうでもいい。わかりやすく言うならですね。結局は人に理解してもらうには難しい話だから。


「救世主ですか」


 ーそう。でも別に人を救いたくはないんです。


「救世主になりたいのに?」


 ー正確にはなりたいのじゃなく、自分がそのようなものだと感じているんです。そういう言い方でいうならば。


「あなたが?」


 ー馬鹿みたいでしょう? 別にそう思ってもらっても構わない。でも真実を語るならそうなるのですよ。


「その、感じているとは?」


 ー私は未来をよくしたいんです。特に人々の未来を。


「それはどうするんですか?」


 ーどうにも出来ません。何も出来ないんです。「信じれば救われる」ていうでしょう? でもね、信じてくれなければ救えないんです。


老紳士は目を伏せて泣き出してしまいそうなほどに悲しい表情になった。


「あなたを信じてくれる人は?」


 ーいません。


 男は達観したような無表情でキッパリといった。


 ーもう随分な年齢になってしまいました。別にキリストみたいじゃなくていい。太公望って知ってますか? 彼にみたいになりたいな。彼も芽が出たのは70歳か80歳くらいかな、人間として相当な歳でしょう。私は日々準備しているけれど、色々勉強したりね。でも、人はなかなかついてきてくれませんね。


「人がついてきてくれたら何をするんです? その人たちと一緒に」


 ーなんでしょうね。未来を良くしたいな。私は方向性が大事だと感じる。リスクがあろうが、失敗しようが、ですよ。方向性は非常に大事です。


「あなたの行動の方向性は未来の人々の為になること?」


 ーそう。……だけど。何もせずに死んでしまうかもしれない。いつか、私は居なくなってしまうかもしれない。


「何か行動を起こせば?」


 ー救世主は人が望まなければ力が出ないんですよ。そして人間は一方的に私を利用して、搾取することが出来るならば喜んで私と共にいるでしょう。しかし、私はそれを許容しない。それはね、だめなんです。


「まぁ、そう言う人たちのために人生を捧げるのは違うでしょうからね」


 ーうん、でも大体の人間は私と共に何かを手に入れたり、良いことをしたり、挑戦することには興味がないんです。私の力の源は封じられています。そう出来ているんでしょう。



「力が封じられていると、なぜわかるんです?」


 ー稀にある経験からです。小さなことだけど。そう言う時に脳にスイッチが入ったかのように力がみなぎるんですよ。私は私として生まれてきた使命を果たしたい。でもそのスイッチは他者が持っているんだ。それがとてつもなく悲しい。強い怒りや嫌悪感も湧く。


「周りの人間を変えてみたら?」


 ー何度か試したけれど。どうにもダメだった。碌でもない人間を除いたら誰もいなくなる。良い人間はなんか私といると緊張するのか、距離をとってくるか、なんともうまく行かない。私に気を使いすぎたりね。


「そんなもんですか」


 ーそんなもんですよ。私の経験では。



 ショーンはずいぶん長く老人の話を聞いていた。老人は彼の周りの人間について嘆き、また世界に落胆し、自身の人生に絶望していた。ショーンは老人に問題があるようにも思えなかった。



 ー長々と話を聞いてくれているけど、君はどう思う? 正直に言って欲しい。


「普通なら、いや洞察力のないものならば、ここであなたについてジャッジするかも」


 ー……ほう、どんなふうに?



 老人が目を細めていった。攻撃的な目ではなく、少し面白がりながら見定めるような瞳だった。


「あなたに問題があって、他者のせいにしてるとかね」


 ー真っ当だね。君はそう思わないの?


「思わない。全てにおいて自分が変わればどうにかなると思っている人を幾人か見ました。しかし自分が変わっても人はあまり変わらない。人は必ず変化するものだけど、他者の都合の良いタイミングで変化することはほぼない」


 ーそうだね。じゃあ私の愚痴はなんだった、君にとって。


「あなたから見たあなたの人生の事実。人生を通して解消されないボトルネックに苦しんでいる」


 ーうん。そうだ、その通りだ。


 ーそして私はこれを解決できずに無為に時を過ごしているんだ……、後悔している。悲しみと強烈な怒りに魂を焼かれているんだ。でもどうすればいいんだ! これだけ色々やっていまだに解決できないんだ!


「やってみますか。一緒に」


 老人が、吐き捨てるように言ってから、ショーンの言葉を聞いて顔色を変えた。



 ー……私と一緒に?



「ええ、まず何をしましょうか。人が必要なのに、一人で試してたんでしょ? もうここまで来たら、さっさと始めましょう」


 ー本当に!? ……なんて、ことだ。こんなことになると思ってもみなかったから。大変だ、うまくやらないと、君にがっかりされてしまうだろうし……


「いいですから。僕に対して過保護になりすぎないで。失敗なんていくらしてもいいからやりましょう」


 ー本当っ!? よォし! すごく乗ってきたぞ! 

 失敗しても良いなんて! こんなに力がみなぎる言葉はないっ!!


 ショーンの言葉を聞くと、老紳士は突然バッと身を乗り出して、声のボリュームを大きく上げた。


 老人は張り切って、ライオンのようだった髪は、短く刈られて顔つきは羊から、竜の如く変化していた。


 その後考え込んで、棚からチェス盤を持ってきて目の前にドスンと置いた。


 ーよぉし、……フフ。これをこうして……


「これは何をやってるんですか?」


 ーうーん、これはねぇ。時の歯車や因果律の調整に、……カルマの修正もしなきゃだねぇ!


「……」


 ーあぁ! 間違えたっ! あー、惜しい! 


「まま、……大丈夫なんですよね?」


 ーうん、多分。全然問題ない。私ならこんなの直せるよ。ちょっと待ってね。2、3日だけ本でも読み込んでくるから。


 ショーンは唖然として、いつの間にか、部屋の中は目まぐるしく調度品が変わっていること、窓の外の景色は神々しい光に溢れた景色になっていること。太陽が、その光を反射する雲が涙を流さずにはいられないほどの美しさになっていること。それらに気づいた。


 この老人の正体は……、本当の意味で人間なのか。という考えがしきりに浮かんできた。


 老人は足取りがどんどん軽くなり、時折美しい青年や少年に見た目が変化し、時にはスキップしながら恐ろしく分厚い本を開いては、床のあちこちに放り投げ、あぐらをかいて、今度は様々な辞書を片手に仕事に没頭していた。


 表情は相変わらず影になっているが、一切の憂いがなく、純真さに満ちていた。


 洞窟の屋敷は、いつの間にか城や宮殿にかわり、時には天空に浮かび、時には宇宙の中心にもなった。時間の波が満ちては引いて、チェス版は吊り下げられた天球となり、その星々は宇宙の木に成っている実だった。


「あのー、僕は何を手伝えば? まだ何もやってませんけど……」


 ーそうだった。一緒にやらなきゃ!


「いえ、気にしないでもいいですよ。無理やり一緒にやっても……」


 ーうーん、そう? でも一緒にやろう! 失敗しても大丈夫だよ!


 元気よく老人が言った時、ショーンは魂まで救われたような気持ちになった。¥


 それから数日間、老紳士のいう通りに本を運び、相談にのり、時には酒を飲んで、会話した。絨毯やマットレスを床に敷いて寝転がりながら仕事の話をしたり、リビングにインディアンのテントを張って、悪口大会を開いたり。


 空中庭園ではBBQもした。


「他に手伝う事はもうないですか?」


 ーん? えーとそうだ! あー! でも今はちょっと手が離せないなぁ! また今度必要になったら呼ぼうかな。あ、まってもっと仕事が欲しいなら用意できるけどー。


「ああ、いいです!いいです! あの一緒にやれそうなものがあった時にだけ思い出してもらって。そうでなければ、この住所まで返してもらえませんか?」


 十分過ぎるほど充実した日々を過ごして、迷いなくショーンはいった。


 ーあー、はいはい。イギリスのここだね。ここは天気が悪いねー。なんか支配層も良くないから、僕が変えといてあげるよ。君の世界全体これからすっごく良くなっていくからね。


「そんな簡単に?」


 ーうん、ちょっとしたお礼だよ。良い未来を望むんでしょ?


「はい。僕はいい未来を望みます」


 ーなら、いいでしょ。じゃあ、バイバーイ!



 老人は言って手を振ってきた。


 手をふり返すと、いつの間にかショーンはスーパーの前にいて買い物袋を持っていた。


「ちょっと袋が重いな」


 買い物袋の中を確認すると、見たことのない。シンプルな金属の線で出来た、地球儀のように回転し、丸みを帯びた魚のシンボルのオブジェがあった。


 その日恩師にそれをプレゼントしようとすると、恩師はものすごく喜んだのだが、これは君が持っていなさい。写真だけ撮らせてくれればいいよ。と言って頑なに受け取らなかった。


 後で聞いたところによれば、恩師は前日にショーンが幸運の魚を持ってくるが、それを受け取らずにショーンに逆に渡すことでさらにみんなが幸運になる。と言う夢を見たのだと言った。あまりに強烈な夢で、家族に言うと誰も間に受けずに、奥方には笑われたらしい。


 そこにショーンがこれをもって現れたので、早速奥方も連れてきて、どうだと言わんばかりに見せていた。


「ショーン、君のおかげで家族をギャフンと言わせられたよ! 最高のバースデイになった!」


 と終始ご機嫌だった。


 アパートメントに戻って、ショーンはリビングに魚のオブジェを置くことにした。


「どっちがいいかな、魚に縁がある男、救世主に縁がある男、からのプレゼントだ」


 あれが本当に神だったのか、ショーンにはわからなかったが、あれが神なら喜ばしいとショーンは思って床についた。


「最初、相当に危険な世界だと思ったが……、報酬はそれ以上だった」







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