桃の家紋その名は
額に【桃】の家紋を刻んだ鉢金を巻いた男は、人が襲われるという噂の現場へ降り立っていた。
辺りを見渡すも、怪しいものは見当たらない。
まだ夕陽がわずかに残る刻限。普段なら行き交う人々で賑わう街道だが、今は不気味なほど人影が途絶えている。
「ちと早かったか。それとも……この桃太郎を前にして、怖気づいて逃げよったか」
男は腰の刀の柄に手を掛け、息を潜めて周囲を探る。
やがて陽は沈み、薄っすらとした月明かりが辺りを照らし始めた。
その時、流れる雲が月を覆い隠す。
一瞬にして、視界が深い暗闇へと飲み込まれていく。
――その刹那。
桃太郎は背後に漂う微かな殺気を感じ取ると、即座に振り向きざま、腰の刀を抜き放った。
ヒュンッ!
横薙ぎの一閃。
続けざまに刀を返す。
ブンッ!
研ぎ澄まされた刃が、暗闇を十字に切り裂いた。
――手応え。
たしかに何かを斬りつけた感触が手元に残っている。
だが、相手の気配はすでに消えていた。
雲が晴れ、再び月が顔を出す。
桃太郎は地面へ目を落とした。
そこには、血のように生々しい紫色の液体が広がっている。
紫色の跡は、闇の奥へと点々と続いていた。
桃太郎は刀を握ったまま、その痕跡を辿って静かに歩き出した。
*
サイカ一行が長い山道を抜け、ようやく都へ続く街道へ出た頃には、空はすでに薄暗くなっていた。
サイカはその場で立ち止まり、両手いっぱいに地図を広げる。
「この街道を進んでいけば宿場町があるはずだけど……まだもう少し先だな。都までは、えーっと……あと丸二日はかかりそうか」
サイカは地図から顔を上げ、みんなを振り返った。
「よし。セツナもいることだし、宿場町まで一気に走るぞ! サード、セツナを乗せて走ってくれ」
「まかせるにゃ!」
サイカは続いてベヒモスを見る。
「ベヒモス、ついてこれるか?」
「へっ、あっしを侮ってもらっちゃ困るでやす!」
ベヒモスは威勢よく答えると、サッと地面に穴を掘り、そのまま土の中へ潜っていった。
シルフィードは悠々とした足取りで、一足先に街道を進んでいく。
「よし、行くぞ!」
サイカも宿場町を目指して駆け出した。
*
辺りが完全に闇に包まれる頃、サイカたちは無事に宿場町へたどり着いた。
宿の近くまで来ると、シルフィードはスーッと姿を消した。
サードは小さくなって風呂敷の中へ。ベヒモスはセツナの鞄へと手際よく潜り込む。
「よし。これなら目立たないな」
サイカは一人で宿の番台へ向かった。
「すみません。部屋、空いてますか?」
主人はサイカを見るなり、怪訝そうに眉をひそめた。
「……坊や一人かい? こんな時間に?」
サイカは村のみんなから貰った銭の入った袋を取り出し、番台へ置いた。
ジャラッ。
主人の目が袋へ向く。
「はい、お部屋はこちらになります」
すぐさま鍵を差し出した。
サイカは鍵を受け取り、何事もなかったようにセツナたちのもとへ戻っていった。
*
部屋に入ると、シルフィードは再び姿を現し、サードも元の大きさに戻った。
サイカたちは荷物を置き、ようやく足を伸ばす。
「汗いっぱいかいたし、腹減ったなぁ。飯処と風呂屋があったよな。行くか」
サイカはサードたちを見る。
「なんか食べるものも包んでもらってくるから、サードたちはここで待っててくれ」
「わかったにゃ」
サイカとセツナが部屋を出ていった。
その頃、宿の番台では――。
主人が、柄の悪そうな二人組へ小声で話していた。
「あの小僧、かなり金を持ってたぞ」
二人の男が顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
*
「うおおおっ!」
ザッバァーン!
誰もいない男湯へ、サイカは豪快に飛び込んだ。
「ふぅ〜……こりゃ温泉だな。異世界で温泉かぁ……」
肩まで湯に浸かり、大きく息を吐く。
一方、女湯。
セツナは服を脱ぎ、額から頭にかけて巻いていた髪留めの布を外し、髪を掻き上げた。
隠れていた額が露わになる。
そこには――菱形の模様が浮かんでいた。
セツナは何事もなかったように湯へ浸かった。
*
その頃。
柄の悪そうな二人組は、宿の主人から渡された鍵を使い、サイカたちの部屋をそっと開けた。
「へへっ。ガキが持ってる金なんざ、俺たちが有効に――」
男の声が止まった。
部屋の中には、横たわる龍。
そして、その隣から二人をじっと見つめる巨大な狼の姿があった。
「…………」
「…………」
二人は静かに戸を閉めた。
次の瞬間――。
「うわああああああ!」
凄まじい勢いで廊下を走り去っていった。
サードは閉じられた戸を見つめ、首を傾げる。
「……なんだったんだにゃ?」
*
風呂から上がったサイカは、店の前でセツナを待っていた。
すると、先ほどの二人組がもの凄い勢いで目の前を走り抜けていく。
「……お化けでも見たのか? あの慌てよう」
やがてセツナも出てきて、二人は近くの飯処へ向かった。
サードたちの分まで料理を包んでもらっていると、店主が話しかけてきた。
「お二人さん、お使いかい?」
「うん、お使い。明日には東の都に出発するんだ」
店主は少し驚いた顔をした。
「都まで? だったら、夜の街道には気をつけな」
「夜?」
「ああ。最近、ここから都へ向かう街道で、人が襲われるって話でもちきりなんだ」
店主は困ったように頭を掻いた。
「そのせいで旅人もめっきり減っちまってな。こっちは商売上がったりさ」
そして、サイカとセツナを交互に見る。
「父ちゃん母ちゃんにも言っときな。夜は絶対に街道を歩くなって。こんな可愛い嬢ちゃんも一緒なんだからよ」
「おう。ありがとう、おじちゃん」
サイカは笑って答えた。
だが、頭の片隅には店主の言葉が残っていた。
――夜の街道で、人が襲われている。
*
翌朝。
サイカたちは荷物をまとめ、宿を出る準備をしていた。
番台へ鍵を返しに行くと、主人は昨日とは打って変わって愛想のいい笑顔を浮かべた。
「あ、あの……昨晩はよく眠れましたか?」
「うん。ぐっすり」
主人の額から汗が流れる。
「そ、それは何よりで……。あの、今回の宿代はいただきません」
「え? タダでいいの?」
「もちろんですとも! ぜひ、またお越しください!」
主人は勢いよく頭を下げた。
サイカは首を傾げる。
――昨日は金を見た瞬間、あんなに態度変わったのに。
「まあ、タダならいいか。ありがとう!」
サイカが笑顔で宿を出ていく。
その後ろで、サードが主人へちらりと目を向けた。
主人は目を逸らし、額の汗を拭っている。
「……世の中には、知らん方が幸せなこともあるにゃ」
「ん? なんか言ったか、サード?」
「何でもないにゃ」
サイカたちは、再び東の都へ向かって歩き始めた。




