3.公爵との時間
あの日以来、私は存在しない者のように扱われるようになった。
廊下ですれ違えば不自然に道を空けられ、教室に入れば会話がぴたりと止む。誰も私に話しかけようとはしないし、私が話しかけても、返ってくるのは冷たい一瞥だけだ。
それでも私は、毎朝きちんと制服を身につけ、いつも通りに登校した。俯いて歩けば、それだけで「後ろめたいことがある証拠だ」と言われかねない。
けれど屋敷に帰れば、その仮面を外す場所すらないことに気づく。
「リリテア、今日も帰りが遅かったのね。何かあったの?」
夕食の席で、養母が心配そうに私の顔を覗き込む。私は慌てて微笑んでみせた。
「大丈夫よ、お母様。少し、生徒会の作業で立て込んでいただけ」
もう生徒会には席すらない。けれど、本当のことなど言えるはずがなかった。
養父母は、決して裕福とは言えない名誉男爵家の身でありながら、迷子だった私を迷わず引き取り、実の娘のように育ててくれた。二人にとって、私が貴族学園で誇らしい成績を収めていることが、数少ない自慢だったはずだ。
その娘が今、学園中から泥棒と後ろ指を差されている。そんなこと、口が裂けても言えなかった。二人に心労をかけるくらいなら、私一人で抱えていた方がずっといい。
◇
事件から十日ほど経った、ある午後のことだった。
「公爵閣下がお見えになりましたよ」
養母の嬉しそうな声に、応接間に降りていくと養父が公爵をもてなしていた。
「急な訪問で失礼した。カルセリウス卿への用件はもう済んだのだが」
ルヴィアスは、そう言って私に視線を向けた。その目に、一瞬だけ何かを見定めるような色が宿ったのを、私は見逃さなかった。
「リリテア嬢に、少し話したいことがある。時間をいただけるだろうか」
養父母は戸惑いながらも快く送り出してくれた。私はその視線から逃げるように、足早に庭へ出た。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「随分と顔色が悪いようだが」
沈黙を破ったのは、ルヴィアスの方だった。
「……そんなことは」
「隠さなくていい。話は聞いている。知り合いが貴族学園の教師をしているんだ」
私は思わず足を止めた。
「だが根も葉もない話だろう。お前がそんなことをする人間ではないことくらい、わかる」
あまりにも端的な言葉に、私は少しだけ喉の奥が熱くなるのを感じた。
「それで? お前は今、何を悩んでいる。自分の潔白を証明できないことか」
「……いいえ」
私は、正直に答えた。
「もうすぐ、建国祭の記念式典があります。今の生徒会の様子を見ていると……正直、うまく回っているとは思えません。もし当日に何か大きな失敗があれば、学園全体の恥になります」
自分でも馬鹿げていると思った。あれだけの仕打ちを受けておいて、なお彼らの心配をしている。けれど、口をついて出たのは紛れもない本音だった。
「もう、手を貸してやる義理はないだろう」
「……」
「お前がこれまで、生徒会をどれだけ支えてきたのかは知らない。だが、少なくとも今のお前には、生徒会に対して何一つ義理はないはずだ。お前を貶めた人間たちの体面のために、お前が心を痛める必要がどこにある」
今まで、誰もそんなことを言ってはくれなかった。私自身、自分が支え続けてきたことにすら、大した意味を見出していなかったのに。
「……私は」
「今すぐ答えを出す必要はない」
ルヴィアスは、私の言葉を遮るように言った。
「ただ、一つだけ言っておく。お前はこれまで多くのものを誰にも気づかれないまま差し出してきたのだろう。……それをこれ以上続けないことは、悪ではない」
◇
それから、ルヴィアスは定期的にポーター邸を訪れるようになり、庭園でお茶を飲む時間が習慣のようになっていた。
養父が一緒にいることもあれば、私が庭に出るとルヴィアスが既にそこにいて、自然と話が始まることもあった。
「公爵閣下は、学問はお好きですか」
ある日私が問うと、公爵は少し考えてから答えた。
「好きかどうかより、必要だから学んできた。だが……お前と話していると、必要でないことにも価値があるとわかってくる」
それがどういう意味なのか問い返す間もなく、公爵は庭の花に視線を移した。
冷徹と噂される大将軍が、庭の木漏れ日の中でこんなに穏やかな顔をしている。学園の令嬢たちが聞いたら信じないだろうと思いながら、私は自分の胸がじんわりと温かくなっているのに気がついた。
「そうだ」
ふと、ルヴィアスは顔をこちらに向けた。
「今度の休みに、王都へ行かないか」
「え?」
思いがけない誘いに、一瞬、思考が止まった。
「今まで不当に働かされていた分、お前は遊ぶべきだ。俺も長らく休みを取っていない。一緒にどうだ」
真っ直ぐな視線に私の身体は硬直するが、少しだけ勇気を出そう、となぜか私は思えた。
「閣下がよろしいのであれば、私は、ご一緒したいです」
◇
当日。屋敷の前に停まった馬車に乗り込むと、ルヴィアスはいつもの軍服ではなく、質のいい私服姿だった。
馬車が最初に止まったのは、王都の目抜き通りだった。この十年で目覚ましく発展したというこの通りには、磨き上げられた石畳の両脇に、洒落た真新しい店が軒を連ねている。
「この辺りは、戦勝後の好景気でほとんど新しく作り直されたらしい」
ルヴィアスは、通りを見渡しながら言った。
「新たに拓かれた交易路のおかげで、この十年は随分と羽振りの良い時代だった。こうして人々が着飾って歩ける通りになったのを見ると、悪くない十年だったのだろう」
その横顔には、大将軍としての重みが滲んでいた。私は、彼が背負ってきたものの一端を、初めて垣間見た気がした。
通りの一角にある菓子店に入ると、ルヴィアスは慣れた様子で焼き菓子とタルトを頼んだ。運ばれてきたタルトには、艶やかな果実がふんだんに乗せられている。この国では、時季を問わずいつでも種類豊富な果物が食べられる。
「甘いものが好きだったよな」
「はい。あまり、口にする機会はありませんが」
「今日はいくら食べても構わない」
その言葉に甘えて、私は久しぶりに何も気にせず菓子を口に運んだ。舌の上に広がる甘みに、強張っていた気持ちが少しずつ解けていくのがわかった。
午後は、街の外れにあるバラ園を訪れた。戦勝記念に一大プロジェクトとして整備された庭園には、色とりどりのバラが咲き誇り、甘い香りが辺りに満ちていた。
「ここは、我がヴェルザードの戦没者を悼むために作られた庭だ」
並んで歩きながら、ルヴィアスが静かに言った。
「美しいものの陰に、必ず誰かの犠牲がある。……お前のこれまでの働きも、それと同じようなものだったのだろうな」
その言葉に、私は何も返せなかった。
「一つ、渡したいものがある」
庭園を出る間際、ルヴィアスは小さな箱を差し出した。
開けると、そこには小さな真珠のイヤリングが収まっていた。派手さはないが、上質なものであることは一目でわかる。
「あまり大袈裟なものは、お前の性分に合わないだろうと思ってな」
「……こんな高価なもの、いただけません」
「お前が今まで誰にも見返りを求めず差し出してきたものに比べれば、安いものだ」
私は思わず顔を上げた。ルヴィアスは、いつもの淡々とした表情のまま私を見つめていた。差し出された小箱を、私は震える手で受け取った。
誰にも認められることのなかったこれまでの日々が、ほんの少しだけ報われたような気がした。
「そういえば、そのネックレスは、いつも着けているな」
ルヴィアスは私の首元を見つめていた。
「ええ」
私は胸元に手を当てた。服の下に隠れているから、指輪は見えない。チェーンだけ外に出ている。
「大切なものか」
こういう話をすることは、あまりない。親しい友人には話してあるが、それ以外の人間に語ったことはほとんどなかった。けれど、彼には話しても良いのではないか、と思える。
「はい。顔もほとんど覚えていない実の両親の、唯一の形見です。服の下で指輪を通してあります」
公爵は何も言わず、静かな目でこちらを見ていた。その目を見ていると、ふと疑問が湧いた。
「公爵閣下はお忙しいでしょうに、よく足を運んでくださいますね」
「忙しいから来る」
「……それはどういう意味ですか」
「君の所は、余計なことを考えなくて済む」
その答えに、私は何も返せなかった。
その夜。布団の中で、私はずっとその言葉を繰り返していた。もう、認めないわけにはいかなかった。
私はルヴィアス・アスキー公爵に、恋をしている。




