2.身に覚えのない罪
「おかえり、リリテア。また公爵様がいらっしゃったわ」
学園から帰宅すると、玄関で養母が楽しそうな顔で言った。エドワルドに婚約解消されたことは、楽しそうな養母の前では、とても言い出せそうにない。
(それより、「また」って……?)
思えば、最初の訪問から半月ほどの間に、アスキー公爵はもう三度もポーター邸を訪れていた。
「研究の確認とのことで、今日もお父様とお話しになっています。リリテア、お茶を持って行ってあげて」
お盆を受け取り、応接室へ向かう途中で気がついた。いつの間にか、足取りが少し軽くなっている。私は立ち止まって、廊下の窓から外を一度見た。
(……こんな時に私ったら。公爵様が来たからって、私には何の関係もないんだから)
そう自分に言い聞かせながら、応接室の扉をノックした。
「失礼いたします」
「おお、リリテア。ちょうど良かった」
養父が顔を上げ、笑みを浮かべた。公爵はソファーに座り資料を手にしていたが、私が入るとその目がこちらへ向いた。
「今日も来てくれたか」
「……お茶をお持ちしました」
テーブルに茶器を並べていると、公爵が紙の包みを差し出してきた。
「君の好きな菓子屋のものだと聞いた」
「え?」
包みを見ると、確かに王都で評判の菓子店の包装紙だ。一度食べに行ったことがある店で、確かに好きだと思った。
「……ありがとうございます。でも、どちらでお知りになったのですか」
「男爵に聞いた」
隣で養父がわずかに目を逸らしていた。
「……あ、ありがとうございます」
包みを受け取り、私は私室へと下がった。
包みをそっと開くと、白と水色の二色が混じり合った飴玉が顔を出した。
(きれい……)
飴玉を口に入れた途端、優しい甘さが私を包んだ。なぜだか、心の痛みが癒えていくような気がした。
◇
翌朝。
私は、養父母にエドワルドとの婚約解消の件を話した。
養父から直接聞いたことはなかったが、侯爵家の息子との婚約によって恩恵を受けていることは予想がついていた。婚約が解消されるとなると、養父は困るかもしれない。
だが養父は「そうか」と、あっさり受け入れた。
「で、でも……。婚約が解消になったら、何か支障があるのでは?」
「いいや。戦争が終わってから、物資が手に入りやすくなったからな。気にすることはない」
私たちの婚約は私が養女になって五年と経っていない、まだ戦争中の時のことだった。
養父の話によると、エドワルドの父には研究資材の融通の面で世話になっていたらしい。
そのため、終戦によって安価で大量に資材が手に入るようになってからは世話になることもなくなり、研究のさらなる成果で名誉男爵としての地盤を築くことができたそうだ。
「いつかこういう日が来るとは思っていたんだがな」
そう言って養父は笑った。
私は、公衆の面前での婚約解消宣言と生徒会追放の件は伏せておくことにした。
恋をすると正常な判断ができなくなると聞いたことがある。きっと、彼は彼なりに必死だったのかもしれない。
地盤を固めたとはいえ、貴族の中で名誉男爵という立場が弱いことに変わりはない。私は、養父には研究に集中してほしいと思っていた。
◇
少しだけ軽やかな気持ちで学園に行くと、普段とは違う視線が私に向けられていた。
昨日あんな風に婚約破棄を宣言されたのだから、覚悟はしていた。けれど、奇異の目と言うには少し様子がおかしい。憎悪というか、蔑みの目だ。
「……リリテア・ポーターよね」
「信じられない。あんなに大人しそうな顔をして」
(何なの……?)
中庭を横切ると、以前から親しくしていた子爵令嬢のセシリアの姿を見つけた。何度も一緒にお茶をし、試験前には決まって一緒に勉強する仲だった。
「セシリア」
声をかけると、セシリアの肩がびくりと跳ねた。振り返った彼女の顔には、これまで見たことのない硬い表情が浮かんでいた。
「どうかしたの? 皆様の様子が」
「白々しい」
セシリアは、私の言葉を遮るように吐き捨てた。その声には、はっきりとした侮蔑が滲んでいた。
「もう、いいですわ。今まで仲良くしていたこと自体が恥ずかしい」
「セシリア、待って。私、何のことか本当に」
「触らないで」
伸ばしかけた手を、セシリアは強く払いのけた。周囲にいた他の令嬢たちも、まるで汚らわしいものでも見るような目で、私とセシリアのやり取りを見つめている。
わけがわからないまま立ち尽くす私の耳に、囁き声が届く。
「……基金のお金、だって」
「まさかあの方が」
「見かけによらないって、こういうことね」
(基金……?)
そのとき、廊下の向こうから聞き慣れた足音が近づいてくるのがわかった。
「リリテア」
エドワルドだった。その隣にはミーナが立っている。二人の後ろには書類の束を抱えた、生徒会会計補佐のジェレムの姿もあった。
「エドワルド様。それに、ミーナ様にジェレムまで……一体、何が」
「とぼけるな!」
エドワルドの声が、周囲に響く。
「共済基金と一部の予算の会計に、不審な記録が見つかった。この一年ほどの間、複数回にわたって、金額の一部が正規の使途とは異なる形で流出している。その送金が、お前の養父上、カルセリウス卿の研究費名目の口座を経由していることが確認された」
息が止まった。
「な……私は、そんなこと」
「言い訳は結構」
ミーナがよく通る声で口を挟んだ。その目には、どこか愉しむような色が浮かんでいる。
「わたくしが会計を引き継いで、帳簿を確認して初めて気づきましたの。あなたが管理していた頃の記録に、明らかに不自然な点があると。ずっと真面目な方だと思っていましたのに」
「待ってください。私は基金や予算になど、一度も私的に手をつけていません。帳簿は毎回、正確に……」
「正確?」
ジェレムが、抱えていた書類の一枚を突きつけるようにして掲げた。送金記録の写しだが、そこに書かれている内容にはまるで覚えがなかった。
「これが正確だと? お前が会計を担当していた期間の記録だ。俺は補佐として、ずっとお前のやり方に従ってきた。まさかその正体がこれとは」
その言い方に、私はようやく気づいた。彼らは最初から、私に反論させる気などないのだ。
「名誉男爵家が、決して裕福ではないことは知っている」
エドワルドが、憐れむような目で私を見下ろした。
「暮らし向きのために、出来心があったとしても……不思議ではないだろうな」
周囲がざわめいた。誰かが小さく息を呑む音が聞こえる。
違う。そんなことは一度もない。帳簿は、いつだって一つの間違いもなく合わせてきた。特に共済基金については、思いがけない事態になった生徒のために使われるお金だと知っていたから、誰よりも丁寧に扱ってきたつもりだった。
「事情は考えてやろう。だが、これまでのように日向の道を歩くことはできないと思え」
エドワルドはそう告げると、ミーナとジェレムを伴ってその場を後にした。
残された私の周りには、誰も近づいてこない。無数の視線だけが、突き刺さるように私に注がれていた。




