10歩 大瀑布
ダメだよ。行かないで。そっちに行ったらだめ。
そっちは暗いの。怖いの。明るいところに行こうよ。
ルプスお母さまと初めて出会ったルピナスの花が一面に咲いている場所がいいよ。あそこには何度もみんなで遊びに行ったもの。お花にいっぱい囲まれて暮らそうよ。トゥリックにピスィカもクッカも。みんなで楽しく笑ってお腹いっぱい幸せになろうよ。
お願いだから……。
行かないで!
「わふう!」
ルプスお母さま!
「がふ!?」
あ痛っ!?
起きあがろうとしたらおでこを盛大にぶつけた。痛い。ぶつけた頭を押さえたら、じゃぶんと水音がして大きく揺れた。揺れは収まらないでチャプチャプと水の音がくぐもって聞こえる。だけどそれよりも。
「わふう!」
ルプスお母さま! ピスィカ! みんなはどうなったの!?
わたしを包む丸い壁をどんどんと叩く。その度、大きく揺れる。狂ったように壁を叩いて泣きながら叫んだ。泣き疲れてもやめられなかった。信じたくなかった。
ルプスお母さまが死んでること。妖精女王様が消えてしまったこと。ピスィカが誰かに捕まってしまったこと。
ルプスお母さまとの毎日。穏やかで優しい眼差しに見守られて育った時間。トゥリックのいたずらと森の中でいろんな遊びをしたこと。ルプスお母さまだと教えてくれないいろんなことをピスィカから聞かされてドキドキな冒険をしたこと。
いろいろな思い出が頭を駆け抜ける。思い出……もう二度と戻ってこないあの日。
なんであんなことが起きたかも分からないまま。いまこうしている自分が悔しい。
壁を叩く力が少しずつ弱くなっていく。涙が顔を濡らしていく。
でもそれでも。空は青かった。ふと気づく。自分が少ししゃがんでいるような姿勢で横になっていることを。
そして、わたしが入れるくらいの楕円形の繭の中にいて、波打つ水面に揺られていることを。
ピスィカに押し込まれた繭みたいなもの。透き通っていて外がちゃんと見える。この繭の話はトゥリックから聞いたことがある。
妖精の繭。いざというときに大事なものを守るためのものとして妖精女王様が魔力で編み込んだものという話。火や寒さに強くて頑丈でちょっとやそっとでは割れないと。
だけどなんで水に浮いているんだろう? 水面に半分沈んだ狭い繭の中から、壁に手をついて外をぐるりと眺めてみる。
チャプチャプ波打つ水面の向こうに森が見える。反対側も。だけど遠い。それに景色が流れてる。川だ。きっと大森林を流れる大河。
妖精郷からなんでここに流されてるんだろう? 地下水脈から流れ着いたとか?
「がるぅ」
女王様の話からするとトゥリックやクッカたち妖精は逃げ出してきっと無事なんだよね? どこにいるか分からないけど会えないかなあ?
そんなことを思うけど。すぐにルプスお母さまを失った悲しみと怒りが湧いてきた。仕返しをしたいという憎しみが頭にこびりついて離れない。悔しさが込み上げて丸出しの膝に爪を立てていた。がりりと皮膚が破けて血が流れる。膝の痛みなんて比べようもないくらいに胸が苦しくて痛くて辛かった。
涙が両腕にボロボロと落ちてゆく。
腕が綺麗に白いことに気づいた。まるで新しく皮膚が生まれ変わったように。
そういえば……燃え盛る炎の中を通り抜けて火ぶくれするくらいに肌が焼けてしまったのに。毛皮の服だって焦げてる。いま傷をつけた膝以外はどこもかしこも火傷はなくて白い肌が透けるほどだった。
ただ、焼けて縮れて短くなった髪はそのまま。あの出来事は決して夢じゃないと突きつけられる思いだった。
「わふ……」
なんで……。
それに生えたと思った狼の耳もしっぽもない。悲しさと憎しみのあまり幻でも見たのかもしれない。
不思議に思うわたしの耳に音が聞こえはじめた。下流から聞こえる音。波に揺られて流されていくほどに音が大きくなっていく。音の方に体を向けて繭の壁に手をつける。水面の向こうに水煙が見える。右の岸も左の岸もかなり離れてる。川幅の分だけ水煙が上がってる。
この先にあるのは……。
少し前にルプスお母さまに連れて行ってもらった場所を思い出した。水煙が起きる場所。
下から見上げてとんでもない高さと幅のある滝。対岸が霞んで見えるくらい大河の大瀑布のことを。流れる水の量はすべてを飲み込んでしまいそうなほど多いし。絶壁の途中には崖が迫り出していて豊かな緑もある。
ルプスお母さまと一緒に大きな滝を見上げてはしゃいでいたっけ。
とんでもない落差から起きる水飛沫はいくつもの虹を描いていて心が奪われるくらいに綺麗だったことを覚えてる。
ということは……そこに落ちるというわけで。
壁をドンドン叩いた。この繭は簡単には割れないと聞いてはいるけれど滝壺に落ちた衝撃や岩に当たった衝撃で割れるかもしれない。そしたらとんでもない濁流に飲み込まれて死んでしまうかもしれない。
「死……そんなのはダメ!」
人語で喋ってた。
わたしにはやらないといけないことがある!
ルプスお母さまの復讐。
ピスィカがどうなったかを知ること。
トゥリックたちと再会すること。
生きてさえいれば。この場所に帰ることができる。わたしたちの洞窟へ。
だけど死んでしまうかもしれない脅威はそれだけじゃない。この大瀑布にはもう一つ危険があることを思い出した。大河の主。滝壺を根城にする巨大な水棲怪物。ルプスお母さまと見つからないように遠くから眺めてた。
あんなのに飲み込まれたらそれこそ死んでしまう。
焦る気持ちのままに繭の壁にガリガリと爪を立てるけど傷もつかない。
「いやだ! こんなところで死ぬなんていや!」
だけどどうにもならない。幼い自分一匹だけじゃなにもできない。無力感で胸が苦しい。ルプスお母さまがいないとダメ。ピスィカがいないと一匹じゃ狩りもできない。トゥリックやクッカたちの笑顔が胸を締め付ける。
じゃぶじゃぶと揺れが激しくなって、緑豊かな景色が流れる速度が上がった。
もうすぐ滝だ!
焦る気持ちが吹き飛ばされるくらいに、荒波で上下する繭の中で体が宙に浮いて繭の底に叩きつけられる。体が振り回されて壁に激突する。痛みと衝撃で意識が飛びそうになる。
もう身をまかせるしかなかった。
大量の水が落ちる轟音でわたしの悲鳴はかき消される。
ざぶんと沈んだかと思ったら、水の流れと浮き上がる勢いで滝の上空に投げ出された。
景色が回ってる。繭とわたしが回転してるんだ。青空と地上と水面がぐるぐると視界を回る。
落ちる!
頂点に達したとき、水の流れと一緒に落下がはじまった。
滝面に流れる水と魚たちが目の端に映る。落ちる魚を狙う鳥っぽい獣たちが飛び交ってる。
そして。大瀑布の向こう、滝の内側から巨大な顔が飛び出してきた。その視線がわたしを捉えてる。
滝に打たれるその巨体が大きな飛沫を上げながら迫ってくる。鮫とウナギを足したような奇妙な怪物。数えきれないほどのギザギザの乱杭歯が生えた大きな口を開けてる。
落ちる繭をひと呑みにしようと、大きな口が閉じようとしていた。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!
わたし……死んじゃうの!
『わしの可愛いアーヤ。狼の爪を伸ばせ』
いないはずのルプスお母さまの声が聞こえた気がした。
負けちゃダメだ!
怖さを跳ね返せ!
「がううううう!」
獣装変化! 人狼の爪!
親指以外、前腕ほどに伸びた8本の爪が刃のようにギラリとした。
繭の壁を抵抗もなくするりと突き抜ける狼の爪。両腕を鞭のように振るってわたしを包む繭を斬り裂いた。いつか見たルプスお母さまの凛々しい姿を思い出しながら。
ルプスお母さまはわたしにいろんな戦い方を見せてくれていた。いま、それが初めてできたんだ。
すぐに元の長さに戻る爪。
繭から解放されてわたしの小さな体がぐるぐると回る。鮫ウナギの顎がいまにも閉じそうになってる状況は変わってない。ぐるぐると回るわたしの視界に青空がどんどん狭くなっていく。代わりに見えたのは鮫ウナギののどの奥だった。滑りとした深い穴に心の底からゾッとする。もうすぐ飲み込まれる。
やだやだやだやだやだやだやだやだやだ!
やだー!
自分の口から黒いもやのようなものが漏れでていることに気づかなかった。
「アーヤのぐるぐるきーっく!」
のどの入り口にぶら下がっている塊をかかとで力いっぱい蹴った。
ぐるぐる回る勢いで蹴られて痛かったのか苦しかったのか、巨体がのけぞった。
「うぎゃ!」
鮫ウナギの下顎が勢いよくわたしの体を跳ね上げた。
痛い痛い痛い痛い痛い!
全身に感じる激痛で半分以上意識が飛んでる。どこかの骨がみしみしと折れてる。
わたしの小さな体が口の中から空に飛び出した。滝崖よりも高く。わたしを狙うのを止めない鮫ウナギが真下に見える。このまま落ちると間違いなく開いた口の中に飲み込まれる。
そう思ったとき。わたしの体に衝撃が奔った。首が折れそうなくらい横から激突された。
「ぎゃう!」
くう。痛いなんてものじゃない。
気を失わないのが奇跡に思う。
わたしの小さな体、胴体を鷲掴みにする鱗の生えた足。鋭い鉤爪。目線を上げるとその怪物の姿が分かった。赤ちゃんのとき、わたしが初めて出会った巨大な怪物。大きすぎる六枚の翼を持った鳥?の怪物がわたしをがっちり捕らえて離さない。
鮫ウナギの届かない上空へとあっという間に飛び上がる。
とりあえず命の危険から逃れることができたけど……。
大河がどんどん離れて景色が遠く小さくなっていく。
遠くの方には、とてもとても大きな樹木が陽炎のようにゆらめいて見える。わさわさと枝葉が伸びていて立派。まるで宇宙に届くようにも感じる巨大な一本の樹。まだ行ったことのない天宙世界樹だ。
どこまでも続く大森林の景色がわたしの瞳に流れていく。
豊かな緑の向こうに初めて見る景色が見えた。大地だ。その向こうにはなだらかな稜線を描いて白く輝く高い山々が見える。ひときわ背の高い山も見える。
この鳥?は大森林の領域から飛び出ようとしてるんだ。もしかして山を目指してる?
きっとわたしは雛鳥の餌となるために運ばれてるんだ。わざわざこんなところまで来なくてもいいのに。
「がうう」
そんなのはダメ。
帰ってこられなくなってしまう。
「がう! がう! がう!」
いやだ! いやだ! いやだ!
ひどい痛みを我慢して鱗の生えた足をどんどんと叩く。びくともしない。それどころかぎゅうっときつい締め付けが始まって肺が苦しい。痛みでうめき声が漏れて口から飛沫が飛ぶ。
背の高い樹々が立ち並ぶ深い緑が切れて、緑が薄く広がる大地の上を飛び始めた。鳥?が羽ばたくほどにどんどん進んでいく。深い緑が遠くなっていく。
「がふ!」
なんとか逃げないと!
体を引き抜こうと腕を突っ張る。拳でどんどんと叩く。たくさんの時間をかけた。太陽の場所が大きく変わるほど。
鳥?の足に締め付けられるたびに、痛くて痛くて意識が飛びそうになる中。
パキンと空に響く乾いた音を聴いた。
まるで氷が割れるような音だった。




