9歩 妖精の繭
「がふ……」
怖い……。
なんでいつもあれはここにいるんだろう。住処にしている洞窟の高いところでなにかがわたしを視てる。
寒気がして目が覚めた。夢?
洞窟の床はほんのりあったかくて寒い思いをすることはないのに。風邪でもひいたかな? 一度も風邪をひいたことはないけど。
いままでずっと健康そのもの。怪我をしてもすぐに治ってしまう。ルプスお母さまがすぐに傷を舐めてくれるから治りが早いのかな?
「ふわあ」
おっきいあくびが出た。キョロキョロとあたりを見回すけどルプスお母さまがいない。
青光り苔がほんのりと明るく照らす洞窟の最奥を寝床にしているけれどそれなりに広い。大きなルプスお母さまがいなくて、ポツンとわたし一匹でいると心細い。怖い気持ちと合わせて涙が滲む。
わたしはいつまで経っても怖がりで情けなくて。こんなことじゃルプスお母さまの言うような立派な狼になんてなれないよね?
「がるぅ」
宴。楽しかったなあ。
もうあれから何度も太陽が登って沈んだけど昨日のことのように思う。また行きたいなあ。
だけどルプスお母さまとの毎日があるから行ったりはしない。
ピスィカなんて妖精郷が気に入ったみたいで連日遊びに行ってるらしい。
わたしもたまに遊びに行くし、ピスィカとは一緒に狩りに行くのも当たり前になってた。
「がう?」
それにしても遅いなあ。狩りにでも行ったかな?
わたしが寝ているときにルプスお母さまは出かけているときがある。洞窟で一匹でいると寂しい。
だから練習を始める。獲物にじっくりゆっくり近づく歩き方とか。影に潜んで見つからないように移動する方法とか。なにかに集中してれば少しは気持ちが紛れる。
ずいぶん時間が経ったと思う。時間なんて分かるものは太陽や月の動きだったり、葉っぱや花の開き具合とかしかないけど。
洞窟の中で時間を感じるようなものはなくて。動いているものがあるとすれば流れる湧き水と、小さな蜘蛛や小虫くらいだった。
だけど狼として生きてきたせいか大体どれくらい時間が経ってるかは体感で分かるようになってた。いつもはもっと早く帰ってくるのにどうしたんだろう?
うっかり蹴飛ばした石ころのカラコロ転がる音が洞窟内に静かに響いた。
「がふ……」
怖い……。
なんだか視られているようなぞくりとする感覚を感じながら練習を続ける。嫌な感じがする。よくないことが起こる予感のような思いが胸を締め付ける。苦しい。胸が痛いよ。
「アーヤ!」
声が聞こえた。洞窟の入り口の方から微かに。少し変わった発音が特徴的な声の持ち主。
「がう?」
ピスィカ?
なんだかピスィカの声が気になった。いつもの穏やかな感じじゃなくて……そう。タコ蜘蛛に追いかけられていたときみたいな必死な声。
やだ。なんだかやだ。
なんにも変なことなんて起きてないよね?
「アーヤ! 呼んでるのになんで出てこないんのにゃ!」
だって。怖いんだもん。
燃える炎のそばでうずくまっていたらピスィカがやってきた。
「大変なんのにゃ!」
え? なにが大変なの?
どう答えたらいいか分からなくてぼけっとするわたしの手が引っ張られて洞窟の外へ連れ出された。二本足で。
おしりを押されて苔むした岩山の上に登らせられる。
「あれにゃ!」
ピスィカの指差す先を見る。
その先には連なる樹々が空を狭くしている。一本、また一本と視線が樹々の隙間をどんどん追いかけていく。樹々の合間から見えるずっと向こう。
もうもうと白い煙が空に立ち昇っていた。森が燃えているんだ。遠いから火の手は見えない。あっちの方角は……。
「妖精郷!」
思わず狼語を忘れて二本足で駆け出していた。
「アーヤ! 行くんのにゃ!?」
四つ足で走るピスィカが追いかけてくる。
「アーヤ。危ないかもしれないんのにゃ。行かないでルプスの帰りを待ってた方がいいんのにゃ」
ピスィカの言葉があまり耳に入ってこなかった。心臓がドキドキする。嫌な鼓動が収まらない。なにかを失ってしまうような恐怖に駆られてる。
そのせいでいつもみたいに周囲に気をつけないで走っていた。分厚くなった足の皮が枝を踏み抜いた。足を進めるごとに何度もばきりと大きな音が鳴る。
大きな音を立てずに、危険な森の生き物に見つからないようにすることを忘れていた。
「アーヤ! 右! 伏せるんのにゃー!」
ごめんピスィカ。耳に聞こえてなかった。
次の瞬間、頭の右側に激痛が疾る。赤くてあったかい血が飛び散る。
飛んできたのは鳥と水晶を足したような獣鳥だった。七色に輝く羽を持った肉食獣。尾羽には割れた水晶のような鋭く尖っている針が突き出てる。自分よりも小さい獲物を狙って急所に突き刺してくるやつ。翼を広げるとわたしたちよりもよっぽど大きい。
頭に被った狼耳のかぶりものをしていなかったらきっと穴が空いていたかも。
一羽だけじゃない。こいつらは群れで行動する。狙った獲物を複数で襲いかかって確実に仕留めるために。
走る速度が落ちたわたしに水晶の針を向けて次から次に飛んでくる。まるで弾丸のように。
「アーヤ!」
ピスィカの絶叫が樹々をゆさぶるようだった。獣鳥たちの感高い鳴き声がわたしの神経を逆撫でする。
うるさい。
わたしの邪魔をするな。
最初の一羽を跳んでかわした。くるんと空中で回転して二羽目の獣鳥につま先をねじ込んで首の骨を折った。
三羽目は羽に咬みついて喰いちぎった。着地する前に体を捻って四羽目をやり過ごす。着地を狙ってきた五羽目を踏み潰した。
六羽目の攻撃が来る前に疾り出す。
獣鳥がしつこく追いかけてこようとするけど、樹々を盾にして攻撃されないようにしながら振り切った。
まるでルプスお母さまのような動きができていた。
「アーヤお前……すげえんのにゃ」
呆気に取られているピスィカに返事はしなかった。わたし自身びっくりもしてなかった。それどころじゃないから。
「傷は大丈夫かにゃ?」
隣を走るピスィカが心配してくれてることで我に返った。
「うん……もう痛くない」
手で押さえたら血はついているけれど傷は治っていた。
不思議そうな顔でピスィカがわたしを見てる。なんでか知らないけど傷はすぐに治るのが当たり前になっている。自分でも不思議に思う。
妖精郷に向けてひたすら走った。のどがカラカラになっても。何度かほかの獣に襲われても。
進むほど毛皮の服がボロボロになっていった。せっかく新しい綺麗なのを妖精たちに作ってもらったのに。
時折見える白い煙がどんどん近づいていく。もうすぐ妖精郷に着く。ふわふわとした不思議な世界に。
脚が止まった。
赤い。赤いよ。
激しい炎がたくさんの樹々を燃やしてる。
火傷しそうなくらいの熱さを肌に感じる。
炎の塊の向こうに妖精郷の入り口がある。
涙がボロボロとこぼれて頬を伝っていく。
「トゥリックは? クッカは? みんなは?」
「きっと……」
その先を言わずに目を伏せるピスィカにわたしの瞳が見開いていた。
無我夢中で駆け出した。妖精郷の入り口に向かって。
「アーヤ! 行ったらダメんのにゃ!」
わたしを止めようとするピスィカを振り払った。
肌が炎で焼ける。火ぶくれる肌。燃える金色の髪。熱いし痛いし呼吸も辛い。だけどそんなことはどうでもよかった。
とてもとても嫌な予感がするから。
入り口を抜けて進む。
妖精たちが一人もいない。幻想的な光景が炎のつむじ風に巻かれてる。
天蓋から降りそそぐあたたかい光がない。鮮やかに煌めく花々も色とりどりに淡く光る植物も燃えている。妖精たちが住む葉っぱで造られた小さな家が燃え落ちる。
安らぎを感じた空間が熱気で地獄のようになっていた。
みんなの名前を叫びながら妖精女王様の住む大樹の前にある広場に着いた。みんなで宴を楽しんだ場所。
中心に妖精女王様が佇んでいた。その姿はいまにも消え入りそうで、後ろで燃える炎が透けて見えている。
足元には血だらけのルプスお母さまが人の姿で倒れていた。
「ルプスお母さま!」
駆け寄ってすがりつく。顔に大きな傷がある。首にも。胸にも。腕にも。脚にも。狼の耳はちぎれてる。
息を……してない。
涙と血が混じる。
「なんで!? なんで!? 女王様! なんで!?」
『人の子よ。定命を遥かに超えたものの定めと受け止めよ』
「定めってなんのこと? ルプスお母さまが悪いことしたの? なんで燃えてるの?」
目の前で起きているなにもかもが信じられない。それこそ夢であってほしい。
『命を賭して我らを守りたもうた。運命とはかくもいたずらの如く』
妖精女王様が周囲を見渡してる。わたしも視線を巡らした。
たくさんの人族が倒れてる。わたし以外の人間を初めてみた。
剣や杖やいろんな武器が転がってる。着ている服はいろいろだった。頑丈そうな金属やひらひらした布を身につけていたり。
地面が大きく抉れていたり、氷の塊が溶け始めていたり、ひどく争った跡がある。
なんで? なんでこんなに人族がいるの? 妖精郷は幻の空間なんだよね?
『人の欲は闇よりも恐ろしいもの。さらなる欲望の気が……死すら厭わぬとは愚かな』
さらなる? まだなにかあるの?
「アーヤ! いたんのにゃ! 武装した人族がたくさんいるんのにゃ!」
振り返ると妖精郷の入り口とは違う方角からピスィカがやってきた。
武装ってなに? 倒れてる人たちみたいのがまだいるの?
「うにゃ!?」
ピスィカの肩からなにかが突き出た。先端に鋭い刃がついた細い棒。二本三本と続けて背中とふくらはぎに突き刺さってる。矢?
「ピスィカ!」
苦痛に歪むピスィカに呼びかけるとよろよろとこちらに向かって走り始めた。支えに行こうと思って立ちあがろうとしたわたしに妖精女王様が話しかけてきた。
『人の子よ。死する白銀狼の願いを聞け』
え? 願い? 戸惑うわたしに構う様子もなくルプスお母さまの胸に手を置いて、わたしの頭をつかまれた。
『白銀狼の血を継げよ 魔狼たる高潔な獣の魂よ 若き依代に血脈を宿せよ』
妖精女王様がなにを言っているかまったく意味が分からない。だけど体に熱くてあたたかくて心が安らぐような想いと力があふれてくる。
気がつくとおしりに生えた銀色のしっぽをふわりと揺らしていた。
ルプスお母さまの声が聞こえた気がした。
アーヤ。わしの安らぎ。
いつも幸せに満ちていた。
行きなさい。
わしの可愛い娘よ。
生きる道へ。
わたしを拾ってくれたルピナスの花の群生地を思い出す。
心にルピナスの花が咲いてあたたかい。
そうだ。
ルピナスの花言葉だ。
あなたは私の安らぎ。いつも幸せ。母性愛。想像力。貪欲。
『行け。残された道は一つ。来世で再会を願う。さらばだ人の子よ』
妖精女王様の姿がどんどん透けていく。燃える炎がはっきり見えるほど。
「待……って! トゥリックやクッカはどこなの! みん……なは!」
『新たな宿り木を探して旅立った。いずれ……』
最後まで言葉を綴ることなく消えてしまった。
「アーヤ! ぼけっとしてるヒマはないんのにゃ! お前は逃げろ!」
わたしに生えた狼の耳がへにゃりと垂れてる。ルプスお母さまの亡骸を前に泣き崩れるわたしの肩を揺らして手をとるピスィカ。見上げると突き刺さったままの矢が痛ましい。
「こっちんにゃ!」
わたしも知らない妖精郷の出入り口を知っているのか、脇目も降らずに突き進む。
背後で怒鳴り声と金属が擦れ合う音が聞こえた。振り返ると何人かの人影が炎に照らされてなにかを探している。
白銀狼の姿に戻っているルプスお母さまの亡骸を見つけて歓喜の声と失望の声をあげていた。
なんで? ルプスお母さまがなにかしたの? ルプスお母さまを殺したのは誰?
「あれを見ろ! 子どもが二人もいるぞ! 捕まえろ!」
「白銀狼の子か!?」
人影がわたしたちを見つけて追いかけてくる。やだ。怖いよ。恐ろしいよ。その人たちの表情がおぞましくて怖かった。
深手を負ったピスィカの脚が遅い。
「残された道は一つってにゃ」
燃え残った樹々の一角に連れてこられた。
え? なにこれ?
太い樹のウロに光る繭のようなものがあった。
「妖精の繭に入るんのにゃ!」
ピスィカに背中を押された。わたしの体が繭を通り抜けて中に押し込まれた。わたしだけが繭の中に入った。繭の壁をどんどんと叩く。
「いつかの借りは返したぜ。それじゃにゃ」
繭越しにピスィカの声がくぐもって聞こえる。こんなに近いのにピスィカが遠くに感じる。
「借り? いつのこと? そんなのいらない! やだよ!」
にゃははと笑うピスィカ。葉っぱとツルが繭を覆っていく。まるで外の世界と隔てるように。
「ピスィカ! うしろ!」
「ふぎゃ!」
ピスィカが後ろから殴られた。ピスィカの名前を何度も呼んで繭の壁を力いっぱい叩く。わたしの声は聞こえていないみたいだった。
「捕まえたぞ!」
「こいつは別種だ!」
「もう一人はどこだ!」
ピスィカの周囲に人だかりができてる。わたしからは見えているのにこちらには気づいていない?
抵抗するピスィカが抱えられて攫われる。
炎がさらに燃え上がっている。
繭がずぶりと土に沈んでいく。
いやだ。
いやだよ。
みんなを返して。
ルプスお母さまを返して。
暗いなにかがわたしの中にいる。
繭の壁にわたしの姿が映ってる。白銀に輝いていた狼の耳としっぽが真っ黒になっていく。青い瞳が金色に輝いていく。
こぼれる涙が黒く見える。
わたしの真っ黒な心が反射しているようだった。
わたしはわたしに誓う。
絶対に許さない。
復讐してやる。
必ず。
仇を討つ。
それが。
わたしの生きる道。
〜第一章 大森林 完〜
続 第二章 辺境の都




