第十話 最初の弟子 ⑪
目が覚める。
左手で繋いだアランの手を離し、自分の目を拭う。この涙が何を意味しているのか、誰に対するどんな感情なのか言葉にできない。顔をアランに向ける。アランは目を閉じているが、彼はこの身体になってから完全に眠ることはないと言っていた。それでも眠っている人を起こさないような慎重さでもって私はベッドから抜け出した。アランは何も言わなかった。
ドアを開けて廊下を歩き、アンナリーゼと話していたマリアの部屋の前に立つ。部屋に気配があるのを確認してノックをする。
「はい」
返事があったのでドアノブを回して中に入る。
昨日と同じマリアの椅子にアンナリーゼが座っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
簡素な朝の挨拶をする。
「あなたが先に来る気がしていました」
「そう、ですか」
彼女は右手に持っているペンを指先で回転させた。
「あなたがどうこうできる話ではないですよ」
「それは、わかっているつもりです」
「つもり?」
彼女の声に怒気が込められている。
「ごめんなさい、わかっています。アランが選ぶべきだと思います」
「それも半分以上間違っています。私たちは、先生の意思を継ぐことだけが許されています。それ以外の選択肢はありません」
「あなたは、それでいいの?」
「私はそのために生きていたのですから、当然です」
「でも……」
「むしろ、私は思ったよりも早くこの時が来てよかったと思っています。私が生きているうちにアラン様が現れたのも先生は予見していたのでしょうか」
アンナリーゼはただの事実を述べるような淡々とした声だ。その言葉に迷いがない。
「私はあなたに個人的な感情を持っていません。先生がどう思っていたのか、それも聞かされていません。アラン様の話ばかりです。先生がアラン様の話をするとき、いつも目を輝かせて、何のこともない日常をいつも何度もでも聞かせてくれました。そう、アラン様のことを話すとき、先生はただの女の子でした。先生にとってはよほど大切な期間だったのでしょう。先生の百年の中のたった五年なのに、です。私の方がよほど長い期間先生といましたが」
アランの夢の世界でも、マリアがどう言う気持ちで過ごしていたのか伝わってきていた。その気持ちにアランがまったく気がつかなかったというのもありえないとわかっている。
「私たちは、本当にあなたのことを知らないのです。あなたのことは先生の言葉だけからしか知りません。先生の言葉を裏付けるものを私たち参画者は見つけることができませんでした。あなたに関する一切の記録がどこにも存在しないのです」
「え……」
私の故郷の街でも私を知る者はおらず、領主だった家ごとなくなっていた。というよりも、他のものに置き換わっていた。
「先生ははっきりとは言っていませんでしたが、おそらく『隙間』に関係しているのだと思います。どのように、かはわかりません。私がここに残っている理由の一つが、先生が残していた資料を整理することです。先生なら何か残している可能性はあります。まだ何もわかっていませんが」
「じゃあ、どうしてマリアさんは私のことを知っているの?」
記録がないならマリアが私を知る方法もない。それとも当時の人達には記憶だけが残されているのだろうか。
「当然の疑問だと思います。それも私は具体的なことは知りません。生前、先生は魂の研究の途中で『隙間』に触れたと言っていました」
「触れる?」
「『隙間』は確かにあります。しかし、それが『隙間』なためか、通常は知覚できません。別な場所と繋がっている空間なのか、空間以外の何かなのか、先生の研究で想定されているのは『魂』がそこに入り込むということだけです。いえ、これもそう考えると都合が良いというだけで、本当のことはわかりません」
「私だけじゃなくて、私の家族もいないことになっていた。そんなことができるの?」
「通常の魔術では無理でしょうね。規格外で想像の範囲外です。人を殺すのとは違う、世界から消し去ってしまう魔術など私も知りません。記憶の操作ともまた別なレベルです」
「そう、だよね」
「ここから、話しておきたいことがありますが……」
アンナリーゼが私の背後に視線をやる。
「アラン様にもお伝えした方がいいでしょう」
「アラン……」
部屋にアランが入ってくる。振り返って見るといつもにも増して暗い顔だ。
「私に関係がある話だね」
「はい、そうです。アラン様はお気づきかもしれませんが」
「考えていることはある。可能性の範囲だが。そうか、私もか」
「はい」
「ちょ、ちょっとどういうこと?」
「私に関する記録も消えている」
「え!?」
「アラン様が生きていたこと、国家魔術師であったことも含めて、あらゆる記録があなたと同じく抹消されています。アラン様は死んだことにされたのではなく、最初からいなかったことになっているのです」
「そんな……、でも、それならそれこそマリアさんも知らないってことになるんじゃないの?」
「はい、先生もアラン様のことはしばらく記憶から抜け落ちていたようです。ただの一個人として魂の研究をしたそうです。先生の師匠はアラン様の師匠であるエチカ師匠の弟子ということになっていたそうです。それが『隙間』に触れたことで、一気に記憶を取り戻したと、そう言っていました。参画者がアラン様のことを知っているのも先生が伝えていたからです」
「なるほど」
アンナリーゼが長い息を吐く。
「それが、私がアラン様にお伝えできるすべてです」
アンナリーゼが机から昨日見せた緑色の魔素石を取り出す。
「あとは先生に聞いてください、アラン様」
彼女が私たちに歩み寄って、魔素石をアランを差し出した。アランはそれを受け取る。それを了承と受け取ったのか彼女は立ったまま目を閉じた。
「臓器を治すように、私の中に埋め込んでください」
アランがマリアが入っている魔素石を掲げる。私の前にいるアランの表情は見えない。
あ、とアランに何かを言おうと口を開きかけて止まった。でも何も言えなかった。これが成功して、アンナリーゼがマリアになって、それでどうするのだろう。アランはどうしたいのだろう。私はどうなるのだろう。私とアランは魔力で結びついているから、アランは私から離れることができない。だから、アランはいなくならないとどこかで安心しきっていた。魂の研究をしていたマリアが目覚めれば、私とアランを引き剥がすことができるのじゃないか? 可能性はある。どんな可能性もある、ということに気がついてしまった。頭がぐるぐるする。それでも足が竦んで動くこともできない。動けたとして何ができるんだ。アランから石を取り上げる? そのあとどうする? ダメだダメだ。答えがないものに考えるのになれていない。いや、違うんだ。答えはわかっている。誰か、助けて。
「命令する」
アランが『契約』ではない、強制的な魔術の行使をするための宣言をする。
「岩は砂に
砂は土に。
土は灰に。
灰は無に。
壊れろ。」
世界が止まった気がした。
アンナリーゼが前に倒れそうに揺れて、手を伸ばした。
アランの掲げた手から緑色の閃光が放たれる。咄嗟に目を閉じたものの、それでもまぶたを通して強い光が届く。
ほんの一瞬のことで、光はすぐに消えてしまった。
恐る恐る目を開ける。
緑色の粒がアランの手から零れて、床に着く前に霧散してしまっていく。
「どう、して」
声を振り絞ったのはアンナリーゼだ。
「なぜですかアラン様!」
距離を詰めてアランにつかみかかろうとする。
その声に、アランは言い聞かせるように、ではなく、落ち着いたような淡々な声でアンナリーゼに言った。
「マリアなら、誰かを犠牲にしてまで蘇ろうとはしない」
「そんなはずはありません!」
「いや、マリアならもしここで蘇ったとしたら私に怒ると思うよ。君の身体を使ってまで。そんなものを私だって思わないでね、ってね」
「そんな、そんな、私の方が先生のことわかっているのに! あなたなんてたった五年しか一緒にいなかったのに! 最後には見捨てたくせに!」
「見捨てたわけではない。師弟はいつか別れるものだ。それが早まったに過ぎない。そのタイミングが来たというだけだ。長さは関係ない」
アランの言葉は本心だろうか。それも私にはわからない。魔術師としてはそうかもしれないが、一人の個人として、マリアとアランはどうだったのだろうか。
アンナリーゼが胸を抑える。呼吸が乱れて、ひゅーひゅーと荒い息をしている。その場にうずくまって、何度も不規則な息を吐いている。
アランは屈むでもなく、彼女を見下ろしていた。アランが後ろを振り返って私を見た。微笑んでいたようにも見えた。私の妄想の錯覚かもしれない。
「本当に、よかったの?」
「そうだね。私はマリアならそれを望んだと真面目に思っているよ」
「でも……」
アランは小さく首を振った。
「行こう」
「あ」
アランの向こうでアンナリーゼが立っていた。うつろな表情をしている。激高してアランに飛びかかるのではないかと心配をしたところで、彼女は力の抜けた身体で口だけを動かした。
「条件1のクリアを確認しました。マリアからの伝言をアランに伝えます」
声は彼女のものだけど、意思がこもっていないような、弱々しいものだった。
「久しぶりアラン。元気かしら?」
今度はアンナリーゼから発せられているはずなのに、幼いような、子供のような、明るい声で言った。
彼女は嬉しそうに笑っている。
「アランならきっとこの選択をすると思ってた。だてにアランの弟子を五年もやっていなかったから。少しさみしいけど、でもそうだよね、死んだ人間は生き返るべきじゃない。もう私はいないんだから」
この声の主はマリアなのだろう。
あの魔素石が破壊されたことを条件に発動する魔術を組み込んでいたのだ。近くにいる人の声を借りる、のだろうか、魔素石自体が喋っているわけでも、何もないところから声がするわけでもない。
「ごめんね、悪戯したくなっちゃっただけなの。アランが今そう思ったように、もしアランが同じことを私に選ばせても私も同じことをしたよ。だって私はアランの弟子だからね。ねえそうでしょ?」
マリアは、自分が死んだあと、このマリアの魂の入った魔素石に対してアランがどうするか、見当がついていたのだ。私があれだけアランが彼女を蘇らせることにうろたえていたのに、一方の彼女は蘇らないことがわかっていたのだ。最初からそのつもりで、魂の復活など無理なことだったのだろうか。それは彼女にしかわからないかもしれない。
「アランと一緒にいた短い生活はとても楽しかった。アランもそうだったら嬉しいけど、どうかな」
「ああ、楽しかったよ」
アランがマリアに返したが、マリアは一方的に話しているだけなのでそれに更に答えることはなかった。
「たぶん、アランのそばにいる人」
アンナリーゼの視線はアランから変わることなく、私に話しかけた。
「あなたが『来たるべき魂』ね。あなたがいなかったら、私とアランは違う人生だったかもしれない。それは否定したくないし、嫉妬かもしれないけど、ううん、ただの嫉妬なんだけど、羨ましい。焼き餅を焼くことくらい許してね」
彼女が言った。
「あなたは近いうちに、とても大きな選択を迫られるでしょう。これは占いでもないし、直感でもないの。私が『隙間』に触れた事実としてそれがわかっていること。もしあなたがアランの弟子なら、選択の重要性について十分にわかっていると思うけど、後悔しないように頑張ってね。私から言えるのはこれくらい。あとは、アランをよろしくね」
彼女が私への伝言は言い切ったみたいで、間が開く。
「じゃあね、アラン。私の大切な師匠。愛してたわ。ううん、まだ愛してる。彼女の前では言われても困るだけだろうけど、最後くらい少しは困ってね。彼女のことは泣かせないように。いつかアランが死んだらまた会いましょ、それまではいったんさよなら!」
そこまで言って、アンナリーゼの身体がガクンと落ちた。






