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2、過客のススメ


 結論から述べよう。

 私の希望的観測はただの夢想に終わり、春らしい、そぞろめいた美しき出会いのようなアレコレは影も形もなかった。

 それはいいのだ。過度な期待は身を亡ぼすと世は言うのだし、私自身、運命の出会いと呼べるようなものを心の底から期待していた訳でもない。


 では、何がいけなかったか。友人が挨拶とやらを先に済ませていたせいで本来の家主である私を理解してもらうのに苦戦したり、二人で住むのかといらぬ詮索をして訝しむ隣人達に自分と友人の関係を説明する時間を割かねばならず、五部屋しかない下宿先を半時間ほどもかけて歩き回ったことだ。


 しかし、物事には益面あれば害面あり。


 時間をかけて部屋を回ったおかげで、それぞれの入居者の部屋と顔と名前は覚えることができた。元が学生向けの安下宿である。私以外の四名の入居者も、皆同じ大学に通っていることが判明した。学内ですれ違った際には軽く会釈をする程度の仲にはなれたことだろう。


 人と人の付き合いが希釈化する世の中ではあるが、私はこういったささやかな出会いというものを大切にしたい。


 ただ、繰り返し述べておくが春めかしい出会いは無かった。




   ○   ○   ○




 部屋に戻ってみれば、友人が一心不乱に何かを読んでいる。


 タワシを流しに放り出し、開けていない荷物を椅子代わりにして、あの紙束を眺めていたのだ。西日は先程からさらに燈色を増し、伏し目がちに書を嗜む彼女の頬を鮮やかに染めていた。

 そのあまりにも堂々たる手伝いのサボタージュぶりに、私は友人の名を呼ばざるを得なかった。


「おうい、繰間(くるま)


「やあ、おかえり。どうかしたかい」


 軽快な声でそう返す彼女ではあるが、こちらの方を振り向く気配はない。


 夕陽が作り出すそのセピア色の空間に、普段は微塵も感じられない繰間の女性的な部分を垣間見た。

 これは大変珍しいことである。長年、友人として“阿呆の片割れ”をやっているが、かような風景はそうそう見られるものではない。


 ともあれ、今は責務を放棄している彼女に、その真意を問わねばならない。


「こちらの台詞だよ、繰間。流しの片付けがなにも進んでいない」


「やあ、これが面白くてね。君の元にきたのだね。一度、読みたいと思っていたのだよ」


「楽しんでいるところ悪いけれど、途中で終わるよ、それは」


「大丈夫さ。続きはちゃんと届くだろうから」


 そう言うと、繰間は紙束を段ボール箱の上にぽすりと置いて、一つ伸びをした。彼女はどうやら何かを知っているらしい。

 私はこの春から大学生なる身分であるが、彼女は違う。私よりも一年早くその立場に身を置き、大学生活のもたらす知啓を得ているのだ。私は彼女に紙束の正体を知っているのかと尋ねた。


「これはね、綾見。“過客のススメ”というものさ」


 そう言って、彼女は大学界隈に伝わるこの紙束の出自を語ってくれた。


 彼女の言うところによれば、“過客のススメ”はその昔、どこへともなく姿を消したある人物の下宿に残されていた手記で、飄々と大学生活を謳歌した後、日本を離れて世界を旅することを決意した事を記したものであるらしい。


「私が読んだ部分では、まだ何も話が動き出していなかったのだけれど」


「そう、これはまだ一部なのさ。続きは、この部屋にちゃんと届けられるよ」


 不定期に、紙束の続きは届けられるという。そして、続きが届く時には、必ず一通のエアメールが添えられているのだそうだ。


 ちょっとよく分からない。旅に出ている人物がエアメールと共に紙束を送ってくるということだろうか。いやしかし、紙束の話の内容はかなり前時代的なものだった。日本を離れ、ずっと旅を続けているということなのだろうか。


「不思議そうな顔をしているね。簡単なことさ。代替わりをしているんだよ。“過客のススメ”を読んで、内容に心動かされた者が次の過客になる。そうやって、時代を越えて旅は続けられているのさ」


「けれど、旅をしながらだと紙束が送れないだろう。それに、この紙束は私の部屋に不法侵入をしてきた。うら若き乙女の居城に対する行いとしては、少し考えものではないかな」


「綾見、そんなに細かいことを言うものではないよ。心配しなくても次からは郵便受けに入っているだろうさ。届けてくれるのは、部屋()りだからね」


「なんだい、それは」


 旅をしている、過客と称される人物とは別に、部屋守りなる人物もいるのだそうだ。

 その部屋守りなる人物は大学界隈の下宿に使われる建物の全ての合鍵を所有し、無作為に選んだ学生の部屋に紙束を放り込むのだという。


 つまりは、不定期更新の手記を受けとる権利を、私は得たことになるようだ。


 完全に一方通行の旅の便りである。何故このような所業を為そうと思い立ったのか。まるで分からないが、この紙束を読み進めればその感慨に少しは近づけるのだろうか。


「阿呆なことをする人もいるものだね」


「綾見は好きだろう? こういう阿呆は」


 繰間がくつくつと笑う。認めよう、確かに私は阿呆が好きだ。さらに言うなれば、阿呆を外から眺めるのが好きだ。まるでそれは色とりどりの宝石を眺めているような気分になれるもので、私はこれまでの人生を阿呆の観察に費やしてきたと言っていい。具体的には、繰間を身近で観察し続けてきたのだ。


 彼女は一級の阿呆である。


 何よりも誰よりも平凡を愛する彼女は、平凡を究めるために生きている。そしてその生き様を傍で見ているのはなんとも楽しく、面白いことなのだ。


 しかし、阿呆を見守るにあたって、一つだけ気をつけなければいけないことがある。

 それは、自らが阿呆の沼に足を踏み入れてしまわぬ事だ。阿呆の沼は底なしであるので、一度嵌まったが最後、もう二度と浮かび上がってくることは出来ない。


 その覚悟あればこそ、私は高校時代に“阿呆の片割れ”なる偉大な名を賜りながらも阿呆に染まる事を良しとせず、誠心誠意日々を過ごしてきたのだ。


「分かった。“過客のススメ”とやら、最後まで楽しませてもらうことにするよ」


「さすが綾見だねえ。ところで、暗くなってきたけれど夕食はどうするのだい。食器も何も出ていないだろう。冷蔵庫も空だったし」


「その責の半分は繰間にあると私は思うね」


「それじゃあ、お詫びに美味いおでん屋台を紹介するよ。特に、そこの大根の味は無類だ」


 結局のところ、荷解きは終わらなかった。しかし、一寸どころか一分一厘先ですら闇の世の中である。立てた予定が遂行されないことなどもはや必然なのだ。

 それを気にしていては誰も前に歩くことなどできはしない。私は部屋の中で闇に沈んでいく段ボールの大軍を一瞥して「明日の日の目を待っていてくれ」と呟いた。


 繰間と二人、夜の街並みを歩いて駅前へと向かったが屋台は出ていなかった。恨みがましい視線を送ってみたが何食わぬ顔で「こんな日もあるさ。しょうがない」と彼女はからから笑った。


 結局、ラーメンを食べて繰間とは駅前で別れ、荷解き終わらぬ自室へと戻った私は、段ボールを枕代わりにして眠る人生初の体験をした。これも、女子大生なるための嗜みといったところだろう。愉快な心持ちで私は眠りについた。

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