ラファエルからの思いがけない申し出
実父の病室から出たわたしの目は涙であふれていた。
今まで母のことを『頭がおかしい』なんて言っていたけれど、それは母なりに自分の心を守っていただけなのかも。でないと本当に壊れてしまうから。
急に『婚約』という言葉が怖くなった。
自分も婚約を破棄されたら?
母のようになってしまったら?
わたしも廃人になるの?
もう、立っていられなくなった。
「大丈夫ですか、セレーナ嬢?」
「大丈夫では、ないかも……」
「伯父のことは……正直僕も許せない。伯父に何があったのか聞かされたのは、ついこの間のことだったんだ」
「許せないけれど……実父のことが分かっただけよかったと思います。今までずっと、父が誰なのか分からなかったから。わたしはどこの誰なのか分からない人の子なんだと思ってたから」
わたしは気が済むまでラファエル様の胸で泣き続けた。
「あなたをヴィセンテ家の娘として認知するための書類を伯父から預かっています。同意してサインしてほしい」
「わたしはノルデン国アールグレン伯爵家の娘です」
「伯父の娘として認知することはできます。この国では二重国籍を取ることもできるんですよ」
「……」
「正直に話すと、正当なヴィセンテ家の血筋を取り戻したいという理由があります。それ以上に、深い傷を負わせてしまったレディー・ラリサとセレーナ嬢への償いと遺産の問題もありますから」
「……」
「セレーナ嬢は伯父の、ヴィセンテ家の血を受け継いでいるのだから」
わたしは母方の侯爵家から信託財産をもらっているけれど――母の介護資金だと思って貰っておこう。
それにしてもラファエル様、強く抱きすぎじゃない? 苦しいんですけど……しかもわたしの首筋に……気のせいか唇が……?
その後わたしはヴィセンテ公爵の娘として正式に認知され、ヴィセンテ籍を受けた。アールグレン伯爵家を抜けたわけではないから、公女で伯爵家の娘。
※
わたしたちがメリディアナ皇国滞在中、容態が急変した実父が息を引き取った。公爵家に来て二十日ほど過ぎたときのことだった。
享年四十六歳。
喪主は従兄のラファエル・デ・ヴィセンテ、新しいヴィセンテ公爵家当主。
わたしとソーニャ、クリス叔父様は、一番豪華な客室で過ごしている。ここに来てもう一か月近い。
ノルデン国はもう夏が終わるころだ。あとふた月もすると、紅葉に囲まれた湖でワカサギ釣りをする季節が来る。領地の湖が懐かしい。
わたしに関する書類は揃ったし、いい加減帰国したい。
ここはわたしの家ではないから。
「本当ならセレーナは公爵令嬢だったのね」
「そんなことはなかったけどね」
「こんなお転婆で、高貴なオーラが全くない公爵令嬢、ちょっとないと思うわ」
「どこがお転婆なのよ、こんなに大人しいのに」
「う~ん?」
わたしはアールグレン父に、もうすぐ帰りますとの手紙を送った。
※
「セレーナ嬢、もしよろしければ僕の話を聞いていただけませんでしょうか」
あと少し、あと少しと滞在期間を伸ばされているので、『そろそろノルデン国に帰ります』とラファエル様に告げた日、大事な話があると温室内のガーデンテーブルに誘われた。
ソーニャとクリス叔父様はいない。
二人だけの内緒話?
「何でしょうか?」
「僕はこれからヴィセンテ家を継がなければなりません」
「はい」
「それで……僕と婚約前提でお付き合いをしてほしいのです。そしていずれは結婚を……」
「はい?」
「セレーナ嬢のまっすぐで美しい黒髪が好きです、情熱的な濃紺の瞳も」
「はい?」
「僕たちは従兄妹同士です。もっと親睦を深めてもよいのでは?」
あれっ、わたし、モテ期?
でも『婚約』だよ?
母のように破棄されてしまったら?
「わたし……婚約はちょっと……それに公爵家なんて……」
今は考えられない……というか、無理無理。
「セレーナ嬢は十七歳でしたか。そろそろ婚約くらいは考えた方がいいでしょう?」
「いいえ、むしろ一生独身でいいかな、と」
「独身……それなら公爵家がセレーナ嬢を引き受けましょう。婚約については急いでいるわけではありません。しばらく考えてみていただけませんでしょうか」
「考えるだけなら……(永遠に答えは出ないかも)」
「僕たちが幸せになることで、伯父やあなたの母上が救われるのではと思うのです」
「そうでしょうか? 亡くなった父の奥様とお子様は? どうすれば救われるんでしょうか?」
「……そのことは……不幸な事故だったとしか……」
「母は生きています。でも、奥様とお子様は亡くなったのでしょう?」
「公爵家に起きたことは、僕には何も言えません」
「ごめんなさい、その頃ラファエル様は実家にいたんですよね。余計なことを言ってしまいました」
「いいんです、僕はセレーナ嬢が隣にいるだけで心が休まるのです」
「え? 本当にそう思っていらっしゃるのですか?」
「はい」
どうしてそう思えるの?
もしもわたしたちが結婚することになったら、母とアールグレン父はどうなるの? 特に母。わたしが面倒を見なければ……。
それに、ヴィセンテが嫌いな祖父母はどう思うの?
後々苦労しそう。
「伯父のことで一時的に帰国しましたが、僕はもうしばらくノルデン国への使節という仕事がありますので、その間にぜひとも……」
「……ごめんなさい、やっぱりわたしには『婚約』は無理です……」
「……ごめん、セレーナ嬢を傷つけるようなことを言ってしまいましたか。では『約束』『誓い』ならどうでしょうか」
「……お父様や……お祖父様に相談しなければなりませんわ」
「ははっ、それは強敵ですね」
「かもしれませんね?」
「その話は別として、ここはセレーナ嬢の故国で実家なのですから、いつでも帰って来てください」
「いいんですか?」
「僕たちは従兄妹同士ですから」
とか何とか言いながら、ラファエル様はわたしの前でひざまずき、素手にキスをした。
真似ではなく、本当にキスをした!
くすぐった~い。
ドキドキしちゃった。
ミスター・ミハイロフよりも情熱的な人なのでは。
「もちろん、私はセレーナ嬢の意思を尊重します」
見かけによらず押しが強い。眼力も強いし、何しろ濃い。
ミスター・ミハイロフのエスコートに慣れていなかったら勘違いするところだった、危ない危ない。
でも……。
ラファエル様はわたしの従兄。アールグレン父やクリス叔父様やソーニャとは血はつながっていないけれど、ラファエル様とは……。
それなら『婚約』とか『結婚』は別として……。
「また、会えますか?」
※
「ねぇソーニャ、もしわたしがこの国に来ても、一緒にいてくれる?」
「馬鹿言わないで。わたしはクリストフと結婚してアールグレン家を継がなければならないの。皇国なんて無理」
デスヨネ~。
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「見届けたか、ホセ?」
「はい、確かに」
「……そうか。ではお前をサンタソアレス島の領主に任命しよう。約束だからな。長い間ご苦労だった」
「ありがとうございます、大佐。母も――一緒に連れて行きたいのですが」
「それは……しばらく待ってくれ。ラリサの様子次第だ」
「かしこまりました」
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☞公爵とその妻子に何が起きたかは、冒頭『はじまりの物語』のラリサ父(そのとき陸軍大佐だった人)の発言でお察しください。娘を侮辱されたソアレス家は『掟』に従いました。表向きは『セルフ断罪』です。
☞次回、影の薄いあの人が再登場します。バカンスを楽しんでいるもう一人のあの人は少しあとになります。




