第8話 ミレイユが決めた婚約者
領主館の庭には、色とりどりの花が咲き誇り、白いテントと金糸の飾りが陽光を受けてきらめいていた。
今日は、ミレイユ19歳の誕生日。
館には、近隣の貴族や騎士団の幹部、教会の代表、そして孤児院の子どもたちまでが招かれていた。音楽隊が奏でる弦の音が、初夏の空に溶けていく
ミレイユは、淡い藤色のドレスを身にまとっていた。肩には薄く透けるレースがかかり、胸元には家紋を模した小さなブローチが輝いていた。
髪はゆるく編み込まれ、銀の髪飾りが陽光を受けて揺れていた。
「お誕生日、おめでとうございます、ミレイユ様」
「今年もますますご立派に。お美しいです」
「この一年が、あなたにとって幸多きものとなりますように」
ミレイユは一人ひとりに微笑みながら、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。こうして皆さまにお越しいただけて、とても嬉しく思います」
その声は澄んでいて、礼儀正しく、けれどどこか柔らかかった。
彼女の視線が庭の奥へと向かう。
そこには、礼装の軍服をまとったレイニードが静かに控えていた。護衛としての立場を守りながらも、彼の姿はどこか凛としていた。
ミレイユとレイニードの目が、ふと合った。
離れていても、その一瞬は確かに交差した。
ミレイユは、思わずそちらへ歩み寄ろうと一歩踏み出す。
そのとき――
「ミレイユ様!」
軽やかな声が背後から響いた。振り返ると、リリアが華やかなドレス姿で立っていた。淡いピンクのドレスに、花の髪飾り。彼女らしい柔らかな笑顔がそこにあった。
「お誕生日、おめでとうございます。今日のミレイユ様、本当にお綺麗です」
リリアは心からの祝福を込めて言葉を贈った。
ミレイユはすぐに微笑んで返す。
「ありがとう、リリア。来てくれて嬉しいわ」
ふたりが言葉を交わすその場に、バルトが立ち上がった。庭の中央に進み出ると、グラスを掲げて声を張る。
「本日は、我が娘ミレイユの誕生日に際し、こうして多くの方々にお集まりいただき、誠に感謝申し上げる。皆さま、どうぞ心ゆくまで楽しんでいただきたい」
その言葉に、庭のあちこちから拍手が起こり、音楽隊が再び弦を奏で始めた。果実酒が注がれ、笑い声が広がる。
ミレイユは、今度は子どもたちに囲まれた。孤児院から招かれた子どもたちは、色とりどりの手作りのカードを手に、口々にお祝いの言葉を贈っていた。
「ミレイユ様、お誕生日おめでとうございます!」
「これ、ぼくが描いたんです!」
ミレイユと思わしき女の子の周りに、色とりどりの花が咲き誇っていた。
ミレイユは目を細めて、そっと微笑んだ。
「まあ素敵。お花の妖精になったみたいだわ」
子供は嬉しそうに胸を張った。
ミレイユはひとりひとりに目を合わせ、優しく微笑んでお礼を言った。ミレイユがふと視線を落とすと、ひとりの少女が両手で抱えるようにして差し出した花束が目に入った。白いデイジーが、素朴な麻布に包まれて、風に揺れている。
「お花、昨日みんなで摘みに行ったの!ミーお姉ちゃんにぴったりだねって」
ミレイユは、花束を受け取り、目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。とてもきれいね。白いデイジーは、希望の花。みんなの気持ちがとっても嬉しいわ」
その笑顔は、辺境伯の娘としての気品を保ちながらも、母のような温かさを帯びていた。
子どもたちはその笑顔に安心したように笑い、ミレイユの周りは柔らかな光に包まれていた。
一方、庭の奥で静かに控えていたレイニードにリリアが近づき声をかけた。
「ミレイユ様、ほんとうに綺麗ですね」
リリアは、ミレイユに視線を向けて言った。
「ええ。今日の彼女は、特別に輝いて見えます」
レイニードは視線をミレイユに向けたまま、静かに頷いた。
リリアは思い出したように、声を弾ませた。
「……あれ、完成したんですか?」
「はい。いろいろとご協力ありがとうございました」
「きっと喜びますよ」
「だといいのですが」
ミレイユは、子どもたちに囲まれながらも、ふと視線の先に映ったふたりの姿に足を止めた。
庭の奥、白い藤棚の下。リリアとレイニードが並んで立ち、静かに言葉を交わしていた。
何を話しているのかわからないが、穏やかで親しげだった。ミレイユは胸の奥が少しざわつくのを感じた。
けれど、すぐにその感情を押し留めた。もう、自分の気持ちははっきりしている。迷いはない。ならば、堂々と伝えよう――そう、決めたのだ。
ミレイユはゆっくりと歩き出した。
そして、レイニードの前に立ち、じっと彼の目を見つめる。
「レイニード、私の婚約者になって」
その言葉は、飾り気のない、真っすぐな告白だった。
レイニードは目を見開き、言葉を失った。
「……え?」
ミレイユは微笑んだ。
「本当はね、婚約者に求める条件がいくつかあったの。でも、そんなものはもうどうでもいいの。
あなたがいいの。あなたが、私のそばにいてくれるなら、それだけでいい」
レイニードは息を呑んだ。だが、すぐに彼は一歩前に出て、彼女の目を真っすぐに見返した。
「俺も――あなたが好きです」
その声は低く、けれど確かに響いた。護衛としての距離を越え、ひとりの男としての想いが込められていた。
「あなたの隣に立って、あなたを支えたい。あなたのことは、命を懸けて守ります」
その言葉が交わされた瞬間、庭に静かな沈黙が訪れた。
そして――次の瞬間、歓声が一斉に沸き起こった。
「おめでとうございます、ミレイユ様!」
「レイニード殿、よくぞ!」
「なんて素敵なふたり……!」
貴族たちが杯を掲げ、騎士団の仲間たちが誇らしげに頷き、子どもたちが手を叩いて跳ね回る。音楽隊は祝福の調べを奏で、庭の空気は一気に華やかに染まった。
リリアも、微笑みながら手を打ち、心からの祝福をその拍手に込めた。
「レイニード」
その声は、いつもより少し低く、そして柔らかかった。レイニードが姿勢を正すと、バルトは彼の肩に手を置いた。
「ミレイユを……頼んだよ」
その瞳は、ほんのわずかに潤んでいた。厳格な父が、娘を託す瞬間。それは、信頼と覚悟のすべてを込めた言葉だった。
レイニードは深く頭を下げた。
「はい。必ずお守りします」
そのやり取りを見守っていたイザベラは、そっとミレイユの肩を抱き寄せた。
「よかったわね」
その声は、安堵と喜びが混ざったように優しく、ミレイユの頬に静かに涙が伝った。
そしてイザベラは、レイニードの前に歩み寄り、微笑みながら言った。
「ミレイユを、どうかよろしくお願いしますね」
その言葉には、母としての願いと、静かな信頼が込められていた。
レイニードはもう一度深く頭を下げた。
「はい。必ず幸せにします」
イザベラはバルトの背中に手を添えながらその場を離れた。その背中には、父としての誇りと寂しさが静かに滲んでいた。
祝宴が終わり、夜の庭は静けさに包まれていた。
ミレイユとレイニードは、並んでベンチに腰を下ろしていた。普段着に着替え、肩の力が抜けたふたりは、ようやく素の自分に戻っていた。
ミレイユは夜空を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
「……私たち、婚約者になったのね」
レイニードも夜空を見上げながらつぶやいた。
「……なんだか、実感がわかないな」
「うん。まだ夢をみているみたい」
レイニードは、彼女の手に自分の手を重ねた。
「でも、こうして隣にいると、少しずつ実感が湧いてくる。君が隣にいるってことが、俺には何よりの証だよ」
ミレイユは、ふっと笑った。
「……じゃあ、これからは、実感を育てていく時間ね」
「そうだな。ふたりで、ゆっくりと」
レイニードは重ねた手をつなぎ直す。
指先に伝わるぬくもりが、現実の証のようだった。
「そういえば、婚約者の条件って何だったんだ?」
レイニードが尋ねると、ミレイユはつないでいない手の指を折りながら答え始めた。
ミ「一つ、嘘をつかないこと」
レ「絶対につかない。君の信頼を裏切るようなことは、しない」
ミ「二つ、民を大切にすること」
レ「君と一緒に、守っていく。皆の笑顔が、俺たちの誇りになるように」
ミ「三つ、常に冷静であること」
レ「……君の前じゃ、ちょっと難しいかも。でも、君のために冷静でいられるよう努力するよ」
ミ「四つ、自分より強いこと」
レ「君を守るためなら、誰にでも立ち向かおう」
ミ「そして――五つ、趣味を理解してくれること」
ミレイユが最後の条件を口にした瞬間、レイニードはふっと笑って、ベンチの後ろに手を伸ばした。そこから、丁寧に包まれた箱を取り出す。
「……え? なにこれ?」
ミレイユは目を丸くして箱を受け取り、そっと蓋を開けた。
中には、ドールハウスにぴったりのサイズのテーブルとイスが二脚。テーブルには、かわいらしいレースのクロスがかかっていた。よく見ると、木の削り方が不揃いで、既製品ではないことがすぐにわかる。
「もしかして……これ、作ってくれたの?」
レイニードは少し照れたように笑って、短く答えた。
「ああ。誕生日、おめでとう」
ミレイユは、胸がいっぱいになって言葉が出なかった。
両手でその小さな家具を包み込むように抱きしめた。
「一緒に、楽しんでいこう。君の世界を、俺にも見せてくれ」
胸の奥が熱くなり、気づけば涙が頬を伝っていた。
ミレイユは頷いた。
ふたりの距離は、もう言葉では測れないほど近づいていた。そして、レイニードはゆっくりと顔を寄せる。
ミレイユも目を閉じて、そっとその気配を受け入れた。
風がふたりの間を通り抜け、庭の花々がふわりと揺れた。月の光が静かにふたりを包み込み、夜の庭はその瞬間、世界でいちばん静かで、あたたかい場所になった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次が最終回です。
最終回を書きたくてここまで来ました。
もう少し、お付き合いいただけると幸いです。




