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夜の欠片/鉄の破片  作者: 関本始
3/10

流るルもの


【夜野】


背中にEmuの声が届く。

「当てはあるのかよ?」

振り返えらない夜野がうなずく。急坂と崖が続く山道だ。コートの胸に閉じた手紙を抑える。ざらざらした紙の束が胸に触れる。手紙。青年が抱えていた。宛先があった。関轟都督府、児島大尉、大隊長宛て。手紙は届ける。命ある誰かのところに。

受け取りての無い手紙は月の裏側と同じ。その思いは忘れられてしまう。


 錆びついた砲弾と青い灰。がれきと探索胞子が積もっている。山道の植生に勢いは無い。真っ白に土は乾いている。一歩ごとに砂煙が苦悶し、許しを求めるように揺らめく。夜野は息を細く吐く。真冬の黄色い日差しが生きざまを否定しようとして背骨をまさぐる。

 腕を伸ばし軽い本体を振ってEmuは隘路の壁の岩をつかんで跳ねる。夜野を追い越していく。枝が折れ静寂の中を野鳥が逃げていく。

 遅れてついてくる夜野にEmuは手を差し伸べる。その手をつかみ夜野は足に力をこめる。関節がきしみ息があがる。


 森林限界を超えると、むき出しの岩場が続く。乾いた土がぼろぼろと崩れ落ちる。まだ、山の中腹。夜野はうつむきつばを飲み瞬きをする。一粒の汗が瞼を流れる。瞬きをして腰をかがめる。

地鳴りがする。顔をあげると岸壁が剥がれ中を舞っている。自然のいたずら、岩盤は壁面の凹凸に跳ね進路を変えると夜野に向かってくる。巨大な影が斜めに走る。息を吸う。夜野は臍をかむ。故障した補助脳が過剰反応する。四肢が痙攣する。対処すべき痛感を予想し、覚悟をしてしまう。体がきしむ。つぶされる。痛みが胸を締め付け景色が音を失う。瞼が小刻みに震える。自分の最後を見届けようと夜野は立ち尽くす。


 影が頭の横を横切る。頭痛のように薄暗い金属の体。疲労のように心もとないその円筒形。つむじ風になって、それが飛んでいく。Emuが回転し岩盤に激突する。金属がひしゃげる音と岩盤の割れる音が冷静な山の静寂を汚す。3つに割れた岩盤が夜野の肩をかすめ、坂をころがり落ちて谷に消える。後を追ってEmuが落下する。カシャン、と金属部品が跳ねる音がする。夜野の指が震える。補助脳の混乱が収まる。胸が別の痛みで締め付けられる。目の奥が熱くなる。



【Emu】


目の前の女の顔をEmuは見つめ返す。悔やんで汚れた頬。

「わからない。どこまでついてくるの」

泥の後が頬にへばりついている。再起動したか。なれたものだ。通電が安定するまでは視界の隅が七色にゆがんでいる。蓄電池の性能が落ちている。起電特性がよくない。夜野の腕の中で画面の端に表情を隠して消すEmu。

「助けてくれた、どうして・・・」

つぶれた天板の留め金を夜野がなでる。指の感触。Emuの圧電センサが感知する。気分がいい。装置のくせにか。いや・・・人真似にすぎない。偽物だ、ただの演算。

「そりゃあな。旅は道連れなんだろ、たぶん」

陽ざしが上から落ちてくる。山頂だ。いつの間にか真昼間だ。高原の空気が柔らいでいる。夜野が運んだのだろう。南側の斜面に光が滑り込む。見下ろすと城壁の街の影が色を増す。夜野はEmuを抱いたまま歩き出す。下り坂で夜野は躓き、へたり込む。夜野の胸をEmuは抜け出す。車輪を片側ずつ回して確認する。軸が曲がっている。不自然に本体が上下する。それはいい。電池の残量が・・・危険域だ。がらんどうの体を警告信号が這っていることに気づく。基盤が故障した。インダクタに電流が漏れて発振した。電池残量が一気に減った。熱遮断PGAが通電を遮断した。だが、遅かった。電池は残り僅かにだ。


【夜野】


 崩れた門の脇に馬が繋がれている。高原の馬の骨ばったつま先が小石を抉っている。緩やかな下り坂の先に露店市が開かれている。坂の途中で夜野は迂回路を探す。その横をEmuがすり抜けていく。まって、と夜野が呼んでも、無視してEmuは先を進んでいく。夜野は立ち尽くす。荷馬車がベルを鳴らす。

「邪魔だ、ハイアード。お前の道じゃない」

 古代の石窟がこの道の先にある。観光業で栄えたその村の賑わいは過去にのまれて消えた。遊牧族の市が開かれている。柱の折れた民家の軒先に露店と屋台が並んでいる。大型のテントを張った店はもちらほら並んでいる。ナキウサギの煮込み、歩鳥の焼き物の店が並んでいる。湯気の温度が夜野に空腹を思い出させる。金はあの男たちに渡してしまった。ポケットをまさぐると銅貨が2枚、控え目に重なっている。

 煮込み屋のカウンターに硬貨を差し出す。天板の乾燥した板目は、老人の思い出ようにでこぼことしている。常連と話をしながら、店主は代金に手を伸ばす。横目が夜野をとらえる。共生菌が感染する寒気。そのさざ波が彼の神経を走っている。悪を嫌悪する欲望が彼に生まれる。白目が血走る。会話が途切れる。常連客の中年の男は銅貨をひったくりると、夜野の額に投げつける。ヤツフサの入植民の地域。反応は嫌悪。悪を打つ胸のすく思い。正義を果たそうとする義憤に燃えている。

「人相手の商売だ。疫病のもと、ハイアード」

男は繰り返し夜野の肩を突き放す。夜野はたたらを踏む。静脈が不自然に盛り上がって脈打っている。感染して心臓が脈打っているのだ。夜野がしりもちをつくと、男は自分の掌を確かめる。汗を上着になすりつけ、背を向ける。


 小走りに夜野はその場を離れる。離れた橋のたもとまで走り身を隠す。細く息を吐く。穴だらけの橋桁を通過した光が川面に反射する。彼女を嘲笑している。夜野は川の水に手をさらす。乾いた泥汚れが黒く浮かぶ。服を脱ぎ冬の冷温に耐えながら夜野は体をすすぐ。


 おずおず日差しのもとに出てしゃがみ込む。背中に陽を受けながら膝の間に顔を埋める。

「情けねぇ、逃げ回ってるのか」

橋の上から声がする。Emuが欄干に手をかけて降りてくる。

と、川辺にふらふらと転がり横倒しになる。拾い上げ、自分の左隣りに立て置く。

「人にはよくない。わたしは」

「そんなもん、わかってる。嫌な野郎だったろ?」

夜野は顔を上げる。

「見てたの?」

「言ったろ、旅は道づれだ。あのな。金があって口が聞ければ買い物ができる。それが商売の決まりだ。守らねぇ野郎は、ぶっ飛ばす。気合の話だ」

「お金は、無くなった」

夜野は太陽に目を向ける。乱反射する日光の隙間に粘土色の雲が流れる。Emuが肩を揺らす。頭の蓋を力まかせに引っ張り、紙幣を何枚かつかんで夜野に差し出す。いつの間にか人工手の保護材が破れている。樹脂材の指先に細かい傷が浮かび、泥が這いこんでいる。

「あるところにはよ、あるもんだ」

「どうやって手に入れたの?」

夜野は目を細め瞼を震わせる。乾いていく髪の隙間からしずくが落ち目に染みる。Emuは摺りを告白する。夜野は札を受け取り太陽にかざす。折り目が毛細血管のように入り組んでいる。太陽を透過する。臨時政府札の桃色。粗雑な紙のちぎれそうな折り目が、取引を通じてきた歴史を物語っている。

「盗むのは・・・しかたないこと」

風が冷えた体に滑り込む。補助脳が活動し視界が明滅し、横倒しに夜野は崩れ落ちる。


【Emu】


 夜野のこめかみに打撲傷ができている。Emuは傷を布で冷やし大きなボロの布を体にかけてやる。有機生命体は不便な体をしている。故障箇所が全身に影響を及ぼす。ハイアードも人も同じだ。

 得体のしれない川魚、盗んだ大根と葉を鍋に入れて火にかける。沸騰するころには夜野が目を覚まして起き上がる。

「お互い、壊れてるんだろ。おい、あったかくして寝てれば治るのか?食ってから」

Emuは鍋を指さす。夜野はうなずいて、補助脳の処理効率が冷えすぎた。効率がよくなりすぎたから、と応える。

「ごめんなさい」

夜野が続ける。

「なにがだ。寒いのは俺だっておなじだ。金属を舐めるなよ」

Emuが鍋の蓋をずらす。湯気が風にたなびき細く伸びる。

「盗んだ?」

鍋を覗き込んで尋ねる。炎が小さな輪を描きまわっている。

「・・・善悪は人の決まりだ。俺はちがう。立派だが、俺の暮らしとは合わない」

Emuは炎に盗んだ固形燃料を追加する。ペレットの表面を炎がなぞる。不安げにその手を伸ばし、やがて一体に溶けて青白く揺れる。夜野は炎を瞳に反射させながらうなずき肩を落とす。


【夜野】


 冬の空に煤が上がる。季節がその汚れに怯えている。沈黙が泥のように続く。夜野はEmuの音が変わったことに気づく。心音のように脈打っていた機械音が、ひたひたと落ちる雨のような弱い音に変わっている。夜野は耳を澄ます。雨が降り始める。焚火が消える。

夜野はEmuを濡れないようにコートの内側に抱き込む。なぜ。本体が深夜のように冷えていく。頭の蓋をたたく。反応がない。画面が泥沼に沈んでいる。止まってしまう。このまま、わたしも。

「・・・電池切れ」

夜野は彼を抱いた腕に力をこめる。鋼板の反発が冷たく彼女を押し返す。反動が未来を望んでいる。たちあがり、街のほうに歩きだすと雨が向きを変える。泥が瞳にしみる。


 怒りのように固い路面に礫が突き出ている。犯罪者の欲望のように路肩はえぐれ、崩れている。人の努力不足を呪う泥水が道にぬかるみを作る。隠れたり、背中を向けたりしながら人目をやりすごし夜野は露天の売り物と確かめる。Emuを胸にきつく抱く。革命装置の部品を売る廃材店を見つけるたびに夜野は盗んだ紙幣を見せる。言葉を選びながら事情を説明する。

固太りした女店主が応える。

「化け物も悪魔もお断りよ。この場所は本土に見捨てられているけれど・・・ヤツフサよ、その気持ちは変わらない。離れなさい。中には、耐えきれない人もいる」

灰色のエプロンで濡れた手で拭う。あかぎれの痕が回路のように手の甲に浮かんでいる。男たちが手ずから武器を手に集まってきて魂を濯ぐ、正義の暴力の準備を始める。

 何度も、同じようにあしらわれる。夜野は疲労をその両足で支える。途方にくれ、雨が灰色を増す。

 ー慣れたこと。人の内にいることは、わたしはできない。ハイアードにはー

 叩きのめされ、容赦ない罵倒が胸に詰め込まれて、満杯になる。陽が落ちる。夜の細い腕が忍び寄る。立ちすくんでいたら、凍えてしまう。次の天幕へ夜野は歩みよる。


 疲労の混じった雨のしずくが頬を伝う。孤独のままに一粒が地面に落ちる。飛沫が消える。入り口をくぐると奥の丸椅子で店主はヤツフサの配給新聞を読んでいる。夜野は棚の電池に視線を走らせる。店主はカウンターに新聞をほうり投げ立ち上がる。大股で歩み寄ると手にした棍棒を夜野の頭に向けて振り下ろす。先端が頭皮をかすめる。波打った汚れた髪の隙間から卑しい忠告のように細い血が流れる。

「電池がほしい」

夜野は低くつぶやく。土間に血雫がぱらぱらと散る。

「盗みのほうがまだましだな。品物に匂いがつくんだよ、ハイアードがいるとな・・・この戦争にたまたま役にたったから生かしてもらってるだけの生者もどきがよ」

棍棒で地面をたたく。つま先を動かしながら貧乏ゆすりを続ける。

 うつむいたまま夜野は店主にEmuの動作不良を訴える。少し前まで動いていたこと。天板が凹んで部品がゆがみ、電気が漏れた、と。店主は不安げに頬を搔きむしり棍棒を高く振り上げる。夜野はぐっとほぞを噛む、棍棒を振る。受け止めると、胸の痛みが走る。ねじり上げると、店主の手首が不自然に曲がる。棍棒が床に落ち乾いた音を立てる。

 店主は腕をおさえる。夜雨の冷えた空気の中、息が黴の胞子のように白い煙を上げる。そのとき、ぬっと大きな影が夜野の後ろから伸びる。天井に吊るした室内灯が影に隠れる。人の形をした巨影。人の平均の2倍は近い長身だ。夜野は振り向くと視線の眼前に彼の腹が見える。生地が伸び切って腹の肌が覗いている。

「売ってやれ」

男の声は湿気っている。低い声が日暮れの雲のように上から降ってくる。店主はその巨人を見上げる。開襟に縦横のミミズ腫れを認める。真っ赤な湿疹が虫の卵のように浮かんでいる。

「手間はないだろう、売るんだ」

無造作に右手をあげ、大男はカウンターをたたく。ズシン、と柱が揺れる。男の鼓動が夜野には聞こえている。厚い腹が不随意に拍動している。生ぬるい粘ついた息が流れ落ちている。店主は後ろ手に電池を探り出しカウンタに載せる。握りしめていた紙幣を夜野はカウンターに差出し、電池をコートの内ポケットに抱え込む。背を向けてすれ違いざま大男は短い首をまげて小さく会釈する。夜野は唇を動かす。けれど、声は出なかった。


「ありがとう」

夜野は街を離れてからつぶやく。声の調子と大きさを確かめる。大男の首筋の太い頸動脈が目にうかぶ。成人の人刺し指ほどの浮き出た血管が拍動していた。

「どうしてよくしてくれたか、わからない」

とぼとぼと歩きながら夜野は停止したEmuの天板に触れる。


 橋のたもとの焚火を戻す。高台に続く坂道が炎の向こうで揺らめいてる。夜野は大男がその坂を歩いてく姿を認める。うっそうとした森の向こうタイル張りのドームの石屋根が覗いている。男はゆっくりと肩を揺らしながら坂を上っていく。


 天板を外してひっくり返すとEmuの体の内側で焦げた虫がはらはらと石の上に散らばる。夕暮れをすぎて焚火の明かりが歌のように長く天に伸びる。その明かりを頼りに夜野は配線を確かめる。電源基盤をはずし電池の入れ替える。第二世代までの革命装置は既存品が使える。繋ぎかえて、再起動を待つ。本体がほんのりと熱を発する。が、動きだす気配はない。視界がゆがむ。頬が熱くなる。


【Emu】


おい、俺はここで終りか。特別なカタルシスも無し。漏電して、過電流で消滅した。

つまらない。

・・・いいや。変だろ・・・

あれこれ考えている今の俺はなんだ。霊魂か心霊に変体か。演算の寄せ集めがか。

生きて考えている。電力が戻った。故障した通信処理をスキップしろ。雑なセンサなんざいらねぇ。よしよし、起動できる。


 夜野の野郎か。また、放心してやがる。

「おい、何をほうけてやがる」

Emuは起動途中のちらつく画面に寝ぼけた表情をつくる。夜野はぱたぱたと枯れ葉のような手で彼の天板を叩く。鉄板がガタつきひっかかっていたねじが転がり落ちる。夜野はそわそわとあたりを探る。

「ねじなんざ俺の主要部分とは違うんだろうが。大丈夫だ」

Emuは夜野の膝から飛び降り焚火の周りをゆっくりと一回りする。腕を伸ばし拳を開いたり閉じたり繰り返す。動く、生きて、問題ない。

「電池を買った。お金がなくなった」

「そりゃあよかったな」

Emuが応える。

「金はただの紙切れだ。おい、俺もお前も金儲けのために生まれたんじゃない。そうだろ?」

Emuは自分の充電具合を確かめてから夜野の隣で車輪を止める。夜野の頬を拭う。



【絽公謝】


 ひび割れたコンクリートの坂道が尽きる。泥の道にかわりぬかるみに足をとられる。中腹の保養施設の廃墟の先からは砂利と木の根の浮いた山道が続く。やがて獣道にかわる。霧が深くなる。袖口に病のようなシミで濡れる。汗が暴力のように噴き出ている。気温は低いのに体の熱は逃げない。巨躯を振る合わせた男は拳を握りさらに顎に力を込める。研究所のぴかぴかしたドーム屋根を見上げる。奥二重の瞳を男はまぶしげに細める。


 歯の根の震えを抑えながら壊れた自動ドアをこじあけ男は中にはいる。

石油ヒータで温められ空気が老いたエントランスに満ちている。突き当りの研究室のドアを押し開け、男は買い物袋をデスクの上に乗せる。うん、と老人が応え白衣のすそで水滴をぬぐう。体はかしぎ左腕はだらりと垂れ下がり不自然にしぼんでいる。

「にやけているな。市で何かあったか」

戦争が自動的になる前の建築だ。むき出しの鉄筋の壁が古みひび割れている。人の同情を魅こうとしている。

「何もない。いつも通りだ」

大男は首を振る。上着から衣擦れの音がする。雨音が天井を叩いている。彼らの研究を非難している。老化した生物の臭いが堆積している。切り取られ、うごめく細胞の臭いが充満している。人造生命の研究を非難するその異臭が、低い靴音のように室内を徘徊している。

老博士は不自由な左手を右手で持ち上げ机の上に乗せる。左腕はしおれ、首筋まで皺になっている。口元がひきつっている。無軌道な微笑みをつくっている。


 老博士は自分の研究が成功したことを確信する。気胸でつぶれた肺が痛む。人造生命は眼下の市を見下ろしている。探しているのだ、ハイアードを。

「休むといい。絽謝、我が息子よ。よくもどった」

老博士は彼を促す。隣の処置室へと。



【Emu】


封筒に驟雨が触れている。

「中身を見て内容を覚えちまえよ、濡れるだろ」

宛先に見いっている夜野の横で、Emuは車輪を揺さぶる。パネルが音を立てる。雨音がミシン掛け仕事のように橋板を叩く。ハタハタと雨粒が散る。

「他人の手紙は見れない」

「理屈はそうだろがよ、拾ったものだろ」

手紙は意思の表れだ。送り手の感情に触れる。巻き込まれる。俺はご免だ。一人きりだったら、破って捨てたろう。

「油紙は大丈夫。急いで宛先のところまでいく」

夜野は立ち上がり、懐に手紙を戻す。焚火の熱が遠くなる。血管が冷えていく。

「そう、違う。お礼をしないと。電池の」

夜野は腰を下ろす。あの人のところへ行かないと。眉間に皺をよせる。

「礼?誰に?」

Emuがあっけにとられた表情を作る。夜野は丘の上のドームに指を向ける。雨の雫が彼女の指をかすめる。

「買い物。わたしには難しい。通りかかりの人が。口をきいてくれた。それで電池を買えた」

「無駄なことしやがって、頼んじゃいねぇ。電気が切れたら消える。それが第二世代だ。余計なことだろ?」

「違う。わたしはEmuが治ってよかった」

焚火の元で回路が修復されいく。プログラムロジック回路の迂回路を探すコードが活性化する。

駆動回路が正常化する。立ち上がった夜野は、河原の丸石を強く踏み歩き出す。ドームの端の雲が淡い朝日に染まる。


 石油トラックが二人の横を通り過ぎる。過去を顧みない曇り空が雨を抱えている。跳ねた泥をEmuは腕を回して弾く。夜野はEmuに頭をさげる。

「気にするな。自動反応だ、プログラムだぜ俺は」

Emuは応える。夜野はうなずく。冬の冷気が深くなる。息が白くなる。いつの間にか夜野は小声で何かのメロディを口ずさんでいる。

「北の国の歌だな。どこで覚えた?」

Emuが尋ねる。羽音のようにかすかに口元から漏れている。夜野は首をかしげる。

「ずっと前。助けてくれた人が教えてくれた」

鼻歌を続ける。雨が冷たくなっていく。息が白くなるころ、夜野は口をつぐむ。沈黙が続く。


 建物入り口は錆びた鉄門は固く閉ざさてている。入館狩りモニタの釦を押すと劣化した樹脂が割れ破片がばらばらと落ちる。

「壊れた」

「見りゃわかる。もともと具合が悪いんだろ」

Emuが門を揺さぶると鍵がはずれバタンと奥に向かって倒れる。

「カメラ。挨拶」

「無駄だって電気がつうじてねぇよ。急ぐぞ。お礼なんだろさっさと済ませろ」

「まって」

エントランスへ向かうEmuを引き止め夜野はあたりを見回し植え込みに野菊を見つける。摘み取ろうとしてやめる。補助脳の公開領域に写した写真を保存して引き返す。これで代用する。お礼はこの画像を渡そう。


【夜野】


 曲面ガラスの入り口の先に人影がたたずんでいる。白衣の老人が杖を片手に傾いでいる。白衣には薬品の焦げ跡と垢が浮かんでいる。陰った日差しに老人は飲み込まれる。左手が揺れている。影と日向を行き来する。しなびて骨がない腕。自動ドアが軋んだ音を立てて開く。


ー気分の悪い建物だぜ。研究施設か・・・革命装置系じゃないな。人造生命研の派閥だなー

Emuの声が頭の中で響く。夜野は眉間に皺を寄せる。補助脳に通信が届いている。

ーごちそうしてくれるって言ったー

夜野は補助脳の音声モジュールの音量を調整して応える。

ー食い気か?俺には得がねぇな。おい、音でかいか?ー

ーわからない。お礼するだけにしたい。・・・あなたの声はやかましいけど、大丈夫ー

ー・・・やかましいか。悪かったなー

Emuが鼻歌をつくる。声を小さくしていく。夜野はよくなった、とつぶやき、目を伏せる。


 南窓に面したホールに続く道の端で壊れたコインゲームの画面が壊れている。天窓から注ぐ曇天の元でゲーム達おとなしく口をつぐんでいる。

突き当りのドアの前で杖を叩くと引き戸がスライドする。

「職員食堂で済まないがね。勤め人がわたしだけになっても、稼働はしている。外よりはよいものが食えるよ」

夜野はうなずく。老人の顔色を上目で確かめる。老人は共生菌に対する反応が鈍い。

「背の高い、大きな人が助けてくれた。お礼が言いたくて」

「聞いているよ。絽という。わたしの唯一の自慢だよ。実に風変りな、特別なものたちに出会ったと」

夜野はひっそりと室内を探る。だだっ広いフロアだ。鉄骨の柱が規則正しく並んでいる。仕切りはない。ワックスがてかてかしている。

老人の白衣がぺなぺなになっている。油ぎった床で靴底が音をたてる。夜野はうなだれながらついてく。

「いいえ、わたしに特別なところはなくて・・・。ただ壊れてしまっているところが。・・・いいえ、違って。挨拶とお礼がうまく言えないから」

 口ごもる夜野。南窓の面した長いテーブルに女中が二人、食事を並べている。均整の取れた骨格。すらりと伸びた手足。やせ細り、ほほがげっそりこけている。蒼い肌に表情が氷ついている。

 たびたび老人は床から飛び出したアンカーボルトに躓く。そのたびに夜野とEmuは彼を支える。

「すばらしい。実に優れた革命装置だ。それにハイアード。意志を持っているかのようだね。それえが真実の意志ならば、わたしの研究はまったく意味がなかったよ。自動的に進展し進化する戦争の前では、人の意思はちっぽけだではないか。わたしはまったくの失敗者だな」

微笑みながら老研究者は頭を下げる。頬がたるみ皺がより、その瞳からはたはたと涙が堕ちる。

「気の毒」

夜野は彼と距離をとる。力にはなれない。長居できない。じきにハイアードの影響にのまれてしまう。

「すまないね、付き合っておくれよ。外の様子を聞きたいんだよ、ずいぶんと長くここから出ていないものだから」

杖の先のゴムが地面をこする。

ー病院あとかと思ったが。嘉陽の研究施設だ。用心しろよー

Emuがつぶやく。老人が椅子に腰かけ杖をテーブルの端にかける。

「あの子も気難しい年ごろだ。拗ねているんだが、なに。すぐにくるよ」

年老いたまつ毛がとじられる。瞳が疲労する。

ー親切にしてくれる。まだ、わたしの影響も大丈夫・・・だと思うー

ーこいつらの人好きと信念はべつだぜ。研究者は危険ってはなしだー

Emuが応答する。

 錆びの浮いたワゴンを押して女中達が料理を並べていく。足跡がリノリウムの床に残る。女中の体から何か、透明な液体が漏れている。

「祈りは必要かね?宗派によっては」

老人が尋ねる。低い呼気が漂う。夜野はその匂いをしっている。わたしたちの製造場の匂い。肩がこわばる。


【老博士】


 老博士の骨のない左腕が紙くずのように揺れる。袖口がワイングラスにふれる。目がくらみ食欲を隠しながら、夜野は丸パンをかじり、水を飲む。

「この施設は人工中枢研究所といってね。脳神経の部分再現を目指していた。その再現された神経節を元の部分とまるごと交換するんだ。生体培養して模造人類を作り兵隊として育て上げるよりもひろってきた孤児の中枢を交換したほうが・・・効率はよかったはずだがね。創造人と呼ぶ仕組みだ」

夜野は老人の話に耳を傾ける。親身な話しぶりとあくなき探求心がカチカチとフォークと食器とのぶつかる音と混じり耳をこする。不意に、夜野は手を止める。場違いな匂いだ。ここに漂っていた病と消毒剤の匂いじゃない。

「どうかしたかな?」

老人が微笑みがひきつる。黄色い歯が見える。夜野はうなずく。柔らかな臭気はこの場所に似合わない。乳飲み子だ。

「孤児はいくらでも手に入った。順調に出荷された。だが結果が伴わなかった。投入された創造人達はどういうわけか・・・巡礼渇望に飲まれる。勇ましく突撃していた者たちも10日も持たない。革命装置のノード工場を故郷と思いこむのさ。まったく、縁もゆかりもない革命装置達の材料になりたがる。おかしなものだ。彼らの生まれ場ではない」

老人が夜野をねめつける。瞳に蛍光管の光が真っ白に反射する。

「あの子だけだ。成功したのは。わたしのところに帰ってきた」

スープの雫に蛍光灯の明滅が反射する。夜野の眉間の皺が深くなる。

「革命装置は進化する。あらんかぎりの人の情熱と知能をあざ笑って追い越していく。駆動して10年でこの国のあらゆるところを這いまわっている。だが、我々もまた生き物だ。彼らに嫉妬し追い越そうとするのだ。息子は再調整したよ。装置を探し、ハイアードを探すように。そしてわたしに伝えた。復讐の期会を与えてくれたよ」

鉄筋の床を振動する。Emuが夜野の襟首をひっつかんで窓際に引きずる。目の前で倒れた木製の椅子の上に、真っ赤な肉体と影がまじりあった塊が降ってくる。破壊された椅子の屑から羊毛のシートがあふれる。夜野は首をすくめ、身を低くする。臆病な性質だ。

ー怯えんな。俺たちのほうがー

Emuの声が夜野の頬を撫でる。

ー好きにやれる、普通の装置とハイアードじゃねぇからなー

心音と呼吸がはやくなる。身をさらに低くし、夜野は針のように目をとがらせる。夜の矢のようにその姿が尖る。


【絽公謝】


 蛍光灯がじりじりと震え明滅する。絽公謝は割れた座面の半分を拾う。木の繊維が腿の肉に刺っている。血がある。屈んだ体の屈曲が心臓を圧迫する。大事なものをなくしたように不安だ。全身が震える。コーヒーカップが床に落ちる。顔を上げると、怒りがこみ上げてくる。見知らぬ怒りだ。抑えることができない。あふれこぼれている。

「わたしが作り上げた創造人の傑作だ。たった一つのわたしの成功だ」

老人はワイングラスに手を伸ばす。その手が空をきる。取りつくろうように笑う。

ーわからない。私のせい?ー

ー理解しても、得はねぇよー

ーだけど、ここの薬品の匂いは知っていて・・・ー

ーそうかい。予想はつくな。ハイアードをぱくって、孤児を改造したんだなー

絽公謝の眉間に太い血管が浮かぶ。瞬間、彼の体はまたしても宙を舞う。夜野は歯の根をあわせる。奥歯の凹凸が合致し、刺激が脳天を駆る。伸びてくる絽の腕に目を据える。血管が紫に盛り上がり脈打っている。一歩下がった鼻先を彼の拳がすぎる。薬の染みた肌の匂い。絽はたたらを踏み、ひざまずく。絽の腕の汗腺から血の粒が浮かぶ。土汚れを溶かし流れていく。棚の柱をねじ切ると絽はそれを正面に構える。足がもつれ倒れ込む。狭まった気管を通過する息がヒューと音を立てる。

「設計はシンプルだ。革命装置はヤツフサの人間を根絶やしにする。世代を重ねノード工場を増やしながら進化していく」

老人が荒々しく叫ぶ。絽公謝の近くに立ち背中を右手でさすり、乾いた唇を舐める。

「資本主義感染菌の狡猾な増殖に従順なヤツフサ人は毒された。遺伝子レベルで変容した人ならざる怪物に変わった。もはや資本感染菌の奴隷人種だ。滅ぼさねねばならない。わたしは革命の熱に浮かされて研究の道に入った」

老人は愛おしそうに絽の背中をさすっている。血管にふれるとぷつぷつと血が流れる。

「だが、革命装置は党大会の決議に従わない。それは、人の国体を揺るがす仕組みでもある」

垢で汚れた赤い手に絽の体液が滴る。

「その点においては、ヤツフサは優れていたよ。ハイアードを無尽蔵に送り込んでくる。が、その存在はヤツフサの民の嫌悪対象だ。共生菌が嫌悪感を植え付ける。悪魔、生物の汚点、細菌や堕落。なくなってせいせいするゴミだ。戦争が続くほどにヤツフサ人の心は晴れわたる。ハイアードの突撃と全滅は彼らの娯楽だ」

絽の息が細くなる。

「ハイアードがあるかぎりヤツフサ人は戦争を悔まない。罪の意識も持つことはない。護国の英霊に畏敬の念など覚える必要もない。争いの虚しさを感じることも、獣性を飼いならすこともない。娯楽が増えただけの平和な世界、それがヤツフサだ。資本感染菌に命を急かされながら、ハイアードの死に歓喜する」

白衣のポケットから老人はアンプルを取りだし絽の横腹に突き立てる。

「ハイアードがこの街を滅ぼした。避難バスの中で誰も彼も焼けた」

稲光のようにぎらぎらと輝く、黄色い液が飲まれていく。

ーわたしがそうした・・・ー

夜野は胸のうちでつぶやく。記憶はない。だが、補助脳が疼いている。

ー知るか。やることはかわらない。俺も夜野も、今を生きてんだろー

目の前で、赤黒い暴力が呼吸している

「絽さんは普通に生きていた」

夜野は声を絞り出す。

「普通ではない。あれはわたしの信念を背負ってい生きているのだ」

絽公謝が体を起こす。彼の太い親指の間から汗が粒になって溢れる。

「優しい子だ。君らの見たこと隠そうとしたよ。戦いたくなかったのかもしれない。親に隠せるものでもないだろうに。だが、ハイアードよ、わたしには貴様を呪う権利がある」

夜野は首を小さく振る。胸に腐敗のような痛みがいる。正せない過去がうごめく。補助脳の記録。

「妻は柱と食器棚に圧し潰されていた。娘はひどいやけどをおった。雨が染みて痛いと泣いていた。わたしは自分の体を包んだ。娘の震えは止まらなかったよ。街が燃え残りになるころには・・・」

絽公謝の顔に影が満ちる。

「私の焦燥を・・・絽に与えるのだ。それが創造人の特性はそれだ」

「もたもた話がなげぇんだよ」

絽の様子を確かめるEmu。バイタルサインはめちゃくちゃだ。心臓の拍動に体が負けている。今なら、まだやれる。Emuは電圧コンバータ回路を起動する。鉄のアンカーボルトは絽が踏んでいる。天井の鉄骨のペンキは錆びて剥がれいる。

 Emuのマニュピレータの表面遷移がはじけとぶ。放電が走り、絽の体をの表面を青白く染める。



【夜野】


 夜野は目をこらす。届けるべきものがった。お礼の野菊の画像を通信を届ける。そうすれば彼の性根が反応する。通信経路を探る補助脳が熱くなる。痛感が脳天を突き抜け頭蓋骨がとけるようだ。「ごめんなさい、本当は・・・」

絽さんに、お礼を言いにきた。助けれくれたのだから。声を飲む。

それでも、老人のいびつな情熱も真実だ。人の、本当の人間の、心底の叫びだ。


 絽は電撃の影響で全身が真っ赤に腫れている。怯まず、身をかがめ突進してくる。刹那、突き出した鉄骨が夜野のこめかみすれすれを過ぎる。踏み込んだ夜野のコートが跳ね、重ねた両腕が絽の突進方向と真反対に突き出される。絽の左胸と夜野の掌底の接面からバンと乾木が爆ぜるような破裂音が響く。反動をブーツの底にで受け止める。もがき倒れる絽から夜野は飛びのいて膝をつく。絽の体が痙攣しうめき声が続く。

Emuの円筒の体がふらふらと左右に揺れる。横倒しに夜野の足元に転がる。放電が丸焦げの指の間で続いている。

「よくやった」

Emuの声は放電の電子ノイズでざらついている。

「・・・言い訳は・・・わたしはできない・・」

言葉はまだ足りない。故障して意識を取り戻した日から、覚えた言葉では。

「てめぇは、考えすぎだ。大丈夫だ」

不意に、夜野の補助脳がエラーを吐く。左肩の古傷の痛みを補完する処理が暴走し発熱している。夜野はしゃがみ込みEmuを胸に抱く。人と同じEmuの温度にすがりつく。


【老学者】


 声の無い涙が老人の頬を流れている。彼は息子の背中にすがりつく。遺伝子薬で極端に老化した肌。自分の体とは思えない固い肌に皺がよる。ほほ笑んだつもりだ。涙は意識外で流れている。誰のためにほほ笑んだ。長い挑戦の果てだ。だが。まだ、負けたわけではない。これが、及ばなかっただけのこと。私たちの不屈の願いはまだ消えていない。


【夜野】


 寒気が背中から影のように伸びる。意識を保て。訴える。触覚、肌と服の接触点が泡立つ。エラーのせいで視界がかすむ。と、その手が包まれる。Emuの左手が夜野の指に絡まる。ぐっと力が伝わる。肌の弾力が彼を感じる。臍を噛み、その痛みの熱で、視力を取り戻す。影が壁に揺れている。硝煙の匂いを感じたその瞬間、夜野は跳ね起きる。獣のように転がり跳ねる。その後を銃弾が追いかける。幼児の嬌声のように銃声が響く。給仕の女たちだ。食事を世話していた女達。脇に機銃を抱えて並んでいる。増えていく。

数えながら、物陰にすべりこむ。Emuが夜野に通知を送る。夜野は拳を握る。爪がささる。しわが裂ける。

「これで済むと思ったかね、ハイアード。絽だけではない、壊れたハイアードだ、拾って改造したんだ。何度も何度も解剖し試作につかった。見ろ、君の姉妹たちだ。突撃令に従う愚か者。バカげた死を笑いながら、戦果を稼ぐヤツフサそのものだ」

薬莢が床を叩く。自動戦争を続ける機械の歯車の音。人の嬌声のように。老人はいつの間にか機関銃を構えている。

「君らの死は、人にとっては極上の快楽だよ」

女たちが生命を結晶にした表情で走る。銃弾が夜野を追う。後ろから老人の鉛玉が飛ぶ。彼女たちの体を貫く。


【ハイアード】


 人を上回るもの。歪んだ名の通りだ。人を超える研究だった。

ハイアードだ。だから、夜野は人の誰よりも速く走る。尋常とは違う反射反応を見せる。女たちの銃弾は空を切り壁に跡を残し夜野の影を追う。銃弾が交錯する。女たちの互いの体を貫いていく。その後ろから、老人の銃弾が彼女ら追い撃っていく。命が尽きていく。死が自動的に生成される。蛍光管が割れる。明かり取りの窓の向こう、曇り空がにごって輝く。倒れた者たちの魂の抜けがらがその窓に引っかかる。室内が薄暗くなる。銃声がやむ。老人の荒い息とため息が残る。割れた窓から細い風が流れている。夜野は足をとめる。蹲り吐くようにうめく。涙が喉をつたう。

「息子を量産して野に放つ、わたしがこの戦争の真ん中に立つ。そのために絽は戻った」

涙の歪みの中、夜野は耳を澄まし目をこらす。うなだれた絽の姿は、慈雨を請う石像。その傍らの老人は偶像にすがる神父のようだ。

 とたん、神像の畳んだ膝が伸びる。体が巨大な槌のような塊になって地面を這い、目を見張る速度で夜野に突進する。


 夜野は床を毬のように跳ねすべる。死体の薄黒い体液と薬剤の赤い結晶のくずにまみえる。壁に衝突する直前、Emuの腕が彼女を抱きとめる。車輪をハの字にして勢いを止める。

ー俺はな、いつ死んでも、壊れてもどうでいいー

Emuは彼女を抱えて走る。棚の影に転がり込む。

ー後悔はない。電池が切れて終わる。唐突で無意味な通電が俺の本質だ。生きても死んでもただの電気回路だ。作り物は、止まっていても動いていても、生きる意味なんてないのさー

絽の動きを探るEmuの画面がせわしなく明滅している。

ー夜野。お前も俺と同じだと思っていた。生きてるなんざ、死ぬまでのただの暇つぶしだってな。けどよ・・・ー

Emuの腕の中で夜野が肩を喘がせる。もがき、体を折り、膝を折り、床に脚を立てようとする。

ー違うんだな。この世には意味がある、お前はそう思ってる。誰かとの出会いも託された願いも心無い言葉も、作られた自分のその性質も。逃げながら、お前は噛みしめてるんだな。それならよー

Emuが棚の影から躍り出る。

ーあいつは、俺が片付けるー

まって。

しゃがみ込んだ夜野の口元から出かかった言葉は、つぶれた喉の奥で消える。


【Emu】


 Emuは絽から距離を取る。こいつも、もう限界だ。夜野への突撃が最後のあがきだ。

見ろ、もう、棒立ちで暴れているだけだ。

留めをさしてほしいんだ。夜野がそうするつもりだった。そうはいかねぇぞ。

人に礼をしにきて、殺しあう。そんな話は、寂しいじゃねぇか。Emuは銃を拾い引き金を絞る。火線が伸び、絽の胸が痙攣する。静寂と残響が硝煙の匂いと混じりあう。


【夜野とEmu】


 夜半までその日の雨が続く。夜野は中庭に穴を掘る。土砂降りの中、雨を飲んだ軍用コートが重く、肩にすがる。亡骸を大木の根本に埋め、夜野は幹に墓標を掘る。


"絽家ノ墓"


そう記して夜野は手をあわせる。


ー考えすぎなんだ。お前はよ、夜野ー


Emuがそっと通信をつなぐ。夜野は小さくうなずく。しずくが顎をつたって落ちる。














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