第6話 もう一回、呼んで
墓地には、リラの姿がなかった。
フィンは今も花に囲まれて横たわっている。フティはその様子を確認すると、王宮の記録にあった少女の家へ向かった。
扉を開けたリラは、四人の姿を見ると嬉しそうに笑った。
「あ、フィンのお墓に来てくれた人たちだ」
「こんにちは、リラちゃん。今日は少し、お話を聞かせてほしいの」
オトキが微笑むと、リラは素直に頷いて四人を招き入れた。
「ねえ、リラちゃん。フィンくんが亡くなった日のこと、教えてくれるかしら」
リラは椅子に座ると、少し考えてから話し始めた。
「フィンね、血だらけで来たの。わたしが近づいたら倒れちゃって……でも、一度だけ目を開けて、リラって名前をくれたんだ」
そう言ったときだけ、少女の顔に微かな笑みが浮かんだ。
「でも、そのあと起きてくれなくなっちゃった。わたし、フィンって大きな声で呼んだの。そしたら、すごい音がして、街が壊れちゃった」
リラはそこで話を終えた。
「……そう。話してくれてありがとうね」
フティが場所を尋ねると、リラは墓地の門のすぐ手前だったと教えてくれた。フィンがどちらから歩いてきたのかも覚えているという。
四人は少女に礼を言い、もう一度墓地へ向かった。
◇
墓地に続く道を調べていると、崩れた石壁の陰に、血の付着した石畳が残っている場所があった。
「ここを調べよう」
エルティは左手の手袋を外し、石畳に手のひらを当てた。
崩れた壁の向こうに、半透明の街並みが浮かび上がる。失われた建物や人々の姿が、現在の瓦礫と重なるように現れた。
四人の前を、フィンが歩いていた。
墓地へ向かうその行く手に、王宮の紋章を付けた男が立ちはだかる。
「おい。またあそこへ行くつもりか」
「うん。約束してるから」
「何度言えばわかる。あの子には近づくなと警告したはずだ」
「なんで? あの子、悪いことなんかしてないよ」
「理由を知る必要はない。帰れ」
フィンは納得できない様子で男を見上げていたが、やがてその脇をすり抜けようとした。
「待て!」
男が腕を伸ばす。
フィンはその手を避けて駆け出したものの、追いついた男に腕を掴まれた拍子に体勢を崩した。
石畳に頭を打ちつける、鈍い音が響いた。
「あっ……!」
フィンはその場に倒れ、動かなくなった。
頭の下に赤い血が広がっていく。
男は慌ててしゃがみ込んだが、血に染まっていくフィンを見ると、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「おい……おい、起きろ!」
返事はない。
男は何度も周囲を見回し、しばらく立ち尽くしていたものの、最後にはフィンを置いて走り去ってしまった。
「ちょっと、何してるのよ……!」
オトキが思わず声を上げたが、幻影の男には届かない。
取り残されたフィンはしばらく動かなかったが、やがて片腕をついてゆっくりと身体を起こした。
頭から頬へ、血が流れ落ちている。
立ち上がろうとして一度膝をつき、それでもどうにか足を踏ん張ると、壁に手をついて歩き始めた。
「……行かなきゃ」
何度もふらつきながら、墓地の方へ歩いていく。
その姿が路地の向こうへ消えると、幻影も途切れた。
エルティが左手を離す。
「王宮の人間が関わっていたのね」
オトキの声には、いつもの柔らかさがなかった。
フティは血の残る石畳を確認すると、墓地の方へ目を向けた。
「次は、門の手前だ」
◇
墓地の門から数歩離れた場所には、周囲の崩壊に比べて不自然なほど原形をとどめた石畳が残っていた。
調査で見つけたリラの足跡と、何かを引きずった跡があった場所だ。
エルティはその中心付近にしゃがみ込むと、再び左手の手のひらを地面につけた。
王都が崩壊した日。
四人の前に、まだ壊れていない墓地の門が現れた。
そのそばに、リラがいた。
道の向こうを眺めていたリラが、やがて誰かに気づいて顔を輝かせた。
「あっ、フィン!」
駆け寄ろうとした足が、途中で止まる。
「……血が出てる! どうしたの!?」
フィンは返事をしようとしたようだったが、リラが目の前まで来たところで膝から崩れ落ちた。
「フィン!?」
リラは慌ててしゃがみ込み、身体を抱き起こそうとした。しかし、十歳の少女には重すぎる。
「ねえ、何があったの? 起きてよ、フィン」
何度も持ち上げようとしては失敗し、最後には地面に座り込んで、フィンの頭を自分の膝に載せた。
頭から流れる血が、リラの服を赤く染めていく。
それにも気づかない様子で、リラはフィンの顔を覗き込んでいた。
「フィン、ねえ、フィン。聞こえる?」
何度目かの呼びかけに、瞼がわずかに動いた。
「……あ」
「フィン!」
リラが顔を近づける。
「よかった! ねえ、血がいっぱい出てるの。どうしよう。痛い?」
フィンはぼんやりとリラを見つめていたが、やがて口元を少し緩めた。
「……会えた」
「うん。わたし、ここにいるよ」
何かを思い出そうとするように目を閉じかけ、もう一度開く。
「……名前」
「え?」
「考えてたんだ。……きみの、名前」
リラはきょとんとした。
「わたしの?」
「うん。……リラ」
フィンは小さく息を継いだ。
「リラ。……いい名前だろ」
「……リラ?」
リラはその音を確かめるように繰り返した。
「わたし、リラっていうの?」
フィンが頷く。
「うん。……リラ」
「……すごい」
リラの顔が、ゆっくりとほころんだ。
「すごい! わたし、名前ができたの? フィンとおんなじ、名前があるの?」
「……うん」
「リラ……リラ。ねえ、もう一回呼んで?」
フィンはリラを見上げ、かすかに笑った。
「……リラ」
「なあに?」
嬉しそうな返事が返る。
フィンはその声を聞いて、安心したように静かに目を閉じた。
「……フィン?」
リラはしばらくその顔を見つめていた。
「ねえ、フィン。もう一回、呼んで?」
返事がない。
「フィン?」
リラは肩を揺らした。
「ねえ、寝ちゃったの?」
何度呼んでも、フィンは目を開けなかった。
リラは辺りを見回した。
通りには何人かの大人が立ち止まり、二人の様子を見ていた。
「あの! 助けてください!」
その声に、大人たちがこちらを向く。
「フィンが怪我してるの! 血がいっぱい出てるの! お願い、助けて!」
一人の女性が足を踏み出したが、その前に王宮の紋章を付けた男が腕を伸ばした。
「下がれ」
「でも、子どもが……」
「近づくな」
女性は戸惑ったように男を見上げ、結局その場に立ち止まった。
「お願い! お医者さんを呼んで!」
男たちは互いの顔を見合わせている。
「助けてください! フィンが死んじゃう!」
リラは何度も頭を下げた。
「お願い……なんでもするから。フィンを助けて……!」
それでも誰も近づかなかった。
リラはフィンへ向き直り、その頬に手を当てた。
「ねえ、フィン。お医者さん、来てくれないの」
フィンは動かない。
「でも、きっと大丈夫だから。わたし、ここにいるからね」
リラはその手を取ると、自分の両手で包み込んだ。
指先を擦り、息を吹きかける。
「……冷たい」
もう一度、手を擦った。
「どうしたの? フィン、寒いの?」
小さな手を懸命に動かしても、冷たくなった指は温かくならなかった。
「ねえ……わたしの手、あったかいよ。ほら」
リラはフィンの手を自分の頬に押し当てた。
「……ねえ、フィン」
返事はない。
リラは顔を近づけ、何度も名前を呼んだ。
助けを求める声が小さくなっても、通りの大人たちは動かなかった。
「……フィン」
リラは頭を抱え直した。
「わたし、名前、もらったんだよ」
頬を伝った涙が、フィンの顔に落ちた。
「リラって……フィンが、くれたんだよ」
震える指で、フィンの頬を撫でる。
「ねえ、もう一回呼んでよ」
閉じた瞼は開かない。
「お願い……」
リラはフィンの顔を覗き込んだまま、ありったけの声で叫んだ。
「フィン!!」
その瞬間、地面が砕けた。
耳をつんざく轟音とともに石畳が跳ね上がり、周囲の建物が一斉に崩れ始めた。
壁が裂け、柱が折れ、屋根が砕け散る。すさまじい風が土煙と瓦礫を巻き上げ、破壊は通りの向こうへと広がっていった。
四人の目の前で、幻影の街並みが次々と形を失っていく。
サミが息を呑んだ。
だが、リラはフィンの頭を抱いたまま、動かなかった。
二人を中心とした直径一メートル半ほどの範囲だけが、周囲の破壊から取り残されていた。
すぐそばの石畳が砕け、壁が倒れても、二人のいる場所には瓦礫一つ落ちてこない。
リラの髪さえ揺れていなかった。
やがて轟音が遠ざかり、辺りに静けさが戻った。
街は、なくなっていた。
瓦礫に囲まれた小さな場所で、リラはフィンの顔を見つめていた。
「……フィン?」
もう一度呼んでみる。
返事はない。
頬に触れると、しばらくそのまま動かなかった。
やがて、リラはフィンの身体に両腕を回した。
立ち上がろうとするが、うまく持ち上げられない。
何度か試したあと、両脇に腕を差し入れ、少しずつ後ろへ引きずり始めた。
崩れた石畳を避けながら、墓地の門へ向かっていく。
小さな足が一歩進むたび、フィンの身体も少しだけ動いた。
「……こっちだよ、フィン」
リラは何度も立ち止まりながら、フィンを墓地の中へ運んでいった。
そこで、幻影が消えた。
◇
エルティが左手を離した。
四人の前には、崩れた王都が広がっていた。
つい先ほどまで聞こえていたリラの声は、もうどこにもない。
エルティは立ち上がったものの、いつものように軽口を叩くことはなかった。サミも手を止めたまま、墓地の門を見つめている。
オトキは何も言わず、ただ静かに涙を流していた。
フティは足元に残る石畳へ目を落とした。
フィンの負傷、名付け、助けを求めるリラ、そして王都の崩壊。
王宮が恐れていたのは、名前を与えられた救世主の暴走だった。
しかし、彼らが目撃したのは、名前をもらって喜ぶリラと、その直後に大切な友達を失う光景だった。
フティは手元の記録を閉じた。
「……見たものは、すべて記録しておこう」
サミが頷く。
しばらくして、エルティは左手の手袋をはめ直した。
四人はそれぞれの記録を確認し、現場の調査を続けた。




