第7話 名前だけ
翌朝、テントの中はまだ薄暗かった。
布越しに差し込む柔らかな光に目を覚ましたフティは、上着を羽織って外へ出た。
そこには、どこまでも続く草原が広がっていた。遠くには緩やかな丘が連なり、朝日がゆっくりと昇っている。もっとも、ここは実際の草原ではなく、サミの《保存》によって作られたチーム専用の空間だった。外の世界では、今も崩壊した王都が広がっている。
「おはよー、隊長。よく眠れた?」
焚き火のそばで湯を沸かしていたエルティが、片手を上げた。
「問題ない。サミは?」
「隣。朝飯を取りに行ったよ」
この空間には、時間が停止した通常の収納空間が隣接している。遺物や食料などを保管する場所だが、そこへ直接入れるのは能力者であるサミだけだった。
「待たせたな、我が同胞たちよ!」
何もなかった場所からサミが現れ、両手いっぱいの食料を掲げた。
「本日の供物は、焼きたてのパンと果実である!」
「あらぁ、ありがとう。じゃあ、みんなで準備しましょ」
オトキが食料を受け取り、手際よく朝食の支度を始める。
食事を終えると、フティは王宮から回収した資料をテーブルに広げた。その一冊をめくっていたエルティが、ふと思い出したように口を開く。
「なあ、二代目の話なんだけどさ。昨日、リラに何があったか見ただろ? だったら、二代目にも何かあったんじゃないかと思って」
フティは手元の資料へ目を落とした。
「王宮の記録には、五歳で力を暴走させ、周囲を壊滅させたとある。だが、その前に何が起きたのかは書かれていないな」
「そう、それ。リラだって、王都を壊したって結果だけなら同じような記録になるだろ?」
「そうねぇ。何も知らなければ、突然暴れたようにしか見えないもの」
オトキの言葉に頷きながら、フティは二代目の記録を改めて確認した。被害規模とその後の対策については詳しく残されているものの、事件が起きる前の状況については、ほとんど触れられていない。
「調べる価値はあるな」
◇
王宮地下の記録庫へ戻った四人は、二代目の時代に関する資料を調べ直した。今度は救世主の記録だけでなく、農業や人口、物資の流通に関する帳簿まで範囲を広げる。
「隊長、これ見て。二代目の時代、穀物の収穫量が急に減ってる」
サミが差し出した帳簿には、事件の三年前から収穫量が激減していることが記されていた。食糧配給の制限や難民の流入も確認でき、当時は深刻な飢饉が続いていたらしい。
さらに、民衆から王宮へ提出された嘆願書には、救世主による救済を求める声が繰り返し記されていた。
「初代と同じ奇跡を、二代目にも求めたのかしらねぇ」
オトキが呟くと、フティは嘆願書の日付を事件当時の記録と照合した。
災害発生日には、王都郊外の祈祷所で大規模な儀式が予定されていたという。参加者の名簿や物資の搬入記録も残っており、場所だけでなく、儀式の開始時刻まで特定できた。
「二百年前かぁ。かなりきついんだけど」
資料を確認したエルティが顔をしかめたものの、フティが無理をするなと告げると、肩をすくめて立ち上がった。
「わかってるって。でも、ここまで来たら見ておきたいだろ」
◇
祈祷所の跡地は、王都から少し離れた丘の上にあった。建物の大半は失われていたが、古い地図と地形を照合すると位置が一致したため、オトキが崩れた石材の一部を修復し、かつて入口へ続いていた階段を露出させた。
エルティはその前にしゃがみ込み、左手の手袋を外した。
「事件当日。二百年前の、儀式が始まる頃……」
手のひらを石段に押し当てると、やがて周囲の景色に半透明の建物が重なり始めた。崩れた基礎の上に柱が現れ、屋根が形を取り戻す。
祈祷所には大勢の人間が集まっていた。
痩せた男たち、やつれた女たち。幼い子どもを抱えた者もおり、誰もが疲れ切った顔をしている。
その中心に、五歳ほどの子どもが立っていた。すぐそばでは女がその肩を抱き、男が二人を庇うように人々の前に立っている。
「これが……二代目か」
フティが小さく呟いた。
「お願いです! この子には手を出さないでください! まだ五つなんです!」
女が必死に訴えたものの、人々は足を止めなかった。
「救世主なのだろう! 初代は世界を救った! ならば、この子にもできるはずだ!」
「もう誰も飢えたくないんだ!」
「この子を捧げれば、神が雨を降らせてくださる!」
次々と声が上がる中、男は子どもを抱き上げ、祈祷所の出口へ向かおうとした。しかし、行く手を塞いだ数人に取り押さえられ、腕の中から子どもを引き離されそうになる。
「いやっ! おとうさん!」
子どもが泣き叫んだ。
男は必死に抵抗したが、背後から振り下ろされた刃を避けることができず、抱いていた子どもを取り落として倒れた。
「あなた!!」
女が駆け寄ろうとすると、別の男がその腕を掴んだ。子どもは倒れた父親へ手を伸ばし、何度も呼びかけている。
「おとうさん! おとうさん、起きて!」
女は掴まれた腕を振りほどき、子どもの前に立ちはだかった。
「お願い、もうやめて! この子だけは……!」
言い終える前に、その身体も刃に貫かれた。
「おかあ、さん……?」
女は子どもに手を伸ばしたまま、ゆっくりと倒れた。
子どもは動かなかった。
「……おかあさん?」
返事はない。
「おとうさん……?」
小さな声が、再び両親を呼んだ。
その足元で石に亀裂が走り、祈祷所の柱が軋み始める。異変に気づいた人々が逃げ出したが、次の瞬間には建物全体が凄まじい衝撃に呑み込まれた。
石が砕け、柱が折れ、人々の姿が崩れゆく建物の中に消えていく。
最後に見えたのは、倒れた両親のそばで泣き続ける、小さな子どもの姿だった。
そこで映像が途切れた。
「……っ、はぁ……!」
エルティが石段から手を離し、その場に崩れ落ちた。オトキがすぐに身体を支えると、サミも慌てて水筒を差し出す。
「いやぁ……二百年前は、やっぱ駄目だな。頭が割れそう」
軽口を叩く顔はひどく青ざめており、フティはしばらく調査を中断して休息を取ることにした。
◇
王宮へ戻った四人は、当時の救助隊に関する資料を調べ始めた。
災害翌日に救助隊が派遣されていたものの、公式報告書には現地到着、生存者の捜索、上官命令による撤退としか書かれていない。
「隊長、こっちに当時の救助隊の名簿があるよ。活動日誌も残ってる」
サミが見つけた日誌には、現地での状況が詳しく記されていた。
祈祷所は消失していたが、破壊の中心で子ども一名の生存を確認。目立った外傷はなく、救助隊員が近づくと、助けを求めるように手を伸ばしてきたという。
しかし、再び力が暴走することを恐れた上官が撤退を命令。隊員の一人は救助を申し出たものの、許可されなかった。
次の記録には、約一か月後の日付が記されていた。
立ち入り禁止が解除されたため、再び祈祷所を訪れたらしい。
そこには、わずか数行しか残されていなかった。
子どもは、まだあの場所にいた。
雨水を溜められる石の窪みはあったが、食べられるものは何もなかった。
階段の下で、小さく身体を丸めていた。
すでに息はなく、ひどく痩せていた。
最後の一行は、ほかの文字よりも強く紙に刻み込まれていた。
――あの子は、飢えて死んだ。
オトキは静かに目を閉じ、サミは日誌を持つ手に力を込めた。エルティも黙ったまま、古い紙に並んだ文字を見つめている。
フティは隊員の氏名と日付を名簿に照合すると、日誌を保護用の包みに収めた。
「重要な一次資料だ。原本を回収する」
サミが《保存》を使い、日誌と関連資料を収納した。
◇
続いて四人が調べたのは、王宮の記録に残されていた制約魔法だった。
この世界では、生まれ落ちた瞬間に共通の制約が課されるほか、特定の人物には別の制約が追加される場合もあった。
リラの乳母だったマーサも、乳母になる前に名前やあだ名を与えること、自身の身の上を話すことなどを禁じられていたが、誰がその制約を施したのかは記録されていない。
「こっちの共通制約にも施術者が書いてないよ」
サミが別の文書を示すと、エルティも首を傾げた。
「そもそも、この世界の連中は基本的に魔法を使えないんだろ? なのに、二百年もこんな仕組みが動いてたのか」
王宮が制度として利用していたことはわかるものの、魔法そのものの由来を示す資料は見つからなかった。
ただ、記録庫の奥からは、出生時の共通制約に関する術式が刻まれた石板が発見された。一部が欠けていたため、オトキが《修復》を使うと、表面の複雑な図形と文字がつながっていく。
「術式を記録する。石板と関連資料も回収だ」
サミが記録を保存し、石板を収納する。マーサへの追加制約については施術記録しか残されておらず、術式そのものは発見できなかった。
回収を終えると、フティは現在も世界中に作用している共通制約を対象に定めた。
「《消去》」
音も光もなく、魔法が消えた。
フティは処置内容を記録し、手帳を閉じた。施術者も詳細な原理も不明のままだが、解析は機関の専門部署が担当することになる。
◇
調査を終えた四人が墓地へ向かうと、リラはいつもの場所でフィンの周りに花を並べていた。
「あ、こんにちは!」
「こんにちは、リラちゃん」
オトキが声をかけると、リラは嬉しそうに手に持った花を見せた。
「今日はね、黄色いお花も見つけたの。フィン、黄色も好きだったんだよ」
墓の周囲には色とりどりの花が並び、枯れたものは丁寧に取り除かれていた。
フティはリラの前にしゃがんだ。
「リラ。君には、俺たちと一緒に来てもらう」
「どこに?」
「ここではない場所だ」
「遠いの?」
「ああ」
リラは困ったようにフィンの方を振り返った。
「でも、わたし、明日もお花を持ってこなきゃ」
フティが答えずにいると、リラは少し考えてから、手に持っていた最後の花をフィンのそばに置いた。
「フィンはここにいるから、わたしもここにいたいな」
オトキがわずかに視線を落としたが、フティはサミを呼んだ。
「回収を」
「……了解」
《保存》が発動すると、リラの姿が消えた。
時間停止型の収納空間には、通常、生きた生物を収められない。しかし、リラは何の問題もなく収まっていた。
「対象はバグだ。確認できたな」
フティが記録を取ると、サミはリラを再び取り出した。時間が停止していたため、本人には何が起きたのかわからないらしく、不思議そうに瞬きをしている。
「リラ。少しだけ目を閉じてくれるか」
「どうして?」
「すぐに終わる」
リラが素直に目を閉じると、フティはその額へ手を伸ばした。
回収したバグは、元の世界への執着による抵抗や逃走を防ぐため、特務機関へ引き渡す前に記憶を消去する。名前も含め、すべて消すのが通常の処置だった。
フティは一度だけ、花に囲まれたフィンへ目を向けた。
「《消去》」
マーサの優しい声も、墓石を磨いた日々も、初めてできた友達と交わした約束も、リラの中から失われた。
やがてフティが手を離すと、リラはゆっくりと目を開け、見知らぬ墓地と四人の顔を不思議そうに見回した。
「君の名前は?」
リラは少し考えるように瞬きをしてから、答えた。
「リラ」
「そうか」
フティは静かに頷き、サミへ目を向けた。
「回収を」
再び《保存》が発動し、リラの姿が消えた。
墓地には、フィンと、リラが摘んだ花だけが残された。
***
特務機関の執務室で、男が回収報告書に目を通していた。
調査資料と回収対象の引き渡しはすでに完了しており、向かいには任務を終えたフティが立っている。
男は処置記録の一行で手を止めた。
記憶消去、完了。ただし、対象の識別名のみ保持。
「名前だけ残したのか」
「はい」
男は報告書から顔を上げ、フティを見た。
「お前もまだ甘いな」




