第5話 名前のない少女(過去編)
少女が最初に覚えた言葉のひとつは、「ばあや」だった。
朝、目が覚めると、窓の向こうで小鳥が鳴いている。寝床から抜け出して台所へ行けば、いつもばあやが朝食の支度をしていた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「うん!」
少女はばあやの腰に抱きつき、そのまま離れようとしない。ばあやが鍋をかき混ぜようと一歩動けば少女も一緒に動くので、朝食を作るだけでも随分と時間がかかった。
ばあやは白髪の年老いた女性で、少し曲がった背中を伸ばしながら家事をしていた。少女はそんなばあやの後ろをついて歩くのが好きで、掃除をするときには小さな布を持ち、洗濯をするときには籠から衣類を取り出して手伝った。もっとも、せっかく洗った布を地面に落としたり、床を拭いている途中で眠ってしまったりと、手伝いになっているかは怪しいものだったが、ばあやはいつも嬉しそうに褒めてくれた。
「ありがとう。助かったよ」
少女はその言葉が大好きだった。
昼食のあとは窓辺の椅子に座り、ばあやの膝の上で絵本を読んでもらった。森で暮らす兎の話や、雨の日に家を探す小鳥の話。どれも短いものだったが、少女は同じ話を何度も聞きたがった。
文字を教わるようになると、少女は覚えた形を紙に書いては見せに来た。上手に書けたと褒められると嬉しくなり、今度は机の上に指で文字を描いてみせる。そうして少しずつ、一文字ずつの読み方も覚えていった。
決まった日には食べ物や薪、衣服などが届けられ、ばあやが玄関で受け取ると、少女も小さな身体で運べるものを台所まで運んだ。
季節が変われば庭に花が咲き、夏には虫が増え、冬には窓の外が白くなる。寒い夜はばあやの寝床に潜り込み、暑い日には庭先で水遊びをした。
四歳になった頃には、ばあやの膝の上も少し窮屈になっていた。
「もう大きくなったんだから、自分の椅子に座りなさい」
「やだ。ちょっとだけ」
結局、少女はその膝の上で満足そうに笑い、ばあやもまた、小さな背中をゆっくり撫でていた。
◇
少女が五歳になった冬、ばあやは寝床から起き上がれなくなった。
何日経っても良くならず、ときどき訪ねてくる人が薬を置いていっても、ばあやはますます痩せていった。
少女は教わったとおりに水を汲み、暖炉へ薪を入れた。鍋を火にかけることも覚えたが、ばあやのようには上手に作れず、スープを焦がしてしまったこともある。
「ごめんね。失敗しちゃった」
「いいんだよ。次はもう少し火を弱くするといい」
「明日は上手に作るね」
「ああ、楽しみにしているよ」
ばあやはそう言って笑った。
少女は毎日、寝床のそばに椅子を運んで座った。絵本を読んでもらうことはできなくなったので、今度は自分が覚えている話を聞かせ、途中で言葉に詰まると、ばあやが小さな声で続きを教えてくれた。
春になったら、また一緒に庭へ出たい。
花が咲いたら見せてあげよう。ばあやが元気になったら、今度は自分が椅子を運んであげよう。
そう考えていた。
春が近づいたある朝、ばあやは目を覚まさなかった。
少女は何度も肩を揺すり、朝だから起きてほしいと頼んだが、返事はなかった。やがて家を訪ねてきた大人がばあやの様子を確かめ、もう目を覚ますことはないのだと説明した。
ばあやは家から運び出され、近くの墓地に埋葬された。
少女は大人たちの後ろを歩き、土がかけられていく様子をじっと見ていた。地面には新しい石が立てられ、その表面にはいくつかの文字が刻まれていた。
大人たちが帰ったあとも、少女はしばらく石の前に座っていたが、冷たい風が吹き始めたので家へ戻った。
その日の夕食は、訪ねてきた人が用意してくれた。
少女はいつものように二つの器を並べたが、片方を使う人はいなかった。
◇
ばあやがいなくなってからも、決まった日には配給が届いた。
最初の頃は荷物を届けてくれる人が食事の支度を手伝い、暖炉の火や家の様子を確かめていった。少女も少しずつできることが増え、やがて簡単な料理なら一人で作れるようになった。
洗濯物を干すには踏み台が必要だったし、重い水桶を運ぶと途中で何度も休まなければならなかったが、ばあやに教わったことを思い出しながら暮らした。
ある朝、少女は布を持ってばあやの墓へ向かった。石についた泥を拭き、周りの草を抜いていると、隣の墓石も汚れていることに気づいた。ついでに磨けば、さらに隣も気になってくる。そんなことを繰り返すうち、掃除する場所は墓地のあちこちに広がっていった。
雨が降れば泥が跳ね、風が吹けば落ち葉が溜まる。
「昨日やったばっかりなのに!」
文句を言いながらも箒を動かし、疲れた日は翌日に続きを回した。
掃除をするうちに、墓石に刻まれた文字にも興味を持つようになった。ばあやに教わった文字が並んでいるものの、どう読めばいいのか分からないものも多い。少女は薄くなりかけた文字を紙に写し、一枚ずつ木箱にしまっていった。
◇
七歳になったある朝、少女は玄関先に小さな包みを見つけた。
開いてみると、中には焼き菓子が二枚入っていた。甘い匂いがして、表面には細かく砕いた木の実が散らしてある。一枚食べてみると、さくさくした生地が口の中で崩れ、香ばしい木の実の味が広がった。
「おいしい!」
残りの一枚は明日に取っておこうと思ったが、眺めているうちに食べたくなり、結局その日のうちになくなってしまった。
翌朝、少女は玄関を開けると真っ先に足元を確認したが、何もなかった。その次の日も同じだったものの、しばらくするとまた包みが置かれていた。
今度は三枚だった。
少女は大喜びで家へ駆け込み、食卓に並べて何度も数えた。
季節が巡るうちに少女の背も伸び、水桶を運ぶときに休む回数も減った。墓地の掃除も以前より早く終わるようになったが、暑い日は途中で木陰に座り、そのまま眠ってしまうこともあった。
雨の日には家で文字を書き、晴れた日には墓地へ行く。時々お菓子が届き、たまに屋根の修理に人が来た。
ばあやのお墓へ行くと、家で起きたことを話した。
昨日作ったスープが上手にできたこと。大きな蜘蛛が出て、箒を持ったまま逃げ回ったこと。お菓子が三枚もあったのに、全部食べてしまったこと。
返事がないのは寂しかったが、話したいことはいくらでもあった。
朝になればお腹が空くし、洗濯物は溜まる。墓地の草も、放っておけばどんどん伸びてしまう。
少女の毎日は、そうして続いていた。
◇
九歳になった春、少女は墓地の塀の向こうに男の子が立っていることに気づいた。
同じくらいの歳だろうか。少年は少女が墓石を磨く様子を少し離れたところから眺めており、最初は通りかかっただけだと思っていたが、翌日も、その次の日も同じ場所に現れた。
四日目になると、少女はとうとう、どうして毎日来るのか尋ねてみた。少年は少し困った顔をし、なんとなく気になったからだと答えた。
翌日には墓地の入口まで来るようになり、さらに数日後には中へ入ってきた。
少年は並んだ墓石を見渡し、いつも誰のお墓を磨いているのかと尋ねた。
「ばあやだよ。私を育ててくれた人なの」
少女が一番奥の石を指差すと、少年はその前へ歩いていき、刻まれた文字を眺めた。
「ばあやって、マーサ?」
「……マーサ?」
「うん。ここに書いてある」
少年が墓石を指差したので、少女も隣にしゃがみ込んだ。
「それ、ばあやのこと?」
「そう。名前だよ」
「名前って、なに?」
少年は驚いた顔をしたが、少女が本当に知らないのだと分かると、人にはそれぞれ名前というものがあり、墓石の文字もそこに眠る人を表しているのだと教えてくれた。
少女は何度も写したことのある文字を見つめた。知っている文字もあったが、続けて読むと初めて聞く響きになり、何度か口に出して繰り返した。
「マーサ……」
それが、ばあやの名前だった。
今までずっと「ばあや」だった人に、別の呼び方がある。少女にはそれが不思議で、もう一度墓石を見直した。
周囲の墓石にもそれぞれ名前があると知り、少女は並んだ石を見渡した。
少年は自分の名前をフィンだと教えてくれた。
「フィン?」
試しに呼んでみると、少年が振り向いた。
少女はそれが面白くなり、もう一度呼んでみた。フィンは少し笑い、少女が自分の名前について尋ねると、少し黙ってから、まだないのだと教えた。
どうして自分だけないのかは分からなかったが、今までそれで困ったことはなかった。
それよりも、マーサという響きが気に入った少女は、もう一度ばあやの石に向かって呼んでみた。
少女は家から木箱を持ってくると、中にしまっていた紙をフィンへ見せた。何枚も重ねられた紙を見てフィンは驚いていたが、少女が読めない文字を指差すと、一つずつ読み方を教えてくれた。
二人で夢中になっているうちに日が傾き、帰り際、フィンは手を振った。
「また明日」
少女も手を振り返した。
◇
それからフィンは、よく墓地へやってくるようになった。
最初は文字を教えてもらうだけだったが、いつの間にか掃除も手伝うようになり、重い水桶を運ぶのは自然とフィンの仕事になった。
少女は墓地に咲く花のことや、石の陰に住む虫のことを教え、フィンは町で見聞きした出来事を話してくれた。掃除を忘れて話し込むこともあれば、些細なことで喧嘩する日もあったが、二人でいると時間が過ぎるのが早かった。
ある日、少女は玄関先に焼き菓子が三枚置かれているのを見つけた。
いつもならすぐに食べてしまうところだったが、その日は一枚だけ残しておいた。
午後になってフィンがやってくると、少女は菓子を差し出した。
「これ、すっごくおいしいんだよ!」
フィンが一口食べて、おいしいと笑ったので、少女もつられて笑った。
フィンが来ない日には、少女はいつもどおり墓石を磨き、昼食を食べ、午後には文字を写した。ただ、作業の途中で何度も墓地の入口を見てしまい、以前は気にならなかった一人の時間が、少し退屈になっていた。
少女はフィンの名前を呼ぶのが好きだった。
◇
十歳になった頃には、フィンが隣にいることは、少女にとって当たり前になっていた。
その日も二人は墓地の掃除を終えると、並んで木陰に腰を下ろし、くだらない話をして笑っていた。
日が傾き始めたので道具を片づけ、フィンが墓地の入口へ向かうと、少女も途中までついていった。
門を出たところで、フィンが振り返る。
「また明日」
「うん、また明日!」
少女が笑って手を振ると、フィンも手を振り返して帰っていった。




