弔うということ
色んな諸説があるのなら、自分の思うままに弔うことくらい、都合よく解釈しても良いのではないか。
なかには、「早く忘れないと成仏できずに可哀想」という人もいる。
私は、逆ではないかと思っている。
正反対というより、
「ずっと心の中で生きていく」
そう故人との約束を果たしながら、自分の人生を生きていく。
だって、命尽きるまで一緒にいたのだもの。
そう易々と忘れなければと思うほうが、自分の心も壊しかねない。
そして、私はこう考える。
「もし、自分が死去し、残された人がどう弔ってくれたら嬉しいだろうか」
私なら、こう答える。
「ほんの少しだけ、心のスペースをくれて、命日にでも会いに来てくれたら凄く嬉しい」
「思い出して、線香のひとつ灯してくれたら凄く嬉しい」
「私がいない間も、ひたむきに努力していたら、あの世から応援したい」
そんなふうに思う。
完全に忘れるということより、各々が元気でいてくれたら、それでいい。
泣いていたっていい。
無理に忘れなくていい。
でも、ほんの少しの頑張りの糧になるのなら、私は成仏できるような気がする。
勿論、色んな宗派があり、考え方も様々である。
だから、無理に「忘れろ」とも、「泣き続けろ」とも言いたくはない。
心の声を大切にして、故人との思い出を胸に、毎日を歩む。
それこそが、「弔い」ではないだろうか。
今日は、愛猫の四十九日だ。
私は、沢山泣いた。
でも、愛猫との約束を続けていきたい。
忘れたくはない。
それだって、いいんじゃない?
――と、ぐうたら猫は思いますにゃ。




