第3話 アクセルスロープ
地区予選まで、あと一週間。
その言葉を聞いてから、レンの中で時間の流れが少し変わった。
昨日までの一週間は、ただの一週間だった。
学校へ行く。
帰ってくる。
御影工房に寄る。
ブラックミラージュを回す。
勝てる線を探して、迷って、負ける。
それを繰り返すだけの日々。
けれど、今は違う。
一週間後には、本番がある。
負ければ終わる試合がある。
勝てなかった理由を、言い訳にできない場所がある。
レンは御影工房の奥にある練習スペースで、レヴアリーナを見下ろしていた。
昨日まで使っていた練習台よりも、さらに大きい。
公式標準型に近い、大型の楕円スタジアム。
透明な外壁。
中央には、低く沈んだセンターゾーン。
その周囲に、ギア同士の接触が最も起きやすいバトルリング。
さらに外側には、中央より少し高い位置に作られた外周レーン。
そして、その外周レーンから内側へ落ちるように伸びる、四つの急勾配。
アクセルスロープ。
ギアは外周レーンで速度を作り、アクセルスロープを下ることで一気に内側へ切り込む。
ただ広いだけのスタジアムではない。
外周で走る。
坂で加速する。
バトルリングでぶつかる。
中央で粘る。
外へ出れば、オーバー。
その流れが、レヴアリーナの基本だった。
レンは外周を目で追う。
北、東、南、西。
四つのアクセルスロープ。
どのスロープを使うか。
どのタイミングで下りるか。
下りた先で何を通すか。
それだけで、勝敗は大きく変わる。
「そんな顔で見ても、スタジアムは逃げないよ」
後ろから声がした。
シオンだった。
今日は髪を後ろでまとめ、手には小さな端末を持っている。
レンにとっては先生というより、軽口を叩ける姉のような存在に近い。
けれど、スタジアムやギアの話になると、その目は一気に鋭くなる。
「逃げるとは思ってません」
「でも、にらんでた」
「見てただけです」
「レンの“見てただけ”は、だいたい考えすぎ」
シオンはそう言って、アリーナの外壁を軽く叩いた。
「今日は、ここを使う」
「本番用ですか?」
「本番用に近い標準型。地区予選の会場も、サイズや細かい勾配は違うけど、基本構造は同じ」
シオンは指で外周レーンを示す。
「外周で速度を作る。アクセルスロープで内側へ落ちる。バトルリングでぶつかる。センターで粘る」
次に、外壁の外側を指した。
「それから、全方向オーバー」
レンは顔を上げた。
「全方向……」
「そう。決まった穴に落ちたら終わり、じゃない。外周の外側すべてがオーバーゾーン。どこへ飛ばされても、完全に外へ出ればオーバーフィニッシュ」
シオンは少しだけ笑う。
「広い分、迫力はあるよ。壁際で耐えることもあるし、反対側まで吹っ飛ぶこともある」
「危ないですね」
「危ないよ。だから面白い」
シオンは端末を操作し、アリーナの図を表示した。
「ただし、どこでも同じように落ちるわけじゃない。アクセルスロープの出口と、直線側の外周は落ちやすい。カーブ側は壁に戻されやすい」
「つまり、飛ばす方向も大事」
「その通り」
レンはアリーナを見る。
大きな楕円。
四つのアクセルスロープ。
全方向のオーバーゾーン。
勝てる線が増える。
同時に、危ない線も増える。
相手を外へ飛ばせる線。
自分が外へ飛ばされる線。
アクセルスロープで速度を乗せる線。
その落ち際を後ろから触れる線。
見えるものが多い。
多すぎる。
レンの指が、無意識にブラックミラージュのケースへ触れた。
黒いギア。
派手なアタックで押し切るタイプではない。
隙間に入り、相手の流れを崩すギア。
その主張を通すには、アクセルスロープのどこで触れるかが重要になる。
でも、失敗すれば。
外へ飛ぶ。
全方向オーバー。
逃げ場があるようで、ない。
「レン」
シオンが言った。
「今日のテーマ、分かる?」
「アクセルスロープを使うことですか?」
「半分」
「半分……」
「もう半分は、スロープを使わせないこと」
レンはアリーナを見た。
「相手の主張を通さない」
「そう」
シオンは満足そうに頷く。
「ヒナちゃんは、たぶんスロープを使いたがる。ブレイズリリーは下りで勢いを乗せると強いからね」
「はい」
「でも、勢いを乗せすぎると外された時に戻れない。昨日と同じ」
レンには分かった。
ヒナの一撃目は強い。
前へ出る力がある。
アクセルスロープを使えば、その強さはさらに増す。
でも、外された時に次へ戻る形がなければ、勢いはそのまま弱点になる。
一撃目で全部を使い切って、外周へ流れる。
そのまま戻れず、回転を削られる。
あるいは、逆に自分がオーバーする。
「じゃあ、レンはどうする?」
シオンが聞いた。
レンは少し考える。
「正面から受けない。アクセルスロープを下りた直後、横腹が空く場所を狙います」
「いいね」
「でも、そこに入ると、自分も巻き込まれる可能性があります」
「あるね」
「だから……」
レンは言葉を探した。
勝てる線。
危ない線。
両方が見える。
いつもなら、そこで迷う。
でも、今日のテーマは相手の主張を見ること。
ヒナが何を通そうとしているか。
それを止めること。
「ヒナがどのスロープで一撃を作るかを見ます」
「うん」
「全部の線じゃなくて、最初に通したい線だけを見る」
シオンが笑った。
「かなり良い」
その時、工房の入り口が勢いよく開いた。
「おはよう!」
声だけで誰か分かった。
橘ヒナだった。
ブレイズリリーのケースを抱えて、練習スペースへ駆け込んでくる。
今日も表情が明るい。
けれど、アリーナを見た瞬間に目が輝いた。
「大きい!」
「本番用に近い標準型だよ」
シオンが言う。
「これでやるの?」
「やる」
「やった!」
ヒナはアリーナの外周を覗き込み、すぐに四つの急勾配に気づいた。
「アクセルスロープ、四つある!」
「よく見つけたね」
「昨日よりいっぱい使えそう!」
「ヒナちゃんはまず、使いすぎない練習からだけどね」
「うっ」
ヒナは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐにブレイズリリーを取り出した。
白いブレード。
赤橙の差し色。
炎の花びらのような外周。
アクセルスロープから下れば、きっと強烈な一撃になる。
レンにもすぐ分かった。
ヒナのギアは、このスタジアムと相性がいい。
少なくとも、一撃目だけなら。
「シオンさん」
ヒナが聞く。
「ここを下ったら、すごく速くなるんだよね?」
「なるよ」
「じゃあ、そこからぶつけたら強いよね?」
「強いよ」
「よし!」
「ただし、外されたら大変だけどね」
ヒナの動きが止まった。
「……大変?」
「アクセルスロープは、速度をくれる。でも、止まり方までは教えてくれない」
シオンはアリーナの外側を指差した。
「しかも全方向オーバー。勢いが乗ったまま外へ流れたら、どこからでも落ちる」
「どこからでも?」
「外へ出たら終わり」
ヒナは少しだけアリーナを見つめた。
たぶん、頭の中で自分のブレイズリリーが吹き飛ぶところを想像したのだろう。
だが、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、落ちる前に当てればいいんだよね」
シオンが笑う。
「ヒナちゃんらしい」
レンは思わず苦笑した。
ヒナは怖がらない。
危ないと言われても、まず使おうとする。
それが強さでもあり、危うさでもある。
「じゃあ、今日はまずアクセルスロープの確認」
シオンが言った。
「四ポイント制じゃなくて、単発。ヒナちゃんはスロープを使って一撃を作る。レンはその一撃を止めるか、外すか、崩す」
「了解!」
「分かりました」
二人は向かい合った。
大型のレヴアリーナを挟むと、昨日より少し距離がある。
その距離が、緊張を生んだ。
小さなアリーナなら、ギアはすぐにぶつかる。
でも、この標準型では違う。
外周レーンで速度を作り、アクセルスロープで内側へ落ちる。
ぶつかるまでに、時間がある。
線が見える。
そのぶん、迷いも生まれる。
ヒナはランチャーを構えた。
狙いは分かりやすい。
外周レーン。
そこから一つ目のアクセルスロープへ乗せる。
下りの勢いでバトルリングへ切り込み、ブラックミラージュを弾く。
ヒナの主張。
前へ出る。
スロープで加速する。
一撃で崩す。
レンはブラックミラージュを構える。
正面から受けてはいけない。
スロープを下ったブレイズリリーの速度は、昨日より重くなる。
受けるなら斜め。
狙うなら下り終わり。
速度が乗りきった直後、姿勢がわずかに浮く場所。
そこに、黒い影を入れる。
「スリー」
シオンの声。
「ツー」
ヒナの目が燃える。
「ワン」
レンは息を止める。
「リリース!」
二つのギアがアリーナへ落ちた。
ブレイズリリーは外周レーンへ走る。
ブラックミラージュは内側へ落ちる。
大型アリーナの中で、白と黒が別々の線を描く。
ブレイズリリーが外周レーンを駆ける。
速い。
だが、まだ本番ではない。
ヒナの狙いは、その先。
最初のアクセルスロープ。
白いギアが、外周の高い位置から急勾配へ入った。
落ちる。
いや、滑り込む。
下り坂で速度が増す。
ブレイズリリーの赤橙の差し色が、炎の尾を引くように見えた。
レンの目が細くなる。
見えた。
坂を抜けた直後。
ブレイズリリーの姿勢がほんの少し浮く。
速度が乗ったぶん、横腹が空く。
そこだ。
ブラックミラージュを入れる。
でも。
その線のすぐ隣に、危ない線も見えた。
角度が浅ければ、ブラックミラージュはブレイズリリーの一撃に巻き込まれる。
そのまま外周へ弾かれ、全方向オーバー。
逃げ場はない。
アリーナの外すべてがオーバーゾーン。
迷えば、遅れる。
レンの指に力が入る。
行く。
黒いギアが、半歩前へ出た。
カンッ!
アクセルスロープを下りたブレイズリリーの横腹に、ブラックミラージュが触れた。
だが、浅い。
完全に入らなかった。
ブレイズリリーの勢いは死なない。
「まだ!」
ヒナの声。
白いギアが、黒い影を巻き込むように前へ出る。
ドッ!
ブラックミラージュが大きく外へ流れた。
透明な外壁が近い。
その向こうは、オーバーゾーン。
レンは息を呑む。
戻せ。
内側へ。
だが、外周側へ流れたブラックミラージュは、壁に沿って滑る。
かろうじて外には出ない。
ギリギリでアリーナ内へ戻る。
しかし、その間にブレイズリリーも外へ膨らんでいた。
強すぎる一撃。
アクセルスロープで得た速度を全部乗せたせいで、ヒナ自身も戻れない。
白いギアが外壁へ弾かれる。
跳ね返る。
まだ落ちない。
だが、回転は大きく削れている。
ブラックミラージュは内側へ戻り、終盤でわずかに粘った。
ブレイズリリーが先に倒れる。
そのすぐ後に、ブラックミラージュも止まった。
「レンのスピン勝ち」
シオンが言った。
ヒナはブレイズリリーを拾い上げ、目を輝かせた。
「すごい! 速かった!」
「反省の第一声がそれなんだ」
シオンが呆れたように笑う。
「だって、すごかったもん。アクセルスロープ、めちゃくちゃ加速する!」
「加速するね。でも、戻れなかった」
「うっ」
ヒナはブレイズリリーを見る。
レンも頷いた。
「一撃は、昨日よりずっと強かった」
「ほんと?」
「うん。でも、外された後に外周へ流れすぎてた」
「つまり?」
「次に当たりに行ける形が残ってなかった」
ヒナは少しだけ口を尖らせた。
「またそれかぁ」
「それが課題だからね」
シオンが言う。
「アクセルスロープは、ヒナちゃんの一撃を強くする。でも、一撃で全部使えば、次がなくなる」
シオンは外周レーンからスロープ出口までを指でなぞる。
「大事なのは、下りの勢いを全部ぶつけることじゃない。下りた後、どこに残るか」
「どこに残るか……」
「そう。バトルリングに残るのか、外周へ逃がすのか、もう一つ先のスロープへつなぐのか」
ヒナはアリーナを見た。
四つのアクセルスロープ。
一つ目で全部使い切れば、そこで終わる。
でも、二つ目、三つ目へつなげられれば。
ヒナの表情が、少し変わった。
「一つ目で決めなくてもいいってこと?」
「決められるなら決めていいよ」
シオンは言った。
「でも、決まらなかった時に、二つ目へ行ける形を残す」
「二つ目……」
ヒナは小さく呟いた。
レンには、その言葉がヒナの中に残ったのが分かった。
ヒナは一撃目に全部を乗せる。
それが強さだった。
でも、アクセルスロープは教えてくれる。
一つ目の坂で決められなくても、次の坂がある。
次へ戻れる形さえ残せば、二撃目、三撃目が作れる。
「レンはどうだった?」
シオンが聞いた。
レンはブラックミラージュを見た。
「触れたけど、浅かったです」
「なんで浅くなった?」
「オーバーが見えました」
正直に答えた。
「角度がずれたら、自分が外へ飛ぶ線が見えて、少し遅れました」
「うん」
シオンは否定しなかった。
「全方向オーバーは怖いよ。特にアクセルスロープ出口は、一番危険な場所だから」
「はい」
「でも、そこが一番勝負になる場所でもある」
レンはアリーナを見る。
アクセルスロープを下りた直後。
速度が乗る。
姿勢が浮く。
相手の主張が一番強くなる。
同時に、崩せる隙も生まれる。
危険と勝機が、同じ場所にある。
「レンは怖い線まで見える」
シオンが言った。
「それは弱点でもある。でも、怖い線が見えるなら、そこを避けた触り方も探せる」
「避けた触り方……」
「正面から勝てる線だけじゃない。斜めに触る線。深く入らず、姿勢だけ崩す線。相手を外へ飛ばすんじゃなくて、次のスロープへ乗せない線」
レンは息を止めた。
勝てる線。
これまでは、相手を倒す線だと思っていた。
でも、シオンの言葉で少し変わる。
勝てる線は、必ずしも一撃で決める線ではない。
相手の主張を通さない線。
次を作らせない線。
それも、勝てる線だ。
その時、工房の奥から低い声がした。
「悪くない」
レンとヒナが振り向く。
御影ツカサだった。
御影工房の主で、ギア調整師。
眠そうな目をしているが、ギアを見る時だけは異様に鋭い。
いつから見ていたのか、作業台の奥からゆっくり歩いてくる。
「ツカサさん、いたんですか」
レンが言うと、ツカサは短く答えた。
「いた」
「最初から?」
「最初から」
ヒナが少し緊張した顔になる。
ツカサはアリーナを見下ろした。
「アクセルスロープを使うと、弱点が出やすい」
「弱点……」
ヒナがブレイズリリーを握る。
「橘ヒナ。お前は勢いを乗せるのが早い。だから一撃目は強い」
「はい!」
「だが、勢いを殺すのが下手だ」
「……はい」
「スロープで加速すれば、その癖はもっと出る」
ヒナは少しだけ肩を落とした。
でも、ツカサは続けた。
「ただし、悪いことだけじゃない」
ヒナが顔を上げる。
「アクセルスロープを使いこなせれば、お前のブレイズリリーはもっと強くなる」
「本当ですか!」
「本当だ。だからギアを変えるな」
ツカサはヒナのブレイズリリーを見た。
「今は、そのギアで自分の勢いを覚えろ。どこで加速し、どこで残るか。それを知らないままギアを変えれば、また同じ負け方をする」
ヒナは真剣な顔で頷いた。
「はい」
ツカサは次に、レンを見る。
「レン」
「はい」
「お前は逆だ」
「逆?」
「勢いを怖がりすぎる」
レンは言葉に詰まった。
ツカサはブラックミラージュを見る。
「ブラックミラージュは、アクセルスロープで加速した相手を正面から止めるギアじゃない」
「はい」
「だが、逃げるだけのギアでもない」
ツカサの声は淡々としていた。
「相手の勢いが一番強い場所には、一番大きな隙もある」
レンはアクセルスロープの出口を見る。
さっき見えた横腹。
勝てる線。
危ない線。
同じ場所にあったもの。
「怖いなら、深く入るな」
ツカサは言った。
「だが、触れろ」
短い言葉だった。
でも、レンには重く響いた。
深く入らなくてもいい。
でも、触れる。
相手の主張を完全に止められなくても、少しずらす。
次を作らせない。
それがブラックミラージュの戦い方かもしれない。
「次、もう一本」
シオンが言った。
「今度は二人とも、アクセルスロープを一つ目で終わらせないこと」
「一つ目で終わらせない?」
ヒナが聞く。
「ヒナちゃんは、一つ目のスロープで全部使い切らない。二つ目へ戻る形を残す」
「うん」
「レンは、一つ目のスロープ出口で深く入りすぎない。浅く触って、ヒナちゃんを二つ目へつなげさせない」
レンは頷いた。
「分かりました」
ヒナもブレイズリリーをランチャーにセットする。
「次は、ちゃんと残す」
その声は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
ただ突っ込むのではない。
でも、熱が消えたわけではない。
火を残す。
次へ戻る形を残す。
ヒナはそれを掴もうとしている。
レンはブラックミラージュを構えた。
自分も同じだ。
見える線に怯えるのではなく、浅く触る。
相手の主張を少しだけずらす。
そこから、自分の主張を通す。
「スリー」
シオンの声。
アリーナが静かになる。
「ツー」
ヒナの視線は、外周レーンと最初のアクセルスロープを見ている。
「ワン」
レンは、その先を見る。
一つ目で終わらない線。
二つ目へ続く線。
「リリース!」
二つのギアが落ちた。
ブレイズリリーは外周レーンへ走る。
ブラックミラージュは内側へ入る。
ヒナはやはりアクセルスロープへ向かう。
しかし、さっきとは少し違う。
外周で速度を乗せすぎない。
下り坂へ入る角度も浅い。
それでも、ブレイズリリーは加速する。
白いギアがバトルリングへ切り込む。
レンは正面から受けない。
スロープ出口。
横腹が空く。
そこへ、ブラックミラージュを浅く触れさせる。
カンッ。
さっきより軽い音。
ブレイズリリーの角度が少しずれる。
だが、勢いは死なない。
ヒナはそのずれを無理に戻さなかった。
外へ流れる。
でも、流れすぎない。
外周へ逃がす。
次のアクセルスロープへつなぐために。
レンの目が開く。
つながった。
ブレイズリリーが、二つ目のアクセルスロープへ向かう。
昨日までのヒナなら、一撃目で全部使い切っていた。
さっきの一本でも、外へ流れて戻れなかった。
でも、今は違う。
一つ目で決めようとしていない。
二つ目へ火をつないでいる。
「いいよ、ヒナちゃん!」
シオンの声。
ヒナは答えない。
目は二つ目のスロープを見ている。
ブレイズリリーが二つ目のアクセルスロープへ入る。
下る。
再加速。
今度の一撃は、さっきより鋭い。
一つ目で生まれたズレを使って、角度を変えている。
レンはその線を見た。
危ない。
これは入る。
正面から受ければ、ブラックミラージュが外へ飛ぶ。
なら、スロープ出口ではなく、下りきる前に触る。
完全に速度が乗る前。
黒いギアが内側から浅く入る。
カンッ!
ブレイズリリーの角度がまたずれる。
だが、今度はヒナも止まらない。
「まだ!」
白いギアが、ずれた角度のままバトルリングへ入る。
ブラックミラージュと接触する。
ドッ!
二つのギアが大きく揺れた。
レンのブラックミラージュが外周へ流れる。
オーバーゾーンが近い。
ヒナのブレイズリリーも、内側へ残りきれずに外へ流れる。
どちらも危ない。
透明な外壁に当たり、火花のような音が鳴る。
ギリギリで戻る。
観客はいない。
練習場なのに、レンの心臓は本番のように速くなっていた。
終盤。
ブレイズリリーはまだ回っている。
ブラックミラージュも残っている。
昨日より長い。
ヒナの攻撃が、一撃で終わらなかったからだ。
レンも、深く入りすぎず、何度も浅く触ったからだ。
最後は、二つのギアがほとんど同時に傾いた。
先に倒れたのは、ブラックミラージュ。
その直後、ブレイズリリーも止まる。
シオンが一瞬だけ目を細めた。
「ヒナちゃんのスピン勝ち」
ヒナが固まった。
「……え?」
レンもブラックミラージュを見た。
負けた。
今度は、自分が。
けれど、不思議と嫌な負け方ではなかった。
ヒナが、勝った。
しかも、一撃で押し切ったのではない。
一つ目のスロープから、二つ目へつないだ。
次へ当たりに行ける形を残して、勝った。
「勝った……?」
ヒナが自分のブレイズリリーを拾い上げる。
「勝った!」
次の瞬間、ぱっと顔が明るくなった。
「レンに勝った!」
「うん」
レンは少し悔しかった。
でも、頷いた。
「負けた」
ヒナは嬉しそうに笑ったあと、すぐに真剣な顔になる。
「でも、今の、ちょっと分かった」
「何が?」
「一つ目で全部行かなくても、二つ目で強くなる」
シオンが満足そうに頷く。
「そう。それが次へつなげるってこと」
ヒナはブレイズリリーを見る。
「これが、火を残すってやつ?」
「うん。今のはかなり近い」
「やった」
ヒナの声は小さかった。
でも、とても嬉しそうだった。
レンはブラックミラージュを拾い上げる。
負けた。
けれど、見えたものがある。
ヒナの主張が変わった。
自分も対応しようとした。
浅く触ることはできた。
でも、二つ目のアクセルスロープへのつなぎを止めきれなかった。
次は、そこを止める。
そう思った。
悔しい。
でも、もう一回やりたい。
ヒナが初めてレンに見せた感情を、今は少しだけ分かる気がした。
シオンが手を叩く。
「はい、そこまで」
「えー、今いいところなのに!」
ヒナがすぐに言う。
「いいところだから止めるの。感覚が残ってるうちに整理」
「整理……」
ヒナは苦手そうな顔をした。
レンは苦笑する。
自分は逆に、整理したくて仕方なかった。
アクセルスロープ。
全方向オーバー。
一つ目で終わらない線。
二つ目へつながる線。
ヒナの火が、少しだけ形になった瞬間。
そして、自分が止めきれなかった理由。
全部を頭の中で並べたい。
ツカサが作業台の方へ戻りながら言った。
「地区予選まで一週間。ギアを大きく変えるな」
レンとヒナが顔を上げる。
「変えるなら、使い方だ」
短い言葉だった。
でも、今の二人には十分だった。
ヒナはブレイズリリーをケースに戻す。
「使い方……」
レンもブラックミラージュをしまう。
自分の勝てない理由。
ヒナの勝てない理由。
それは、変えられる。
ギアを変えなくても。
自分の主張の通し方を変えれば。
シオンがアリーナを見ながら言った。
「明日からは、四ポイント制でやる」
その言葉に、空気が少しだけ変わった。
四ポイント制。
単発の練習ではない。
スピンで一点。
オーバーで二点。
バーストで三点。
四ポイント先に取った方が勝ち。
試合の流れを読んで、勝ち切るための練習。
地区予選が近づいている。
レンはアリーナを見た。
四つのアクセルスロープ。
外周レーン。
バトルリング。
センターゾーン。
全方向のオーバーゾーン。
そこには、無数の線がある。
勝てる線。
危ない線。
相手の主張が通る線。
自分が通すべき線。
見えない答えを探す場所。
けれど、レンは初めて、その広さを怖いだけだとは思わなかった。
ヒナが横で笑う。
「明日は四ポイント制かぁ」
「うん」
「次も勝つから」
レンはブラックミラージュのケースを握った。
「次は止める」
「いいね」
ヒナは嬉しそうに笑った。
黒い影と、白い火。
二人はまだ勝てない。
でも、勝てない理由は、少しずつ形を変えていた。
弱点ではなく。
課題でもなく。
いつか武器になるものへ。
地区予選まで、あと一週間。
アクセルスロープを下る音が、まだレンの耳に残っていた。




