第47話 傘が臭い
それは午後の講義が終わり、大学から帰ろうとしたときのこと。
外は雨がザーザーと強めに降り続けていた。
僕は傘立てから自分の黒い傘を手に取ったのだが。
「く、臭い……」
傘が臭くなっていた。
まだ手に取ったタイミングでは、なんだか異臭がどこかからする、程度にしか感じていなかったが。玄関から外に出て、いざ傘を開いたとき。
内側から鼻の曲がりそうな悪臭がブワッと広がり、僕にまとわりついてきたのだ。
一嗅ぎしただけで強烈な不快感が電撃となって身に走る。拒絶反応が起こり、身体中の鳥肌を立たせて戦慄する。自分の周りを覆う大気がすべて汚れてしまったのだと思い込み、鼻と口を手で覆った。
「オエッ!?」
しかし僕は思わずえずいて、すぐに傘を閉じると玄関に戻った。
「な、なんで……」
とりあえず傘立てに戻して、手に付着した臭いを洗い落とすためトイレに駆け込んだ。だがその悪臭はなかなか取れてはくれず、五分以上は水道を占領していただろう。
何とか臭いを落として、再び玄関まで戻ってきて。
さてどうしたものか……
というか、なぜ傘が臭い?
その臭いは、人間なら一部の変態を除いて誰もが嫌う、汚いを象徴したそれを連想する。
そう、まるで排泄物のような臭い。
もう排泄物を直接こすり合わせたのではないかというほどに、気持ちの悪い臭いが傘に染みついていた。
湿気でもこんな臭いは絶対に発生しないので、さすがに誰かのいたずらであると確信する。確か、リアルな排泄物の臭いを噴出するスプレーの動画を以前動画サイトで見かけたことがあったが。そういった類のジョークグッズでこの傘にいたずらをしたのではないかと予想する。
でも、いったい誰が?
賢……はこんなことはしないよな。あいつは優しい人間だから、人が傷つくようないたずらは絶対にしない。
猫俣さんも、こんな汚いことをするわけがないし。
……鳩島先輩の取り巻きの仕業か?
あの人たちの恨みによって、こんなしょうもない、けれど最悪ないたずらを仕掛けられたというのか?
まあ、誰がやったのか、なんてことを考えても仕方がない。今はどう帰ろうか考えないと。
雨は弱まるところを知らず、壁に打ち付けられる雨音は荒々しい。
予備の傘は持っていない。さすがにこの中を走っていくのはきついな。
誰かに傘を貸してもらうか? しかし賢は自分の傘しか持っていないし、あいつはサークルがあるから帰りは遅い。
ほかに傘を借りられそうな人はいないしな……
なんて、玄関先から鈍色の空を見上げては考えていたら。
「あれ、木野くんじゃん?」
そこに、あの甘えたような甘ったるい声が呼びかけてきた。
「猫俣さん?」
玄関からビニール傘を持った猫俣さんが現れたのだ。
今日は少し肌寒いためか、いつもより露出は少なめだ。短めのデニムは普段通りだが、Tシャツの上からグレー色の薄めのパーカーを羽織っていた。
「今日学校来てたんだ」
「ああ、あーし今日は午後の講義しか取ってないから、昨日みたいに絡みに行けなかった。ごめんね」
「いや、僕としてはその方が都合はいいのだけれど」
「てか、何してんの? あ、もしかして傘がない?」
「ないって言うか、あるにはあるのだけれど……」
僕は猫俣さんに傘がいたずらされたことを説明した。
「はあ? 何そのえっぐいいたずら。笑えないんですけど」
すると猫俣さんは僕よりも怒りを表に出した。
「マジありえない。すっごく下品だし、最低。木野くんにこんなことしたやつ、絶対許さない」
「まあまあ、やられたものは仕方がないから」
「仕方なくない。駄目だよそうやってあるがままを受け入れてちゃ、そのうち悪い女にいいようにされちゃうよ」
なんて忠告すると、猫俣さんは玄関から出て透明な傘をさした。
「とりあえず、そんな傘を持って歩くなんてできないし、臭いが薄れるまでそこに置きっ放しにしときましょ」
「でも、代わりの傘がないんだよな……」
「え、何言ってるの?」
「え?」
猫俣さんは傘の中心から左側に位置して、もう片側を開けると招き猫のように手招きをした。
「……そこに入れと?」
「当たり前だよ」
いや、それでは相合傘になってしまうじゃないか。
「相合傘なんて、子供じゃないんだから気にしなくてもいいの。別に傘を忘れたときには誰だって相合傘するし。さすがにドーテーすぎ木野くん」
「……気になるものは気になるよ」
だって、彼女が居る身としてほかの女性と相合傘をする、ほぼ密着状態になるのは気が引ける。それに、この人には昨日からいいように振り回されてばかりだ。そう都合がいいようにされてたまるか。猫俣さん自身、あるがままを受け入れるのはよくないって、自分で言っていたのだし。
だから、普通に断ろうか。
「早く入りなよ、バス来ちゃうよ」
しかし、雨は当分弱まる様子はないし、また鳩島先輩やその取り巻きに絡まれる前に帰りたい。ここで雨が弱まるのを待つより、走ってバス停まで行こうか。
「ダッシュしてくからいいよ」
「あーしが入って行けって言ってんだから、素直に入りなって!」
断ったのだがしかし強く腕を引かれてしまい。僕は半ば強引に猫俣さんと相合傘をする形となってしまった。
「はーい、入っちゃったからにはもう拒否しないでね」
「へ、変なことはしないでよ……」
「それ、普通女が男に言うセリフでしょ」
遠慮なく猫俣さんは肩をくっつけてくる。綿あめのような可愛らしい匂いに毎度の如くドキドキする。
そんなわけで、僕ら二人は同じ傘の下を歩いてバス停に向かうが。
僕は今、すごく可愛らしいギャルと、猫俣さんと相合傘をしている……。それを意識すると手汗が出てきた。
視線はなるべく正面に向けるが、隣に僕のことを好きだなんていうべっぴんなギャルがいるいたら、どうしても気になってしまう。
こっそり覗く、猫俣さんの横顔。可愛い人は横から見ても可愛らしい。だが右耳からぶら下がる黄色の宝石は、彼女を大人びた印象へ持ち上げていた。
少し視線を下ろすと、首元の広いシャツだから胸の谷間が露出していて、それが目に入る。そういうファッションなのだろうが、しかしなんだかエッチだな。
「なーにジロジロ見てんの〜?」
「い、いや別に」
あまりに注目しすぎてしまったか、猫俣さんは僕の視線に気がつくとほくそ笑み、僕はまた童貞らしくキョドってしまう。
が、このとき僕は気がついた。
傘の左側で猫俣さんが持ち手を掴み、僕は右側で身を細めているのが今の状態。だが、猫俣さんより僕の方が身長は少し高いので、若干彼女は無理して腕を伸ばし、傘の高さを僕に合わせていたのだ。
「辛そうだし傘持つよ」
「いいよ別に」
なんて猫俣さんは断ろうとしたが、しかし有無を言わせる前に僕は傘を取り上げた。
「僕の方が身長高いからさ」
「あ、ありがとう……でも、肩が濡れちゃってるよ」
「ああ、ごめん」
僕は猫俣さんの方に傘を寄せるが。
「あーしじゃなくて、君の肩が濡れてるの!」
と、腕を組まれてくっつかれてしまった。その際に相変わらずのマシュマロのような胸の感触を腕で味わい、心臓が弾けそうになる。
「ち、ちょっと離れて、歩きづらいから……」
「あはは、ごめんごめん……」
そんな感じで、僕は猫俣さんと相合傘をしながらバス停までやってきた。
バス停の狭い屋根の下は学生で溢れており、しばらく雨の下でバスを待つ。がその際、雰囲気から陽なオーラを放つギャルと、それに対して地味な僕が同じ傘の下にいることが不思議なのか、何人かこちらを覗いていくる人がいた。
昼間のようになんとなく視線を感じるのとは違って、なぜかまあまあガッツリ見てる学生。僕と目が合えば直ぐに視線を逸らすが、それがとても居心地悪くて、早くバスが来ないかと内心で願い続けたのだった。




