第29話 お兄は想い人
目を覚ますと、見知った白い天井がある。
自室の天井だ。
背中には布団の落ち着く柔らかさを感じて、ここが自分の部屋の、ベッドの上であると気がつく。
「お兄!!」
ベッドのすぐ隣で、床に座っていた制服姿の戌子が飛びつくように抱き着いてきた。
「どわっ、戌子!」
「よかった、よかった……」
寝ている僕に覆いかぶさるように、泣きながら、力強く抱きしめられる。
「く、苦しい……」
あまりに強く抱きしめてくるものだから、僕は戌子の背中を叩いてギブアップを示した。
「星也くん、よかった……」
戌子の後ろに、安堵の表情を浮かべる日和さんが立っていた。左腕には包帯を巻いている。
「身体に痛むところはない?」
僕は戌子を引きはがして胴体を起こした。
「うん、特にはないかな。戌子の突進を受けたお腹も、特に何ともない」
突進のショックで脳震盪でも起こして気絶をしてしまったのだろうか。でもお腹の痛みは感じないため、大したことはないのだろう。
「日和さんも、腕のけがは?」
「こっちも大丈夫よ。変身時の怪我は元に戻ったとき軽くなるから。そこまで大した怪我じゃなくなってるの」
それならよかった。
ところで、日和さんと戌子は同じ部屋にいるが。
「その、二人の争いは、終わったの?」
「お兄が倒れたら、それどころじゃないよ」
そうか、捨て身で間に入ったおかげで、あの戦いは止められたのか。
「星也くん、もうあんな無茶なことはしないで」
と、日和さんはベッドへ近づいてくる。それを、戌子はジッと見つめる。
戌子はまだ、敵意を持っているようだ。
「でも、ああでもしないと、二人は止まらなかった」
すると、二人は気まずそうに沈黙する。
「な、なあ戌子。ちょっと、話をしようか」
「うん……」
僕は日和さんに目配せをした。
「ごめんなさい、日和さん」
「わかったわ、リビングで待ってるから」
日和さんは僕の意図を読んで、部屋を後にしてくれた。
僕はベッドから足を下ろし、腰をかけた状態にする。
戌子も僕の隣に腰を下ろしたが、少しだけ距離を離して座った。
「なあ、どうして日和さんと戦おうとしたんだ?」
「お兄にあんな仕打ちをしておいて、のうのうとお兄と付き合ってることを知って、腹が立って……」
「……僕が嫌がることはしないって言ったじゃないか」
「……お兄も許せなかった」
さっきも確かに言っていた。日和さんの僕にしたことを知ったうえで、それでも日和さんを好きになった僕も許せないと。
「なあ、戌……」
僕は戌子の肩に手を置こうとした。が、その瞬間。
戌子は僕の手を払ったかと思うと。
「ごめんね」
僕をベッドの上で押し倒してきた。
「……戌子?」
襲われる……かと思った。けれど、僕を真上から見つめるその表情はすごく悲しそうだった。
「どうしたの?」
「お兄、あたしね。お兄と付き合えないならもう、死んでもいいって思ったの。だからもう、お兄にも嫌われちゃってもいいやって思って、日和さんに戦いを挑んだ。自分の憎しみを、ぶつけようと思った」
目に涙を浮かばせながら、思っていたことを告白する。
その戌子の頭に、僕はそっと手を伸ばして撫でた。
優しく頭をさわる。何を言うわけでもなく、ただ撫でた。
いや、何も言えないのだ。戌子の気持ちに答えられない以上、これ以上僕が謝るのも、また苦しめてしまいそうで。
「あたし、もう二度とお兄の前に現れないから」
「は?」
唐突なことを言う。
「もう二度と、お兄の前に顔を見せない。じゃないと、お兄に迷惑をかけちゃうから」
「いや……」
「お母さんにも、もうご飯に誘わないように言っておくね」
「違うよ……」
戌子の様子がいたたまれない。
「それから……」
「待てよ!!」
僕は戌子の肩を掴み、揺さぶるようにして口を止めた。
「嫌だよ僕は、お前と会えないのは」
「……でもあたし、お兄のことが好きなんだよ」
「それは別に問題じゃない」
戌子には阿奈さん以外の家族がいない。父親も、祖父も祖母も、兄妹も。家族と呼べる人は母親の阿奈さんしかいなかった。
だから僕は戌子にとって、もう一人の家族だった。僕はお兄と呼ばれていたように、戌子にとって兄のような存在で。
「僕はさ、お前を妹のように思っていた。お前のもう一人の家族のような存在になれたらって、ずっと思ってた」
「……あたしも、お兄はお兄だよ。異性として好きになっちゃっても、あたしにとってお兄は家族みたいな存在なのは変わりないよ」
僕は想い人でありながらも、もう一人の家族だ。
「だから、気持ちを今まで伝えられなかった。お兄があたしを妹としてしか見ていないって知ってたから、関係が崩れちゃうのが、家族じゃなくなるのが怖かった」
だからこそ、気持ちのジレンマに苦しんでいたことだろう。そしてずっと近くにいた僕に彼女ができてしまって、悲しかっただろう。
「でも、もう気持ちを伝えちゃった。それに、お兄に嫌われることをしちゃった」
もちろん、戌子の気持ちに答えられないことは変わらない。でも、戌子との距離が開いてしまうのは、我ながらわがままだが嫌なのだ。
「なあ、戌子。僕が嫌がることは、誰かを傷つけたり、一線を越えようとしたりすることだ」
「だから?」
「だから、これからそういうことをしないのであれば、僕は戌子を許すよ」
「は?」
「だから、これからも会いに来いよ」
「いや……」
「僕に顔を合わせつらいなら、こっちから会いに行く」
「なんで……」
「だって僕は、お兄だから」
僕は、戌子に合えなくなるなんて寂しい。戌子は僕にとってももう一人の家族、妹なのだから。
「なに? 気持ちには答えられないのに、これまでの関係を続けたいって? 勝手だよ。今更前のように、ただの兄妹のような関係に戻れるわけがないじゃんか」
戌子は僕の上からどくと、両手で顔を覆って続ける。
「……でも、そう言ってもらえたのがうれしい。あたしも、お兄と離れたくなかった」
途端に嗚咽を漏らす。
僕は起き上がって、戌子の背中をさすった。
「あたしはお兄が好き。優しくて、あたしのわがままを聞いてくれる、お兄が家族として好き。でも、お兄に恋愛感情を持ってるのも変わらないよ。それでもいいの?」
「いいよ。むしろ、それに答えてあげられない僕が申し訳ない」
「そんなことない。お兄は間違ってないと思う」
これからも兄妹であることには変わらない。でも――
「でも、別に僕も戌子のことを女として全く意識してなかったわけではないよ」
「……え?」
僕が今まで戌子に対して思っていたことも言わなくてはいけない。
「だって、いくら兄妹のように距離が近いからって、お前はお隣さんだぞ。幼なじみなんだぞ。そりゃ、朝起きたらお前が僕のベッドで寝ていたり、僕のマグカップを使っていたり、なんてことをずっとされてきたら慣れちゃうけれどさ。でも、お前のことを可愛いなって思ってたし、ドキドキしたことだってあったんだぞ」
戌子は女の子として可愛い。それはずっと昔から思っていたことだ。それに、成長するところは成長してる。胸はほどほどにという感じで、お尻も引き締まっている方だけれど。それでもくっつかれてそういう部分が触れたとき、普通にドギマギしてしまった覚えがある。
「そうなんだ……えへへ、そうなんだ」
とたん、ちょっと嬉しそうになり、涙をぬぐうと。
「お兄、ごめんなさい!」
と、抱き着いてきた。
「お兄、大好きだよ。もうお兄が嫌がることはしない。日和さんにも謝る」
「うん、ありがとう戌子。僕もお前が大好きだぞ」
僕も戌子のことを抱き返した。
胴体に当たる戌子の胸。いつも嗅いでいるはずの戌子のミルクっぽい香り。
今のやり取りをした後だと、今までよりも戌子のことを、女性であると意識してしまう。
「でもね、あたしあきらめないよ。今言った大好きが、家族としてじゃなくて、恋愛的な意味になるように。あたし、お兄にアプローチを続けるから」
ふーっ
「ひゃっ!?」
戌子が耳に息を吹きかけて、思わず僕は身体をビクつかせながら変な声を出してしまった。
「えへへ、お兄かわいい」
顔を見合わせて、続ける。
「あたし、約束するから。誰かを傷つけたり、お兄と一線を越えたりはしない。でも、一線を越えなければ、お兄が嫌じゃないって思えば、別に何してもいいよね」
と、顔を近づけてきて。
「ちょ、待って……」
抱きつかれているため戌子を離すことができず。
静かに、唇同士が触れあった。
「……ふう。キスぐらいは許してよ。それに、お兄も嫌がってはないみたいだし、大丈夫だよね」
なんて、上目遣いでつぶやく。
「……今回だけだぞ」
戌子の唇はミルクのように甘かった。




