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第2話 トイレにて

 大井先輩との会話を追えて、僕は次の講義へ出るため、講義棟へと向かっていた。


 人通りの少ない実習棟の廊下を歩いていると、どこかから女性たちの固まった話し声が聞こえてきた。


 おっと、嫌な予感がする。

 早くこの建物を抜けた方がよさそうだ。

 そう思って、速足で曲がり角を曲がったタイミングで。


「おや、木野くんじゃあないか」


 苦手な人達と出会ってしまった。


「は、鳩島先輩」

「やあやあ、元気にしてるかな?」


 絵に描いたように女性の取り巻き達を従えながら、そのイケメンフェイスの女性は、こちらへ近づいてくる。


「え、ええ、元気よく生きてりますよ」

「そうかい、それは何よりだ」


 なんて、歯の浮くような薄い内容の挨拶を交わす。


 鳩島詩恵瑠先輩。僕より二つ年上で、四年生の中性的な女性。

 僕よりも少し背が高く、ウルフカットの髪形で低い声質がボーイッシュさを演出する。そして値段の高そうな青いカラーシャツと黒のパンツによる服装のスタイリッシュさ、何よりその宝塚の男役のような凛々しいイケメンフェイスが素敵だ。


 ただの知り合いとして、このような女性とお話をするだけなら、僕も願ったりかなったりである。だがしかし僕はこの人が苦手だ。なぜなら。


「いやー、君は今日もかっこいいね」

「あ、ちょっ」


 鳩島先輩は僕の腰に手を回すと、ぐっと身体を近づけ、中指に青い宝石の指輪をした左手を、僕の顔へ添えた。


 あー! や キャー! といった、取り巻きの女性達の黄色い……ではなく羨むような、妬む声をよそに、僕はキリッとした目元にひきつけられる。

 

「せ、先輩近いです!」

「うん~?」


 正面から僕の顔を覗き込んでくる。

 ハーブのようなすっきりとした匂いが香ってきた。

 まつげが長い。鼻が高い。顔をさする指が細い。ボーイッシュなのだけれど、それとは不釣り合いなほどに胸が大きく、鳩島先輩が女性であることを意識させる。


「あ、あの、僕のことかかっこいいって、いつもいいますけれど……」


 心臓のドキドキが止まらない。こんな人に近寄られて、平気ではいられない。


「僕より先輩の方がイケメンですよ」

「ううん、そういう問題じゃないんだよ。君が男らしいから、いつもかっこいいって言ってるんだよ。それにボクは君からしたら……」

「か、可愛らしい……ですよ」

「だものね!」


 微笑みながら、先輩は僕の頬を撫でる。

 身体がゾクゾクとする。


 鳩島先輩はこの大学におけるプリンスだ。俗にいう王子様、という感じの女性である。男顔負けのルックスで、女性を魅了しまくっている。大学に入ってすぐに、学校の有名人として認知したが。人気者過ぎて、僕のような下人には近づくことが許されないような。そんな貴族のような、スクールカースト上位の存在だと思っていた。


 なのだけれど、僕はこうやって、なぜかこの人に超接近される。とても恋人ではない男女が接するような距離感ではない。


「いやー、今日は君に会いたい気分だったから、キャンパス中探し回ったんだよ」

「さ、探したんですか?」


 この取り巻きの人たちを連れて?


「やっと見つけたところだけど、もう講義の時間が近いから、行かなくちゃいけないね。ちょっとしか話せなくて残念だよ」


 王子さまは僕から離れると、「バイバイ」と手を振って行ってしまった。その後を付き添いの女性たちがついて行くのだが。


 みんな先輩には聞こえないほどの小さな声で僕に対し「妬ましい」「死ね」「鳩島様は可愛いじゃなくてかっこいいだろ」「気軽に近づくなゲスが」「死ね」と、罵詈雑言を浴びせてから去って行く。


 ひどい嫌われようだ。

 たまに、僕のバッグにゴミが入っていることがある。意図的に入れたような、食べ物の包装紙やジュースの紙パック。それはおそらく、彼女たちによるものだと思っている。それ以外にそんなことをされる心当たりがないから。


 そう、僕に先輩が近づくと、彼女にゾッコンな付き添い達に不快ないたずらをされるのだ。だから僕は、先輩に会うのが苦手である。

 というかそもそも、何であんなに接近してくるのだろうか。


 毎度の如く、先輩に接近されて高鳴ったドキドキ。そして取り巻きによるモヤモヤ。それを抑えるため、リラックスするため、僕は近くのトイレに向かった。





 僕が鳩島先輩と初めて会ったのは、去年の冬ごろだ。普段から鳩島先輩には女性達がまとわり付いているため、どこにいても目立つのだが、その日はたまたま、一人で歩いているところに遭遇した。遭遇したと言っても、ちょうど今いるトイレの前に一人歩く後ろ姿を見つけただけなのだが。


 トイレに行くときは一人なんだ、なんて考えていたその時、僕は廊下に落ちていたハンカチを見つけて手に取った。

 かわいらしい、ピンク色のハンカチだった。誰かの落とし物だろうから、事務局に届けようかと考えた。すると。


「あ、ごめん、そのハンカチ、ボクのだ」

 と、振り返った鳩島先輩がこちらに駆けつけてきたのだ。


「こ、このハンカチ、先輩のものなんですか?」


 初めて鳩島先輩に話しかけられ、すごく胸がドキドキした。


「そうなんだ。えっと、とてもボクらしくはないハンカチだよね」

 

 確かに、ボーイッシュで王子様な先輩のイメージとはかけ離れているハンカチである。

 しかし。


「でも、女性らしくて、素敵なハンカチだと思いますよ」

 

 なんて、変なことを言って、僕はハンカチを渡したのだ。


「あ、ありがとう……」

 

 先輩はなんだか不思議そうな顔をしていた。


「ど、どうかしましたか?」

「き、君はボクのことを、女性らしいと思ってるのかい?」

 

 これは、なんだか言ってはいけないことを言ってしまった感じだろうか。


「あ、えっと……」

「思ってること、教えて!」

 

 整った強い顔を、ぐっと近づけてきた。

 胸がさらにドキッとし、顔が熱くなった。


「す、素敵な女性だと思います。こういった女性らしいものを使用しているところも、可愛らしいなと」

「そ、そう……可愛らしいね……」


 鳩島先輩はうつむきながら僕から離れてしまった。


 怒らせてしまっただろうか。それもそうだ。だって、あのボーイッシュな女性につい可愛いと言ってしまったのだ。気にしていることを言ってしまったかもしれない。


 しかし、距離を離した先輩は首を傾けて問いかけた。


「ねえ、ボクってさ、可愛いかな?」


 その時の頬を赤くした表情、モジモジとした態度が、素直に可愛いと思ってしまった。


「は、はい……可愛いです!」

「フフッ、ありがとう!」


 僕の返答を聞くと、嬉しそうにニコッとして、先輩はその場を去っていった。

 どことなく軽快な足取りが、愛らしいと思った。





 それから先輩は、出会うたびに距離の近い挨拶をするようになった。


 そういえば、先輩は何で僕の名前を知っているのだろう。教えた覚えはないけれど、顔の広そうな人だし、誰かから聞いたのだろうか。


 それよりも、先輩は僕のことをかっこいいなんて、男らしいなんて、言ってくれるけれど。

 僕は別に男らしくないし、かっこよくはないだろ。だって、人と話せばモジモジしてしまう節があるし、堂々とはしていない。

 物理的な力もなければ人を引っ張るよう主導力なもない。多くの点において、ナヨナヨしているような僕は鳩島先輩より大きく劣っている気がする。


 それとも、あのとき可愛いと言ったことが、そんなにうれしかったのだろうか。

 まさか、それで僕に惚れた? そんなことで、僕のことが好きになった?


 いや、でもあの人、噂によると女性とよく寝ているらしいし。


 週に一回のペースで女性とワンナイトを繰り返していると聞いている。

 らしいとは言うものの、その噂はどうも事実のようで、実際に先輩と寝たと言う同級生がいる。そいつが嘘をついていないのならば、その噂は確実だ。だとすれば、そんな人が男である僕のことを好きになるはずはないよな。


 じゃあ何の意図があってあんなことを言うのだ。

 怖いな。


 それよりも僕が困っているのは、あの人の距離が近いことにより、周りの女性たちに妬まれることである。

 嫌がらせを受けているのだから、迷惑で仕方がない。そのうちエスカレートしてこれ以上のことをされないかと、迷惑で仕方がない。


 これって、もしや新手のいじめではないか? 

 わざと彼女たちに嫉妬させて、僕に嫌がらせを間接的にさせているとか。いや、普通にグルでいじめに来ているとか。だったらなんて陰湿な。

 いや、それは鳩島先輩を悪く言い過ぎだろうか。


 まあ、なるべく関わらない方が良いだろう。トラブルは回避したい。というか、避けているつもりなのだけれど、向こうから探しに来ちゃうしな。


 なんてことを考えているうちに、僕はとうに用を足し終わり、男子トイレから出ようとしていた。


 その瞬間だ。


 ガラララ……


「あっ」


 多目的トイレから男の人が出てきて、ぶつかりそうになってしまった。


「すいません」


 謝ったその時、多目的トイレの中に、人影が見えた。

 そこに女性がいた。すごく麗しい女の人だ。まるでお嬢様のように気品のある身なりである。


 女性はこちらに気が付くと、焦ったような表情をした。

 

 一つの多目的トイレに、男と女がいる。


 ……そうか。

 おそらくこの二人、ここで変なことをしていたのだろうな。

 確かにここのトイレはキャンパスでも隅の方にあるし、実習棟というだけあって実習がなければ来る人も少ない。だから利用しに来る人は少ないが。

 それでも大学という場でそういうことをするのはいただけないな。

 気品のありそうな身なりなのに、こんな下品なことをするのだな。


「じ、じゃあ俺はこれで……」


 男は気まずそうに、そそくさと去ってしまった。

 僕も目を逸らすようにこの場を速足で去ろうとしたところ。


「ちょっと待って!」

「うぇ?」


 グイッと腕を引っ張られ、バランスを崩し、僕は多目的トイレの中に倒れてしまった。


「な、なにするんですか?」


 トイレの中に倒れるなんて、汚い。


「ご、ごめんなさい」


 女性は扉をすぐに閉めると、後ろ手にガチャッと鍵を閉めた。

 僕は手すりをつかんで立ち上がろうとした。しかし女性はそんな僕の両肩を掴み、壁に押しつけてきた。


「え、ええ!?」

「あ、あの、えっと……」


 近づけられた女性の体。赤色のワンピースのシワが目立つ。

 高貴な匂い。エキゾティックでセクシーな感じだ。でもその奥に生々しい臭いがのこっている。それがなんだか気持ち悪い。

 女性は金色でハーフの髪を垂らし、上目づかいでこちらを見つめる。その様子は素直に美しすぎて、また心臓がドクドクと高鳴る。


「い、今見たの、誰にも言わないでほしいのですが、いいかしら」

「は、はい、いいですけれども」

「ほんと? ありがとうございます。それでは、口封じのお礼として」


 女性はワンピースのスカート部分ををめくった。

 黒色のショーツが見えた。


「ええっ!?」


 僕はとっさに顔を真横に向ける。


「な、何をして……」

「エッチをなことをするに決まってるでしょう?」

「エッチなこと!?」


 何言ってんだこの人!?


「ほら、顔をそらさないでこっちを見てください」


 初対面の僕にも、そんなことをしようというのか。

 動揺する僕をよそに、女性は淡々とワンピースを脱いでいる。


「ぼ、僕はそういうの大丈夫ですから!」

「大丈夫なんて。男の子だったらしたいものでしょ、遠慮しないの」

「そんな、決めつけないでください。本気で拒否してるんですよ。それに、もうすぐ講義ですから」

「さぼっちゃいましょうよ」

「そんなわけには……」


 身なりにそぐわず、とんでもないことを言う。


「なんてことを言いながら、あなた、私の胸を注視しちゃって。期待してるのでしょう?」

「そ、そんなこと」


 ワンピースを脱ぎ終え、上下黒色のブラジャーとショーツだけの姿になっていた。

 綺麗な肌だ。色白で痣ひとつない。大きな胸がブラジャーをはち切れんとばかりに圧迫していてエロい。

 ショーツから伸びるすらっとした生足も眼福過ぎる。

 細身ではあるが、出るところは出ていて、まるでグラビア女優のようだ。


 というかこの人、ワンピースの下にインナーを着ていなかったのか。


「君、童貞でしょ」


 女性はいたずらな笑顔を浮かべた。


「わたくしの身体、じっくりと見ちゃって」


 女性は固まった僕の耳元で囁くように言った。


「かわいい♡」


 ゾクッ!!

 

 理性が一瞬飛びそうになる。

 僕は素早く女性の両肩を掴む。


「あら、意外と積極的?」

 

 違う。 

 僕は女性と距離を離して立ち上がる。


「ぼぼ僕は、好きな人としかそういうことをしたくないので」

 

 童貞らしく動揺してしまっている。


「私としたくないの?」


 女性は立ち上がると、自身の引き締まったお腹を撫でて、体のラインを見せつけて僕を煽る。細いのにグラマラスで素敵すぎる。


 でも。


「え、ええそうですよ。名前も知らないような人とできるわけがないですよ」

「わたくしの名前は、鞠井姫よ」

「え?」 


 鞠井姫?

 

 聞いたことがある。三年生に、とってもビッチな人がいるって。その人の名前が、たしか姫ということを。


「さあ、これでお互い名前を知ったし、続きを……」

「いや、僕の名前はまだ知らないでしょ!」

「木野星也くんでしょ」

「なんで知ってるの!?」

「知ってるから」


 なんだこの人。怖っ!


 拒む僕なんて気にせず鞠井先輩は両手で覆いかぶさり、再び僕を壁へ押し付けてきては、片手で胸をさすってくる。

 首元から、脇にかけて、優しくなでる。それはくすぐったくて、でもなんだか気持ちが良い。


「ああっ」 


 思わず情けない声が漏れてしまい、僕は自分の口を押えた。その様子を見て鞠井先輩は妖艶な笑みを浮かべた。


「本能では望んでいるくせに。そんなに、わたくしのことを拒むのなら」


 すると人差し指を立てて、片胸の中心の辺りをクルクルと小さな円を描くようになぞる。

 変なところに当たりそうで当たらない。その変なもどかしさに、肩が小刻みに震える。


「このまま、わたくしのことを好きになりなさいよ」


 ねっとりと囁かれる。


「い……いや……」

「好きになって、そして交わりましょうよ。恋人になってもいいのですよ。好き同士なら、あなたの抱く情欲、全てわたくしに吐き出せるでしょ?」


 こんな誰とでもするような人と、一線を越えたくはない。そういう人は生理的に受け付けないのだ。でも、そのはずなのに。

 気が、昂ってしまう。


 このままではこの人のペースに飲まれて、大切なものを失ってしまう。


 それは嫌だ。僕は初めては好きになった人としかしたくない。

 こんなやりなれた誘惑に負けたくはない!


「う……や、やめろって!!」


 僕は無理やり突進し、先輩を引き離した。


「ハァ……ハァ……」

「あ~、ちょっと~」


 甘い声色でこちらに手を伸ばしてくる。


「す、すいません。誰にも言わないので勘弁してください!」


 僕はその手を避け、颯爽と鍵を開けると、トイレを飛び出した。

 焦るように、バタバタとした足取りで。

 

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