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第108話 洗脳

 何かがおかしくて。大切なものを忘れてしまっているようで。素直に、したいという気持ちにはなれない。この気持ちでは、成美さんにも失礼だ。


「……なんで」

「本当に、ごめんなさい」

「なんで!!」


 いきなり声を荒げる。聞いたことのない成美さんの怒声に心臓が跳ねた。


「な、成美さん?」

「わ、わたしのことを、ちゃんと見てよ」


 すると成美さんは僕の膝の上に、顔を見合わせてまたがってきた。


「ちょ、ちょっ」


 ネグリジェで強調される成美さんの胸元が目の前にある。生地が薄いからこそ膝の上で成美さんの、ズッシリとした柔らかいお尻の感覚が押し付けられる。

 女の人のいい匂いがめちゃくちゃした。


「誰のことを考えてるの! 嫌だよ、ほかの人のことを考えないで! わたしは、一年以上、あの日君に話しかけられたときから、ずっと君のことを見てきたのに、君はフラッとぽっと出の女の子のところに行っちゃってさあ!!」


 取り乱したように、成美さんはよくわからないことを乱立する。


「ど、どうしたんです……」

「ねえ、言って!!」


 成美さんはぐっと顔を近づけて聞く。


「君の彼女は、誰なの!!」


 彼女らしからぬ威圧的な表情に、萎縮してしまう。


「ぼ、僕の彼女は……」


 そんなの決まっている。今、目の前にいるこの人だ。


 ……いや、決まっているのか。成美さんと付き合っているはずなのに、心がそれを拒んでいるみたい。僕の本能が否定してくようで、すっごくモヤモヤする。


「ぼ、僕は……」


 僕の彼女は、誰なんだ……


「……もう!」


 そのとき、じれったそうに成美さんは僕をベッドに倒して、覆い被さってきた。

 柔らかい身体で抱き絞められてしまう。

 そして……


「わたしは、君の彼女なんです。それを、自覚して……」


 と、目を閉じて唇を重ねてきた。


 柔らかい成美さんのリップ。これまでに経験したどの唇よりもぷっくりしていて、柔らかい。


 ……どの唇よりも? 

 何を考えているんだ。僕は成美さん以外とお付き合いした経験がないのだから、キスをしたこともないじゃないか。


 コツッ


 歯が当たる。


 上手くはないキス。初心で、だけど精一杯を感じる、慣れない唇。



 ……僕の経験したキスは、もっと上手だったはずだ。

 


 愛おしい人のキスは、とっても上手で色っぽくて。僕は絆されたし、経験を積んだからこそできるその口づけに嫉妬した記憶もある。


 そう、そのキスは成美さんによるものではない。

 だって成美さんは、こんなにもキスが下手なのだから。


 僕は成美さんを優しく剥がしてから告げる。


「僕の恋人は、あなたじゃないです」


 そう、僕の恋人は成美さんじゃない。僕の大切な人は……この人ではない。


「僕のお付き合いしている人は、栗村日和さんだ!」

「……なんで。なんで思い出しちゃうの」


 そう、思い出した。全部思い出した。

 僕は日和さんと、六月の暮れに付き合った。それから彼女は僕の騎士として、僕のことを命がけで守ってくれたというのに。

 何でそんな大切なことを忘れていたのだろう。

 自分を責めたくなる。自分を殴りたくなる。自分の腹を掻っ捌きたくなる。


「……大井さん。あなたが、僕の記憶を書き換えたんですか?」

「名前で、呼んでくれないんだ……」


 大井さんは悲しそうな表情を浮かべた。


「もう、君に催眠は効かないみたいですね。わたしの匂いを嗅いでも、わたしのことを想ってくれないんですもの」


 大井さんの匂いが、僕に催眠効果を施していたのか。

 いけない。早く日和さんの元へ戻らなくてはいけない。確か昨日、日和さんは強い催眠薬を盛られてしまい、眠りについていたはずだ。身体に異常がないか心配だ。


「大井さん、僕の上から降りてくれませんか」


 僕はお願いするも、大井さんはそれに応えようとしない。


「……わたしは、君のことが、好きでした」


 先輩は言葉を漏らした。すると。


「ふんっ!!」

「ぶっ!?」


 顔に胸を押し付けられてしまった。

 クッションのように柔らかくて、顔が胸のなかに凹む。鬼頭さんのときとも違う、やんわりとした張り感の胸。谷間から大井さんの湿っぽい匂いが流れ込んできて、一気に脳が侵される。


「お、おおいさんっ」

「気持ちを伝えなかった自分が悪い、そんなことは分かっています。わたしなんか地味な女、どうせ告白しても断られてしまう。そうなってしまったら、わたしたちの関係が終わる。それが怖かった。だから、君に彼女ができたと知ったとき、わたしは諦めたつもりだった……でもっ!」


 先輩は顔から胸を離すと、今度は馬乗りになる。胸に呼吸が遮られたために、頭がくらくらしている僕の両手を、押さえるように掴んできた。


「誰かがSNSに、わたしたちの大切な園を晒しました。コメント見ました? 芋っぽいだの、わたしが王子様と対等なのが気に入らないだの、もっとひどいことも書いてありました……」


 それは、僕の姿が盗撮され、SNSにさらされたときのことだ。鳩島先輩の仕業で、僕はあのとき精神的に追い詰められていたが。

 そうだ、大井さんも僕と一緒にいたために撮られてしまい、その結果王子様の過激なファンたちに注目されてしまって、責められて、落ち込んで学校に来なくなってしまったのだった。



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