第107話 彼女と夜の誘い
「こんな家庭的な料理、この先も君と作っていきたいな……」
そんなことを言ってくれると僕も嬉しくなる。
しかし、ラタトゥイユといえばつい最近も、作ったような気がする。
確か戌子に手伝ってもらいながら、自慢のラタトゥイユを作って。それを戌子と、阿奈さんと、それから……もう一人、誰かと食べたはずだ。
誰だっただろうか……思い出せない。
なんだか、モヤモヤして仕方がない。忘れてはいけないような不安感がある。
愛しかった人……だったと思う。それだったら、普通に成美さんかな。
でも、成美さんではなかったような気もするし……
「ど、どうしたの星也くん。ボーッとしてますけれど」
「え、ああごめんなさい」
なんだか、今日は色々なことを忘れてしまっている気がしてならない。
「……ね、ねえ、あの……さ」
成美さんは箸を止めると、急にモジモジし始めた。
「どうしました?」
「……ここ、今晩は……わ、わたし、さ……したいなって、思ってて」
身体を震わせるように緊張しながら、成美さんはそう言った。
今晩はしたい。それはつまり……そういう誘いだ。
「い、いいです……よ」
同棲している恋人だ。それをするのは、当たり前のことである。
が、やはり緊張する。こう、初々しく誘われると、ドキドキしてしまう。
食事を終えると、二人で無言のまま洗い物を済ませて、成美さんから順にお風呂へ入って、身体をきれいにした。
そうして二人とも準備を終えると、僕は彼女の待つ部屋へと向かう。
「な、成美さん、入るよ」
「はい……どうぞ」
ノックをして、僕らの寝室へ入った。
入った瞬間、部屋に満ちた彼女の匂いが鼻腔を刺激する。しっとりとした、ウッドな匂い。心を落ち着かせるような素敵な香りだ。
壁際には漫画や小説がびっしりと詰まった大きな本棚。読書好きの彼女を象徴するよう。
成美さんは薄っすらと暗い照明の中、ベッドに腰を掛けていた、が……
「そ、そのネグリジェは……」
「ど、とうかな」
成美さんは、グリーンのネグリジェを纏っていた。とても普段の地味な印象の彼女からは想像できない姿。
すごく色っぽい。普段は隠した豊満な胸も強調されていて、扇情的で興奮してしまう。
「きれいです……とても」
黒縁のメガネを少しずらし、モジモジとこちらを上目遣いで覗きながら、期待するような、でも不安そうな、そんな表情を向けている。
「と、隣に……来て……」
「はい……」
心臓をバクバクさせながら、僕は彼女の隣に腰を下ろした。
シャンプーのいい匂いがした。いや、女の子の柔らかい匂いがする。フェロモンなのだろうか。ずっと嗅いでいたくなるような中毒性がある。
横目に見る彼女の肌は真っ白でスベスベだった。
「手……繋いでもいいですか」
「はい……」
成美さんが僕の片手を優しく握った。柔らかい女の子の手だ。若干汗ばんでいて、そして脈を通じて彼女のバクバクとした緊張の音が伝わってくる。
僕たち、まるで今夜が初めてのよう。
同棲してきているのだから、これまでにもエッチくらいしてきている気がするが。しかし、思い返そうとしても、その記憶が出てこない。
本当に初めてなのか?
なぜ、今日はこんなにも記憶があやふやなのだろう。……なんだろう、本当にこのまま、してしまってもいいのだろうか。
まるで、何かを裏切ってしまうような不安が募り、ピンクな感情が徐々に薄まっていく。
僕って、本当に成美さんのことが好きだったっけ。
この気持ちが、怪しく感じた。
成美さんとの出会いは大学の図書室だ。出会ってからはしばらく、図書館で成美さんと談笑をする日々を送ってきたが。
それからどのタイミングで、僕らは恋人の関係になっただろうか。
思い出せない……どっちから告白をして、いつから同棲をするようになったのか……思い出せない。
それって、普通じゃない。おかしいじゃないか。
「成美さん……」
「は、はい」
「僕たちって、いつからお付き合いを始めましたっけ」
「え? ど、どうしたの」
記憶が混濁して気持ちが悪い。
「僕って、割と最近になって、恋人ができた気がするんです」
そう。劇的な出来事が起こって、僕には恋人ができた気がする。どんなことが起こった?
「何を言っているの? わたしたちは、かなり前から付き合っているんですよ」
「どっちから、告白しましたっけ」
「どっちって。そ、それは、君の方から……」
そう、僕は告白した気がする。僕の方から、相手に気持ちを伝えたはずだ。
「どこで、気持ちを伝えましたっけ」
「どこって、図書室ですよ」
いや、違う気がする。もっと涼し気な、夜空の下だったはずだ。
「あれ……おかしいですよ。僕は確か……」
「ど、どうしたのいきなり。エッチの手前になって、緊張のあまり混乱しちゃったの?」
なんだか、成美さんと一線を越えてはいけない気がしてならない。
僕の心が、拒否しているのだ。
「ごめんなさい……今日は、出来そうにないです」
僕は成美さんから手を離して、ベッドから立ち上がろうとした。




