深愛憎
蓮の手が、彼女のうなじ、そして鎖骨の窪みへと滑り込む。
冷え切った指先が、火照りきった彼女の肌に触れる。
それは決して慈しみなどではなく、まるで死体検分のような無機質で、それでいて肌の深層まで見透かすような冷徹な接触だった。
「……汚れている」
蓮の言葉は呪詛のように彼女を縛り付ける。
彼の手から、氷を溶かしたような冷たい霊圧が、由紀の体内に静かに、だが確実に注ぎ込まれた。
「あ、ぁ……っ」
由紀の背中が大きく反る。
蓮が吸い出すのは、彼女の愛そのものではない。
その愛を歪ませ、腐敗させていた「妄執」と「澱み」だ。
体内に渦巻くどろりとした焦燥が、彼の手によって引き抜かれるたび、彼女の身体はまるで壊れる寸前の楽器のように震えた。
蓮の指が、彼女の鎖骨をなぞり、胸元へと滑る。
その動きは、彼女の服を脱がせるよりもはるかに深く、彼女の精神を直接的に「解剖」しているようだった。
「ひぅ……っ、れん、くん……ッ」
彼の手が触れる場所から、由紀の自我が溶けていく。
快感なのか、それとも絶望なのか。
汚れた熱情を吸い上げられ、代わりに彼の冷徹な気配で満たされていく。
身体の芯を冷やされ、強制的に鎮静させられる感覚は、まるで凌辱に近い悦びだった。
蓮の指先が、彼女の肌の火照りを逃さず追いかける。
彼は彼女の愛を消すのではない。
愛という熱を、彼という冷たい器の中に、純粋な形で保存しようとしているかのように。
由紀の瞳は焦点が定まらず、吐息は乱れに乱れた。
先ほどまで自分で弄んでいた場所から放たれる熱さえも、蓮の手によって凪がされていく。
それは、どんなに激しい情事よりも濃密で、逃げ場のない支配だった。
「……あぁ、ぁ……っ」
ついに彼女は、蓮の腕の中で崩れ落ちた。
全身から力が抜け、シーツを濡らした情欲の名残も、彼への黒い衝動も、すべてが彼の手によって「純化」される。
指先ひとつ触れられるだけで、彼女の中の汚濁は拭い去られ、彼を求める純粋な、ひたすらに純粋な「恋心」だけが、鏡のように澄み切って残された。
蓮は、満足したように手を離した。
その手には、彼女から吸い上げた「汚れ」の気配が、黒い霧のように絡みついている。
「これで、マシになっただろう」
蓮は淡々と言う。
由紀は荒い息を吐きながら、濡れた瞳で蓮を見上げた。
身体はあんなに空っぽにされたのに、胸の奥だけは、先ほどよりもずっと激しく、蓮という存在を求めて高鳴っていた。
汚れは消えた。だが、彼への執着は消えていない。
むしろ、歪んだ妄執が削ぎ落とされた分、彼女の恋は、より鋭く、より残酷なほど純粋なものへと研ぎ澄まされていた。
「……ひどいよ、蓮くん」
由紀は震える指先で、蓮のシャツの裾を掴む。
瞳には潤んだ光と、彼を永遠に逃がさないという、新しい、もっと深い愛の重みが宿っていた。
「……こんなに綺麗にされちゃったら、もう、あんた以外何も見えなくなるじゃない」
蓮が手を離した瞬間、境内の空気がストンと重い静寂に収束した。
由紀の瞳からはかつての濁りや狂気が消え去り、ただ蓮を直視し続ける純粋な、あまりに熱い恋慕だけが残っている。
その空気を切り裂くように、本堂の方からゆっくりとした足音が響いた。
蓮の父――この古刹の住職が、いつの間にか背後の縁側に立っていた。
父は、地に落ちた名刺を無言で見下ろし、次に肩を震わせる由紀と、淡々と佇む蓮を見比べた。
寺に漂う独特の霊的な残滓と、二人の間に流れる肌を焼くような濃密な気配。
住職である彼にとって、そこで何が行われたかを察するのに、長い時間は必要なかった。
父は溜息を一つ吐くと、蓮の足元に落ちていた「凪」の名刺を、つま先で拾い上げた。
「……やはり、来ていたか」
父の呟きは、ひどく重く、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
彼は名刺を指先で弄びながら、遠くの空を見上げる。
「『凪』……国内外の未解決事件を、その力で強引に解決へと導く独立組織だ。法に縛られず、表にも出ず、ただ世界の『歪み』を剪定する者たち……」
父は言葉を切り、鋭い視線を蓮に向けた。
「昔、私も一度声をかけられたことがある。……この寺に腰を据えるか、彼らの側でその力を振るうか。私は前者を選んだが……彼らは、何十年経っても変わらないな」
父は、蓮の周囲を警戒するように見回す。
彼の目には、この小さな古刹が、既に大きな潮流に巻き込まれようとしていることが見えていた。
「偵察だろう。お前のその『源流』が、ただの寺の少年にしては大きすぎることに、彼らは気づいたんだ。……厄介な客を呼んでしまったな、蓮」
父の声には、親としての心配と、かつて同じ道を選ばなかった者としての、ある種の警告が混じっていた。
その傍らで、由紀は父の言葉を半分も理解できていなかったかもしれない。
けれど、彼女は蓮の横顔を見つめ、初めて「彼が自分から遠い場所へ連れて行かれるかもしれない」という冷たい恐怖を感じていた。
先ほどまで、彼に「掃除」されることに陶酔していた彼女の瞳からは、狂気は消えていた。
代わりにそこに宿っていたのは、蓮の肩に手を乗せ、その身を隠すように庇おうとする、痛々しいほどの心配の色だった。
彼女の指先が、蓮の袖をギュッと強く握りしめる。
浄化されたはずの彼女の心は、今は蓮という存在が崩れ去ってしまうことへの、純粋な痛みで満たされていた。
「……蓮、、くん」
由紀は震える声で彼を呼ぶ。
彼がただの掃除屋のままでいてほしい。
誰にも奪われない、自分だけの平穏の中にいてほしい。
彼女は今、自分のことよりも、彼の背中を守るための術を必死に探しているようだった。
父は、そんな二人の様子を黙って見守る。
静寂の中、蝉の声だけが、これから訪れる荒波を予感させるように、けたたましく鳴り響いていた。




