挨拶代わり
蓮の父は、指先で摘んだ名刺の端をじっと凝視していた。
ただの厚紙ではない。その裏面には、人間には見えない、しかし住職の目にははっきりと視認できる「黒い痣」のような染みが浮かび上がっている。
「……なるほど。スカウトの挨拶代わりにしては、少々タチが悪いな」
父の表情に険しい色が浮かぶ。
彼は名刺を蓮の目の前に突き出し、その「痣」を指で弾いた。
刹那、境内の空気が重く澱んだ。蟬の声が一瞬途切れ、境内全体が異質な冷気に包まれる。
「これは、彼らが解決しきれなかった『呪いの残滓』だ。あの男は、お前をただ見て去ったんじゃない。この寺の結界の強さ、そしてお前の処理能力を測るために、この『汚れ』を境内に定着させていったんだ」
蓮は無言でその名刺に目をやる。
彼の目には、名刺から這い出そうとする黒い糸のような呪詛が、まるで放置された生ゴミのように散らかっているのが見えていた。
「放置すれば、この寺の結界を侵食し、やがてここを訪れる参拝客に憑りつく。……掃除をするか、それともこの寺を捨てるか。彼らなりの『選別』だな」
父の問いかけに、蓮はわずかに眉をひそめただけだった。
その顔には恐怖も動揺もない。
ただ、「部屋が汚れたから片付ける」という、日常のルーチンを強いられたような、微かな苛立ちがあるだけだ。
「……邪魔だ。掃除する」
蓮はそう短く言い放つと、縁側を降り、境内の中心へと歩き出した。
由紀は、縁側で立ちすくんでいた。
先ほどまで、自分自身を浄化されたことで空っぽになっていた心に、蓮の「掃除」という言葉が、新しい熱となって流れ込んでくる。
境内の中央に立つ蓮の背中。
彼は何もない空間に向かって、ゆっくりと手を広げた。
彼が何をしようとしているのか、由紀には見えるはずがない。
しかし、彼女の直感は、今、目の前で「彼という存在の本質」が暴かれようとしていることを理解していた。
蓮が指先を軽く振ると、空中に見えない何かが切り裂かれるような音が響く。
黒い霧のようなものが、地から這い出し、蓮の指先に吸い寄せられていく。
それは、ただの霊能力者の exorcism(悪魔祓い)などという生易しいものではない。
もっと強引に、暴力的に、世界の均衡を彼自身の領域へと引き摺り込むような――圧倒的な「支配」だった。
「……ッ、あ……」
由紀は息を呑んだ。
黒い渦を操る蓮の横顔は、いつもの無機質なものではなく、獲物を狩る捕食者のような冷酷さを孕んでいる。
自分を浄化してくれたあの手。自分を空っぽにしてくれたあの指。
彼が今、自分以外の「汚れ」を、こんなにも無慈悲に、そして鮮やかに処理している。
由紀の胸が、激しく高鳴る。
汚濁を吸い取り、世界を澄ませていく蓮の姿。
それは、先ほど彼女が味わった「掃除」の光景よりも、さらに深く、彼女の魂を打ち抜いた。
父親が遠くから、その様子を静かに見守っている。
住職の表情には、安堵とも失望ともつかない、複雑な色が宿っていた。
「……その力、スカウトに乗るようなものだぞ、蓮」
由紀は父の呟きを耳に入れながらも、視線を一瞬たりとも蓮から逸らさなかった。
もし蓮が、その巨大すぎる力ゆえに、この日常から引き剥がされてしまうのなら。
もし彼が、この寺から去らなければならなくなったとしたら。
彼女は、蓮の背中を守るように、そっとその歩数分だけ彼に近づく。
浄化によって純粋になった彼女の愛は、今や、彼の力を恐れるのではなく、彼の力の唯一の理解者であり、依り代でありたいという、狂おしいまでの献身へと姿を変えていた。
掃除は、終わろうとしていた。
名刺にこびりついていた「凪」の置き土産は、蓮の指先で塵となって消え去る。
蓮は最後に小さく息を吐き、振り返る。
彼の瞳は、何もなかったかのように静かだった




