支配の欲望
情事の余韻が冷めやらぬまま、由紀は震える手でシーツを掴み、天井を見上げていた。
指先の感覚に、彼の手の感触を重ね合わせる。
自分が自分でないような、得体の知れない感覚。
かつて教室で、虫けらのように見下していたあの男。
ゴミのように扱っていたはずの彼が、今や自分の世界の中心で、誰よりも高い場所から自分を見下ろしている。
「……気持ち悪い」
独りごちた言葉は、自分自身に向けたものか、それとも自分を狂わせる彼に向けたものか、彼女自身にも分からなかった。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の心は決していた。
このまま誰かに奪われるくらいなら、自分で壊してしまいたい。
由紀はベッドから這い出し、シャワーを浴びた。
鏡に映る自分は、いつもの完璧な「桜木由紀」に戻ろうとしていた。
髪を整え、表情から赤みを消し、学校のアイドルとしての完璧な仮面を装着する。
だが、その瞳の奥には、消えない濁りが宿っていた。
彼女はスマートフォンを手に取り、電車に飛び乗る。
向かう先は、彼が居座るあの古刹。
夏休みの平穏など、彼女には関係ない。
彼女にとっての夏は、彼を食らい尽くすための季節でしかなかった。
寺の石段を登る足取りは、軽い。
自分の中に渦巻くこの渇きを、今すぐ彼にぶつけなければ、自分という存在が保てない――そんな衝動が、彼女を突き動かしていた。
山門をくぐり、境内に足を踏み入れた瞬間、由紀は立ち止まった。
空気が、変だ。
あの日、蓮が纏っていたものとは別の、鋭く、冷徹な気配が境内にこびりついている。
その気配の先、縁側に座る蓮の背中を見つけた時、彼女の心臓が激しく跳ねた。
――そこには、見知らぬ男が置いていった名刺が、蓮の傍らに落ちていた。
彼女は、蓮の背中と、その名刺を交互に見つめ、唇を噛む。
自分の知らない「何か」が、彼に接触した。
その事実に、由紀の独占欲が、さらなる黒い炎となって燃え上がった。
由紀は、蓮が指先で弄んでいたその小さな紙片を一瞥した。
その瞳には、それがどれほどの価値を持つものか、あるいはどれほどの危険を孕んでいるかといった思惑など、微塵も宿っていない。
ただ、深い井戸の底のように静かな無関心があるだけだった。
「……何でもない」
蓮は短くそう告げると、再び冷えた麦茶のグラスに視線を戻した。
その一言は、世界からの招待状をゴミのように切り捨てる拒絶でもあり、同時に、彼がこの閉鎖的な寺という箱庭以外に興味を持っていないという証明でもあった。
由紀の胸の奥で、張り詰めていた糸がふっと緩む。
同時に、それまで彼女を苛んでいた「彼がどこかへ行ってしまうかもしれない」という焦燥は、より濃厚で粘り気のある、歪な安堵へと変わった。
(やっぱり、この人は……)
由紀は名刺を指先から滑り落とすと、それを拾い上げることもせず、ただ蓮の隣へと歩み寄った。
古刹の縁側。湿った風が二人の間を通り抜ける。
彼女はスカートの裾を払い、蓮と肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に腰を下ろした。
先ほどまで自室で自分の手で弄んでいた肌の感覚が、まだ熱を持って残っている。
蓮の傍らに身を置いたことで、それがより鮮明に、かつ背徳的に彼女の身体を支配していく。
彼が何も見ていないことをいいことに、由紀は少しだけ、蓮の方へと身体を傾けた。
「ふうん……そう。何でもないなら、いいんだけど」
由紀はあえてその場を深追いせず、ただ蓮の横顔をじっと見つめる。
彼の白い肌、赤みのある唇。
さっきまで名刺に執着していた自分が嘘のように、今は目の前にいる「彼」という存在そのものに、意識のすべてが吸い込まれていく。
「……ねえ。夏休み中、ずっとここにいたの?」
由紀はあえて、無防備なトーンで問いかける。
自分の手で自分を汚してきたばかりのその手で、彼に触れることはできない。
けれど、こうして隣に座るだけで、彼と同じ空気を吸うだけで、彼女の中の「飢え」は少しだけ満たされていく。
静寂の中で、蝉の声だけが、重たい夏の湿気をより一層強調していた。




