恋と執着
夏休みが近づく中、教室の空気は決定的に変わった。
以前まで向けられていた無言の暴力や嘲笑は消滅し、そこに居座っているのは、得体の知れないものに対する「畏怖」と、何が起きるかわからないという「緊張」だ。
蓮が席についても、誰一人として机を蹴る者はいない。
それどころか、蓮の周囲には不可視の壁があるかのように、半径数メートルには誰も寄り付かない。
放課後の教室。誰もが蓮を避ける中、桜木由紀だけは違った。
彼女は、まるで当然の権利を行使するように、蓮の席の前までやってきた。
手には高級そうな紙袋が握られている。
「……これ、お礼。こないだの」
クラス中の視線が突き刺さる。
由紀は涼しい顔で、それを蓮の机の上に置いた。
それは彼女にとって、蓮と堂々と会話をするための完璧な「大義名分」だった。
周囲に『私は恩人に礼を言っているだけ』という防壁を張り、蓮との距離を詰めるための。
蓮が中身を確認しようとすると、彼女は慌ててそれを止めた。
「開けなくていいわよ。……ねえ、ちょっといい? 歩きながら話そ」
二人で廊下に出る。人目を避けた場所で、由紀は少しだけ頬を紅潮させていた。
「……あんたのおかげで、最近すごく体が軽いの。……変よね。あんなに最低な掃除屋だって思ってたのに」
彼女は自分の胸に手を当てた。動悸が速くなっている。
除霊という特異な接触。
そして、あの教室での圧倒的な強さ。
それらは由紀の中で、単なる興味から、無視できない「恋心」へと変貌していた。
自分でも認めたくないはずなのに、蓮の気配を感じるだけで、彼女の心臓は音を立てて波打っている。
「……ねえ。掃除以外の話、してもいい?」
彼女の瞳に浮かぶのは、アイドルとしての虚飾ではなく、一人の少女としての純粋な欲求だった。
一方で、工藤の姿は学園から完全に消えていた。
あれから、一度も登校していない。
工藤の自宅の自室。カーテンを閉め切り、光を遮断した部屋で、彼は震えていた。
彼にとって、蓮に負けたという事実は、単なる敗北ではなかった。
彼の全人生を支えていた「エリートとしての誇り」と「桜木由紀を独占したいという支配欲」を、底辺だと思っていた男に完璧に蹂躙されたのだ。
工藤は、ふとした瞬間に、蓮の冷たい眼差しを思い出す。
憑依されていた時の記憶が断片的に蘇るたび、彼は恐怖に苛まれる。
自分の中に潜んでいた醜い本性を、蓮に見抜かれ、さもゴミを捨てるかのように引き剥がされた屈辱。
「あいつは、怪物だ……」
彼はもう、誰とも目が合わせられない。
登校すれば、クラスメイトたちが蓮を見るのと同じ「畏怖」の目で見られることを知っているからだ。
かつての自分を崇拝していた取り巻きたちすら、今は彼を腫れ物のように扱っているだろうという想像が、彼を部屋から出られないほどに追い詰めていた。
教室のクラスメイトたちの間でも、ある種の「ヒエラルキーの逆転」が起きていた。
以前まで蓮を虐げていたグループのリーダー格の生徒は、今や蓮とすれ違うたびにびくりと肩を震わせ、過剰なまでに道を譲る。
「……蓮、さん。おはようございます」
彼らは蓮を恐れている。
だが、それ以上に、「あいつの正体を知っている」という歪な優越感と、「あいつに目を付けられたら終わりだ」という生存本能が混ざり合い、奇妙な空気が漂っている。
彼らの視線は、蓮に対する「敵意」から、いつの間にか「関心」へ、そして「依存」へと変わりつつあった。
この学園は今、蓮という爆弾を抱えたまま、静かに呼吸をしている。
そして、その中心で蓮を眺める由紀の視線だけが、執着という名の熱を帯びて、日ごとに深まっていく。
窓の外に広がる空を眺めながら、蓮はただ静寂の中にいた。




