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2人の出会い

すべては、あの湿り気を帯びた5月の午後に始まった。


新緑が雨に濡れ、寺の境内には重苦しい線香の香りと苔の匂いが澱んでいる。


俺と桜木由紀。この歪な共犯関係が形成された、最初で決定的な分岐点だ。



山あいに佇む古刹。

本堂には、微かに湿った線香の香りと新緑の匂いが澱んでいた。


境内に高級車が乗り付けた音を耳にしながら、俺は父に呼ばれて本堂へ向かった。


相談客が来ているという。


本堂の引き戸を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。



そこに座っていたのは、学園では誰もが振り返る完璧なアイドル、桜木由紀だった。



普段の華やかな面影はない。

彼女は母親の背後に隠れるように座り、顔色は土気色に沈んでいた。


母親が憔悴しきった表情で、住職である父に救いを求めている。


「……夜中にうなされたり、急に人が変わったような目で虚空を睨むんです。病院でも原因が分からず……どうか、お助けください」


父は静かに頷き、念珠を指に巻き付けると、ふと部屋の隅で控えていた俺に視線を向けた。


「蓮。念のためお前も傍についておけ。祓いの最中、何が起きるか分からん。万が一、あの子が暴れたり気を失ったりした時のために、手助けが必要になる。桜木さん、息子も立ち会わせてよろしいですかね。」


父の言葉に特別な響きはない。ただの寺の息子として、仕事を手伝う程度の感覚だ。


「……え、こいつが?」


由紀が俺を見た。


学園での俺しか知らない彼女にとって、この申し出は不愉快でしかなかったのだろう。


彼女の瞳には、明らかな動揺と侮蔑が走った。


学校では「いないもの」として扱われているいじめられっ子が、なぜこんな場所にいるのか。


「……お祓いなんて、あなた一人で十分でしょ」


父は黙ったままだ。



「……分かったわ。ただし条件がある。学校では絶対に誰にも言わないでよね。そんなこと、言いふらしたところで、誰も信じないでしょうけど」



俺は「ああ」と短く答え、邪魔にならない位置へと移動した。


父の読経が、低く唸るように本堂の空気を震わせ始めた。


だが、それが彼女の中に潜んでいた『何か』を呼び起こすトリガーになってしまった。



「……う、あ……ぁあッ!」



由紀の身体が異様に反り返った。


彼女の瞳から理性が消失し、代わりに昏い闇が宿る。彼女の首元には、肉眼では見えないはずの、どす黒いヘドロのような影が粘り気を持って絡みついている。


俺にはそれが「視える」。昔からそうだ。


由紀は獣のような唸り声を上げると、傍らの母親の喉元に飛びかかり、その細い指で力任せに締め上げた。


「由紀!? やめなさい!」


母の悲鳴が本堂を揺らす。


父も慌てて制止に入ろうとするが、憑依された由紀の膂力は常人を遥かに凌駕していた。


このままでは母が殺される。俺は思考よりも早く、由紀の背後に飛び込んだ。


「くそっ!」


俺は由紀の肩を掴み、引き剥がそうとする。


だが、彼女の身体はまるで生きた泥のようにねじれ、俺を振り回した。


必死に組み伏せようとした拍子、揉み合う弾みで、俺たちの顔が正面からぶつかり合った。


 ――唇が、ぶつかった。


熱い。そして、凍てつくように冷たい。



口の中に入ってきたのは、泥を飲み込んだような吐き気を催す味だった。



だが、唇を塞いだ瞬間、俺の身体が本能的に理解した。この泥を、俺の肺へ引きずり込めばいい。


(――吸い出す)



迷いはなかった。俺は彼女の唇を深く食んだ。


肺の奥から、ドロリとした粘り気のある『何か』が、俺の喉元へと引きずり込まれる。


彼女を縛り付けていた悪霊の根が、俺という容器へと強制的に転送されていく感覚。



彼女の瞳から闇が引き、脱力して俺の胸に崩れ落ちた。





     * * *



数分後。


正気を取り戻した由紀は、自分の身に何が起きたのか分からない様子で、呆れて父の介抱を受けていた。


母親は「本当にありがとうございました」と何度も頭を下げ、事なきを得たことに安堵の涙を流している



帰り際、寺の門前。



母親が車に乗り込むのを横目に、由紀だけが足を止め、俺を振り返った。



学校での俺を見る冷たい瞳とは違う、獲物を見つけた獣のような鋭い眼光。



「……ねえ。あんた、さっき、何したの?」



彼女の問いかけには、さっきまでの恐怖はなかった。あるのは、好奇心と、俺への値踏みのような視線だけだ。


「あんた、何か力があるんでしょ? どうして学校であんな風に……あんなに酷い目に遭わされてるの?」


彼女は核心を突いてくる。


俺は残った熱を吐き捨てるように、静かに答えた。


「……ただの掃除だ。溜まったゴミを、代わりに拾っただけだよ」



由紀は俺の言葉を咀嚼するように黙り込み、やがて呆れたように、しかしどこか見つめ直すような瞳で溜息をついた。


「……最低な掃除屋ね。 今日の事誰にも言わないでよ」


彼女はそう言い残し、車に乗り込んだ。


走り去る車のテールランプを見送りながら、俺は掌に残る冷気を拭った。



世界で一番俺を軽蔑していたはずの彼女が、今や俺という「力」を認識した。



ただの掃き溜めの陰キャと、彼女の共犯関係。



この歪な物語は、こうして始まりを告げたのだった。

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