蓮の力
昼間は賑やかな笑い声に満ちていた学び舎も、今は墓標のような静寂に包まれていた。
冬の凍てつく空気が、割れた窓ガラスを通り抜け、校舎の廊下を冷たい死の気配で満たしている。
昼間日常であった場所は、今は異形の呪詛が壁を溶かし、天井から黒い粘液が滴る、吐き気を催すような異界と化していた。
校舎そのものが、巨大な捕食者の胃袋のように脈動し、吐息を漏らしている。
その中庭で、二人の影が工藤という「器」に抗っていた。
一人は高圧電流を帯びた特殊警棒を構える現場班の男。
もう一人は、特殊な電子制御の封印マーカーを操る解析班の女。彼らは「凪」の精鋭たちだった。
しかし、工藤に取り憑いた災厄級の怨霊は、現代の鎮圧装備の練度を遥かに凌駕していた。
「……電子障壁が、出力負けする!」
解析班の女が展開した高エネルギー障壁は、怨霊が放つ黒い触手に触れた瞬間、紙屑のように引き裂かれる。
警棒を構えた男が突入し、高電圧の放電で一瞬の隙を作ろうとするが、工藤の身体から噴出した怨念の濁流が、彼の武装を容易く弾き飛ばした。
轟音とともに二人は校舎の壁まで叩きつけられ、血を吐いてその場に崩れ落ちた。
プロの現場部隊であっても、この怪物を前には数分と持たなかった。
静寂が戻った中庭に、雪を踏みしめる音が響く。
蓮が、ゆっくりと中庭に足を踏み入れた。
その背後には、彼のコートの裾を離すまいと必死に縋り付く由紀の姿がある。
「……掃除の邪魔だ」
蓮は倒れ伏した二人に目もくれず、工藤に向き直る。
工藤(怨霊)は、蓮を新たな獲物と認識し、咆哮とともに黒い触手を無数に突き出した。
蓮の動きは、水面を滑るように淡々としていた。
触手が迫る寸前、彼は最小限の足捌きで回避し、懐へ飛び込む。
無駄のない、研ぎ澄まされた体術。
工藤の連撃を掌で受け流し、その勢いを殺さぬまま、工藤の関節を制圧する。
バキリ、と硬質な音が鳴った。
工藤の腕を逆関節に極め、そのまま地面へと叩きつける。
暴れる工藤を力任せに押さえつけ、蓮は反対の手で工藤の額に冷たく触れた。
彼は宙を仰ぎ、ただ一言、この世の汚れを否定する言葉を紡ぐ。
「……不浄は、消える」
蓮の指先から流れ込んだ白光が、工藤の体内を焼き払う。
中庭を支配していた黒い霧が、陽光に溶ける霜のように消え去り、校舎の歪みも急速に収束していく。
気絶して横たわる工藤だけが取り残されたその時、校門から「凪」の増援部隊が慌ただしく駆け込んできた。
彼らは倒れている仲間を見つけ、救助に駆け寄ろうとする。
蓮は彼らには目もくれず、背を向けたまま、淡々と指示を飛ばした。
「病院へ運べ。……死なれると面倒だ」
蓮は返事も待たず、乱れた衣服を整えもせずに歩き出した。
由紀は、その圧倒的な存在感を目の当たりにし、心臓を鷲掴みにされたような高揚感に震えていた。
倒れた二人を無視し、ただ平然と立ち去るその背中。彼こそがこの狂った世界における唯一の秩序だ。
雪が舞い散る夜の中、彼女は再び、蓮という影に深く沈み込んでいった。
彼が歩く道以外に、彼女の居場所などどこにもないのだから。




