第六章 皇帝の死 第二話
皇帝陛下崩御の報を受けたアルフリートは、数瞬の間沈黙すると閣僚に向かって静かに言った。
「まずは黙祷……か」
一同は立ち上がり、胸に手を当て偉大な皇帝の死を悼んだ。やがて顔を上げたアルフリートはきびきびと命令を発する。
「ユースト、引き続き情報収集を。最優先だ」
「御意。中座を致します、お許しを」
副官と共に足早に会議室を出て行く宰相を見送り、次の指示を出すアルフリート。
「ディクスン、首都の防衛レベルは今…?」
「第二種です、陛下」
第一軍司令ディクスン将軍が即座に答える。彼は首都防衛計画の立案者であり、国土防衛の責任者であった。
「一週間でいいから第一種に上げられるかい?」
閣僚達がざわめく。第一種といえば戦時中とほぼ同じ警戒体勢を取るという事になり、トランセリアの全軍を動かす事態になる。ディクスンは言葉少なに言った。
「御下命とあらば一ヵ月でも」
「いや、市民にあまり長い事窮屈な思いをさせたくない。暫定だけどそれぐらいで頼むよ」
「御意」
シルヴァが疑問を投げ掛ける。
「陛下、何故警戒を強められますので?現状でも暗殺事件の為に第二種に上がっておりますのに」
「ごめん、うまく説明出来ないけど…何かイヤな予感がするんだよ。誰かが何かを仕掛けようとしているんだけど、それがプロタリアなのか、他の国なのかまだ分からないんだ。とにかく情報が揃う迄警戒を怠っちゃいけないって気がする。……ごめん、気がするじゃダメなんだけど。……うーん、ごめんまとまらない。とにかく頼む、そうとしか言えない」
そう言って頭を下げるアルフリートに皆一様にびっくりする。いつもの彼らしからぬ歯切れ悪さであり、国王として家臣に頭を下げるなど滅多に無い事だった。シルヴァは慌てて言った。
「へ、陛下。頭をお上げ下さい。国王はただ命令なさればいいのですから」
ゆっくりと顔を上げたアルフリートは立ち上がりながら外務長官に告げる。
「ヴィンセント、早々に国葬の知らせが来るだろう。それまでに最近のプロタリア宮廷の主だった動きをリストアップしてくれ」
「心得ました、一両日中にお届け致します」
「うん。……アイリーン、シン、ちょっと付いて来て。宮廷図書館に行くから」
そう言って歩き出す国王を閣僚達は不安げに見送った。いつもの彼は年齢に似合わぬ落ち着きを見せる冷静な国王だった。ざっくばらんなくだけた口調でそうとは分かりにくいが、どんな事態でも冷徹に判断し、迷う事なく閣僚に命令を下してきた。今のアルフリートは自分の考えに沈み込んでおり、彼の迷いは一同に奇妙な戸惑いを感じさせた。閣僚達はその不安感に、アルフリートが就任二年目にして既にトランセリアの精神的な支えになりつつある事に気付くのだった。
彼等は国王が告げた行く先も気になっていた。宮廷図書館にはアルフリートの父親である前国王、アンドリュー・リーベンバーグが館長として働いている。アルフリートが父に会いに行ったのは間違い無かった。
アルフリートより館内に詳しいシンの案内で、彼等は図書館の一番奥に居るアンドリューを見つける。テーブルに分厚い本をいくつも積み上げて読書にいそしんでいた前国王が、顔を上げて言った。
「やぁシン、いつも熱心だね……おっ、アルフじゃないか。珍しい事もあるものだ、本でも読む気になったのかい」
「親父、ハウザー陛下が死んだ。ちょっと話が聞きたいんだけど、今いいかい?」
挨拶も無しにそう告げるアルフリート。アンドリューは眉をひそめ、無言で彼等を図書館のさらに奥にある自らの執務室に招き入れる。その部屋も三方の壁に天井まで本棚が備え付けられ、床も机の上にも、本がうずたかく積み上げられている。まさしくここは本の虫である彼の城であった。
ソファーに腰を下ろすアルフリートの後ろにアイリーンとシンが静かに立つ。アンドリューは小さく何かを祈ると、口を開いた。
「そうか、ハウザー殿が…。まだ六十半ばだろう、死因はなんだい?」
「未確認だけど……自殺って発表されたらしいんだよ。親父は何回か会ってるだろう?あのじじいが自殺なんかするタマだと思うか?」
「相変わらず口の悪いヤツだなお前は。自殺ぅ?うーん、剛胆、冷徹、怖い物無しっていう印象だがなぁ…。まぁ人間何処かしら必ず弱い所はあるから、ハウザー殿といえども例外では無いだろうが、自殺ねぇ…」
「ガセかもしんねぇし、宮廷でそう発表しただけで暗殺って可能性もある。ただ…」
俯いて黙り込んだアルフリートを怪訝に思い、アンドリューは先を促す。
「……?なんだ、言ってみろよ。ばかに歯切れが悪いじゃないか、お前らしくないな」
「なんかのメッセージのような気がしてならないんだ。自殺なんてたとえそれが事実でも、正直に公表する訳が無いだろ。皇帝が予め発表の手筈を整えてから命を絶ったと考えれば成り行きは頷ける。ただその理由が分かんねぇ。……あのじいさんが自棄になると思うか?病気って話も聞いた事が無い。…だとしたら何かを起こす為の自殺だ。自分の死をも使って何か仕掛けやがったんだとしか考えられないんだよ、俺には」
珍しく悩んでいる様子の一人息子に手助けをしようとでも思ったのか、アンドリューは記憶を辿りながらぽつぽつと言った。
「……プロタリアの内部問題といえば後継者がらみだな、対外は……無いと言ってもいいぐらいだ、呆れる程の大国だからな。ふむ、……そういえばあそこの四人目はどうなった?ほらまだ一人独身の皇女がいただろう」
「あぁ、こないだ婚約発表があって……なんて名前だっけ?」
「私に聞くなよ。するとこれで次期皇帝候補が出揃ったって訳だな。今頃プロタリア宮廷は上を下への大騒ぎだろうねぇ…いやだいやだ。なんでみんなあんなに王様になりたがるんだろう?そんなに仕事がしたいならウチに来ればいいのに、私だったらすぐ代わってあげるがなぁ…」
その言葉を耳にしたアイリーンは、以前アルフリートが似たような台詞を言っていた事を思い出す。親子して同じ意見を持っているという事は、すなわちそれがトランセリア国王の本音であり、同時にこの国の王族がいかに激務をこなしているかを物語っていた。尤もプロタリアの皇帝とこの貧乏国の王とを一緒にしては怒られるかもしれないが。アルフリートは考え込みながらぶつぶつと何か呟いている。
「……ああ思い出した。そういえば二年前に顔を見たような気がする…。なんだかいけ好かないヤツだったって事しか記憶に無いんだけ…ど……んん?……それか?……だとしたら……そうか……そうだ、きっとそうだ!サンキュー親父!」
勢い良く立ち上がり、いきなり走り出したアルフリートにアイリーンとシンはびっくりする。シンは後を追おうとするが、アイリーンはそれでもアンドリューに優雅に挨拶をする。
「初めましてアンドリュー様、シンがいつもお世話になっております、アイリーン・クレメントと申しま…きゃっ!」
シンがアイリーンを軽々と抱え上げ、国王を追って走り出す。その後ろ姿ににこにこと手を振ると、アンドリューは再び読み掛けの本を開き、読書に没頭していった。
宮廷の廊下をアルフリートが駆け抜けて行く。あちこちで騎士だの侍女だのにぶつかりそうになり、その度にひと騒ぎ起こっている。
「うわぁっ!気をつけ…へ、陛下っ!?」
「きゃぁっ!何よもうあんた……アルフリート様?ももも申し訳あり……」
「陛下!廊下を走ってはいけませーんっ!!」
これはたまたまその場に居合わせたシュバルカの怒鳴り声である。アルフリートは謝りながらもスピードを緩めようとはしない。
「ごめーん!ちょっと急いでるんだよーっ」
その後をアイリーンを抱えたシンが大股で追って行く。その姿も皆の注目を浴び、アイリーンは恥ずかしそうにシンに訴える。
「シ…シン。降ろしても…大丈夫ですから。…は、恥ずかしいから」
「それでは陛下に追い付きませんので。……陛下っ!どちらに!?」
「ヴィンセントのとこーっ!」
振り向かずに答えるアルフリート。シンの腕にしっかりと抱き締められ、アイリーンは落とされないようにしがみつく。ほんのりと頬を染め、少し嬉しそうな笑みを浮かべ、彼女は思っていた。
(本当に変な国だわ…ここって)
ヴィンセントの執務室にアルフリートがノックもせずに飛び込む。そこは既に資料が山と積まれ、外務庁スタッフが忙しく情報整理に働いていた。突然走り込んで来た国王に皆あっけにとられ、挨拶も出来ぬまま呆然と彼を見つめる。アルフリートはぜいぜいと息を乱し、ヴィンセントをつかまえると言った。
「…四人目の…旦那。…そいつの…プロ…フィールを…すぐ」
「ななななんですか陛下、…四人目?エリザベート皇女の事ですか?」
「そうそう…それそれ。…それの旦那、こないだなんか来てたろう、婚約発表の資料が」
「ああはいはい。ミハイル・ゴーズ・フレーゲル伯爵」
「そいつだ!大至急資料揃えて、特に血縁関係を。最優先っ!!」
「分かりましたっ!」
ヴィンセントは自らその仕事に取り掛かり、そこに数人のスタッフが手伝いに駆け寄る。有能な外務長官はアルフリートが何か掴んだ事を瞬時に悟り、楽しそうに資料の山をひっくり返していた。国王に元気が戻ったという事は、また何か面白い事が起こるに決まっているからである。
ソファーに腰掛けたアルフリートとアイリーンとシンの三人に、リサが気を利かせて水とお茶を両方出していた。走って来た二人は一息に水を飲み干し、アイリーンはやはり優雅にリサに礼を言ってから、上品にお茶のカップを口に運ぶ。
ものの数分でヴィンセントが資料を手に向いのソファーに腰掛け、アルフリートにそれを差し出す。
「とりあえず婚約発表の時の正式文書です。まだ出ますからね」
「早っ。さすがヴィンセント外務長官閣下」
そう言いながらさっそく書類に目を通すアルフリート。彼がそれを読んでいる間にも、ヴィンセント自慢のスタッフ達は、次々と詳しい資料をテーブルの上に積み上げて行く。得意満面でお茶を口に運ぶヴィンセントに、リサは苦笑している。手早くそれらを読み下していくアルフリートは、やがて顔を上げるとにやりと笑い、書類をぽんと叩くとこう言った。
「……ジャックポット!ほんっとにウチのスタッフは優秀だ、助かった。ありがとう」
周囲から一斉に歓声が上がり、ヴィンセントは小さく口笛を吹く。大騒ぎの外務長官執務室で、アイリーンはまたも思うのだ。
(本当に本当に変な国、……毎日お祭りやってるみたい)
訳も分からず一緒になって手を叩くシンを隣りに感じ、盲目の淑女は楽しげに微笑んだ。
数日後、プロタリアより正式に国葬の知らせを持った使者が到着する。アルフリートは自ら使者を謁見し、幾つかの質問をぶつけるが、彼自身も内情を知らされていないのか、ほとんどの問いに回答を得る事が出来なかった。
アルフリートはこの数日間で集めた情報を元に、閣僚達と方針を決定すべく御前会議を招集する。彼等の国王は、あの日見せた迷いが嘘のようにてきぱきと仕事をこなし、プロタリア以外の案件も手早く片付けていた。国葬まで十日も無く、一週間以内に全ての手筈を整えてプロタリアへ向かわなければならない。突然の皇帝の死という事態にもかかわらず、プロタリアでは葬儀の準備が着々と進行しているようであり、この辺りもハウザーが事前に仕掛けを施した疑いを匂わせていた。
例のごとく行儀悪く、椅子の上に片膝で胡座をかき、アルフリートは自説を披露していた。
「ユーストにも裏を取ってもらってるんだけどとにかくこいつ、四番目の娘の亭主が怪しい。ミハイル・ゴーズ・フレーゲル伯爵。二年前に一度ちらっと話をした事があるんだけど、なんかいけ好かない野郎でさぁ、少しは頭が切れるんだろうけど、ウチの事を田舎者の平民国家って見下してるのが見え見えなんだよ。こいつを押さえる為にハウザーのじいさんは自殺までしたんだと俺は思うんだけど」
「……陛下、話を端折り過ぎです。それではさっぱり分かりません。きちんと筋道を立ててご説明を」
ユーストがため息混じりに口を開く。確かに閣僚達にはアルフリートの話の因果関係がまるで見えてこなかった。
「あ、そう?……えーと、…ヴィンセント頼む」
あっさりと説明を放棄した国王を横目に、赤毛の外務長官がやれやれと立ち上がり、良く通る声で詳細を報告する。
「では私からご説明致します。…まず第四皇女エリザベート様の婚約発表があったのが三ヵ月前です。お相手のミハイル伯爵は二十四歳。それほど古い家柄ではありませんが、まぁ若くてそこそこ顔がいいのと、フレーゲル家が結構な資産家でして、四番目という事もあってかあっさりと話がまとまったようです。式も半年後に、もうあと三ヵ月しかありませんが、予定されていたようですが、もちろんこの訃報で延期になる事は確実でしょう。さてこのフレーゲル伯爵家というのが、各国の貴族や商人と相当量の貿易を行っているんです。その為に資金は豊富であり、且つ大陸諸国の貴族にパイプを持っており、そこそこの情報網も備えていると、言ってみればやり手の貴族な訳です。ここまでなら問題は無いのですが、我がトランセリアの誇る地獄耳の宰相閣下の裏情報によりますと…おっと失礼、どうやらその資金力に物を言わせて、プロタリアの下級貴族をかなりの数丸め込んでいるようなんです。次期皇帝争奪戦に乗り遅れたハンデを、金の力で取り戻そうという腹づもりらしいです。大国プロタリアの貴族といえど、家柄だけではなかなか生活も大変だということですね。フレーゲル家の息のかかった貴族は、既にプロタリア全体の半数近くにまで及んでいるという噂もあるようで、もしこのまま無事に婚姻を済ませ、正式に皇子となった暁には、フレーゲル伯爵家はプロタリアの最大派閥になる事は確実という訳です。仮に、ハウザー皇帝陛下が他の三人の婿の内の誰かを次期皇帝に選んだ場合、国内が混乱する事は必至、下手をすればイグナートの二の舞いにも成り兼ねない事態に陥ります」
得意満面で熱弁を振るうヴィンセントは、ここで一旦紅茶のカップに手を伸ばす。各国との外交会議で鍛えられた彼の説明は適度にくだけていて分かりやすく、閣僚も熱心に耳を傾けている。
「ここまでが現状のご説明です。さてここからは幾分推理が含まれてきます。……陛下、私からでよろしゅうございますか?」
なにやら嬉しそうににこにこと話を聞いていたアルフリートは、黙って頷き、続きを促した。
「それでは、……まず王位継承権でいえば第一位は言うまでも無く第一王女の夫君である訳ですが、ここに物言いが付く恐れがあります。というのもハウザー陛下自身が即位当時、第三位の継承権の持ち主でありながら周囲の貴族や閣僚の強力な推挙で、一位、二位のご兄弟を押し退けて皇帝の地位に就いた経緯があるからです。四十年近く前の事ですが…シュバルカ将軍なら御記憶がおありでは無いですか?」
ヴィンセントの問い掛けにシュバルカが重々しく答える。
「うむ、当時はプロタリアのお家騒動が飛び火して大陸はひどい混乱状態であったよ。とばっちりを未然に防ぐ為に、アーロン陛下は国境の外まで軍を配備なされて、それがしも前線に立っておった。結果的にハウザー陛下を皇帝に迎えたプロタリアは現在の繁栄を手にした訳だから、選択は正しかった事になるがな」
ヴィンセントは大きく頷き、話を続ける。次第に芝居がかって来た彼の弁説に、壁際の椅子に腰掛ける副官のリサはヒヤヒヤしている。
「ところが、その偉大な皇帝も後継者には恵まれなかった。ご存じの通り今居る三人の皇子は全て娘婿で王家の血を引いてはおりません。その上三人の王女がつかまえて来たその旦那達は、揃いも揃ってボンクラばかりときています。さしものハウザー陛下も、我がアルフリート陛下に愚痴をこぼしたくなるってものでしょう。しかも四人目がいけなかった。ミハイル・ゴーズ・フレーゲル伯爵は野心家で守銭奴で国民のことなんかこれっぽっちも考えちゃいないのに、なまじ半端に頭が切れるもんだから貴族の受けは良くって、支配者層からは大きなバックアップを得ています。これなら他のボンクラ三人組の方が小細工をしない分まだマシってもんです。最も皇帝になってはいけない男が最も力を得ている、それが今のプロタリアの現状です。ハウザー皇帝陛下の心中や如何ばかりか」
ノリノリのヴィンセントの後ろから咳払いが小さく起こる。リサが我慢出来ずに調子に乗り過ぎの上司兼恋人を嗜めたのだ。それに気付いたヴィンセントもさすがにやり過ぎたと思ったのか、椅子に腰掛けアルフリートに話の続きを引き継いだ。
「えーと…陛下、ここからは陛下ご自身からのご説明の方が分かりやすいかと……」
アルフリートは吹き出す寸前の口を手で押さえ、うんうんと頷いた。
「………あー面白かった。久し振りにヴィンセントの熱弁を聞いたなぁ、またやってくれよね。……さてと、優秀なる我が外務長官の説明で舞台裏はあらかた判ってもらえたと思うけど、皇帝は自殺しているんだよね。あのじいさんがそこまでして王位をミハイルに渡したくなかった最大の理由はというと…。イグナートの王弟派が絡んでるんだよ。またかと思うだろうけど、いや俺もそう思うけど。フレーゲル家というのは何代か前にイグナートの貴族が婿養子に来てるんだ。これはアイリーンに確認済。そこから貿易やらに手を出し始めて現在の力を手に入れたって訳だ。王弟派の貴族が取引先にも大変多いという確認も取れている。ここ最近の下級貴族囲い込み大作戦にも、イグナートの資金がかなり流れ込んでいるらしい。そして、ここが肝心。ミハイルのクソ野郎が皇帝になった暁には、イグナートへの見返りとして、プロタリアの南西部の領地割譲が約束されている……」
閣僚が一斉にざわめく。事実だとしたらまさしくそれは国を売る行為だからだ。アルフリートは皆の反応を確認するとゆっくりと言った。
「……と、いう事なら辻褄は合うよね。ごめん嘘。ていうか全然情報が無いんだよー。ユーストの間諜もかなり動かしてるんだけど…とにかく時間が無さ過ぎる、お手上げ」
その言葉にずっこける一同。シルヴァはあからさまに国王を睨み付け、シュバルカは今にもお説教を始めそうだ。ユーストは自分も責任も感じているのか、特にリアクションを起こさず、静かに口を開く。
「陛下のおちゃらけは反省して頂くとして、情報不足はわたくしの責任です。噂程度の話なら二三あるのですが、とてもここで報告出来る類いの物ではございませんので。今の所は調査中としか申し上げられません」
「もう一つ判らないのが暗殺未遂事件との関係だ。ただ時期が重なっただけの偶然なのか、あるいはプロタリア絡みで目的を持って噂を流したのか。黒幕が誰なのかも判らない。ハウザーのじいさんか、ミハイルか、それともイグナートか、もしくは他の誰かか。……うーん、時間が欲しいなぁ」
ヴィンセントが口を開く。
「国葬の段取りも早過ぎるような気が致します。ここにも何かの思惑が存在するのではないでしょうか?」
「それはじいさんの策だと俺は思うけどね。皇帝の死後も忠実にその遺志を守って働いている家臣がいるんだろう。ユースト、レイナードの動きはまだ掴めない?」
「申し訳ありません。彼は単独で行動しているようでここ一年程足取りが途絶えております。わたくしの不徳の致す所です」
国王の問いに、宰相ユーストは真面目に謝罪した。彼の情報網といえど万能では無い。特に隠密に行動するレイナードのような傭兵は、所在の確認が困難だった。アルフリートは腹心を弁護するように言う。
「まぁここんとこ戦争やら暗殺未遂やらで間諜も手一杯だからなぁ。ウチもそんなに予算は割けないし、あれもこれもは無理だよね」
「お気遣い恐れ入ります」
表情を変えずに答えるユーストに頷きかけたアルフリートは、小さく一つため息をつくと幾分声のトーンを落として言った。
「……じいさんにしてみれば、どんな手を使ってでもヤツが皇子になるのを阻止したかったんだろうと思う。自分が死ねば大陸中が喪に服するから式は確実に延期されるし、すぐに次の皇帝を決めなくちゃいけなくなる。婚約者ではその資格は無いからね。ただ……」
ふいに黙り込むアルフリートに皆の不思議そうな視線が集まる。沈黙に耐えきれなくなったシルヴァが声を発する。
「どうなされました陛下?」
「うん、これは勘なんだけど……。ごめん、会議で勘に頼った発言はルール違反なんだけど……、自殺をすぐに公表したのは俺へのメッセージのような気がしてならない。いや俺じゃ無くてもいい。トランセリアや他の国に、何かしらの警告を与えているんだと思う。どんなに世間体が悪くても、自分らしく無い死に様をさらしてでも、他国に気付いてほしかったんだと思えてならないんだよ。ハウザーのじいさんはがんじがらめの宮廷の中で、必死に証拠を見つけようとしていた筈だ。いくら皇帝でも理由も無く伯爵家を告発は出来ないからね。でも間に合わなかった。婚約発表も済んでいて式の日取りも決まっている。時間が無かったんだね、自分の命を使うしか、手は残されていなかったのかもしれないけれど……俺に言ってほしかったなぁ。ウチだったらプロタリアと違って少しぐらい怪しげな使者でもけっこう入れちゃうし、なんとか出来たと思うんだけどなぁ……ひょうきんなじいさんだったのに……」
俯いて話すアルフリートの言葉は、次第に小さくなっていく。シルヴァは一瞬彼が泣いているのかと思ったが、涙をこぼしているのでは無いようだった。
アルフリートは人前では決して涙を見せる事は無かった。それは幼い頃から彼を知るシルヴァにでもそうだった。彼女が見た彼の泣き顔はいつも、どこかで人知れず泣いて来た後の、真っ赤になった瞳だけであった。
王宮は慌ただしく動いていた。プロタリアの皇帝の葬儀となれば、大陸中の国家から相当数の賓客が向かう筈であり、トランセリアも国王に同行する閣僚や護衛の騎士の選定に忙しかった。
アルフリートは彼の執務室のデスクに行儀悪く両足を乗せ、コーヒーを片手に貧乏揺すりをしながら何か考え込んでいる。その室内にも人は絶えず出入りし、ユーストは情報整理の為内務庁から人員を借り受け、引っ切り無しに訪れるスタッフとの打ち合わせに追われていた。そんな時でも彼の金髪は一筋も乱れる事は無く、落ち着いた態度で冷静に職務を進めている。
宰相の目がちらりとアルフリートに向けられた。行儀の悪いはとこを叱ろうと口を開きかけたその時、執務室に詰めていたアイリーンが静かに国王のデスクに歩み寄る。
「陛下、申し訳ありませんが……」
「あ!ご、ごめん。行儀悪いよね」
デスクに足を投げ出している事を叱られると思ったアルフリートは、慌ててきちんと椅子に座り直す。手に持ったコーヒーをこぼしそうになって近くに居た侍女も慌てる。アイリーンは小さく首を左右に振り、悲しげな顔で話し出す。
「いいえ、そうではございません。……貧乏揺すりはお止めになった方がよろしいと思いますけれども。……陛下、イグナートがこの一件に関わっている事についてでございますが、わたくしは国を捨てて来た身ではございますが仮にも元王女です。一言陛下にお詫びを申し上げたいと思いまして…」
きょとんとしていたアルフリートは笑って手を振ると彼女に言った。
「なんだそんな事か。アイリーンは真面目だなぁ、あなたが謝る事じゃ無いよ。大体アイリーンとシンこそ、こういうイグナートの裏工作の犠牲になった人じゃないか」
シンがそっとアイリーンの傍らに寄り添う。夫のその動きに安心しながらも、アイリーンは固い表情のまま話す。
「確かにそうではございますが、以前のわたくしはそんな事など少しも知らずに暮らしておりました。トランセリアの国民となって初めて世界の動きを知ったようなものでございますから、かつての自分の国がこのような非道な行為を行っていると思いますと…」
「うーん、そうだなぁ……。実の所俺はそうとは考えて無いんだけど、…あ、お茶にしよっか。ごめんセラ、コーヒー冷めちゃったからもう一杯ちょうだい」
アルフリートは侍女に飲み物を頼むとアイリーンをソファーに座らせ、自らも向いに腰掛ける。成り行きを見ていたユーストは、さっきまでぼけーっとしていた癖にまだお茶の時間を取ろうとする国王に小言を言ってやろうと、働き詰めの自らのスタッフに休憩を取るように促し、静かにソファーに近付く。執務室付きの侍女のセラとシンシアが皆に紅茶を配り終えると、アルフリートはユーストを気にしつつ話し始めた。
「えーと、ユースト。この後すぐ仕事は始めるからね。……アイリーン、前に俺があなたにイグナートの王族はどんな事考えてるかって聞いた事があったよね、覚えてる?」
「はい、初めてこの王宮にお邪魔した時の事でございますね。何か難しいお話でしたけれども…」
「うん、あなたはイグナートの色んな裏工作を非道い事だって思うんだろうし、俺達もまぁそう思ってるけど、彼等はそんなでも無いんじゃないかなって」
「………?どういう事でしょうか?」
「イグナートとかの古い国家にとって、そういった工作、例えば賄賂や暗殺、スパイとか裏切りとかは、政治を行う上で欠かせない事だと考えているんだろうと思うんだよ。それは彼等のモラルが低いと考えるよりも、国家が生き残っていく為に必要な戦略の一つであって、その為には多少人の道に外れようが仕方が無いと思ってるんじゃないかなぁ。何百年という長い間、国の体裁を保っていく中では、そういった行為は多かれ少なかれ起きる物だろう。一度行われたその行為はまた繰り返されるだろうし、やがてそれは選択肢の一つとして国家の戦略の一部に収まっていったんだろうね。もちろん彼等だって正面切って自分達がやりましたとは言わないだろうけど、我々が思う程罪の意識って無いんじゃないかなぁ。イグナートの王族や貴族は……あなたは例外としても、生まれた時からそういった行為に慣らされ、黙認して大人になり、やがて政治の中枢を司るようになる。これは国の歴史が行う教育と言ってもいいだろう。貴族と平民との意識の違いや、どこまでが許される行為でどこからが許されざる犯罪なのかといった、モラルの境界線も大きく違っているんだと思う。イグナートの王族にしても、プロタリアのミハイルの野郎にしても、生まれ育った環境や、人や国から受ける教育でぜんぜん違う人物になっただろうね。結局人を作るのは教育なんだよ。学校で勉強する以外の様々な暮らしから受ける…そうだな躾けとか、思いやりとか、そんなささいな事が積み重なって人間が形作られていくんだろうと思うよ」
アルフリートの長い話にじっと耳を傾けていたアイリーンは、彼が口を閉じた後もしばらく何かを考えていた。彼女は頭の悪い女性では無かったが、大変におしとやかな暮らしをしてきた人物であり、アルフリートのように早口でまくしたてるような話し方に慣れていなかった。
国王の話した内容をじっくりと反芻し、彼女なりに納得できたのか、アイリーンは小さく微笑み言った。
「陛下のお話は理解出来たと存じ上げますが、そういった歴史や国家の有り様をよしとしてしまうのは、わたくしにはまだ得心出来ない部分もあるような気がいたします。本当はもっと大陸的な視点を持ち合わせるべきなのでしょうけれど…」
「うんそうだね。もちろん俺も個人的にはいいとは思って無いけど、他国のそういった陰謀や裏工作なんかをいちいち拾って目くじら立てていたら、年がら年中戦争してなきゃならなくなる。どっかで線を引かなきゃ大陸はバラバラになっちゃうからね。ただいつかは変えていくべき事だろう。少なくとも俺は変えてやろうって思ってるよ。それにはアイリーンやシンや、リグノリアのクレアや、ウチのシルヴァなんかの若い人間が、積極的に国政に関わるべきだって考えてる。古い国の有り様に囚われない人間が道を開いて、年寄りは後から着いてこさせればいいんだよ……あ、ユーストはこっち側だからね」
じっと二人の会話の様子を見つめていた宰相に、アルフリートはおべんちゃらを言った。ユーストはかすかに眉を上げ、変わらぬ静かな口調で言い返す。
「つまらないお世辞を言わずとも結構でございます。陛下のおっしゃる通り、躾や行儀も人間の大切な教育の一つでございますからね、お分かりのようで大変嬉しく思っております」
明晰な宰相はアルフリートの発言を一言も聞き漏らしてなぞいなかった。やぶ蛇になったアルフリートはあっちの方を向いてコーヒーを、すすろうと思って手を止め、殊更丁寧に行儀良く口に運ぶ。アイリーンは小さく息をつき、感心したように呟く。
「陛下はわたくしやシンとさほど歳も変わりませぬのに、何故そのように優れたご意見やお考えをお持ちになれるのでしょう。わたくしは毎日教えられる事ばかりです、やはりお父上やユースト様のご教育が、このように立派な国王陛下を育てられたのでしょうか?」
アイリーンはお世辞でなく心からそう感じて問い掛ける。アルフリートはちょっと考えて答えた。
「俺が親父やじいちゃんに教わったのは、とにかく迷ったら国民を見ろって事だけだったなぁ。国が民を所有しているのでは無い、民が国を形作るのだって、何回も言われたよ。ああユーストの親父さんのヤルーノ伯父さんにも言われたっけ」
今は亡き前宰相ヤルーノの末子、ユーストも口を開く。
「わたくしが亡父より口を酸っぱくして言われたのは、常に人の声に耳を傾けよ。という事でした。自分の身の回りの都合がいい話ばかり聞いておらず、市民の声を、大陸の声を、そして世界の声を聞けと教えられました。今でも事あるごとにその教えを噛み締めております」
日頃感情を表わさない宰相の顔に優しげな微笑みが浮かぶ。彼もまた、先人の教えを受け、自らを研鑽してきた経験を持つ人物だった。アルフリートが続ける。
「ウチの家系はあんまり細かい事は言わないんだよ。それに本当に街の人達を見ていれば分かる事が多いんだ。……アイリーンとシンだってセリアノートの宿屋や国境のおばあちゃんに助けてもらっただろう、彼等は君達二人の事なんかほとんど何も知らないのに。市民が手を差し伸べているのに、王族が知らんふり出来る訳無いよ」
国王のその言葉にアイリーンは胸を打たれた。意を決した彼女は静かに立ち上がり、アルフリートの前にひざまずいて臣下の礼をとる。シンは一瞬戸惑うがすぐに彼女に倣い、アイリーンの斜め後ろで同じ姿勢をとった。シンの動きを察したアイリーンは静かに微笑み、そして厳かに言った。
「アルフリート・リーベンバーグ国王陛下。わたくし達は騎士ではございませんので、捧げるべき剣を持ち合わせてはおりませぬが、この命、陛下の御為に投げ出す所存でございます。どうかアイリーン・クレメント、並びにシン=ロウ両名の魂の剣をお受け取り下さいますよう、お願い申し上げます」
それは本来騎士が行う剣の誓いであった。アルフリートは歳が若く、貫禄が無いせいもあり、剣を捧げられた事が無かった。静まり返った執務室の真ん中でどうしていいか分からなくなってしまった彼は、びっくりして立ち上がったままアイリーンとユーストとをきょときょとと見比べる。ユーストはそういえば教えていなかったかもと思い、国王の後ろに歩み寄ると、小声で作法を告げる。アルフリートは言われるまま静かに右手を差し出す。その手をアイリーンが捧げ持ち、額に押し当てそっと唇を触れさせる。続いてシンが同じ行為を繰り返す。アルフリートは小さく咳払いすると、二人にはっきりと告げた。
「アイリーン・クレメント、並びにシン=ロウ。両名の魂の剣確かに受け取った。今後は余の為にその忠誠を尽くせ」
「有難きお言葉。もしわたくし達の忠節をお疑いの時あらば、この命陛下の剣を持って絶たれますよう」
かすかに震える声で答え、優雅に立ち上がったアイリーンは頬を紅潮させ、目を潤ませていた。シンの表情も引き締まり、彼の中でも何らかの決意が成されたようであった。
居合わせた大勢の人々は、荘厳なその儀式に皆一様に感激し、護衛の騎士達は二人に敬意を評し敬礼を送り、文官達は胸に手を当て、静かにこうべを垂れる。二人の侍女は感激のあまり手を握り合い、涙を浮かべてその光景に見入っていた。アルフリートは肩の力を抜くと二人に手を差し出し、握手を交わしながら言った。
「ふう…緊張した。こんなんで良かったのかい、ごめんね良く知らなくってさぁ」
いつもの口調に戻ったアルフリートに柔らかく微笑み、アイリーンは嬉しそうに答える。
「ありがとうございました陛下。わたくしも騎士の誓いは良く存じ上げませんが……でもこれでわたくし達は生涯陛下の忠実な臣下となりました。非才なる身の全力を持ちまして、陛下の御為に尽くしとう存じ上げます」
「へ、陛下っ。私もこの身を盾にして、陛下をお守り致します。ありがとうございましたっ」
シンが鯱張ってそう告げる。周囲の人々から拍手が沸き起こり、ユーストがやんわりと仕事の再開を告げるまで、執務室は大変な騒ぎが収まらなかった。
その日の夕刻、人も少なくなった執務室でアルフリートはこそこそとユーストに尋ねる。
「剣を捧げられちゃったけど、この後どうすりゃいいんだよ俺は」
近くに人も居なかったので、ユーストも随分とくだけた口調で答える。
「どうするって普通にしてればいいんだよ、今まで通りに。あ、今度騎士に剣を捧げられた場合の作法も教えとくから。けどお前が知らないなんて思わなかったよ」
「知らないよそんな事。てゆーか親父が国王の時だって聞いた事も無いぞ、あったのか?」
「……無いな。アーロン叔父さんの時には確かかなり行われた筈だが」
「あんな戦争ばっかりやってる時代と一緒にされてもなぁ……王族って良く分からねぇなぁ」
「お前だって王族だ、しっかりしろ」
ひそひそと小声で交わされたやりとりだったが、部屋の隅に居たアイリーンの耳にはしっかりと聞こえてしまっていた。ユーストがそのような口調で話すのを初めて耳にした彼女は笑いを噛み殺しながら、やはり彼もリーベンバーグ一族であると実感するのであった。
アイリーンとシンがアルフリートに剣の誓いをしたという噂は、瞬く間に宮廷中に広まった。それを聞き付けた騎士達が自分達も国王に剣を捧げようと願い出るのだが、アルフリートはことごとくそれを辞退する。シルヴァの剣すら受けていないのだから、その前に他の騎士の剣を受ける訳にはいかないというのが表向きの彼の理由だったが、アルフリートは二十年の任期を全うしたら退位するつもりであり、生涯を通して主従関係を結ぶ剣の誓いは彼には少々荷が勝ち過ぎた。アイリーンとシンの場合は彼等の立場が特殊であり、しかも不意を突かれた事もあってアルフリートはうっかり受けてしまったのだが、本音を言えば国王の職責以外には、あまり色々と背負い込みたく無いという気持ちもあった。
シルヴァと二人きりになった時、アルフリートは彼女にその一件を聞かれてこう答えている。
「一生の責任を負うのはシルヴァ一人で十分だと思ってたからなぁ…、だからシルヴァは俺に剣を捧げちゃダメだよ」
この台詞を聞いたシルヴァは喜ぶべきか悲しむべきか、何とも複雑な気分になったのであった。彼女自身はというと、軍務長官の地位に就いた折にセリカから剣を捧げられており、そこまで深刻に受け止めなくてもいいだろうと思っていた。