怪獣『巨大鳩』と遭遇すること2
だが、美穂の目の端で――鳩がゆっくりと羽を広げるのが目に入った。
「ええっ!」
思わず足を止めてしまう。
「何やってんの! 走れって!」
「穂花、あれ!」
「え……、うえっ! 飛ぼうとしてるッ?」
「まぁ鳩だし! 鳥だしね!」
「だから言ってる場合か!」
巨大な鳩が空に向かって大きく広げた両の翼を、豪快に地面へ向けて振り下ろす!
思わずひっくり返ってしまいそうな強烈な突風の後に、二人はその鳩が、まるで一種の冗談かのように空を飛んでいるのを目にする。
巨大な翼を振り下ろす度に猛烈な風に襲われ、とても平和の使者と呼ばれる鳥類が飛んでいるだけだとは思えない。鳩に近い木の葉が、その突風の度に無残にも散っていく。
「穂花! 来る! あいつ来るよ!」
美穂は『確信を持って』断言し、逆に穂花の手を引っ張って走って行く。この場に留まっているのが一番危険で、やってはならないのだと理解している。
(なんで!)
頭を振る。そんなことを考えているぐらいならそのエネルギーさえ足に回せ。
「やばっ、マラソンでめっちゃ足が痙りそう……!」
「まじか穂花ー!」
「魔法少女もののタイトルっぽくいわないでよ……」
「いやいやんなことどうでもいいから! 来る来る来る! きたー!」
その巨体の動きそのものは実に緩慢に思えるが、実際の速度は凄まじいものがある。巨大であればあるほど先端の加速度が上がり、そしてその巨大な鳩が僅かに飛ぶ距離というのが、人間の範囲では百メートル以上にも及ぶ。
つまりどれだけ離れた気になっても、実質的にはほとんど離れていないようなものだ。
「穂花!」
逃げられないと察した美穂は、引っ張っている少女に覆い被さるように倒れ込む。その直上を巨大な鳩が飛んでいき、そして緩やかなカーブを描き、校舎を掠めるようにして上空へと飛んでいく。いくつかの校舎の窓には罅が入り、ここまで届くような悲鳴が聞こえてきた。
「あぐっ……!」
「美穂!」
背中が熱い。強烈な熱さが走ったかと思えば、その後に鈍い痛みが伝わり、思わず顔を顰めてしまう。
「マズッ、あいつ空で旋回してくるし! 美穂、大丈夫? 動ける?」
「いっつぅ……う、動く! 動ける!」
感じたことの無い酷い痛みだが、足を止める理由にはならない。今は空で大きく旋回している巨大鳩だが、再び襲ってきたら一気に距離を詰めてくるだろう。そうなれば今みたいにほぼ偶然にも近い避け方は難しいだろう。だから美穂は穂花の言葉に頷き、立ち上がって走り出す。今はとにかく校舎の中に逃げ込むしかないのだ。いくら巨大な鳩といえど校舎を壊すことはできないと思い込むことで希望を見出していた。
離れた空中で大きく弧を描いている巨大鳩から逃げるべく再び走り出すが、しかし緩慢な動きに見えたところでそれは巨大さ故であり、実際の動きは相当なものだ。二人が駆け出したところから校舎の間を半分進んだだけでもう眼前に迫っていた。朱に近いオレンジ色の眼球にある黒点と目が合った気がして、二人は背筋を凍らせる。
「もうあんな近くに!」
どう考えても校舎へ辿り着く前に再び襲撃を喰らってしまう。こうなっては最早あと数歩で再び空から襲われるだろうことは明白だった。――つまり逃げ切れないのだ。
「穂花!」
美穂はすかさず隣を走る彼女を横に突き飛ばし、くるりと振り返って鳩を睨む。何か考えがあってのことではない。少なくともここでどちらかが犠牲になれば片方が逃げる時間も稼げるだろうと頭の片隅で思った瞬間、身体が動いたのだ。
「お前の相手は私だってーの!」
「美穂! バカっ……!」
慌てて立ち上がって駆け寄ろうとする彼女を、美穂は片手を上げて静止する。
「穂花、楽しかったよ。じゃあね。頑張って逃げなよ」
「やっ――」
巨大鳩が襲いかかってくる。鳩に襲われる虫の気持ちはこんなものだろうか、と思いながら、とはいえただで殺されて喰われるなんてしてやらない。その鼻っ面に思い切り拳を叩き込んで、せいぜい足掻いてやる。どんな小さな生き物だって喰われて殺されるまでは抵抗をするものだと、美穂はあっさりと覚悟を決めた。
不思議と覚悟が決まれば、胸の中にどうしようも無く残っていた恐怖が和らいでいく。死ぬしかないという状況に脳が恐怖を麻痺させているのかもしれないが、今となってはどうでもよかった。大事な友人を守れるだけの勇気が自分の中にもあることが、今は何よりも誇らしい。最後に叫んで立ち上がろうとしている彼女を見つめてから、一度目を閉じ、そして再び『奴』を睨み付ける。
凄まじい勢いで迫る鳩に、美穂が叫ぶ。
「こっちが餌だよばかやろーッ!」
叫びは、はたして巨大鳩に届いただろうか。
どこを見つめているのか、動かない眼球に自分の姿が重なった気がした。鳥類として比較するなら大きくはないくちばしだが、それでもあの巨体だ、自分を丸呑みにするのは簡単に違いない。喰われるのならこの手がズタズタになってもいい、ただこの鳩に一生消えない傷を残すぐらいは――
タン、と軽い音がする。
美穂を丸呑みにしようと迫っていた鳩が、その直前で軌道を変えた。いや、変えたというよりも変えさせられたというのが正解だろう。
「え?」
美穂の脇を、地面を滑るようにして巨大鳩が転がっていった。
飛べる程度の密度しかない鳥類のはずなのにその巨大さ故か低く重い音を響かせながら地面に倒れるものの、すぐさま頭を上げて羽を広げる。
「美穂!」
穂花が名前を叫びながら駆け寄ってくる。
(だめ! こっちにこないで!)
何のために独りになったと思ってるの!
そう叫びたかったが、頭と心がそこまで追い着かない。巨大鳩の両目が再び自分を捉え、また再度の『攻撃』を受ける前に喰らうつもりなのだろうか。巨大な両羽をを広げて、しかし飛ばずに駆け出してくる。
(喰われる! あのカメレオンの時みたいに……!)
――そう、あの時喰われた。
(あれ、喰われた……喰われたのに、何で大丈夫だったんだっけ……?)
巨大カメレオンは美穂と穂花を今まさに喰わんとしたところで、唐突に泡となって消えた。あの現象は一体何だったのか。何が起こったのか。
――自分は、何を、したのか。
「……!」
あの時聞こえた声を思い出す。
あの時の感覚を思い出す。
理屈では説明できない。そこまで頭は良くない。智惠のある者ならばその現象を説明するに足る言葉もあるだろうが、少なくとも今の美穂には土台無理な話だった。
だからこそ感覚をフル動員する。つま先から頭まで、感覚全てで『あの時』のことを再現する。身体に巡る何かが、理解を超えた力が、さりとて弱々しく今にも消えそうな奇跡が彼女の指先に集まってくる。
「あ、違う。分からないんじゃいけないんだ」
分からないままでは駄目だ。
彼女のナカに刻まれた何かが、そう告げてくる。
(私のナカに何かが刻まれてる? 何が?)
それは言う。
理解をすることこそ、全てを分解することである。
分解し、理解することが全てである。
理解はまず識ること。目で無理なら匂いで、匂いで無理なら感触で。それによりこの身体が触れた『異生命体』を理解し、分解するだろう。全ては魔力の流れで決まり、全ての存在には魔力が宿る。それを理解するだけ。それを受け容れるだけ。先ずはそれだけで必要十分だと。
だから、美穂の頭程度簡単に砕けてしまうだろうその嘴が眼前に迫ったとしても、美穂はその一瞬だけまるで慌てずまるで人形のように感情を無くし、目から光が消えて、その嘴に人差し指を当てた。
――音も無く、その巨大は泡へと変わる。




