第8話「The Scar Face Dog」
薄紅の雲の下、鉄の舳先が波を割る。右側面からの夕日を受けて一路南へ。人と貨物を載せた定期便は、その船体を揺らしながら、約一週間の航海の終着点を眼前に見据えていた。夕暮れの中、遠景からでも過剰に目立つ、光る歪なシルエット。モラルとトレードオフの発展を手にした蠱毒。ノトリ。
ノトリを目指す船の中、一等客室の一角。顔に横一文字の傷の入ったスーツの男が、1つ、大きなため息をついた。その原因は、慢性的な船酔いでも、過剰な改造を施した他の客の外見のせいでもなく、ベッド脇に置かれた、銀のアタッシュケースのせいであった。
男は手錠でケースと自身の右手を結びドアへ。揺れる足元に舌打ちをつきながら、展望デッキへ向けて歩き出した。客室から床の材質が変わり、錆の浮いた金属に。靴が金属を叩く音を立てながら、男は階段を登る。ドアが開き、潮風が唸り鎖を揺らす。屋内の籠もった空気を肺から追い出し、男は外気を吸い込んだ。
そして馴染みない海の臭気に、また不満げに息を吐いたのだった。
手摺に寄りかかる男の顔を、雲の向こうから射す陽光が赤く照らした。夕日を眺める男の視界の隅。船の進路。極彩色のネオンがより一層強く光り始める。徐々に近づく異形の島こそが、男の頭痛の種そのものであり、半ば現実逃避気味に、こうなった経緯に思いを巡らせ始めたのだった。
記憶を辿り、海の匂いを追い出すように建物の中の空気を思い出す。誰かがひっきりなしに吸っていた、電子タバコの甘ったるいフレーバーの残り香の中で、男は急に声をかけられた。
「おいレヴ」
レヴ、そう呼ばれて男は振り向き、視界に入った同僚のニヤけ面に顔を顰めた。
「支部長がお呼びだとよ」
「支部長が?俺を?」
レヴは顔の傷跡を歪め、同僚に軽く詰め寄った。
「要件は?」
「知るか。じゃ、俺は伝えたからな」
レヴの肩を軽く叩き、男は何処かへ歩き去った。残されたレヴは不満げにネクタイを締め直し、引きずるような足取りで支部長の部屋へと歩き出した。
「支部長室」のプレートの掛る扉の前へ。レヴはジャケットを羽織り直し、癖毛を雑に撫でつけた。そして一部の毛を立てたまま、テンポの遅いノックを3回行い返答を待った。
「入り給え」
「失礼します……」
ドアを開けたレヴの視界に入るのは、最低限の設えの仕事部屋と、デスクに座る支部長の顔。その穏やかそうな顔の、鼻から下は大規模な置換手術により改造され、機械化された口部が文字通りの貼り付けたような笑みを浮かべていた。
支部長の外見に薄ら寒いものを覚えながらも、レヴは平然を装って口を開いた。
「支部長がお呼びと伺いましたので」
「そうとも、よく来てくれたねレヴくん」
表情を崩さずに、支部長はレヴを迎えた。その穏やかな声には、顎関節のモーター音が混ざっていた。
「心当たりがない、という顔だね。そうとも。別に君の行動に問題があった、というわけでもないから、まずは安心してほしい」
無表情を崩さぬまま、レヴの不安はより高まっていった。確かに探られて痛い腹は無い、だったらことさらに何故、と。
「寧ろ私は君を評価しているんだ。君の電脳麻薬の売り上げは常に安定している。特に客からの滞納が少ない。……もう少し情熱を持ってくれれば言うことはないんだけどね」
ポートに挿入、脳に直接作用し快楽物質を分泌させるプログラム入りの使い捨てメモリ。ノトリから密輸されるそれを、本土で売り捌くのがこの支部、レヴの仕事であった。
「痛み入ります。それで要件は」
「そうだね、さっそく本題に入ろうか」
支部長はデスクの上に置かれていた1枚の封筒を手に取り、レヴに見せた。
「レヴくん」
仰々しく支部長が間を置く。一拍の間、雨音だけが耳を打つ。
「出張だ」
レヴはため息を噛み殺しながら、支部長に尋ねた。
「行先は」
支部長の口角が俄に上がり、本物の笑みが顔を出す。
「ノトリだよ」
予想通りの最悪の答えに、レヴはとうとう天井を見上げた。
レヴのリアクションを気に留めず、支部長は変わらぬ調子で説明を続けた。
「君は目を通していないだろうが、先月公示があってね。今の本部長が引退することになったんだよ」
図星を突かれたことは隅に置き、それがどう自分に繋がるのかとレヴは支部長の言葉を待った。
「ウチは風通しの良さが売りでね。次期のトップは特定の役員達からの投票で決まるんだよ」
手に持った封筒を揺らし、目を細めながらレヴを見る。
「もう察したようだね?その通り。私も有権者でね、コレはその投票用紙が入った封筒というわけだよ」
最早隠すことなく、苦虫を噛み潰したような顔をするレヴに支部長は宥めるように続けた。
「ああ、君の気持ちも分かる。投票なんぞオンラインでやれ、だろう?分かるとも」
「だが残念ながらウチも一枚岩じゃない。オンラインではどこかの派閥に都合が良いよう改竄されかねないのだよ。だからこそ、この支部の印が入った紙が必要なんだ」
支部長は一度ここで言葉を切った。封筒を机に放り、椅子に深く座り直した。
「と、いうのが上の言い分だよ。一理ないわけでもないが、割には合わないとは私も思うよ。でもね」
「レヴくん、必要なんだよ。こういう無駄そうなプロトコルは。特に次の神輿を決めるような節目には、ね」
机に投げ出された封筒と支部長を交互に見て、レヴは頭を掻いた。入室前、少しだけ整えられた頭髪はすっかり乱れ、寧ろ整える前よりも無秩序な有様になった。
「理屈は分かりました。ですが、なぜ自分が」
「君が優秀だからだよレヴくん」
目尻の皺を深め、支部長は言葉を継いだ。
「野心も権力欲もなく、淡々と目の前の仕事に従事し結果を出す。懐柔されるような心配も少ない良い働き手だ」
不服気に歪む傷跡を眺め、支部長はさらに続ける。
「何より今時珍しい、ポートすら入れていない未改造だ。この件の趣旨に合っている。適材適所だと思うがね」
自らをこの状況へ追いやった元凶の言葉を思い出したところで、レヴの現実逃避は幕を下ろした。右手のケースも、そしてそこに繋がる手錠でさえ、丁寧にも支部長手ずから渡された品であった。
大仰なケースの内側の、ペラ紙1枚のことを思うと、レヴの気分はどうしようもなく落ち込んだ。
気づけば日は沈み、水平線の仄かな赤を残し、夜闇の黒が水面と空を塗り潰す。その中で強く輝き、より一層存在感を増したノトリへの入港時間は、刻一刻と近づいていた。
レヴは部屋に戻り、下船の支度を始めた。と言っても荷物は最低限で、日用品をリュックに詰め込み、手から外したケースと共にベッドの上へ放った。
ジャケットを脱ぎ、シャツの上に着けていたハーネスから武器を取り出す。拳銃、予備弾倉、各種グレネード。レヴは一つ一つ点検し、再びハーネスへ戻していった。ボディに傷の浮いた拳銃を最後に納め直してから、レヴはリュックの横へ身を投げた。
入港予定時刻まで、20分を切った。
額に手を当て、深く息を繰り返す。天井を見上げながら、レヴは支部長の言葉を思い出した。
「いいかな」
「船が着くのは北部の港だが、本部があるのは南部の一角だ。なに、そこまで単身向かってくれなどとは言わないさ。現地で運び屋を雇った。君はその運び屋が待つポイントまで届けるだけでいい」
支部長から送られたマップには、港からさほど遠くない地点にある倉庫街の一角がマーキングされていた。
「現地に着けば、向こうの傭兵から妨害されるかもしれないね。努々気をつけてくれ」
そのまま支部長室を退出したレヴは、扉の向こうから支部長へ向けて中指を立てた。追って市場調査の名目で、ノトリの滞在期間延長が通達されたことをベッドの上で思い出してしまったが、頭の隅に追いやり、目の前のことだけに意識を向けることにした。ノトリに骨を埋めるのはごめんだ、と。
船が揺れ、スピーカーから着港の知らせが流れる。ベッドからゆっくりと起き上がったレヴは、リュックを背負い、手錠を再度繋ぎ直した。大きく首を振って関節を鳴らし、レヴは振り返らずに部屋を後にした。
波に揺れる床を歩き、外を目指す。他の船室から出てくる客の中に紛れてしまえば、レヴの右手の手錠すらも没個性的な特徴となった。そんなところが、レヴがノトリを嫌う原因の一つだった。
下船手続きを終えて出口へ向かうレヴの鼻を、潮と機械油の匂いが満たす。顔を顰めながら足を踏み出す度に、その匂いは段々と強くなっていく。乗り降り口の階段前で、レヴは思わず一瞬、足を止めた。
暗い夜空に聳える、絢爛な摩天楼。様々な形の建築物が、空に向けて手を伸ばすように並び輝く。島の外周を囲う高架道路を走るライトや、広告ドローンの群れも、遠方から見れば絶えず違った模様を描く装飾のようにも見えた。潮風に混ざって運ばれる、言いようのない「人の熱」が、レヴに理解させた。ノトリに、人が惹かれる所以の一端を。
肩への衝撃と、近くで聞こえた舌打ちがレヴの意識を船に戻した。忌々しげにレヴを見る義眼は、一足先にノトリのコンクリを踏んだ。右手の手錠とケースの冷たさを確かめ、レヴは人の流れに再び身を任せた。
身体改造者達に紛れて階段を降る。1週間ぶりの揺れない地面。ノトリの黒いアスファルトは、特に何の感慨もなくレヴの体重を受け止めた。
遠くそそり立つ都市の足元、淀む暗闇。その中にこそ、レヴが目指すポイントはあった。ゲートを越え、船舶会社の管轄を外れれば、そこから先は諍いを咎める警備の庇護の外となる。薄く、広く。意識の網を辺りに広げながら、平然とした顔でレヴはゲートを踏み越えた。
ネオンが飾る都市部を目指す人の群れから離れ、レヴは港湾の道へ。無骨な作業灯がレヴの影を伸ばし、倉庫の壁に人型を描く。騒音は遠く、足音だけが確かに響く。脳内に叩き込んだ地図を頼りに、迷いなく歩を進めていたレヴは、一つ息を吐いて足を止めた。
「念のため、聞いておくが」
シャッターの閉まった倉庫群。がらんどうの道に声が通る。
「ターコイズってハンドルネームの奴は居るか?委託先をブチのめす訳には行かないからな」
夜闇に紛れた気配が顔を出す。レヴの前方に2人、後方に1人。各々が手に武器を持ち、隠しきれない殺気を放ち始めた。
「黒い服、青い目。居ないな、ターコイズじゃねえ。帰ってくんねえか?」
後方の1人が手元の武器を起動し、青い電流が鉈の刀身に走る。振り上げた武器で空中に青い残光を描きながら、レヴに向けて突進した。
足音が近づき、電流が空気を焦がす。鉈がレヴの後頭部を捉える、その寸前。レヴは倒れ込むように体を動かし、右手を後方に向けて振り上げた。
手応え。鼻の砕ける音。カウンター気味に振られたケースは過たず傭兵の顔面を捉え破壊した。気怠げに体勢を戻し、倒れ込む傭兵の喉を踏みつけ無力化。
前方の2名は銃を構え、レヴもまたハーネスから拳銃を取り出し構えた。支部長から預かった、無駄に頑丈なケースを盾にしながら。
「ボケが」
銃声が、仕事の始まりを告げた。




