第5話「Shakehand with ……」
くたびれたソファの上に、フェイクレザーのズボンとタンクトップの女が横たわる。雑に折り曲げられたクッションを枕にして天井を向く瞼の奥で、眼球があたりを探るように動いた。
息を殺して部屋の中を動く気配と、それがかすかに立てるビニールの擦れる音。馴染みのない感覚に、ターコイズはのそりと身を起こした。
ターコイズが視界に捉えたのは、ビニール袋片手に部屋を徘徊するイブリンであった。ビニール袋は僅かに膨らみを帯びており、よく見ればターコイズが床に放ったゴミをそこに拾い集めていた。
寝起きの霞がかった頭でイブリンを見るターコイズ。覚えた違和感、一拍遅れての理解。
「あんた、服……」
「あ、おはようございます。起こしちゃいましたか?」
潰れた空のボトルを袋にしまい込み、イブリンはターコイズに体を向けた。
昨日まで着ていた白いローブから着替え、イブリンは鯨から受け取った古着を身に着けていた。
黒いタイツに腿の中ほどまでのズボン、そして白い厚手のパーカー。特に目を引くのはパーカーで、イブリンにとってはオーバーサイズ気味なそれは、幅広な袖が指の付け根までを覆い、ゴミを拾う右手の袖は捲くられていたが、ターコイズへの挨拶とともにずり落ちた。
「折角頂いたので、着てみちゃいました。……外で浮いたりしませんかね?」
「及第点ってとこかな。まだやさぐれた感じが足りないよ。あたしみたいなね」
ソファに掛けていた黒いジャケットを肩に掛け直し、タバコを取り出しながらからかうように言った。ベランダに出たターコイズの背中と、その向こうから立ちのぼる煙を、イブリンは自分の白い袖と見比べた。
「互助会って、どういう所なんですか?」
濡れ鼠の助手席で揺られながら、イブリンは運転席に視線を向けた。
イブリンが部屋の床の四分の一ほどが見える状態にした頃、ターコイズは身支度を終えてイブリンに声を掛けた。
「互助会に挨拶に行く。端末だけは忘れんじゃないよ」
そう言ったターコイズに連れられ、イブリンは事務所を後にした。今はガタついた舗装に時折厚いパーカーのフードを跳ねさせながら、タバコを蒸してハンドルを握るターコイズの答えを待っていた。
「互助会ってのは、文字通りの相互扶助の集まりさ」
運転席の窓から、煙の尾を路上に引きながらターコイズは応じた。
「どこの組織にも居られない、ロクデナシ共の、ね」
信号が赤を示し、濡れ鼠は滑らかに静止した。慣性で倒れることなく残った吸い殻の山に、新たな1本を加えながら、ターコイズは続けた。
「企業、ギャング、カルト。きな臭い連中は掃いて捨てるほどいるけどね、そのどれにも馴染めないようなアホどもが、どうにか生き延びるために集まってるのが互助会さ」
「……それは、組織として成り立ってるんですか?」
カーブの遠心力に傾きながら、イブリンは尋ねた。
「さてね。そもそも、成り立ちも確かじゃないんだ」
無言のまま目を見開くイブリンに、ターコイズは面白がるように続けた。
「ただの会員のあたしに分かってるのは、互助会のシステムがアホどもを繋げて、仕事を回してるってこと。仕事は色々。個人間のやり取りから、足をつけたくない他の組織どもがよこす汚れ仕事までなんでもござれさ」
口を開いたターコイズの言葉を、不快な電子音がかき消す。無茶な運転で割り込んできた前方車両と中指で挨拶を交わしてから、ターコイズはイブリンを見た。
「纏まりはないけど、互助会はとにかく数が多い。あたしも、鯨も、穴熊も会員だった。一人一人に挨拶なんてできるわけがない。だから今から行くのは、あたしが知ってる数少ない運営側んとこさ」
ターコイズの青い目を見ながら、イブリンは静かに唾液を飲み込んだ。知らず知らずの内に握り込んだ白い袖には、深い皺が刻まれていた。乾く唇をそっと湿してから、震えを押し込めた声で尋ねる。
「何か、気をつけるべきことはありますか?」
「肩の力抜きなって。「クイーン」はいい奴だから」
その一言で、車内の空気は弛緩したかに見えた。しかし、ターコイズは更に一言加えた。
「まああの店、客層は最悪なんだけどね」
途端に表情を強張らせ、背筋を伸ばしたイブリン。彼女が発した疑問の声は、ターコイズがニヤつきながら踏み込んだアクセルの音に塗りつぶされた。
2人の女を乗せた黒い装甲車は、曇天の下、急加速して目的地へ走り出した。
怪しげな露店やネオンの看板を窓の後方に吹き飛ばし、ターコイズは楽しげにハンドルを手繰った。何か言いたげに唇を引き締めるイブリンを横目に暫く走らせ、ブレーキを踏み始めたのは「TIARA」という、赤と黄の熱帯魚のようなネオンが目立つ、ダイナーの前であった。
ウインカーを出し、地下へと伸びる、中央を壁で区切られた下り坂へ。黒い金属の壁の前で車を停め、ターコイズは運転席から身を乗り出す。自身の端末を右方の壁のセンサーに翳すと、電子音と、地鳴りのような壁の駆動音が鳴る。内外を隔てていた壁が上へスライドし、地下駐車場への入り口が開いた。
ノトリの喧騒を背後に地下へ。隔壁は速やかに閉ざされ、あたりを照らすのはちらつく蛍光灯の明かりのみ。コンクリの柱の間に停まる、機銃を備えた改造車や、針金細工のような三輪バイクなどの隙間の駐車スペースに、濡れ鼠は静かに収まった。
「さ、行くよ」
慌ててシートベルトを外すイブリンを尻目に、ターコイズはコンクリに降り立った。イブリンがドアを閉めるのを確認し、ターコイズは歩き出す。
2人分の足音が、地下空間に木霊する。まばらに停まる車両を眺めながら、イブリンはターコイズに尋ねた。
「あの、ここは車停めてて大丈夫なんですか?昨日は、外で目を離したらその間に全部持ってかれるって……」
「ん、ここは平気。互助会指定の非戦地帯でね。おイタをしようもんなら、互助会に懸賞金を掛けられるのさ。ほら」
タバコを挟んだ人差し指と中指で示した先には、監視カメラが無機質な視線を向けていた。
納得したかのように頷いたイブリン。駐車場から屋内へ続くドアのノブを握りながら、ターコイズは続けた。
「だからまあ、安全ではある。ただ、ここで買っちまった恨みは、外でも有効だってことは覚えておきな」
表情を引き締めたイブリンに苦笑し、付け加えた。
「あんたなら大丈夫か」
ノブを捻り、2人でドアをくぐる。遠ざかる足音とともに、蝶番が軋んでドアが閉まる。閉じきり静止したそのドアには、握手を交わす白骨化した2つの右手のレリーフが刻まれていた。互助会を意味するその紋様は、イブリンの脳裏に、強く印象付けられていた。
金属の階段を登るにつれ、人の声のざわめきが近づく。時折大きく聞こえる笑い声や怒鳴り声から、無意味に内容を聞き取ろうとするうちに、イブリンは磨りガラスの窓のついた扉の前に立った。ターコイズがイブリンを見下ろす。うなずいて返すイブリンを認め、ターコイズはノブを捻った。
大きくなるざわめき。酒と、タバコと、脂の匂い。人の営みが発する熱が、イブリンの顔に吹き付けた。
今時ノトリでは珍しい、木材を基調とした床材とテーブル、椅子が並ぶ店内。窓際の赤いボックス席、テーブル席、カウンター席まで客は満遍なく入り、およそ席数の7割程が埋まっていた。
ドアベルが鳴り、2人の入店を告げる。人の声は少しばかり小さくなり、一瞬、店中の視線が新たな客に注がれた。
液晶グラスの下の目から。武骨で巨大な義眼から。顔ごと置換されたサイバネティクスのカメラから。ターコイズの連れた新参者に、警戒と好奇心が突き刺さった。
首筋に走る悪寒に、イブリンの足が竦む。ターコイズはその背を軽く叩き、表面上はそれぞれの会話に戻り始めた客とイブリンの間に位置取った。迷うことなく足を進め、カウンター席へ。並んで腰を掛け、ターコイズは奥で働く店員に声を掛けた。
「ようナナフシ。クイーンいるかい?」
「ナナフシ」と呼ばれた痩せぎすのひょろ長い男は、グラスを磨く手元に視線を落としたま答えた。
「店長は休憩中だ」
肩周りを改造したモーニングコートから伸びる両手と、3対の細長いマニピュレータを動かしながら、ぶっきら棒にナナフシは応じた。
「寝てんのかい?」
「俺の関知するところではない」
マニピュレータを巧みに操り業務をこなす傍ら、ナナフシはターコイズに顔を向けた。
「客なら注文を……」
「ヤッホー!ターコイズと新顔ちゃん!ご注文は!?」
ナナフシの声は、ターコイズ達の背後に着地した騒がしい声に遮られた。席から飛び上がりかけたイブリンの肩へ親しげに手を置くその人影に、ターコイズは振り返る。
「今日も喧しいねステップ」
ナナフシと揃いのモーニングコートに半ズボン。獣を思わせる逆関節の義足の女、「ステップ」は、片手で使用済みの食器の載った配膳用トレーを保持しながら、ターコイズと怯えるイブリンにウインクを返した。
「ふふん、褒め言葉として受け取るよ?ナナフシ!」
「なんだ」
「店長くらい呼んでやりゃいいでしょお得意さんなんだし!君はそういうところが……」
「分かった俺が悪かった。だから早く店長を呼んでこい」
ステップは満足げに頷くと、足取り軽く店の奥へ引っ込んだ。
「あ、注文決まったら声かけてね」
その一言を残して。
深く煙を吸い、吐き出すターコイズ。短くなった吸い殻を懐から出した携帯灰皿に詰め込み、口を開いた。
「ナナフシ、注文」
「なんだ」
「コーヒー、ブラックで。それと」
顔から血の気を引かせながらも背筋を伸ばすイブリンに目をやり、苦笑いして追加した。
「ココアを頼むよ」
「承った」
キリキリと音を立て、マニピュレータが伸びる。個々に聞き取ることのできない人々の声の中、ナナフシの硬質な作業音が僅かにテンポを上げた。その場から足も顔もろくに動かさないまま、ナナフシは収納を迷いなく空け、容器や粉末を取り出す。細長い拡張腕が忙しくも調和の取れた動きを見せ、注文からさほど経たぬうちに湯気の立つカップ2つがカウンターに並んだ。
「コーヒーとココアだ。……ごゆっくり」
「あいあんがとさん。ほら、これ飲んで落ち着きな」
おずおずと礼を述べて受け取り、イブリンはカップに口をつけた。ベタ甘く香りもどこか軽薄な、平均的な南部の品質のココアであったが、温かいというその一点だけで、イブリンの肩の力は幾分抜けた。
一息ついた、直後。重い音が鳴った。店の奥から、断続的に。それが足音だとイブリンが気づいたときには、ステップに連れられた巨軀が店の奥から現れていた。
制服と思しきモーニングコートと、その下に詰め込まれた、はち切れんばかりの筋肉。痩躯とは言え、背は高い方であるはずのナナフシを軽く超える長身。肩まで伸ばしたクセのある紫の髪と、どこか猛禽を思わせる顔立ちの中年の男が、誰かを探すように店内を見据え、ターコイズに目を留めた。
ターコイズもその視線に気づき、軽く笑みを浮かべて口を開いた。
「悪いねクイーン。休憩中だってのに」
「クイーン」。そう呼ばれた男はターコイズにカウンター越しに身を乗り出した。
「良いのよ気にしないで!アンタはいいお客さんなんだから!アラ?こっちのカワイイ子は見ない顔ね。もしかして、アンタの預かり?挨拶に来てくれたのかしら!?」
「察しが早くて助かるよ、紹介する。こいつはイブリン。ちょっとワケありであたしが雇うことにしたハッカーさ。イブリン、この厳ついのはクイーン。この辺の互助会の窓口さ。挨拶しな」
大男は瞬時に距離を詰め、硬直するイブリンの手を優しく両手で包んだ。ラベンダーを思わせる甘い香りが、イブリンの鼻腔をくすぐった。
「始めましてイブリンちゃん。アタシはクイーン。互助会の支店長ってとこかしらね。怖がらないでってのは無理な相談よね、でも安心して?アタシは互助会のおバカさん達の味方だから!」
「い、イブリンです。ターコイズさんに雇われたばっかりのハッカーです。えっと、これから、よろしくお願いします」
分厚く硬いクイーンの手にフードの袖ごと手を取られ、赤い虹彩を落ち着きなく動かすイブリンを横目に、ターコイズはニヤけながらコーヒーを啜った。
それは、徒歩用の正面入口が、錯乱した狂人達に蹴破られるのと同時の出来事であった。
無秩序だった空間は途端に一つの意思に統一された。
敵意に。
酔客も、店員も、ターコイズも。
そしてクイーンも。
イブリンだけが、取り残されていた。




