第4話「To the deep sea」
2人分の足音が、薄暗い階段に響く。鯨に招かれたターコイズとイブリンは、地下へ向かう階段を一つ一つ下り、かすかに唸りをあげる冷却ファンの音の元へ向かっていた。
歩を進めるたびに、階下から這い出る冷気が、湿った音を立てるイブリンのスニーカーに染み込む。足元から這い上がる鳥肌に、イブリンは軽く身を震わせた。
階段を降りきり、周囲の装飾とは浮いた堅固な扉の前に立つ。ターコイズがノックの拳を振り上げた直後、扉は音を立て左右に開いた。
薄青い闇と白い光が2人を出迎える。視力に悪そうなコントラストに慣れたイブリンの目が最初に捉えたのは、多数のモニターと、フロアの壁を壁を埋めるサーバー群であった。
かつてはダンスフロアであった空間の壁面を、直方体のサーバーが覆い、それらを床を這い回るケーブルが繋ぐ。中央に置かれたテーブル、それを囲むソファ。そしてその机の向こう側。ノトリ南部各所の様子や、滝のように流れるコードを映した、多数のモニターが光を放っていた。
光の中に佇む、一つのシルエット。腰掛けた回転チェアを反転し立ち上がる。木の根のようなケーブルを避けながら、小柄な人影が歩み寄る。
黒いタートルネックに深緑のカーディガンを着込んだ、坊主頭の若い男がターコイズの前に立った。
「悪いね時間取らせて」
「気にしなくていいよターコイズ。暇してたんだ」
「じゃあ早速本題だ。ほら、挨拶しな」
軽く背を叩かれ、イブリンが前に出る。
「はじめまして、イブリンと言います」
「えっと……そう畏まらないでほしいかな。悪いね、慣れてないんだ」
イブリンに頭を上げさせ、男は続けた。
「じゃあ、改めて。僕は「鯨」って名乗ってる。そこのターコイズとは、まあ、友人ってことにしようか。情報屋で、ハッカー。よろしく」
イブリンに右手を差し出す傍らの、眠たげな目つきの奥。機械化された眼球が、仄かに緑色の光を発した。
イブリンと握手を交わした鯨は、ソファへ二人を誘導した。慣れた様子でケーブルを避けて歩き、深く腰掛けたターコイズの横に、少し遅れてイブリンが座る。鯨は一度奥のスペースへ引っ込み、戻ってきたときには空のマグを3つと、プラスチックのケトルを持って現れた。
机を挟み、イブリンとターコイズの対面に腰掛けた鯨はケトルを傾ける。湯気を放つ褐色の液体がマグを満たし、深みのある香りが場を満たした。
「よかったら、飲んで。大したもんじゃないけどね」
形ばかりの礼を述べ、眉を寄せながらマグに口をつけるターコイズを横目に、イブリンは鯨に会釈をしつつマグを手に取った。冷えていた指先に血が通い始めるのを感じながら、イブリンは中の液体を啜った。
赤い虹彩が丸まり、言葉が漏れた。
「おいしいです……!」
「よかった。ターコイズは甘すぎるって言うんだけどね」
「コーヒーはブラックが好きなんだよあたしは」
「うん知ってる」
小突き合いのようなやり取りの後、鯨は静かにマグを置いた。
「じゃあ、本題だ。僕に何を聞きに来たのか話してもらおうか」
前のめりになった鯨は、骨張った指を膝の間で組み、神経質に動かし始めた。瞬きを忘れた緑色の視線は、薄闇の中、静かに二人を捉えていた。
「あたしが話す。イブリン、あんたは分かることだけ喋ればいい」
ターコイズは粗方空にしたマグを置き、昨晩のことを順を追って話し始めた。その大半は、イブリンにとっても未知の事柄であった。
淡々と語られる、ターコイズから見た事の顛末。そこにあった、正体不明の依頼人の、「穴熊」というハッカーの、自分を追ってきたバイクの操縦者達の、死。イブリン自身すら知らない、自分の価値とそれを巡る争いの一端を聞き、暖まったはずの指先も、今や青白く冷えていた。
「私のせいで、そんなに人が……」
震える喉から溢れた一言に、鯨とターコイズは話を中断し目を向けた。
「別にあんたのせいじゃない。皆命懸けってだけさ。あたしも、穴熊も、追ってきた連中も依頼人も、ね」
ぶっきらぼうな物言いに苦笑しつつ、鯨は続いた。
「これはターコイズに同意かな。ここはそういう所ってだけ。それに」
鯨は指を解き立ち上がり、首を鳴らした。
「そうやって責任を感じてしまうなら、知っておいたほうがいい。君自身の能力と、その価値を。そのためにここに連れてきたんだろう、ターコイズ」
首肯するターコイズを見やり、鯨はイブリンの背後に回った。
「イブリンさん、まずは君のポートを知りたい。現物を見せてくれないかな。」
「はい。これで、見えますか?」
「ありがとう」
背に垂らしていた長髪を肩に流し、うなじのポートを露出させる。細く滑らかな首に埋め込まれた、硬質な銀に光るそれに、鯨は慎重に触れた。指先で凹凸の少ない形状と硬さを確かめた後、義眼によるスキャンに移った。忙しなく義眼を動かした後、鯨は瞼を閉じる。少しの間、サーバーの冷却ファンだけが音を立てた。
「なるほど」
「どうした?」
振り向くターコイズには目もくれず、口元を手で覆いながら鯨は答えた。
「端的に言ってこんなポートは知らない。初期型から新型までのあらゆる型番とも一致しないし、個人がカスタムしたにしてはベースになるようなポートも特定できない。一点ものか、商品化されてないモデルか、また別の何かか。一応今主流な規格との互換はあるみたいだけど……。とにかく、とんでもなく希少な品なのは確かだ」
堪えきれない興奮に口を歪めながら鯨は語った。
「そうだね、まず、知りたいのはどこまでできるか」
そう呟くと鯨はモニターの方へと足を進め、デスクの引き出しを漁った。鯨の動きを目で追うだけの二人の元へ戻る頃には、鯨は上端が平らに均された雫型の機器を手に持っていた。
「イブリンさん、次はこれに直結してみてほしい」
「えっと……これは何ですか?」
「この辺の、ハッカー志望の悪ガキたちのおもちゃ。「オニオン」って呼ばれてるんだ」
「オニオン……ですか?」
「うん。層状になってて、上手くハッキングしてセキュリティを破れれば、こうやって皮が剥ける」
そう言うと鯨はオニオンの上端に自身のポートから伸びるケーブルを差し込み、イブリンの前で一番外側の層を剥いて見せた。
「こんな感じ。浅い層は簡単に解錠できるんだけど、深くなっていくとだんだん難易度が上がる。悪ガキたちは、コレを何層まで開けられたかで競うんだ」
説明しながら、鯨は2層、3層とセキュリティを破り、少し目を泳がせて7層目を開いた。
「これを、私が何処まで開けられるのか見たい、ってことですか」
「うん。準備ができたら、ケーブルを挿してほしい。それと、無理はしなくていいからね」
鯨はケーブルを抜いてオニオンの形状を整えた後、イブリンに手渡した。
イブリンは手の内に収まった機器を少し眺めた後、その頂点に、恐る恐るケーブルを挿しこんだ。
次の瞬間、2つのことが起こった。
1つはオニオンの形が変形し、蓮の花のような形に開ききったこと。
もう1つは糸の切れたマリオネットのように、イブリンがその場に崩れ落ちたこと。
「イブリン!」
机に突っ伏しそうになったイブリンをターコイズは反射的に抱きとめた。力なく揺れる華奢な体をソファに寝かせながら、鯨を睨みつけた。
「鯨ァ……!」
「待ってくれ、すまなかった。これは僕も想定外だ」
机に置かれた、開ききったオニオンと、それに繋がれたままのイブリンを交互に見ながら、鯨は呟いた。
「あり得ない……」
その声は畏怖と困惑に満ちていた。
「君も分かってるとは思うんだけど」
鯨は引っ張り出したブランケットをイブリンに掛けながら、落ち着いたターコイズに声を掛けた。
「普通はさ、喋れるんだよ。機器に直結してようが、多少の作業を裏でやってようが」
ターコイズは自身と車を直結した時の感覚を思い出し、無意識にポートをなぞる。
「でも」
鯨は寝息を立てるイブリンに目線を移し、ターコイズに戻した。
「イブリンさんは違うみたいだ。現実か、ネットワークのどちらかにしか、イブリンさんは居れないんだ」
席に戻る鯨。手に取り傾けたマグの中身はぬるくなっていた。
「あたしはハッキングは門外漢だからさ。いまこの子はどうなってるか教えてくれないか」
ターコイズの問いに、鯨は暫し沈黙してから、言葉を探るように答え始めた。
「これは僕個人のイメージの話にはなるんだけど」
そう言って鯨はぬるいコーヒーを飲み下し、言葉を継いだ。
「ネットワークに意識を投影するのは、なんていうか、海に潜るようなものなんだ」
「潜る?」
「そう、潜る。投影が緩い状態なら、ハッカーの意識は現実世界を認識してるし、それと同時にネットワーク由来の感覚も感じてる。例えるなら、比較的浅い深度なら水の中も、水面の外側もある程度見られるって感じだ。」
「すると、あんたの言葉を借りるなら、あたしはそれ以上の深度には潜れないってことかい」
「そうなるね。そして、僕らハッカーはより深く潜れる。そして、深く潜れば潜るほど、水面の外側は見えなくなる」
「なるほどね、デカいヤマの時、ハッカーが寝始めるのはそういうことか」
「言い方があんまりだけど、そうだよ」
「そうやって潜って浮かんでまた潜って、僕らハッカーたちは少しずつ奥底まで向かうんだ」
「深く潜れば水の中はよく見える。よく見えるってことは干渉がしやすいってことさ。でも浅瀬のカニを捕まえるのに、10mも潜る必要はない。仕事によって最適な深度ってものがある。何よりそんな深さに潜れば潜るほど、脳への負荷……水圧にでも例えたらいいかな、そういうのが強くなる。だから潜る深度には気を使うんだ。でも」
寝ているイブリンに目線を投げる。
「イブリンさんは違う。あの子は多分、潜る力が強すぎるんだ。一息に10mも20mも潜ってしまう。必要以上に深くまで行ってしまうから、簡単な解錠程度でも倒れてしまうんだ」
「だからか……」
ハイウェイと、今ここで見せた異様に強力なハッキング。その裏にある歪さの片鱗を、ターコイズは垣間見た。
「あまりこういう言い方はしたくないけど、こんなの普通じゃない。あと、昨日もハッキングして倒れたって言ってたね。どれくらいで起きた?」「3〜4時間ってところかな」
「……早いね。あんな極端な潜り方、推定にはなるけど僕なら半日は寝込む」
「それで、イブリンは今、あんたの言う水圧にやられてるってことでいいかい」
「それもあるんだろうけど……」
鯨はケトルから新たにコーヒーを注ぎ、マグを掌の中で揺らす。仄かな湯気を眺めながら、独り言のように呟いた。
「帰り道を知らないんだ」
「帰り道?」
「さっきも言ったように、普通は少しずつ深く潜れるようになる。その過程で、水面に意識を戻す方法なんて自然に身につくんだ。でもね」
マグを置き、鯨はため息をついた。
「イブリンさんのスタートは深海だ。そこに至る過程も無しに、左右も上下も定かじゃない暗闇の中から、もといた水面まで戻らなきゃならないんだ。だから意識も中々帰ってこない。迷子なんだよ」
ファンの音と、鯨が時折コーヒーを啜る音。どこか息苦しい空気の中、ターコイズは口を開いた。
「あんたは、イブリンをどう見てる」
「深く潜る力は途方もないね。でも、それだけだ。その力を扱うだけの技術も経験も足りてない。寧ろ、経験抜きにこの領域にいることが不自然なんだ。そうだね、エンジンだけ優秀な車に乗った素人って言えば分かりやすい?……興味深いけど、厄介ごとの匂いしかしない。君はイブリンさんを雇うつもりみたいだけど、手を引いたほうがいい。どんな連中に狙われてるのかも不明瞭だし、何より仕事で1回しかハッキングできないハッカーに身を預けるなんて自殺行為だよ」
再び、部屋に重い空気が立ちこめる。手元に置かれたマグの底に視点を置きながら、ターコイズは沈黙していた。
イブリンを雇うリスクと、メリット。イブリンの秘めた力と、それに付随する代償。
(重い……)
ターコイズとてそれを理解していないわけもなく、天秤は片方に傾きかけていた。口を開こうとしたその時、脳裏に浮かんだのは依頼人の意味ありげな目と、明け方に握った、細く冷たい指の感触だった。
やおらターコイズは腕を伸ばし、コーヒーをマグに注いだ。並々注がれたそれを一息に飲み干し、マグを机に叩きつけるように置いた。
「あたしの方針は変わんないね。雇う。んで、技術は鯨、あんたが仕込め」
「はあ?」
突きつけられた右人差し指を払いながら、鯨は困惑に顔を歪めた。
「金は払う。あんたの手隙の時間でいい。だからイブリンのコーチになってくれ。そうだ、あとこいつ用に適当な端末も売ってほしい。どうせ飛ばし用のストックとか持ってんだろ」
「僕は講師でもジャンク屋でもないんだけど」
急な商談が始まり、言葉が飛び交う机のすぐ近く。イブリンは今だ静かに呼吸を繰り返していた。
「まあ、いいよ。コーチングなんてしたことないけど、金が出るなら文句は言わない。端末は……あとで渡す」
多少の問答の末、首を振り呆れながらも鯨は了承した。満足げに背もたれに体重を預けるターコイズに、鯨は尋ねた。
「……なんでそんなに拘るのかな。危ないのは君も分かってるだろう?」
ターコイズはイブリンを一瞥し、鯨に向けて鼻を鳴らした。
「愚問だね」
「荷物を放り出す運び屋がどこにいんのさ」
青い瞳に不敵な笑みをたたえてそう言い切った友人に、鯨は呆れと納得の入り混じったため息で応えた。
「イブリンさんが目覚めるまで待ってて良いよ」
その言葉を、ターコイズは素直に受け取った。モニター前の椅子に戻った鯨から投げ渡された2世代前の端末は、多少の傷はあれど支障なく動くようで、中身も綺麗に初期化されていた。
ターコイズは自身の端末で鯨の口座に提示された額を振り込み、イブリンの様子と鯨のモニターを交互に見て時間を潰した。
そうして3時間程経った頃、うめき声をあげてイブリンが身を起こし始めた。
「起きれるかい?」
「はい……何とか。すみません、ハッキングすると、どうも気絶しちゃうみたいで……」
気まずそうに目を伏せるイブリンに、ターコイズは努めて明るく言った。
「大丈夫さ、その癖は鯨大先生にどうにかしてもらうことになったから」
「ターコイズ?」
「そうだ!鯨さん!折角時間取ってくれたのに……」
慌てて立ち上がるもふらつくイブリンを、鯨は制止し座らせた。
「いいんだ。僕も迂闊だったね、すまなかった。それと……」
ターコイズを交えて鯨がコーチに就くことと、端末の提供のことを伝える間、イブリンはしきりに頭を下げていた。
「邪魔したね、今日は帰るよ」
鯨の判断で今日からのコーチングはしないこととし、初回の日取りを決めたタイミングでターコイズは立ち上がった。例に習ってイブリンも立ち上がり、鯨は座ったまま二人を見ていた。
「重ね重ね、ありがとうございました」
端末を握りながら礼を述べるイブリンに、鯨は頷いた。
「礼はターコイズに言うと良い。僕は依頼を受けただけだからね」
「じゃ、お暇するよ」
「ではまた後日、よろしくお願いします」
「そうだ、ターコイズ、「互助会」への顔見せは?」
「まだ。明日行くよ」
「互助会?」
「後で話すよ」
イブリンの背を掌で軽く叩き、扉へ向かわせる。ターコイズが扉の開閉ボタンを押すと、扉は音を立てて開き、外から少しだけ高い温度と湿り気を帯びた空気が流れ込んだ。
イブリンを先に階段に登らせ、後を追おうとするターコイズの背に、鯨が声を掛けた。
「ターコイズ、待って」
「ん?」
ターコイズが振り返ると、パンパンに膨らんだビニール袋を持った鯨が立っていた。
「これはオマケだ。持っていくといい」
「なんだいこれ」
「イブリンさん用の着替え。君のことだ、服のことなんか頭になかっただろう?処分に困ってたからあげるよ」
ターコイズは袋と鯨の顔を交互に見て、袋を受け取り頬を歪めた。
「そりゃどーも。ありがたく受け取るよ。あんたの元カノの品も喜んでるだろうさ。また若い女に着てもらえるんだからさ」
「次その話をしたら君の預金をゼロにしてやる」
ターコイズは笑い声を返し、片手を挙げて階段を登り始めた。鯨は遠ざかる足音を聞きながら、モニターの前へと戻っていった。
廃クラブのドアから、二人の人影が姿を現す。雲の外側の太陽は落ちかけ、既に宵の気配が漂っていた。
黒い雨合羽とカーキ色のコートの背中が、ネオンの輝きが増したノトリ南部の喧騒の中に紛れる。
雨は徐々に降り止んでいった。




