第3話「Welcome to NOTORI」
鉛のような雲から、細かな酸性雨が注ぐ。昔とは比較にならないほど大気汚染が進んだこの時代、曇天と雨音は日常の象徴であり、人々は気にする様子もなく、各々の雨具を携え街をゆく。
巨大な港湾と煙突が並ぶノトリの北部を抜けると、目を焼くネオンきらびやかな商業都市の中央部へ入る。真っ直ぐに南に進んでいけば次第にネオンの光は剣呑な雰囲気を帯び始め、気づけば足元のコンクリはひび割れる。そこかしこからは戦闘用改造四肢の軋む音が聞こえ、値踏みをするような視線が物陰から向けられるようになる。
ノトリ南部。そこはこの人工島の掃き溜めにして裏の顔。イリーガルな活気に満ちたこのエリアは、犯罪者達の住処にして、後ろ暗い企業達の裏庭でもあった。
廃棄された雑居ビルが立ち並ぶ区画の、とある二階建て事務所。壁面に粗雑に張り付けられた「Turquoise」の青いネオンサインが、雨粒にうたれ火花を散らした。
昼下がりの気だるい空気の中、そのビルの主、ターコイズは、首の痛みに目を覚ました。滲んだ視界に映る天井の位置に違和感を覚えつつ、ターコイズは背を床面から引き剥がすように身を起こす。霞がかった頭を軽く振り、背筋を伸ばすと背骨から乾いた音が鳴った。そしてターコイズは思い出した。自分がソファで寝ていたことを。
クッションのくたびれた灰色のソファに腰掛け、空のボトルや空き箱、ガラクタが積まれた机に手を伸ばす。明け方、寝る前に開けた水のボトルに手を取り、勢いのまま飲み干した。ターコイズは口を拭い、部屋を見渡す。
高栄養価の保存食が詰まった箱、その空き箱。空のボトル。明け放たれた工具箱と、適当に使い倒したその中身。オイルの染みた布切れ。雑に干された衣類。多種多様な、使い所の定かでないガラクタ。
そして物に溢れた部屋の隅、愛用のパイプベッドの上。清潔な白を身に纏ったイブリンが、穏やかに寝息を立てていた。
ズボンのポケットの膨らみを確認し、ターコイズは物を踏まぬよう恐る恐るベランダに向かった。庇の下でホワイトノイズじみた雨音を聞きながら、柵に体重を預けつつタバコとライターを取り出す。
「Turquoise」のネオンサインが立てた、不満げなショート音が主人の耳に入る。
(いい加減変え時かね)
ターコイズは咥えタバコの隙間から、灰色のため息を吐き出した。
昨夜から今朝までの出来事の後、ターコイズは事務所1階のガレージから2階の居住スペースにイブリンを招き入れた。ガラクタに向こう脛を打ち、涙目になりながらもソファで寝ると主張するイブリンをベッドに放り込み、ターコイズもまたソファで眠りについたのだ。
手元に視線を落とし、腕時計を見る。白い傷の浮いたプラスチックの下で、文字盤の針は2時半を指していた。
ターコイズの背に、衝突音とうめき声が届いた。反射的に振り返って見た先には、ベッドから滑り落ちたイブリンが、ボサボサの頭を持ち上げようとしていた。
ターコイズは吸い殻をベランダに置いた灰皿に押しつけ、部屋の窓を開けた。机の上から未開封の水と補給用ゼリーのパウチを手に取り、プラチナブロンドの毛玉の方へ足を進めた。
「おはようさん。眠れたかい?」
「はいっ。おはようございます」
髪を纏めるのも早々に頭を下げたイブリンに、手に持った食品を手渡す。興味深げにゼリーを眺めるイブリンに、ターコイズは忠告を入れた。「味には期待できないからね。そいつの褒めるところは栄養価と喉ごしだけだ」
赤い目を瞬かせ、パウチとターコイズを交互に見るイブリンに、薄く笑いながら告げる。
「安心しな、死にゃしないからさ」
軽い音を立て蓋を空け、イブリンは一息に中身を吸い込んだ。
直後に見せた渾身の渋面は、ターコイズを呵々大笑させるのに十分すぎる破壊力を持っていた。
「ごちそうさまでした……」
水をボトルの四分の一ほど一気飲みした後、涙目のイブリンは何とかその言葉を捻り出した。腹筋の痙攣も落ち着いてきたターコイズに、イブリンは困惑気味に尋ねた。
「あの……これ、どこに捨てればいいですか?」
「あー……」
半ば巨大なゴミ箱と化している私室の中でターコイズは頭を掻いた。彼女なりの秩序やルールがないわけではないのだが、他人にそれを説明するのは難しかったのだ。
「いいよ、預かっとくから」
少しの逡巡の末当たり障りなく答え、釈然としていなさそうなイブリンからパウチを受け取った。
どことなく落ち着かない空気を払うように、ターコイズは柏手を打った。
「さ、腹ごしらえも終わった事だし出掛けるよ」
「お仕事、ですか?」
「いいや、それより先に行っておきたい場所がある。身支度しな。あたしの知り合いを紹介するから」
部屋から発掘された櫛で軽くイブリンが髪を整えたあと、ターコイズは予備の防水コートを引っ張り出してイブリンに放った。カーキ色の長丈のそれはイブリンの肢体には余る代物であったが、寧ろ程よく全身を覆い、酸性雨と異分子を値踏みする視線からイブリンを守るのに適していた。
愛用の黒い合羽を羽織りながら、ターコイズはイブリンに言った。
「いいかい?外にはあたしの比じゃないくらいのアホどもがわんさかしてる。まあ、あたしがいるから早々変な気起こす輩は居ないだろうけど、念のため約束しな」
フードを被り、イブリンを見下ろし視線を合わせる。
「あたしから離れないこと、道中の誰とも目を合わせないこと」
ターコイズの目を見上げ、イブリンは神妙な面持ちでうなずいた。
階段を下り、薄暗いガレージに出る。壁や棚に収納された多様な道具類に囲まれた中、車の診断はとうに終わり、黒鉄の怪物は静かにそこに鎮座していた。ターコイズは機器に近づき、慣れた手つきでモニターを確認し始める。
「装甲板……在庫は、あーあ。基礎診断……は緑ね……いつ出すかな」
ブツブツと独りごちるターコイズに、イブリンは罪悪感を滲ませながら尋ねた。
「あの、昨日の件で、壊れちゃったんですか?」
「半分そう。機銃でやられて装甲板がボコボコさ。まあ、元々定期メンテも近かったし、何よりあたしの濡れ鼠はタフだからね。そうそう走れなくなりゃしない」
へこんだ装甲板を軽く撫で、画面を終了させて振り向いた。
「まあ、修理代はあんたに請求するんだけどね」
片眉をあげて笑うターコイズとは対照的に、イブリンは肩を落とし項垂れた。
「さておき、今日コイツはお休みだ」
黒い車体を裏拳で軽妙に叩き、ターコイズはドアへ向かう。
「今から行くとこはそう遠くないし、何より駐車場がないからね」
ノブに手を掛けたターコイズの背後で、イブリンが尋ねる。
「路肩に停めるのはダメなんですか?」
「アホ言え。そんなことしたら、用事済ませて戻ってくる頃にネジ一本でも残ってりゃ奇跡だよ」
絶句するイブリンに、ノブを捻りながらターコイズは語る。
「あんたが転がり込んだのはそういう街さ。歓迎するよ。ようこそ「南部」へ」
ガレージの薄闇にネオンの光りが差し、薄く鼻を刺す刺激臭が埃っぽい空気と混じり合う。雨音が鳴る。より強く、鮮明に。
フードを打つ雨音が、イブリンの耳に籠る。顔に垂れる雨粒を、持て余した袖で拭いながら、イブリンは少し前をゆく黒い雨合羽を追いかけていた。
まずイブリンを驚愕させたのは、ドギツい色彩によって生み出された視覚情報の洪水であった。
色褪せ汚れの目立つコンクリ造りの建物に、ゴテゴテとネオンサインを飾り付けた店舗が所狭しと並び立ち、サイケデリックな白昼夢のような様相を呈していた。
元来まだ日は高いはずの時間帯であるが、分厚い雲に覆われたノトリは既に薄暗く、余計に目立つネオンがイブリンの視界をかき乱した。
加えて、行き交う人々もまたイブリンの目には奇妙に映った。傘の下に褪せた虹色のモヒカンを揺らす男。コートの隙間から赤錆のついた爪を垂らしている女。性別すら定かではない程に身体改造を施した者。例を挙げればキリのない、「極めて凡庸」な住人達が闊歩し、露店でやり取りし、怒鳴り合い、奇怪な物音を立てていた。
記憶にある中で初めて直面する雑踏の中で、黒い雨合羽の背を目印に、或いは盾とし、イブリンは足元を濡らしながら歩いていた。
2ブロック程歩いたところで、ターコイズは立ち止まり振り返った。
僅かながら疲労の見えるイブリンに手招きし、人通りの少ない横道へ入る。また少し歩きターコイズが立ち止まったのは、ネオンサインすら貼られていない、潰れたクラブハウスの前だった。
古典的な鍵すら掛かっていない扉を開け、ターコイズはイブリンを率いて中へ入る。外の喧騒が僅かに遠のいた殺風景なエントランスで、イブリンはターコイズに習いコートを脱ぎ、軽く畳んでカウンターに置いた。
設備のほとんどが撤去された部屋を横切り、ターコイズは扉の前に立った。
すると扉の上方の魚を模した装飾から、ノイズのかかった男の声が流れた。
「やあターコイズ。昨日は随分ご機嫌だったみたいだね」
「耳が早いね「鯨」。ずっとモニターとにらめっこしてたのかい?」
「仕事だからね。……もしかしてその子が昨日の荷物かな?」
「ああそうさ。ちょっとあんたに見てもらいたい」
「鯨」と呼ばれた男の返事の代わりに電子音が鳴り、施錠が解除された。目の前の扉が二人を招き入れるように開き、その先には地下へ続く階段の薄闇が、ぽっかりと口を開けていた。
「早く入ってほしいな。対面で話がしたい」
ターコイズに促され、イブリンは階段へ足を伸ばす。二人の影が薄闇に溶けた頃、静かに扉が閉まり、再び電子音を立てた。
無人のエントランスは、再び細やかな静寂を取り戻した。




