4 琥珀の雫亭での密談
店の熱気は変わらない。
焼けた肉の匂いも、酒に浮かれた笑い声も、さっきと何ひとつ変わっていない。
――それなのに、リンとガイの卓だけが白けた空気で冷えていた。
再び注文を取りに戻ってきたアリーは、その温度差に気づき、わずかに目を細める。可笑しくて、つい口を挟んだ。
「なんか、あったの?」
「…別に」
「世の中って理不尽だなぁってね?」
力の抜けた声でそう言いながら、リンはグラスを傾ける。氷が軽く音を立てた。
一度喉を鳴らしてから、ようやく面倒くさそうに口を開く。
「結局、丸く収めたいってことだろ」
「優しいよね。変態にもやさしい世界」
「言い方やめなさいよ。……でも、まぁ、リンの言う通りかな」
困ったように眉を下げるカトリーナに、二人は顔を見合わせた。
ほんの一瞬だけ、視線でやり取りをする。
結論は、すぐに出た。
「ま、しゃーねぇな」
「嫌いじゃないよ、そういうの。面倒くさいけど」
肩の力を抜いたように言いながらも、その目はすでに何かを計算している。
「個人の趣味には口出ししねぇ主義だけどよ」
「合意ないならアウトでしょ、それ」
「だな。……なら、話は早ぇ」
リンがグラスの縁を指で弾く。
乾いた音が、妙に小さく響いた。
「金、払わせるか」
一拍。
ガイが、わずかに笑う。
「賛成。それが一番手っ取り早いしね」
二人は同時に、同じ結論にたどり着いていた。
口元だけが、ゆっくりと持ち上がる。
「アリー、ひとつ頼みがある」
その声音に、アリーの片眉がわずかに上がる。
「『琥珀の中の虫』、そろそろ戻ってくる頃だろ」
「常連用なら、少しは回せるわ」
カトリーナが小さく息をついた。
「二人とも、お手柔らかにね?」
「今さらそれ言うか?」
「俺たち、いつだって紳士的だよ」
涼しい顔で言い切るあたり、まったく信用ならない。
アリーは小さく肩をすくめ、話が決まったと判断した。
「ベス、奥の部屋って空いてる?」
「ん。どうぞ~」
カウンターの奥、目立たない扉が開かれる。
リン達は自然な足取りでそこをくぐった。
店内の喧騒が、扉一枚で遠ざかる。
そこにあるのは、静けさと、少しだけ湿った空気だった。
円卓がひとつ。装飾はない。
だが、この部屋が食事のために使われたことは一度もない。
情報の売り買いのための、場所だ。
「神殿の話なら、慎重なくらいが丁度いいでしょ」
後ろ手に扉を閉めながら、アリーが片目をつぶる。
その仕草一つで、空気が切り替わった。
さっきまでの“飲み屋の姉ちゃん”は、もういない。
「助かる」
席についたリンが、短く礼を言う。
「どういたしまして。で、どんな情報がほしいの?」
アリーの目が、底の見えない色に変わる。
リンは肘をつき、わずかに口角を上げた。
「…手っ取り早くいきてぇからな」
目を細める。
「娼館のおねぇさん、紹介してくれよ」
「どんな子?」
間を置かず返される問いに、カトリーナがわずかにためらう。
リンに視線で促され、観念したように口を開いた。
「お高く止まった真面目な子。……人の頭を踏みつけることに抵抗がないといいんだけど」
一瞬の沈黙。
「こりゃまた、特殊な趣味ね」
「頼んどいて何だけど、つくづく変態だよね」
「言うな、ガイ。飲み込め」
リンの低い声に、ガイは素直に口を閉じた。
アリーは腕を組み、指先を顎に当てる。
視線が宙をなぞるように動いた。
記憶を探っているのだろう。
やがて、ぴたりと止まる。
「いるわ。条件的には一人…」
「いるんだ……そんなのが」
思わず漏れたガイの声に、リンがすぐに被せる。
「深く考えるな。飲み込んどけ」
それが、この場での正しい対処だった。
これで、司教の趣味に文句をつける必要はなくなる。
――つまり。
「司教から、金、巻き上げようぜ?」
リンが、声を潜めて囁く。
「言い方ひどくない?」
「事実だろ」
「まぁね。じゃあ、“手数料”ってことにしようよ」
「言い換えただけじゃねぇか」
軽口の応酬。その裏で、やることは決まっている。
カトリーナは小さくため息をついた。
「……まずは、司教を納得させるのが先だからね」
聖女たちを、余計なものから遠ざけたい。
——それは間違いない。
けれど、だからといって、あの人が支えているものがある以上、司教を切り捨てるのも違う気がした。
自分でも面倒だと思う。
わずかに目を伏せ、それから顔を上げる。
「乗るわ。その話」
「よし。うまく行けば紹介料ぶん取れるな」
「すごい悪い顔してるよ、リン」
「うるせぇよ、休日にタダ働きなんてしてたまるか」
「まぁ、それは確かに」
三人の思惑が、静かに噛み合う。
――発端は、どうでもいい。
内容も、正直どうでもいい。
だが。
それでも面倒事には違いない。
それぞれの事情と打算を乗せて、やたらとくだらない事件が、静かに転がり始めた。




