第114話 いつまででも待っています
妊娠しているため、休憩しながらゆっくりと馬を歩かせていたら、ブロッカに着いた時には午後九時を回ってしまっていた。
急いで来たかったのにもどかしいことこの上なかったが、いざ街に着いてしまうと尻込みしてしまう。
ブロッカは眠らない街というわけではないが、午後九時くらいならまだ街は明々としていて、眠るには早い時間帯と言えよう。サビーナは人通りの多い道を選んでキクレー邸の前に立つと、どうしようかと頭を悩ませた。
勢いのまま来てしまったが、この時間に貴族の家に押しかけるのはどうだろうか。それでなくともクリスタがいなくなって、みんなピリピリとしているかもしれない。今日はこの街の宿に泊まって、明日改めて伺う方がいいだろうか。
どうすべきかと門の前で立ち往生していると、ガラガラと馬車の音がしてきた。その馬車はサビーナの真後ろで止まると、中から話し声が聞こえてくる。
「もう街にはいないようだな」
「この国を出るのは一日も掛かりませんからね。恐らく、もう国外に出ていることでしょう」
「ザレイ様、セヴェリ様、申し訳ありません! うちのバカ息子が……っ」
「マティアスだけではない。我が孫娘も、マティアスを嫌っているフリをしながらやってくれおった……本当にすまんな、セヴェリよ」
「いいえ、お二方ともお気になさらないでください。とにかく今日は戻って眠りましょう。今後のことはまた明日にでも」
「そうだな」
馬車からの話し声が途切れると、次々に人が降りてきた。サビーナはどうしようかと思ったが、その場所から動かずに人影をジッと見つめる。
馬車を降りてきたのはザレイとセヴェリ、そしてマティアスの父親であろう人物だった。
「うん? お主は?」
暗がりで見えなかったのか、ザレイが目を瞬かせながら尋ねる。それに答える前に、後ろにいたセヴェリが声を上げた。
「サビーナ……?!」
「お久しぶりです、キクレー卿、セヴェリ様。夜分に突然申し訳ありません」
丁寧に頭を下げて挨拶をする。ザレイも驚いていたようだったが、要件を聞く前に屋敷の中へと入れてくれた。
「サビーナ、久しぶりだ。こんな夜に一体どうした?」
「キクレー卿、マティアスとクリスタ様が駆け落ちなさったと伺いましたが、本当でしょうか」
まずは事の真偽を確かめようと、直球で聞いてみる。するとザレイは項垂れるように首肯した。
「もうクスタビ村までこの話が伝わっておるのか。その話は本当だ。おぬしの兄、セヴェリには申し訳ないと思っとる」
「そのことで、少し兄と……いえ、セヴェリ様と二人きりでお話をしたいのですが、よろしいでしょうか」
「そうか……わかった、ゆっくりと話すがよい」
「ありがとうございます、キクレー卿」
ザレイは腰を上げて部屋を出ていってくれる。サビーナとセヴェリも起立して頭を下げながら彼を見送った後、二人はどちらからともなく視線を重ね合わせた。
「サビーナ……どうしてここに?」
「クリスタ様がマティアスと駆け落ちしたと聞いて……どのような状況になっているのかと」
「心配して来てくれたのですか? 大丈夫ですよ、すでに家督継承権は私にありますし。ここを追い出される心配はありません」
「知っています。でも私が知りたいのは、どうしてセヴェリ様が駆け落ちの手伝いをなさったかなんです」
サビーナがそう告げると、セヴェリは驚いたように瞠目している。
「どうして、それを……」
「マティアスが来て、教えてくれました」
「マティアスが……全く、あの男は要らぬことを……」
ムッとした顔に嘆息が加えられて、不機嫌さが感じ取れる。
「教えてください。どうしてそんなことをする必要があったのかを」
「あなたには関係のないことですよ。それより早く屋敷を出なさい。外でデニスが待っているんでしょう? 心配を掛けてはいけませんよ」
「デニスさんは、来ていません」
サビーナの答えに、セヴェリは不可解そうに首を曲げる。
「え? では、一人で来たということですか?」
「はい、そうです」
「ではなおさら、すぐに帰りなさい。きっと心配しているはずです。今馬車を用意させますから……」
「いえ、恐らくデニスさんは、もうクスタビ村にはいませんから」
「……どういう意味です」
セヴェリの表情は一気に深刻なものへと変化させ、警戒する猫のようにこちらを凝視している。
「デニスさんは、もう村を出て行ったと思います。恐らく、二度と戻って来ません」
「っな!」
セヴェリは表情を喫驚に変え、サビーナの左の肩はガシッと掴まれた。
「なにをしているんですか! 追いかけなさい、今すぐ!」
「どこに行ったかわかりませんし、追い掛けるつもりもないんです。私とデニスさんの道が交差することは、今後なくなりましたから」
「どうして……どうしてこんなことになってしまったんです!? あなたたちなら、きっと幸せになれると……」
セヴェリの苦しそうな表情を見て、サビーナは左肩に置かれた手をそっと握った。
「それを答えてほしいなら、まず私の質問に答えてください。セヴェリ様とクリスタ様は愛し合っていたはずなのに……どうして二人の駆け落ちの手伝いをなさったのかを」
しばらく無言でいたセヴェリは、やがて諦めたかのように手を肩から下ろした。そしてゆっくりとソファに腰を下ろし、促されてサビーナもその隣に座る。
彼の横顔を見上げると、彼は視線だけをこちらに寄越した。
「クリスタは私のことを慕ってくれていましたが、恋愛感情はありませんでしたよ。彼女が好きだったのは、幼い頃からずっとマティアス一人だけだったようなので」
「……それ、セヴェリ様はずっと知ってたんですか?」
「ええ、なんとなく気付いてはいました。親しくなるにつれ、確信めいたものはありましたね。クリスタはマティアスを嫌っているような素振りをしていましたが、それが微妙に不自然でしたから」
なんとセヴェリは、最初からクリスタの気持ちに気付いていたのだ。驚きを隠せないまま、セヴェリの話を傾聴する。
「クリスタが私を慕ってくれること自体は嬉しく、彼女をとても可愛く思っていました。私に兄弟はいませんが、妹がいたならこんな感じだろうかと……なにかを企んでいそうな腹黒いところが私に似ていたから、余計に可愛く思えたのかもしれませんね」
クスクスと笑い始めるセヴェリを、少し呆れ顔で見つめる。腹黒さが自分に似た妹みたいで可愛いとは、やはりセヴェリは少し歪んでいると思いながらも、憎めないのだが。
「クリスタ様を妹のように思っていたから、手助けをしたんですか?」
「最初はそのつもりはなかったのですよ。相手があのマティアスでは、協力する気など毛頭ありませんでした」
「あの……セヴェリ様は、どうしてマティアスをそんなに嫌っているんです?」
ずっと疑問に思っていたことを口に出すと、やはりセヴェリの表情は硬く不機嫌ものへと変わる。
「あの男は不誠実でしたから」
「そう、なんですか?」
「ええ。クリスタを好きな癖に娼館に通ったり、あなたにまで手を出そうと……今思えば、一度誰かと結婚しなければいけないクリスタへの当てつけだったのかもしれませんが、あの男のそういう矮小さが私は嫌いでした」
手を出されそうになっていたのだろうか。そこのところは不明だが、マティアス本人の話では、ブラコンシスコン兄妹を引き裂くのが目的だったように言っていた。それもクリスタの命令によって。
なのでマティアスばかりが悪いわけではないと思うが、真実はどうかわからないので、そのことに関しては口を噤んだ。
「でも、結局マティアスの手助けをしたんですね」
「仕方がないでしょう。可愛いクリスタの頼みなんですから」
「頼みって……駆け落ちの相談を受けていたってことですか?」
「ええ」
「いつです?」
「結婚後、少し経ってからですよ。私はクリスタに一度も手を出さなかったので、協力してもらえると踏んだのでしょうね。私と一生夫婦でいるよりは、そちらの方が幸せになれると思ったので、結局は手助けをしました」
幾つかの引っ掛かる言葉を残して、セヴェリは嘆息しながら笑っていた。その横顔が、笑顔ながらも寂しく見える。
「それからはクリスタの思惑通り、家督継承権を私がもらい受ける形になりました。女当主という形もありますから、少し揉めましたがね。この数ヶ月で貴族としての申し分ない振る舞いを見せると、継承権をクリスタから譲渡してもらえることになったんです。その直後に二人は駆け落ちしたわけですが」
セヴェリの話を聞いて、ある程度は納得がいった。なぜマティアスとクリスタの駆け落ちを手伝ったのか疑問だったが、その謎の一端を解くことができた。しかし。
「あの……不思議なんですが……」
「なんでしょうか」
「どうしてマティアスとの方が幸せになれると思ったんですか? セヴェリ様はクリスタ様を、可愛くて妹のように大切に思っていたんですよね? クリスタ様もセヴェリ様を慕ってて……マティアスが不誠実だっていうんなら、クリスタ様にとっては、セヴェリ様と夫婦であるべきだったと思うんですが」
セヴェリの性格からして、そんな男の元に行かせるよりは自分の手で幸せにしてあげる人だと思ったのだ。なのにクリスタを手放したことが腑に落ちない。
そんな質問をすると、セヴェリは軽く嘆息した。
「クリスタを抱きたいと思えなかったのですよ。こんな私と一緒にいるよりは、愛する人と駆け落ちした方がましでしょう。相手がマティアスというのは気に入りませんが、本人の希望ならば仕方がない」
その言葉にやはり引っ掛かりを覚える。聞いてもいいのだろうかと思いながらも、知りたい欲求に負けてしまい、首を竦めるようにそっと問いかける。
「どうして、クリスタ様を抱きたいと思えなかったんですか? とても綺麗で、その……女性らしい体をしてらっしゃるし……」
後半はもごもごと口の中で隠すように言うと、セヴェリはフッと笑った。
「言ったでしょう? クリスタは私にとって、妹のような存在なのですよ。リックバルドがあなたを思う気持ちと同じです。……まぁ結婚式の時は仕方なくキスしましたが、それだって本当は互いに不本意だったのですから」
「不本意……だったのに、セヴェリ様はクリスタ様と結婚したのですか? どうして……」
「今度は私の問いの番ですよ」
サビーナの言葉を最後まで聞かず、セヴェリは視線しか寄越して来なかったその顔を、真っ直ぐこちらに向けていた。
「デニスはなぜ村を出ていったのですか……いえ、村を出ていくことが問題ではありません。あなたが追いかけないことに問題があるんです。どうしてデニスを一人で行かせたのですか…… なぜ自ら幸せを放棄するような真似を……っ」
悔しそうな視線は、サビーナの顔から徐々に降下していく。そしてサビーナの腹部に視線を固定し、苦しむような表情に変わった。
「さっきから気になっていたのですが、そのお腹はもしかして……」
「はい……妊娠しています」
もう隠す意味もなく、正直に告げる。するとセヴェリは少し戸惑ったように手を差し伸べようとし、しかし躊躇している。それを見たサビーナはセヴェリの手を取り、己のお腹に触らせてあげた。
コロリとした小さな可愛い胎動を、セヴェリも感じることができただろうか。彼は驚いたように少し柔らかい表情になったが、またすぐに顔を曇らせている。
「時期的に、デニスの子ではありませんね……」
「はい。デニスさんとはなにもありませんでしたから」
「私の子どもで、間違いありませんか」
「はい、間違いありません」
「……すみません……っ」
いきなり紡がれた謝罪の言葉の意味がわからなかった。今にも泣きそうな顔で謝られ、サビーナは混乱する。
「ど、どうしてセヴェリ様が謝っているんですか?」
「私が妊娠させてしまっていたせいで、デニスは出ていったのでしょう?」
「違います! デニスさんは大切な二人の子どもだから愛せるって、そう言ってくれていました。この子が生まれてくるのを、本当に楽しみにしてくれていたんです!」
「……デニスらしいですが、ならばなぜデニスと一緒に行かなかったのです」
理解不能といった表情のセヴェリ対し、自然と笑みがこぼれる。
これを言葉にすることで、今後どうなるのかサビーナにはわかりかねた。
けれど、伝えたいという気持ちが溢れ出る。
自分の幸せを捨ててまで背中を押してくれた、デニスのためにも。
「私は、セヴェリ様のお傍にいたかったからです」
「なにを馬鹿なことを。もうあなたはメイドでもなんでもない。私の傍にいる必要はないんですよ。今からでもデニスを追いかけて……」
「違うんですっ」
セヴェリの声を遮るように言葉を乗せる。やはり不可解な顔をしているセヴェリに、サビーナはもう一度告げた。
「セヴェリ様を忘れられなかったんです……っ」
「……え?」
「私、セヴェリ様のこと……好き、なんです……!」
初めて口にするその言葉は、恐ろしいほど顔が熱く燃え上がった。耳まで熱くなり、頭は一瞬で真っ白になってクラクラしてしまいそうだ。
目の前にいるセヴェリも、輪郭すらぼやけて上手く表情が読み取れない。
「本当、ですか……? いつから……」
「わかりません……でも、きっとずっと前からセヴェリ様のこと……愛していました」
おそらくは、あのアデラオレンジの種を手にしてセヴェリを生かすと決意した瞬間から。
最初は母親が子に注ぐような愛情から、徐々に育って変化していったのだ。
種が芽を出してやがて木になり、そして花をつけて実がなるように、ほんの少しずつゆっくりと……しかし確実に。
ここまで辿り着くのにとても時間は掛かったが、今はもうしっかりと根は大地に張り巡らされ、揺るぎない存在として心の中に君臨している。
「サビーナ……!」
ギュッと強く抱きしめられた。彼の頬が耳に当たる。
セヴェリの頬が冷たく感じられないということは、彼もまた、同じように顔を火照らせているからだろう。
サビーナはそんなセヴェリをそっと抱き締め返す。すると彼の震える声が、耳の中へと滑るように入ってきた。
「不本意、でした」
「え?」
熱い肌を流れる冷たいものが、サビーナの首筋に触れる。
「不本意だったんです……クリスタと結婚するのは……。でも、デニスとあなたに償いをするには、あなた達から離れるしかないと……あなたとデニスが幸せになってくれれば、私は償いができると……っ」
先ほどの問いの答えをくれたのだと気付く。優しくて強くて、そして脆い彼の柔らかな金髪をそっと撫でた。相変わらずふわりと舞うように浮いて、サビーナはそっと微笑む。
「言ったじゃないですか。私にもデニスさんにも、償いなんて必要はありません。セヴェリ様の償いなんて、私達は望んでません。私達の望みは、セヴェリ様が幸せになること……ただ、それだけなんですから」
それだけは変わらないひとつの思いだ。
ただそのためにできることが、サビーナとデニスでは違い過ぎた。それだけの話だ。
そっと距離が取られてセヴェリの顔が確認できる。彼の目からは、絹が流れるような一筋の涙の跡。
デニスのような美形ではないけれども、こんな時のセヴェリは天使のような無垢さが感じられる。
「私などが幸せになっても良いと……?」
「はい、もちろんです」
「私が愛しているのは……本当に結婚したいと思っているのは、あなたなのですよ?」
「はい、私もです」
「……っ!」
全肯定すると、また溢れそうになった涙を抑えようとしたのか、ギュッと手を握られる。
セヴェリの気持ちがギュンと流れるように伝わってきて、サビーナの心は花開くように満たされた。
「少しだけ、待っていてください。まだ問題はありますが、あなたを私の妻として迎え入れる準備をします。その時には……私と結婚してください」
真剣に紡がれたその言葉に、サビーナは満面の笑みを向け。
「はい。いつまででも待っています」
そう答えると、セヴェリは困ったように笑って。
「そんなに待たせはしませんよ。子どもが生まれるまでには必ず。約束します」
セヴェリの手が優しくサビーナのお腹を往復する。
サビーナの代わりにお腹がコロリと返事をし、思わずクスクスと笑い合う。
そして互いの視線が交差した二人は。
相手の感情を読み取るようにそっと目を瞑り。
そして静かに誓いのキスを交わした。




