第113話 どうして、そんなに……! 優しいんですか……っ
休憩時間を丸々泣き通して、ラーシェに抱き締めてもらっていた。
その後は頭が軽くなったような感じになり、自然と涙は消えていった。
ラーシェは「今度またうちに遊びに来てね」と言い残し、笑顔で帰っていく。サビーナもその時にはにっこりと微笑んで送り出すことができた。
その日の仕事が終わり、サビーナは帰途に着く。
昼間のラーシェとのやり取りで頭がいっぱいになっていたが、帰るにつれてデニスのことが気になってきた。今日は朝からマティアスが来ていたのだ。
一体彼はなんの用で来て、デニスとなにを話したのだろうか。
急ぎ足で家に入ると、そこには腰に剣を携えたデニスが一人で立っていた。デニスは横目でサビーナを見た後、優しい笑顔を見せてくれる。マティアスの儚げな笑顔が移ったのか、いつもの太陽のような晴れやかさはなかった。
「ただいま、デニスさん」
「おう、おかえりサビーナ」
「どうしたんですか? 家の中で帯剣なんかして……」
胸の奥がざわざわとする。デニスの優しい笑みが、なぜだか悲しい顔にも見えた。何も答えないデニスに、恐る恐る問い掛ける。
「……マティアスは、なにしに来てたんですか?」
「ああ……まぁ……セヴェリ様の結婚相手のことだ」
「クリスタ様の?」
マティアスがクリスタのことで、なぜデニスに話す必要があったのかがわからず、眉を顰める。先を促すようにデニスを見つめると、彼は一旦視線を逸らした後、体ごとサビーナの方に向いた。
「俺は嘘も誤魔化しも上手くできねぇから、聞いた通りのことを言うぜ」
「うん……」
「あいつは……マティアスは、クリスタ様を夜明け前に攫ったって言い出した」
「…………ええ??!」
攫った。その言葉に、サビーナ目玉が飛び出るほど驚いた。一体どういう状況でそうなったのか、さっぱりわからない。
「ど、どういうこと!? クリスタ様を攫ったって……え? 誘拐?!」
「どうもそうじゃねぇらしい。これは前々から計画されてたことで、どうやらカケオチってやつだな」
「駆け落ち……って、クリスタ様が!? あのマティアスと!?」
「ああ」
あり得ない組み合わせを言われ、気が遠くなり卒倒しそうになる。そもそも、クリスタはセヴェリを好いていたはずだ。マティアスと駆け落ちだなどと、そんなことが起こるはずがない。仮にマティアスの好きな人というのがクリスタであったとしても、片方だけの気持ちでは駆け落ちなど成立しないはずだ。
「まさか、そんな……あ、マティアスが無理やりクリスタ様を?!」
「どうだろうな。真実はわかんねぇけど、本人が言うには相思相愛らしいぜ」
「そうし、そうあい……?」
そんな馬鹿なとサビーナは眩暈がする。相思相愛なのは、セヴェリとクリスタのはずなのだ。マティアスが相手であるわけがない。
「俺はそのクリスタ様ってのには会えなかった。別の村に置いてきて、マティアスだけがサビーナに知らせに来たらしい」
「え? その割には、デニスさんに話があるって……」
「サビーナに直接話せば、クリスタ様をセヴェリ様の元に戻すって聞かねぇだろうから、嫌だったんだとよ」
「そりゃそうだよ! 潜伏先はどこなの!? 今からでもマティアスとクリスタ様を説得して、街に戻ってもらわなきゃっ」
「場所はわかんねぇよ。聞いてねぇから」
「どうして聞かなかったんですか!」
「聞いちまうと、つい言っちまうからな。あっちも言うつもりはなかったみてぇだし」
サビーナはギリギリと拳を握り締める。
どうしてこんな展開になっているというのだろうか。クリスタに嫌われていると言っていたマティアスの言葉は、嘘だったのか。一体なんのためにそんな嘘をつき、どうしてクリスタを連れ去ったのか。
しかしそれよりも気になるのは、セヴェリの方だ。いきなり愛する妻が消えて、落ち込んでいるに違いない。すでに婚姻関係にあっただけに、奪われた時の悲しみはレイスリーフェの時の比ではまいはずだ。
「どうしよう……クリスタ様を捜し出して連れ戻さないと、セヴェリ様のお立場が……っ」
「それなんだけどな、サビーナ」
落ち着き払った声が、デニスの唇から紡がれる。やはり今日のデニスは、どこか元気がな
い。
「どうやらこの一件、セヴェリ様の手助けがあって成立したらしい」
「……セヴェリ様の?」
手助けをするなどという不可解な行動に、サビーナは眉を寄せるばかりだ。
二人の駆け落ちをセヴェリが補佐する。愛する妻を手放すようなその行動が信じられないし、毛嫌いしていたはずのマティアスに協力することも納得いかない。
どちらにしろ、クリスタが消えたことで、セヴェリはキクレーでの居場所をなくすのは明白なのだ。このまま放ってはおくわけにはいかない。
「セヴェリ様、お一人で針のむしろなんじゃ……」
「俺もそれを心配したんだが、マティアスの話じゃその心配はないってよ」
「な、なんで?」
「結婚後すぐに手続きをして、家督の継承権ってのをクリスタ様からセヴェリ様に譲渡済みだっつってた。あの家でぞんざいに扱われることはねぇってさ」
「そう、なんだ……」
少しだけホッとするも、徐々に怒りが込み上げてくる。クリスタがセヴェリを置いて出ていったことには変わりないのだ。
ようやくセヴェリに幸せになってもらえると思っていたのに、酷い仕打ちである。
「でも、どうしてこんなこと……」
「ずっと前から計画してたっつってたな」
そう言ってデニスは、マティアスから聞いた話を教えてくれた。
マティアスはキクレー家の執事の息子で、その家のお嬢様であるクリスタに手を出すのは御法度だったのだ。執事である父親に、信用を落とすわけにはいかないと断固として反対されていたという。
マティアスの父親がいる限り、マティアスとクリスタが一緒になることはできない。ならば、駆け落ちをするしかなかった。
しかしここで問題となったのは、キクレー家を継ぐ者がいなくなるということだ。
クリスタは一人娘で、他に兄弟はいない。今クリスタがキクレー家から消えてしまえば、家系が途絶えてしまうのは必至だ。それはクリスタも本意ではなかった。
「だからクリスタ様はセヴェリ様を……」
「ああ。セヴェリ様は、利用……されちまったみてぇだな……」
サビーナがクリスタを利用しようとしていたのと同じように、クリスタもまたセヴェリを利用していた。
なぜセヴェリだったのかは、想像に難くない。貴族を相手に選んでしまうと、クリスタが駆け落ちしていなくなった後、家同士で揉めるのは目に見えている。
だから彼女は、一般人を選ぶ必要があったのだ。それも貴族としてやっていける、教養も品格もある一般人を。その点、セヴェリは格好の的だったはずだ。
「そんなことって……」
体が勝手に震えてくる。利用されて捨てられたセヴェリのことを思うと、申し訳なくて涙が滲む。クリスタを選んだ己の見る目のなさが、情けなくて仕方がない。
結局自分のやったことは、セヴェリを傷付けただけだった。今頃、どんな思いでキクレー邸にいるのだろうか。
「よかったな、サビーナ」
「……え?」
その言葉の意味がわからず、サビーナは彼を見上げた。
デニスはやはり儚げな笑顔で、髪の毛をクシャッと崩すように頭を撫でてくれている。
「セヴェリ様の元へ、遠慮なくいけんだろ?」
「……なに、言ってるの……?」
デニスに儚い笑顔なんて似合わない。アンゼルードにいた時のように、輝く太陽のように笑っていてほしい。
なのに彼は、優しく目を細めて。
「行ってこい、セヴェリ様んとこに」
そう、言った。
その言葉の意味くらい、サビーナにだってわかる。優しいデニスが、誰よりもセヴェリとサビーナを思ってくれているデニスの考えくらい、嫌でもわかる。
「でも……、あのね、デニスさん。今日ラーシェさんと仲直りしたんだよ……デニスさんも、これから村の人に認めてもらえるようになるよっ」
「そっか」
「だから私、デニスさんと結婚するって、決めて……」
「悪ぃ、忘れてくれ」
簡単に紡ぎ出された言葉に愕然とする。
一瞬真面目な顔になったデニスは、次の瞬間にはやはり儚い笑顔となっていた。
「昔言っただろ? セヴェリ様があんたを必要としてんなら、俺は身を引くってよ」
「そんな……私なんか、セヴェリ様に必要としてもらったことなんてないよ……っ」
「俺はそうは思えねぇ。多分、セヴェリ様は……俺に遠慮してたんだ」
そう言われ、ふとセヴェリの言葉を思い出す。
デニスにどう償っていいかわからない──確か彼はそう言っていた。もしもセヴェリが罪悪感からデニスとサビーナをくっつけるため、自ら離れていったのだとしたら。
「つまり、セヴェリ様は……私を必要としてくださってるってこと……?」
「ああ、俺はそう思う」
脳がお酒を飲んだ時のようにカアっと熱くなり、流れゆく涙はその熱で温泉のように温かい。
嬉しさと、しかしデニスに対する罪悪感と。
どう行動すべきなのかがわからず、ただただ頬を涙で濡らす。
「よかったな、サビーナ」
デニスはもう一度、同じ台詞を吐いた。今度は少し、明るい笑顔で。
「なん、で……」
「あんたは、幸せになれる」
「デニス、さんは……」
「あんたとセヴェリ様が笑ってくれりゃ、俺は幸せだ」
サビーナは俯いて、心臓を握るように胸に手を当てた。ズキズキと胸が痛んで、凍えそうなほど悲しい音を立てている。
「どうして、そんなに……! 優しいんですか……っ」
「言ったろ? 幸せにしてやるって。あんたが幸せになれるなら、俺はなんだって耐えられる」
「そんな……っ」
バッと顔を上げると、そこには少し困ったような顔をしたデニスの姿があった。
「元々俺は、あんたとセヴェリ様の幸せな姿を見たら、すぐに帰るつもりだったんだ。二人の邪魔をするつもりはなかった。ごめんな、俺が来たせいで悩ませちまって」
「デニスさんのせいじゃ……」
ぶんぶんと首を横に振ると、行儀悪く涙が飛び散る。デニスの服がサビーナの涙で水玉模様を作った。
「行ってくれ、サビーナ。セヴェリ様を幸せにできんのは、あんたしかいねぇから」
「でも……」
「ああ、悪い。ルッツは置いといてくれっか? あいつは仔馬の頃から俺が面倒見てきたやつだからよ」
ルッツリオンを置いて行けということは、サビーナの帰りを待たず出ていくということなのだろう。今サビーナが出ていけば、もう二度とデニスがここに現れることはない。そんな予感がする。
「デニスさん……」
「泣くなよ、サビーナ」
そう言われて涙が止まるわけもなく、息ができなくなるような嗚咽が喉から勝手に漏れるだけだ。
もうこれが最後の別れだと思うと、サビーナはずっと言えずに後悔していた言葉を紡ぎ出す。
「デニスさん、私……私ね……」
「ん」
「私あの日……、デニスさんとキスした日、すごく嬉しかった……すごく、幸せだったんだよ……っ」
「……おうっ」
伝え終わると、デニスは弾けるような彼らしい笑顔を向けてくれた。胸が何かで満たされたようにいっぱいになり、気持ちが溢れ出てくる。
「あの頃の私は、デニスさんのことが」
「ストップ」
言いかけた言葉を、途中で遮られてしまう。
「それ以上言うなよ。あんたを攫って、ここから逃げちまいそうだから」
「……っ、ごめ、なさ……」
最後まで謝罪の言葉を紡ぐ前に、デニスはジャラリと目の前になにかを出した。ぼやける視界に映し出されたのは、月見草の懐中時計。
「もう、俺が持つ必要はねぇな?」
「……あ……」
「俺のやった懐中時計、見せてくれっか」
そう言われて、胸の内側の懐中時計を取り出す。するとデニスに、星空の懐中時計と月見草の懐中時計を素早く入れ替えられた。
サビーナの手の中にあるのは、月見草の方だ。デニスは手を引っ込めると、強い眼差しを向けてくる。
「行ってくれ。俺の決心が鈍らねぇうちに」
「……うん……っ、ごめん、デニスさん……ありがとう」
「行けっ」
デニスに背中を押され、家を出る。繋がれたルッツリオンはそのままに、もう一頭の馬にゆっくりと跨がった。
「ルッツ……今までありがとう……デニスさんを、よろしくね……」
ルッツリオンは返事をするように小さく嘶き、それを確認してから馬を歩かせる。
後ろを振り向いてデニスの顔をもう一度見たかった。しかしその衝動を必死に堪えて、サビーナは前を向く。
「ありがとう……さようなら、デニスさん……っ」
初恋の人との優しい時間を反芻する。
初めて好きになったのが、彼でよかった。
そして再会することができて、よかった。
一緒になることはついぞなかったが、それでも傍にいてくれたことが嬉しかった。
サビーナはそんな思い出をそっと心に仕舞うと。
グイッと涙を拭き取り、前を見据えたまま、ブロッカの街を目指した。




