006 アフター5 /眼鏡リーマン、後輩×先輩
眼鏡を忘れた。
車に乗り込み、さあエンジンをかけようか、という所で気が付いた。視力は0.6あるから、普段の生活にはほとんど支障はないのだが、運転だけは眼鏡が必須だ。
仕方なく俺はバタンと車のドアを閉め、飛び出したばかりの会社に戻ることにした。
社員証のカードで裏口から入る。ノー残業デーなので、19時過ぎと比較的早い時間なのに人気がない。廊下に俺の革靴の音がコツコツと響く。そのままエレベーターで8階まで上がる。音もなくするすると昇るエレベーター。チン、と音が鳴り、扉が開いた。
もう一度カードを使って室内に入ろうとして、俺は戸惑った。擦りガラスからかすかに明かりが洩れている。退社するのは俺が最後だと思ったのだが……? 勘違いだろうか。もし泥棒とかだったら困るな。
緊張でやや鼓動を早めながら、俺は社員証をカードリーダーにかざした。ピー、と明るい音が響いたので、中にも俺の存在は知れてしまっただろう。ロックが解除されたドアに俺は手をかけた。
「あれ……?」
扉を開くと、俺の席に誰かが座っていた。んな馬鹿な。俺はここにいる。泥棒があんな所にのんびり座っている訳ない。
……でも、後ろ姿にどこかデジャブを感じた。
「あっ! 森さん」
振り向いたのは後輩の、新倉だった。
「お前、そんなところに座って何やってんだ……?」
新倉は照れたような、困ったような曖昧な微笑を浮かべた。
「……森さんこそ。もう帰ったのかと思いましたけど?」
「忘れ物したんだ。……お前、眼鏡なんかしてたっけ?」
新倉は見慣れない黒縁の眼鏡をかけていた。
彼はすらっとした優しげな顔立ちをしている今時の若者なのだが、眼鏡をかけると普段よりもかっちりとした、硬派な雰囲気になった。似合っている。
……でも、ちょっと待てよ、その眼鏡。
俺のいぶかしげな視線に感づいた新倉は、何やら落ち着かない様子になった。顔が赤い。と思ったら、ぱっと眼鏡を外し、素早く折り畳んだ。そのままがばっと頭を下げ、両手で俺に差し出した。
「森さん、すいません! ……つい出来心で」
「……やっぱり俺のか」
「すいません……!」
俯いたままの新倉から、俺は自分の眼鏡を奪い返した。そして耳の上に乗せる。人肌の温もりを感じるのが、心地いいような、変に感じるような。
新倉が恐る恐る目線を上げ、俺の顔をじっとみつめた。あんまり見られるので、俺の方が逆に落ち着かなくなった。
「……いや、そんな怒ってないから。たかが眼鏡で遊んでたくらいで」
俺の言葉に、新倉は少しびっくりしたような表情を浮かべた。
「……ああ、すみません。俺、森さんが眼鏡かけてるとこって見たことなくて。似合ってるなあって」
「……そうか?」
俺がかけても怖くなるだけな気がするんだが。
お前の方がよっぽど似合ってるよ、と言いかけてなんとなくやめた。
このぼんやりした優男の後輩が、少し羨ましかったからかもしれない。
「……森さん?」
「ん? 何だ」
どうでもいい考え事をしていた俺は、返事が遅れた。
「もう晩飯食べました? って聞いたんです」
「ああ、まだだよ」
「蕎麦食い行きません? ……お好きでしたよね。美味い店、知ってるんです」
「おお! 行く行く」
道案内してもらって、二人で蕎麦屋に向かった。しっとりとした情緒あるいい店で、蕎麦は香り高く、歯ごたえもあり、なかなか美味しかった。
今日は自分が誘ったし、普段お世話になってるからと新倉が頑固に言うので、俺はつい奢られてしまった。まあ、大した金額ではないのだが。何だろうこの雲行き。変な感じがする。
「あの、」
車に戻り、シートベルトを締めようとした俺に、助手席に座った新倉が声をかけた。
「森さんって彼女とかいますか?」
「……いないよ」
ちょうど結婚を考えていた彼女に二ヶ月前にふられたばかりで、俺はまだそれを引き摺っていた。
「……俺、森さんに言いたいことがあって」
あ、この雰囲気まさか。……でも男同士だしな。俺はやや表情を引きつらせながら、新倉の言葉を待った。
「俺、入社したときからずっと、森さんのことが好きなんです」
「……!!」
俺は思わず溜め息をつきたくなってしまったが、真剣な顔で俺をみつめている新倉のことを考えて自重した。
……確かに俺は新倉をなかなか見所のある奴だと思って可愛がったが、先輩後輩の付き合いの範囲内だと思う。
どこをどう間違って恋愛ベクトルに発展したんだ? そもそも、男が好きな奴なのか? 全くもって、意味が分からない。
「本気?」
念のため、新倉に聞いてみた。
「はい。本気も本気、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、今日は誘いました」
清水の舞台……。一瞬、この後輩の頭を疑いたくなった。
……罰ゲームとかじゃないんだよな。
でも、新倉の超真剣な顔を見ていると。そんなことを疑っているのが、だんだん申し訳ないような気分になってきた。
「俺なんて、やめときなよ。男だし年離れてるし、面白くないよ。それでこの間も、彼女にふられたばっかりだ」
「そうなんですか!?」
新倉は目を見開いた。
「……森さんを振るなんて、勿体ない」
俺は我慢できずに、はあっと溜め息を洩らした。
「お前は、俺を買ってくれてるけどさ、俺は普通の男だよ。……絶対がっかりするって」
「しません!!」
新倉は断言した。そして俺の両手をがしっと掴んだ。普段はぼうっとした奴の思わぬ勢いに、俺は押され気味だった。
「俺は森さんの、全部が好きです。顔はかっこいいのにいまいち垢抜けないところも、冷たそうに見えて実はすごく優しいとか、潔癖症な癖に結構めんどくさがりだったり、……全部好きです。だから、付き合ってください」
……なんか、褒められてる気がしないんですけど。
でも、情熱はすごいかもしれない。……それは認めよう。俺は新倉の爛々と光る眼をみつめた。
「分かった。お前の気持ちは分かったから、……とりあえず手を離して」
ぎゅっと握られていると、捕まえられてるみたいで落ち着かなかったのだ。
「あっ! ごめんなさい」
新倉は慌てて手を解いた。自由になった途端、俺は運転席のドアを開けて外に出た。……逃げるつもりではなかった。でも、狭い車内にいるとどうしても息が詰まって。
「えっ!? 森さん」
新倉は動揺した声を出した。
そのまま、俺を追いかけようとする。助手席から出ればいいのに、わざわざ運転席に抜ける。そうして必死で外に出ようとして、天井に頭をぶつけた。
「いたっ!」
ゴツン、と結構大きな音がした。……アホだ。俺は笑うのを必死でこらえた。
新倉は頭を抱え、うんうん唸っている。
「大丈夫か!?」
笑いを我慢しているせいで、少し震えている俺の声。新倉は返事をしない。
「……おい、大丈夫?」
さすがに心配になって俺は新倉に近付いた。ぶつけた彼の頭に手を伸ばす。と、その手を掴まれた。
素早く顔を上げた新倉が、俺をぐいと引き寄せる。チュッと音がして、頬を濡れた感触が滑った。
「え……?」
次の瞬間、彼はもう離れていた。そして、してやったりといわんばかりの嬉しそうな顔で笑った。
「俺のこと笑うから、仕返しです」
……この野郎。
俺は新倉を車から引きずり出した。代わりに自分が乗り込む。そして、すぐにエンジンをかけた。
「……え? ちょっと森さん! 俺を置いてくの!? ……せめてカバンを」
助手席に置いてあった新倉の荷物を投げてやった。きっと電車で帰れるだろう。
発進する俺の車の後ろから、切なげな声が響いた。
「森さーん! 好きですからねー!!」
ぶんぶん手を振っている、新倉の後ろ姿が完全に遠ざかってから、俺は大きな声で笑い出した。
俺は、こういう奴に弱い。




