005 放課後 /年下攻め、トラウマ
エレベーターがなかなか来ないから、高層マンションの八階まで駆け上がった。
ピンポン。少し間の抜けたチャイムが鳴る。
息を整え、ささっと髪型を直す。どきどきしながら俺はドアが開くのを待った。
毎日こうして押しかけているのに、いまだに緊張する俺の姿は、とても他の人には見せられない。
カチャ。前触れなく開いたドアから、俺の愛しいひとの顔が覗く。
「……春太さん!」
明るい焦げ茶の目。いつも笑っているみたいな優しい表情。
それを見る度、ああ、俺はこのひとが好きなのだと改めて思う。
「健、早かったね」
春太さんは少し驚いているように見えた。
「テストの最終日だから早く終わったんだ」
「テスト、どうだった?」
「どうもこうも、いつも通り駄目」
「……もう。いつも健はそうなんだから。……やれば絶対できる子なのに」
春太さんは口を尖らせながら、俺を部屋に通してくれた。
俺はつい、廊下を歩く春太さんの後ろ姿をじっとみつめてしまう。
バランスはとれているけど、余りに細い身体。今にも風に吹き飛ばされてしまいそうだ。
……そうなる前に、俺が守ってあげられたらいいのに。そう思った。
春太さんとの出逢いは、一年前にさかのぼる。その頃、俺は一番荒れていた時期だった。
父親は俺が生まれてすぐに蒸発したっきり。母親は水商売。でもそのわずかな稼ぎを、ヒモみたいな男にすぐ貢いでしまうときたらぐれたくもなる。
俺は中二で道を踏み外し、何度か補導されながら、なんとか今の高校に滑り込んだ。
でも、その高校では授業なんてあってないようなものだ。仲間と喧嘩をしたり、パチンコに行ったり。なんとも気楽な日々が続いていた。
ある日、いきつけのパチンコ店から出ると、見知らぬ奴らが俺を待ち構えていた。
「……サトウケンだな」
「……なんだよ」
内心やばいかもと思いながら、俺は精一杯余裕の振りをした。
「……この前は、こいつが世話になったな」
よく見ると、この前絡んできたので、さっさとやっつけた他校の奴が後ろに隠れていた。卑怯な奴。
でも、多勢に無勢ともいうし。俺はやられた振りをして、被害を最小限に抑えようと算段していた。
「……てめえ、聞いてんのかこの野郎!」
ほら、やっぱり殴りかかってきた。
……あ。ついよけちゃった。だってパンチ遅いんだもん。
……あ。殴り返しちゃった。まあいいよな。隙だらけだし。
残念ながら。……気が付くと俺は全力で反撃されていた。
「……大丈夫?」
柔らかい、包まれるような響き。でも、すごく心配そうな声。
俺はうっすらと目を開いた。体がずきずきと痛い。そして寒い。
辺りは薄暗くなりかけていた。霧雨のような水滴がぽつぽつと顔に当たる。
俺の顔を覗き込んでいたのは、女みたいな顔の華奢な青年だった。
「……ああ」
変な奴だ。道端でガラの悪そうな男が倒れていても、トラブルに巻き込まれるのを嫌がって、普通誰も助けないぞ?
彼が手を差し出してくれる。俺はありがたく、それに掴まらせてもらった。濡れて冷えた体にその体温は心地良い。離しがたいくらい。
俺はなんとか立ち上がったが、ふらついて上手く歩けない。青年の肩を借りたが、二三歩歩いてまたしゃがみこんだ。
「大丈夫!? 今、救急車呼ぶから……」
「それは、無理……」
病院に行くと警察沙汰になってしまう。
「じゃあ、タクシーで家まで送ってあげるから、住所は?」
「……ごめん。家、帰りたくない」
最近、母親の新しい男が居ついているのだ。
でも、俺はどうしてこんな見ず知らずの男に、甘えたような態度をとってしまうのだろう。
「そんな……。とにかく、タクシー呼ぶよ」
青年は嫌がるタクシー運転手を説き伏せ、濡れた俺を押し込めた。
「○○町三丁目まで、お願いします」
あ、俺の家じゃない。……そう思ったのを最後に、俺の意識はブラックアウトした。
味噌汁の匂い。フライパンの上でジュージュー油が跳ねる音。忘れかけていた朝の食卓の風景。
はっと起き上げる。ふかふかの布団に清潔な枕、白い大きなベッドで俺は寝ていた。
……一体、ここはどこ?
慌ててベッドから抜け出し、物音のする台所に走った。
「あ、起きた?」
俺に気付いたエプロン姿の春太さんは、にこっと屈託なく微笑んだ。
その瞬間、俺は恋に落ちた。
春太さんは変な人だった。高校に入ったが馴染めず、一ヶ月で退学したらしい。
その後は働きもせず、ずっと家に引きこもっている。もう五年になるそうだ。唯一の収入源はデイトレード。
「……デイトレードって何?」
俺は無邪気に聞き返した。
「株の一種みたいなもんだよ」
「株? ……俺、パチンコはわりと勝てるよ」
春太さんは苦笑した。取引中の画面を見ながら丁寧に説明してもらったけど、俺にはどうも理解できなかった。
まあ、とにかく春太さんはその若さのわりに、随分なお金持ちなのだ。
だから、こんないいマンションに住んでいるし、部屋には最新の家電がたくさんある。
でも、友達はあんまりいない。たぶん彼女もいない。家族の気配も感じたことがない。
寂しくないの? と一度聞いた。そうしたら、仲良くなって、裏切られるほうがつらい、と言っていた。
俺はどうして大丈夫なの? と聞き返したら、最初に会ったときがぼろぼろだったから、守ってあげないといけない可哀想な子のイメージが抜けない、となんとも失礼なことを言われた。
俺は春太さんを軽くこづいた。春太さんは幸せそうに笑い転げていた。
春太さんは、高校にはきちんと行きなさい、と言う。おそらく彼自身が行けなかったせいだろう。
彼に出会うまで学校をさぼりまくっていた俺は、昼間に家に行くと春太さんに怒られるのできちんと高校に通うようになった。
いつも、放課後が待ち遠しかった。春太さんとの二人きりの時間が恋しい。
……春太さんも、俺も、人間として必要なものが何か欠けている。でも、俺たちはぴったりだ。
二人でいれば、幸せだ。できればずっと一緒にいたかった。
「……春太さん」
風呂を借りて上がると、春太さんはソファで居眠りをしていた。……そういえば最近、不眠気味だと言っていた。
淡いオレンジの照明が、春太さんの長い睫毛が、透けるような頬に影を落としている。
それを見ていたら、だんだん目の奥がつんと痛くなって、泣きそうになった。
俺は自分に驚き、懸命に涙をこらえた。こんな訳の分からないことで泣いていたら、男がすたる。
気が付くと、春太さんは目を開き、俺をじっと見ていた。
何か言わなきゃ、と思った。でも、二人の間を流れる、息詰まるような緊張感が俺に口を開かせなかった。
春太さんが軽い溜め息をついた。
「……俺たち、いつまでこんな風にしていられるんだろうな」
春太さんの真意が分からず、俺はじりじりした。
「俺は、いつまでだって一緒にいたいよ」
「健は、未来があるだろう。これから何だってできる。……そして、いつか俺から離れていく」
春太さんは諦めたような、淡々とした口調で言った。
「そんなこと、言うなよ。俺は、絶対離れない。……春太さんのことが好きだから」
春太さんは、弾かれたように俺の顔を見た。あ、少し赤くなってる。
でも、しばらく経って口を開いた春太さんは、なぜか否定的なことを言い出した。
「……でも、離れていくんだ。俺にはわかる。それを待つくらいなら、今……」
「俺と会わなくなるなんて、春太さんは平気なの!?」
春太さんはまた赤くなった。
「たぶんすごく寂しい。でも、長くいたほうが別れるときに辛いから……」
「春太さんのバカ!」
俺は叫んだ。そして、彼を強く抱き締めた。春太さんは固まってしまって、ほとんど抵抗されなかった。
予想通り、春太さんはすごく細い。運動しないし、あまり食べないから。
でも、あったかい身体だった。
「春太さんは、自分のことしか考えてない。そんな理由で別れて、俺がどんな気持ちになるか、分かる? それに、関係っていうのは、二人で作っていくものでしょ。俺と離れたくないんなら、そう言って、駄々こねたらいいんだよ。……それが、必要なことなんだよ」
言うだけ言って、俺は黙る。春太さんは反応しない。俺は、待つしかできなかった。
ゆっくりと時間が流れた。窓の外で夜の鳥が鳴いた。テーブルの上で置きっぱなしの携帯がチカチカと光った。それでも俺はまだ、強く春太さんを抱き締めていた。
……やっと、背中に手が回るのを感じた。




