004 あなたの虜 /中国、足の悪い美少年
たゆたうように流れる青く透き通った運河。その両脇に、白壁の家が立ち並んでいる。
運河と家にはさまれた細い石畳を、一人の少年が歩いていた。
彼の足の運びを、俺はしばらくみつめていた。それからようやく気付いた。不規則なテンポ。左足をほんの少しだけ、引き摺っているのだ。
前触れなく少年が振り返る。つられて立ち止まった俺は、ばちりと彼と視線がかち合った。
細くしなやかな身体を、淡いグリーンのチャイナ服に包んでいる。光沢のある高価な生地は、体のラインを控えめながら美しく見せていた。
腰までの上着に半ズボンを穿いている。覗く両足はつるりと中性的な雰囲気だ。見た目からは彼の足の悪さを想像できない。
声を掛けるべきか。俺の躊躇いは彼がすぐ向き直り、歩き出したことで一蹴された。
何事もなかったかのように、彼は川沿いを歩き続ける。
俺も一歩を踏み出した。ゆったりとしたリズムで進む彼についていくことは、それほど難しくない。
上海は五日目だった。仕事で一週間滞在する予定で来たのだが、現地での打合せは予想よりずっと早く終わってしまい、俺は暇をもてあましていた。
一人であまり贅沢する気にもなれない。昔ながらの美しい街並みの残るこの地区を、気まぐれに散歩するくらいだ。
でも、彼を見つけた俺は少し興奮しはじめていた。庶民の町で、洗練された少年は浮き上がって見えた。
何を生業としているんだろう。どこに住んでいるのだろう。疼く好奇心を宥めながら、俺は一定の距離を置き、彼を追跡した。
尾行の難易度が上がったのは、少年が細い路地に入り込んでからだ。建物の間にある気を付けないと見逃してしまいそうな小さな階段を、少年は登りはじめた。
階段は曲がり、分かれ、消えたと思ったら再び現れる。俺は仕方なく距離を詰め、早足で少年を追いかけた。
パタリ、と扉を閉める小さな音が聞こえた。少年は曲がり角の先に消えていた。慌てて追いかけた僕は、見えた光景に唖然と口を開いた。
目の前にはドア、ドア、ドア。
小さな住居が一つの建物に密集しているのだろう。あまりにたくさん扉があって、少年がどこに消えたのか、とても見当がつかなかった。
そして少年に気をとられているうちに、随分怪しげな場所に入り込んでしまったようだ。道に座り込む歯の抜けた老人。上で洗濯物を干している中年女の不審そうな目つき。
俺は不意に恐ろしくなって身震いした。早くホテルに戻らなければ。
踵を返した俺は、はっと息を呑んだ。
「探しているのは、僕ですか?」
いつの間にか背後に回りこんでいた少年が、にこりと俺に微笑みかけた。
……不安も胡散臭さも吹き飛んでしまうくらい、魅惑的な笑みだった。
俺は彼の家に招かれた。屋根裏部屋のような所だった。
でも窓を開けると、青く晴れた空が近い。隣の家の洗濯物がぱたぱたとはためいている。はるか下にある地面では、目つきの悪い野良猫が一匹、俺を見上げていた。
「お茶でも、どうです?」
振り返ると、ゆったりとした笑みを浮かべる少年と目が合った。
「……あ、ああ。すまない」
なぜか俺はどぎまぎしながら答えた。彼は質素な炊事場で、俺のために茶を淹れる支度をしている。
狭い部屋だけれどほとんど物がないせいか、すっきりとした印象を受ける。
部屋の中央に置いてある、やたら豪奢なベッドが浮いている。絹地に金糸で刺繍をしてあるクッション。枕もとを縁どる間接照明。まるで寝るための部屋みたいだ、と思った。
少年は美しい茶器で俺に中国茶を淹れてくれた。甘みはあるが、少し薬みたいな味がする。でも飲んでいるうちにやみつきになってしまいそうな、良い香りだった。
あっという間に飲み干した俺に、少年は苦笑した。
「もう一杯、いかがです?」
少年は立ち上がった。と思った途端、バランスを崩して転んでしまった。
「いたた……」
「大丈夫か!?」
俺は慌てて駆け寄った。少年は、左足首を掴んだまま立てなくなっていた。
「すみません……いつもはこのくらい、平気なんだけど」
「……もっと大事にしないと。そのうち本当に歩けなくなってしまうよ」
俺は医者のような偉そうなことを言った。少年は神妙に頷いている。
俺は慎重に彼を抱き上げ、ベッドにそっと寝かせた。
「そこにある瓶をとってもらえませんか?」
少年が乞うように俺を見た。棚に置いてある瓶を俺は手にとった。ラベルには何も書いていない。
「……患部に塗る薬なんです」
「俺がやってやろうか?」
少年は戸惑ったような顔をしたが、すぐに微笑み返した。
「ありがとう」
完璧なラインを描いている、小さな足。彼の陶器のような肌は、俺が塗りこめた軟膏でぬめったように光っている。少年は気持ち良さそうに目を瞑っていた。
「……君は、何をして暮らしているんだ?」
俺は尋ねてはいけないような気がしながらつい、我慢できず尋ねた。
「僕は……、春を売っているんです」
「へ!?」
俺は一瞬、ぴんと来なかった。
「……僕は男娼なんです」
今度は鈍い俺にも、はっきり分かった。
「どうしてそんな仕事を?」
今考えると、随分残酷な質問ができたものだ。
でも、少年はかすかに目を伏せただけで、静かに答えた。
「僕は足が悪いから、できる仕事がほとんどないんです」
「そんな……」
彼が哀れなような、裏切られたような。矛盾した感情に俺は混乱した。
気が付くと、足から手が離れていた。ゆっくりと視線を上げていくと、泣きそうな顔で微笑む少年と目が合った。
「あなたも……、僕を抱きたいですか?」
「え……」
何を言っているんだ?
続きは言葉にならなかった。俺は急激な目眩に襲われ、ベッドに突っ伏した。
「効くまで、思ったより時間がかかりました」
頭上から、少年の涼しげな声が響いた。さっき飲まされた変わった味のお茶。あれに……
「ごめんなさい。僕は臆病だから、こうするしかないんだ……」
意識を失うぎりぎりに、耳元で囁く声がした。
暑い。そして煩い。俺は不快感で眠りから醒めた。辺りを見回して、俺は呆然とした。日雇いの労働者が集まるような、居酒屋だった。その奥の席に、俺は突っ伏して今まで眠っていたようだ。
「……あんた、起きたんならそろそろ帰ってくれよ」
席を回っていた店の女が、うんざりした声を出した。
「待ってくれよ! 俺は一体、いつからここに……?」
「そんなの知らないよ。三時間前には、もう寝てたけど」
なんだかんだ言いながら、教えてくれる。
俺ははっと息を呑んで懐に手を差し込んだ。財布……あった。良かった。
でも、随分軽い気がする。開けてみて、やられたと俺は思った。数万あった紙幣が、綺麗になくなっていた。
……まあ、小銭と財布だけでも残してくれたのはありがたいのかもしれない。クレジットカードとパスポートを宿に置いてきてよかった。
居酒屋から出ると、どこからか甘い香りが漂った。あの、お茶の香り……頼りなさそうに見えたあの少年。
足は大丈夫だろうか。俺から掠め取ったお金で、少しは美味しいものでも食べれただろうか。
こんな目に遭わされて、彼を恨む気にならない俺はどうかしている。仕方がない。……彼と目が合った瞬間、虜にされた。




