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003 三日月の夜  /吸血鬼、悲恋

 それは三日月の夜のこと。家の前に一人の男が倒れていた。

「……え、誰? ……大丈夫かな」

 俳優のように美しく繊細な顔立ちの男は、ぐったりと僕の家のドアにもたれかかっていた。ぐっすりと眠り込んでいるようにも見えるけれど、わずかな月明かりに照らされた顔色は、ひどく青白い。まるで、もう死んでしまっているみたいだ。

「救急車とか、呼んだほういいのかな……」

 あいにく、僕の携帯の電池は切れていた。仕方なく僕は鍵を開け、部屋に男を引っ張り込んだ。男を玄関先に転がしたまま、充電器を取ってこようとしたそのとき。足をぐいと強い力で引かれた。

「え!? ……痛っ!」

 驚いた僕は転んで腰をしたたか打った。じんじん響く痛みに眉をしかめながら振り向いた僕は、目を見開いた。

 男は許しを乞うように僕をみつめていた。思ったよりも、ずっと若い。澄んだ翡翠色の瞳には、吸い込まれるような魔力があった。

「すまない……」

 低くよく通る声で僕にそっと囁きかける。男は僕にキスするようにぐっと顔を近づけてきた。僕は動揺し、理性を総動員してなんとか顔をそむけた。全力疾走した後のように心臓がばくばくと鳴っている。

 でも、男の狙いは僕の唇ではなかった。

 俯いた僕の首筋につきん、とわずかな痛みが響く。そこから、じわっと痺れるような心地良さが体全体に広がった。僕の意識は急速に薄れていった。……


 夢を見た。美しい男が僕にのしかかっている。僕の体は甘ったるく弛緩していて動かせない。

「ああ……なんて美味いんだ」

 男がうっとりとため息を洩らした。僕は魅入られたように、男をじっとみつめた。男は僕の視線に気付いたが、動揺する様子も見せない。代わりに魅惑的な微笑を浮かべると、僕にそっと唇を寄せた。食われるようなキスは、濃密な血の味がした。

 窓の外は濃い闇。細い月が僕らを監視している。バサバサと見知らぬ獣が羽ばたく音がした。


 小鳥のさえずりが聞こえる。うっすらと目を開くと、カーテンの向こうに眩しい朝日が射していた。

「あれ……昨日いつ寝たっけ?」

 全く覚えていない。家に帰ってきたところまでは記憶があるんだけど。おかしいな。

 僕は体を起こし、リビングに向かった。そこには、見慣れぬ光景が広がっていた。

「誰……? アンタ」

 ダイニングテーブルに、金髪がキラキラ眩しい外人が座っていた。やたら難しい顔をして新聞なんか読んでいるのが、ひどくミスマッチに見える。

「やあ! 起きたんだね」

 こちらを振り向いた薄い緑色の目が、ちょっと落ち着かなくなるくらい綺麗だった。

「やあって……。アナタ、何でここにいるんですか?」

 マイペースな男だ。怪しい奴かもしれないのに、何だかこっちの緊張感がなくなってしまう。

「冷たいなあ。忘れちゃったのかい? 昨日、君が僕を助けてくれたんじゃないか」

「……ああ」

 そういえば。昨晩、うちの前で行き倒れていた男を拾って、介抱してやったんだった。どうして忘れてしまったんだろう?

 男は人懐こい笑みを浮かべ、僕に話しかけた。

「やっと思い出した? ……君は、僕の命の恩人だよ」

 真顔で囁かれ、僕は照れて真っ赤になってしまった。相手は男なのに。

 でも、なんだか妙に色気のある男なんだ。

 

 その日から男は居候になった。

 体の調子が優れないから、治るまで家に泊めてほしいと男は僕にすがった。押しに弱い僕は、うまく断れなかった。

 綺麗好きな男は、宿のお礼に家事を全て済ませてくれた。僕が帰宅する頃には、部屋は埃一つ落ちていないくらい、ピカピカになっていた。

 料理の腕もプロ級だった。何でもないごく普通の材料から、舌を噛みそうな長ったらしい名前のご馳走を作ってくれる。

 どうしたらこの便利な男が僕の家にずっといてくれるだろうかと、一時期、僕は真剣に悩んだくらいだ。

 でも男が来てから、いくつかの不思議な出来事が起こった。

 料理好きの男は、僕の前では一切物を口にしない。一人でいる間に食べているようだが、それにしても驚くくらい小食だ。

 そして、男が来てからというもの、僕は常に眠くて仕方がなかった。夜も九時くらいには舟を漕ぎ出し、十時にはぐっすり眠り込んでしまう。それまで僕は完全な夜型だったから、何だかおかしな気分だった。

 こんなに食べて寝てばかりいたら普通太りそうなものなのに、なぜだか僕はどんどん痩せていった。しまいには友人から心配されるくらいになった。

「……お前、最近大丈夫? ちゃんと食って寝てんの?」

 口調は冗談めかしていてけれど、本気で心配している表情だった。いつも以上に食べて寝ているはずなんだけどなあ。

 でも、鏡で見る僕の顔は、確かに日毎にやつれていくようだった。反対に、初対面では死にそうな顔色だった男は、みるみるうちに元気そうになっていった。


 ある日、男が言った。

「……そろそろ、僕は君から離れないと」

「家に、帰るの?」

 男は何も言わず微笑んだ。僕は泣きそうなくらい淋しいのに、不思議と少しほっとしていた。

「最後の夜だ……」

 ゆっくりおやすみ、と男は僕に囁きながらすうっと目蓋の上を両手で撫でた。僕は魔法をかけられたように眠気に襲われ、ベッドにも行かずその場で眠り込んでしまった。

 夢うつつに、男が僕を抱き上げるのを感じた。

 

 夢を見た。男は僕の首筋に吸いつき、尖った歯を立てる。溢れる血をごくごくと飲み、一滴も余さぬように舐めとった。頭がくらくらした。

「……ごめん。最後だと思ったら、少し飲み過ぎたかもしれない。明日はきちんと、ご飯を食べるんだよ」

 男は僕の頬にそっと触れ、優しく話しかけた。

「最後なんて、嫌だ。……ずっと僕と一緒にいてくれないの?」

 僕は男の腕を掴み、甘えた。

「ずっと一緒にいたら、君は死んでしまう。今がタイミングなんだ」

 男の声はすこし切なげだった。

「お願いだから、いなくならないで」

 僕は男に抱きついた。この男に会えなくなるなんて、信じたくなかった。

「……君は、仕方のない甘えん坊だなあ」

 男は小さな子供にするように、僕の頭をよしよしと撫でた。

「三日月の夜に、また来る」

「本当!?」

 僕は喜びの余り、叫び出しそうになった。

 男はそっと僕に微笑み返した。


 目が覚めても、僕は覚えていた。


 でも、彼は来なかった。次の三日月も。次の次の三日月も。ずっと。


 あれから何度目かも分からなくなった三日月が夜空に浮かぶ度。

 僕は彼を……、美しくも淋しい男を思い出す。

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