第九章 名前のない時間
空がもう一度会うことを希望している。
その連絡を受けたのは、最初の面会から三日後の昼休みだった。
由美は会社近くの小さな公園で、コンビニのサンドイッチを膝に載せていた。九月の終わりだというのに日差しは強く、ベンチの背後では、銀杏の葉がまだ濃い緑色を保っている。
鞄の中で携帯電話が震えた。
画面に表示された相沢奈緒の名前を見て、由美は一度深く息を吸ってから通話ボタンを押した。
「はい、朝倉です」
『今、お時間よろしいですか』
「大丈夫です」
『水瀬空さんから、もう一度お二人と会ってもよいという返事がありました』
胸の奥が大きく動いた。
立ち上がりそうになる体を抑え、由美は両足を地面につけた。嬉しい、とすぐに口にしてよいのか迷った。
「そうですか」
結局、それしか言えなかった。
『ただし、今回も長谷川さんが同席します。個人的な連絡先の交換はせず、連絡は引き続きこちらを通してください』
「承知しています」
『空さんから、いくつか希望が出ています』
由美は膝の上のサンドイッチをベンチへ置き、鞄から手帳を取り出した。
「お願いします」
『東京で働く場合の生活について、具体的な話を聞きたいそうです。それから、可能なら大きな書店へ行ってみたいと』
「書店ですか」
『はい。この前の面会で、由美さんのお仕事について聞いたことがきっかけのようです。支援センターの近くに駅ビルがありますよね。そこの書店なら、人目もありますし、面会室より自然に話せるのではないかと考えています』
「分かりました」
『書店へ行ったあとは、同じ建物の喫茶店で話す予定です。時間は二時間程度。空さんの疲れ具合によっては、早めに切り上げます』
由美は手帳に日時と場所を書き込んだ。
文字がわずかに震えている。
『もう一つ、お願いがあります』
「はい」
『空さんの希望が書店だからといって、本を贈ることは控えてください。何か買ってあげたいと思われるかもしれませんが、今はまだ金銭を伴うやり取りを始めないほうがよいと考えています』
「分かりました。何も持っていきません」
『東京での生活についても、進学や就職を勧めるのではなく、聞かれたことに答える形でお願いします』
「はい」
電話を切ったあと、由美はしばらく手帳を開いたままにしていた。
空がもう一度会うと言った。
その事実だけで、目の前の景色が少し明るくなったように感じる。
けれど、喜びのまま走り出してはいけない。
空は二人を信じたわけではない。もう一度確かめてもよいと決めただけだ。最初の面会でも、空は何度も念を押していた。
途中でいなくなる人は嫌だ。
期待させておいて消えるくらいなら、最初から来ないでほしい。
由美は、その言葉を手帳の余白へ書きかけ、やめた。
空の言葉を記録として並べ、自分の都合のよい教訓に変えることはしたくなかった。忘れてはいけないが、抱え込みすぎてもいけない。
それでも、耳の奥にははっきり残っていた。
「朝倉さん、こんなところにいたんですか」
背後から声をかけられた。
振り返ると、同じ部署の後輩が紙袋を持って立っていた。
「会議、二時からですよね」
「ええ。まだ時間はあるでしょう」
「そうですけど。なんだか、すごく真剣な顔で手帳を見てたから」
「週末の予定を確認してただけ」
「旅行ですか?」
「ちょっと、人と会うの」
「いいですね。最近、朝倉さん、休日出勤ばかりだったし」
後輩はそれ以上聞かず、空いている隣のベンチへ腰を下ろした。
由美は手帳を閉じ、サンドイッチの包装を開けた。
人と会う。
今のところ、それ以上の名前は必要なかった。
*
その夜、帰宅した賢司へ伝えると、彼はネクタイを緩める手を止めた。
「もう一度、会ってくれるのか」
「うん」
賢司の顔に安堵が浮かんだ。
だが、由美が相沢から伝えられた条件を話すと、表情を引き締め、鞄から仕事用のノートパソコンを取り出した。
「東京で暮らす場合の費用なら、家賃と光熱費、それから食費と交通費を――」
「賢司」
「何?」
「今から資料を作るつもり?」
「聞きたいと言っているんだろう」
「だからって、いきなり十枚も作らないでよ」
「十枚も作らない」
「じゃあ、何枚?」
「必要な情報を整理すれば、三枚くらいにはなる」
「多いと思う」
由美は冷蔵庫から麦茶を取り出し、二つのグラスへ注いだ。
「聞かれたことに答えるんだよ。私たちが空さんの人生設計を作るんじゃない」
「分かってる」
「今の顔、分かってる人の顔じゃなかった」
「どんな顔だった?」
「新しい事業の検討を始める顔」
賢司は不服そうに眉を寄せたが、パソコンを開くのはやめた。
「でも、何も準備しないで行って、家賃はいくらですかと聞かれて答えられないのも無責任だろう」
「準備するなとは言ってない。空さんの条件を勝手に決めて計算しないでって言ってるの」
「条件を置かなければ、費用は出せない」
「だから、例として一つだけ出したら?」
「住む場所によって家賃はかなり違う」
「それも含めて説明すればいいでしょう」
「口で説明するより、表にしたほうが分かりやすい」
「表を作るなとは言ってない」
「さっき三枚は多いと言った」
「一枚にしてと言ってるの」
二人はダイニングテーブルを挟んで睨み合った。
数秒後、賢司が肩を落とした。
「一枚にする」
「文字を小さくして詰め込むのは禁止」
「そこまで決めるのか」
「決める。空さんは試験を受けるんじゃないんだから」
賢司は麦茶を飲み、冷蔵庫に貼られた予定表を見た。
「書店では、由美のほうが話すことが多くなりそうだな」
「空さんが何を見たいかによるよ。私が案内して回る必要はないでしょう」
「出版社の人に大きな書店を案内してもらいたいんじゃないのか」
「書店へ行きたいとしか聞いてない。私が仕事の説明をする会じゃないよ」
「それもそうか」
由美は向かいに座った。
「前の面会で、私たちは二人とも話しすぎたと思う」
「質問されたから答えただけだろう」
「答える必要はあった。でも、今度はもっと普通に過ごせたらいい」
「普通って?」
「分からない」
「分からないものを目指すのか」
「すぐに答えを出そうとするの、やめたほうがいいよ」
賢司は黙った。
由美は少し言いすぎたかと思ったが、謝らなかった。謝れば言葉を取り消したことになる。
賢司は確かに、答えを出そうとしすぎる。
由美は反対に、気持ちを先に走らせすぎる。
空へ近づこうとするとき、二人の癖はどちらも危うい。賢司は空の暮らしを数字へ置き換え、由美は空の表情に自分が望む意味を見つけようとする。
「一枚だけ、たたき台を作る」
賢司が言った。
「由美にも見てもらう。そのうえで、必要なところだけ持っていく」
「うん」
「空さんへ渡していいかは、当日、長谷川さんに確認する」
「そうして」
賢司がパソコンを開いた。
由美はその隣で、夕食の献立を考えた。冷蔵庫には鶏肉と玉ねぎがある。親子丼にすれば早い。
親子、という言葉が頭に浮かび、すぐに追い払った。
空は二人の子どもではない。
次の面会は、三人で親子になる練習ではない。
由美は席を立ち、鶏肉を冷蔵庫から取り出した。
*
二度目の面会は、最初の面会から三週間後の日曜日になった。
由美と賢司が支援センターへ到着すると、空と恵はすでにロビーにいた。
空は白いシャツの上に薄手のパーカーを羽織り、黒いパンツをはいていた。肩から下げた布製の鞄には、海辺食堂の名前が小さく刺繍されている。
「こんにちは」
由美が挨拶すると、空は軽く頭を下げた。
「こんにちは」
最初の面会ほど硬い表情ではなかったが、笑顔でもない。
「今日は来てくれて、ありがとう」
口にしてから、由美は前と同じ言葉を使ったことに気づいた。
空も気づいたらしく、わずかに眉を上げた。
「由美さん、またお礼を言ってます」
「あ、ごめんなさい」
「今度は謝りました」
空の口元がわずかに緩んだ。
賢司が小さく咳払いをした。笑いを堪えたように聞こえた。
「今日はよろしくお願いします」
賢司が頭を下げる。
「お願いします」
空は肩に掛けた鞄の位置を直した。
相沢が今日の予定と注意事項を確認したあと、四人は駅へ向かった。支援センターから駅ビルまでは、歩いて十分ほどだった。
恵と空が前を歩き、由美と賢司は二、三歩離れて後ろを歩いた。
横断歩道の信号が点滅し始めたとき、空と恵は渡り切ったが、由美と賢司は反対側に残された。
由美は走れば間に合うと思った。しかし、賢司に腕を引かれ、足を止めた。
「次を待てばいい」
「でも、向こうで待たせるよ」
「信号一回分だろう」
道路の向こうで、空が振り返った。
由美は片手を上げた。空も小さく手を上げる。
信号を待つ数十秒の間、空と恵は何かを話していた。空がこちらを見て笑ったように見えたが、何を話したのかは分からない。
「こういうときも、急がなくていいんだな」
由美が言うと、賢司が横目で見た。
「信号の話?」
「それだけじゃなくて」
「難しい話をするな」
信号が青に変わった。
二人が渡り切ると、空が言った。
「由美さん、走ろうとしてましたね」
「置いていかれると思って」
「駅は動かないですよ」
「そうなんだけど」
「長谷川さんが、由美さんらしいって」
「私、まだ二回しか会ってないのに、もうそういう人だと思われてるの?」
「私は言ってません」
空は前を向いたが、耳が少し赤くなっていた。
駅ビルの四階にある書店は、町で最も大きい店だった。入口には新刊の小説が平積みにされ、天井から季節の読書フェアを知らせる旗が下がっている。
店へ入ると、空は足を止めた。
「広い」
「初めて来た?」
由美が尋ねた。
「駅ビルには来たことがあります。でも、この店は初めてです。若葉ホームからだと、バス代もかかるから」
由美は、連れてきてよかったと言いそうになり、飲み込んだ。
空が希望したから、四人で来た。
自分たちが空へ与えた時間ではない。
「どこから見る?」
恵が尋ねた。
「決めてません」
「じゃあ、入口から順番に歩こうか」
「全部見てたら終わりませんよ」
空は店内案内の看板へ近づいた。
文芸、実用、学習参考書、資格、児童書、雑誌、コミック。棚の配置を一つずつ確認し、迷った末に実用書の方向へ歩き出す。
由美は空の後ろをついていった。
仕事で書店を訪れるときは、入店した瞬間から自社の本を探す。平台のどこに置かれているか、何冊積まれているか、競合する本は何か。棚の前で立ち止まる客よりも、棚そのものを見る癖がついていた。
今日は、空が何を見るのかだけを見ようと思った。
空は料理本の棚で足を止めた。
「料理、好きなの?」
「嫌いじゃないです。でも、作るより見るほうが好きです」
色鮮やかな弁当の写真が並ぶ本を手に取り、頁をめくる。
「若葉ホームでは作ることある?」
「当番で手伝うくらいです。包丁を使うと、芽衣がやりたがるから危ないし」
「海辺食堂では?」
「盛りつけはします。簡単なものなら、浜田さんが教えてくれます」
「得意な料理は?」
「卵焼き」
「甘いの?」
賢司が尋ねた。
「甘くないほうです」
「僕も甘くないほうが好きだ」
「賢司は作れないでしょう」
由美が言うと、賢司は不満そうな顔をした。
「一度作ったことがある」
「あれは炒り卵」
「味は卵焼きだった」
「形が違えば別の料理だよ」
「食べれば同じだろう」
「同じじゃありません」
空が真顔で言った。
「卵焼きは形も大事です。店で炒り卵を出して、味は同じだって言ったら怒られます」
「二対一だな」
賢司は諦めるようにうなずいた。
空が少し笑った。
その笑顔を見ても、由美は笑い返すだけにした。嬉しさを強く表せば、空が笑い続けなければならないような空気を作ってしまう。
料理本の棚を離れた空は、デザイン関係の本が並ぶ一角へ移った。
広告の配色、文字の選び方、写真の撮り方。専門書よりも、初めて学ぶ人向けの本を手に取っている。
「こういうのに興味があるの?」
由美が尋ねた。
「食堂で、今日のおすすめを書くことがあるから」
「黒板に?」
「はい。浜田さんが書くと、字ばっかりになるんです。奥さんが、私のほうが見やすいって」
「写真、ある?」
「ありますけど」
空は携帯電話を取り出しかけ、手を止めた。
個人的な連絡先を交換しないという約束を思い出したらしい。
「見るだけなら大丈夫じゃない?」
恵が言った。
「送ったりはしないで、ここで見せるだけなら」
空は携帯電話の画面を操作し、由美へ差し出した。
黒板には、白と黄色のチョークで「本日のおすすめ 鯵のなめろう定食」と書かれていた。鯵と味噌汁の小さな絵が添えられ、値段は赤い枠で囲まれている。余白の取り方は均等ではなかったが、一番伝えたい料理名と価格がすぐに目へ入る。
「これ、空さんが全部書いたの?」
「字は私です。鯵の絵は浜田さんの奥さん」
「見やすいと思う。料理名が一番大きくて、値段も探さなくていい。黄色を料理名だけに使っているから、目立つね」
「色は二つくらいにしたほうがいいって、前に来たお客さんが言ってたから」
「いい判断だと思う。色を増やすと賑やかにはなるけど、どこを見ればいいか分かりにくくなることもあるから」
「ここ、空きすぎてませんか」
空が画面の右下を指した。
「空いていていいと思う。全部を埋めなくても、余白があるほうが文字は読みやすいよ」
「浜田さんは、もったいないって言います」
「情報を入れられる場所が余っているように見えるのかもね」
「由美さんなら、何を足しますか」
由美は画面を見つめた。
「私なら、何も足さないかな。ただ、鯵の絵を少しだけ上に移すかもしれない。そうすると、料理名と絵が一緒に目に入るから」
「やっぱり変えたほうがいいんですね」
「変えなくても伝わるよ。正解が一つあるわけじゃないから」
「仕事でも、そんな感じなんですか」
「そうだね。同じ本でも、書店によって置かれる場所が違うし、手に取る人も違う。だから、これさえすれば必ず売れるという方法はないの」
「でも、売れなかったら由美さんの責任になる?」
「なるときもある」
「嫌になりませんか」
「なるよ」
空が携帯電話を鞄へ戻した。
「それでも続けてるんですね」
「今のところは」
由美は、仕事が好きだと言い切ることができなかった。
好きなだけでは続けられない日もある。辞めたいと思いながら電車に乗る朝もある。自分が作った販促物を誰も見ていないように感じる日もあれば、予想外の一冊が誰かの手へ渡る瞬間に立ち会うこともある。
空は、由美の曖昧な答えを否定しなかった。
棚の下段から、店頭広告の作り方を解説した本を取り出す。頁をめくり、価格を確かめると、元の場所へ戻した。
由美は買ってあげたいと思った。
相沢に注意されていなければ、迷わず手に取っていたかもしれない。仕事に役立つから。興味を持ってくれたから。このくらいなら負担にならないから。
理由はいくらでも作れる。
けれど、その本を渡した瞬間から、空は読んだ感想を求められていると感じるかもしれない。次の黒板を上手に作らなければならないと思うかもしれない。
由美は本へ手を伸ばさなかった。
「次は、仕事の本を見たいです」
空が言った。
「就職の棚かな」
恵が店内案内を確認した。
資格・就職の棚には、大学生向けの業界研究や面接対策の本が多く並んでいた。空は背表紙を一つずつ見たが、高校卒業後の就職を扱う本は少ない。
「大学生の本ばっかりですね」
「そうだね」
由美は隣の棚を探した。
「こっちに、高校生向けの進路案内があるよ」
空が手に取ったのは、就職、専門学校、大学進学をそれぞれ比較した本だった。
頁をめくる速度が、先ほどより遅い。
奨学金の項目で手が止まった。次に、学生寮や一人暮らしの費用が載った頁を見る。何度か巻末の価格を確認し、棚へ戻そうとした。
そのまま立ち去るかと思ったが、空はもう一度本を手に取った。
「買うの?」
恵が尋ねた。
「迷ってます」
「予算は?」
「今月、バイト代をあまり使ってないから、買えます」
「ほかに買う予定のものはない?」
「靴が欲しいけど、それは来月でもいいです」
空は本と自分の財布を見比べた。
由美は何も言わなかった。
買ってあげたいという気持ちは消えていない。むしろ、空が迷っている姿を見れば見るほど強くなる。
それでも口を挟まなかった。
「買います」
空は自分で決め、本を胸の前に抱えた。
「靴は大丈夫?」
恵が確認する。
「今のが破れたわけじゃないから」
「分かった」
空は本を持ったまま、店内をもう少し見て回った。
文芸書の棚では、表紙に海の写真が使われた小説を手に取り、裏返して紹介文を読む。児童書の棚では、芽衣が学校から借りてきたというシリーズを探した。自分のための本だけでなく、若葉ホームにいる子どもたちの顔を思い浮かべていることが、選ぶ本から伝わってきた。
由美は、自分が想像していた空の姿が、いかに薄いものだったかを思い知らされた。
よく働く高校生。
施設で暮らし、東京での就職を考えている少女。
由美が知っていたのは、それだけだった。
今、目の前にいる空は、卵焼きの形にこだわり、食堂の黒板を工夫し、芽衣が読む本の題名を覚えている。進路案内を買うために、欲しかった靴を一か月先へ延ばす。
一つ知るたび、最初に抱いた「気になる子」という曖昧な像が崩れていく。
由美は、そのことに安堵した。
空が由美の想像どおりの少女ではないほど、空自身に近づける気がした。
会計を済ませた空は、書店の紙袋を受け取らず、本を布の鞄へ入れた。
「袋、いらないの?」
賢司が尋ねた。
「有料だから」
「五円くらいだろう」
「五円でも、お金です」
「賢司はそういうところが雑なの」
由美が言うと、賢司は財布の中を見た。
「僕は小銭が増えるほうが気になる」
「だからって、要らない袋を買うのは違うでしょう」
「何かに使えるかもしれない」
「そう言って、家に紙袋をためてるのは誰?」
「由美も捨ててないだろう」
「捨てようとすると、まだ使えるって言うからでしょ」
二人のやり取りを聞いていた空が、恵に小声で言った。
「本当に喧嘩するんですね」
「仲が悪いわけではなさそうだけどね」
恵の声は、由美たちにも聞こえていた。
「仲が悪くなくても、意見は合わないよ」
由美が言うと、空は少し考えてからうなずいた。
「若葉ホームでも、莉子と喧嘩します」
「どんなことで?」
「莉子が私のドライヤーを勝手に使ったり、私が窓を開けたまま寝たり」
「空さんが窓を開けるほうなんだ」
「暑いから」
「海の近くは夜、冷えるでしょう」
賢司が言った。
「ほら、すぐそうやって心配する」
由美が指摘すると、賢司は口を閉じた。
空は賢司を見て、初めて声を上げて笑った。
*
書店を出た四人は、同じ階にある喫茶店へ入った。
昼食にはまだ早く、店内は空いている。窓際の席から駅前のロータリーが見えた。
四人はそれぞれ飲み物を注文した。
空はメニューの中で一番安い紅茶を選んだ。由美は一緒にケーキを頼みたかったが、空が注文しない以上、自分も飲み物だけにした。
賢司は鞄から透明なファイルを取り出した。
「東京で一人暮らしをする場合の費用を、簡単にまとめてきました」
「やっぱり作ったんですね」
空が言った。
「一枚だけです」
賢司は由美を見た。
「由美に三回直されました」
「文字が小さすぎたから」
「情報を減らすと、条件の違いを説明できない」
「資料を読む会じゃないんだから」
空は差し出された用紙を見た。
中央に、月々の生活費の例が表でまとめられている。家賃、光熱費、食費、通信費、交通費、日用品、医療費、予備費。右端には金額の幅が書かれていた。
「家賃、こんなにするんですか」
「場所によるよ」
賢司が路線図を開こうとしたので、由美は机の下で彼の足を軽く蹴った。
「痛い」
「聞かれたことだけ」
「場所によるとしか答えなかったら、説明にならないだろう」
「どの場所なら安いんですか」
空が尋ねた。
賢司は待っていましたとばかりに、折り畳んだ路線図を広げた。
「都心から離れれば安くなる傾向はあります。ただ、勤務先までの交通費と時間も考えないといけない。家賃だけを見て遠くに住むと、毎日の通勤が負担になることもある」
「会社が交通費を出してくれるんじゃないんですか」
「出る会社も多いけれど、上限がある場合もあります」
「求人票を見れば分かりますか」
「書いてあることもある。分からなければ、応募する前か面接のときに確認していい」
「そんなこと聞いたら、落とされませんか」
「確認の仕方にもよるけど、働くうえで必要な条件を尋ねること自体は悪くない。曖昧なまま入社して、あとで暮らせないと分かるほうが困るから」
空はノートを取り出した。
青い糸で角を直した布のペンケースからシャープペンシルを出し、賢司の説明を書き留める。
「この給料は、全部使えるお金ですか」
「違う。求人票に書かれている金額から、税金や保険料が引かれる」
「どのくらい?」
「収入や年齢によって変わるけど――」
賢司は資料の余白に簡単な数字を書いた。
空の眉間に皺が寄った。
「思ってたより少ない」
「そうだね」
「これで家賃とごはんを払うんですか」
「そうなる」
「貯金は?」
「できれば予備費とは別にしたいけど、最初から十分な額を貯めるのは難しいかもしれない」
「服も買わないといけないし、病気になるかもしれない」
「引っ越しの最初には、家具や家電も必要になる」
賢司が言った。
「あ」
次に、自分の資料を見て顔をしかめた。
「どうしたんですか」
「初期費用を入れていなかった」
「偉そうに説明してたのに?」
「申し訳ない」
空は資料を見つめたあと、小さく笑った。
「賢司さんでも忘れるんですね」
「忘れます」
「完璧に作った顔をしてました」
「一枚に収めることばかり考えていた」
「私のせいにしないで」
由美が言うと、空の笑みが少し大きくなった。
注文した飲み物が運ばれてきた。
店員が紅茶を置くとき、ソーサーの上でスプーンが小さな音を立てた。空は砂糖を入れず、紅茶を一口飲んだ。
「東京へ行くなら、最初は寮のある会社を探したほうがいいかもしれないね」
由美が言った。
空の手が止まった。
「行くなら、じゃなくて、行くって決めたみたいに聞こえます」
胸を突かれた。
「あ……ごめんなさい。東京で暮らすことを選んだ場合は、という意味で」
「由美さんは、私に東京へ来てほしいんですか」
喫茶店の音が遠くなった。
由美はすぐに否定しそうになった。
違う。
どこで暮らしても、空が幸せならよい。
そう答えれば正しいのだろう。けれど、胸の内にある気持ちは、それほど整っていなかった。
「来てほしいと思っている部分はある」
隣の賢司が由美を見た。
「でも、それは私の希望であって、空さんが進路を決める理由にはならない。空さんがこの町で働くと決めても、別の場所へ行くと決めても、それを変えてほしいとは言えない」
「東京に来なかったら、会う意味がないと思いませんか」
「思わない」
「遠いですよ」
「今も遠いよ」
「そのうち面倒になるかもしれない」
由美は、前回と同じ問いが形を変えて現れたのだと気づいた。
途中でいなくならないか。
空は、答えを一度聞けば安心できるわけではない。何度も確かめなければならないほど、約束が壊れる瞬間を知っている。
「面倒だと思う日はあるかもしれない」
由美は正直に答えた。
「由美」
賢司が低く呼んだ。
「ないとは言えないでしょう」
「それはそうだけど」
由美は空を見た。
「仕事で疲れている日もあるし、電車に乗るのが嫌になる日もあると思う。空さんだって、私たちに会うのが面倒になる日があるでしょう」
「あると思います」
「それでも、会うと決めた予定を、面倒だからという理由だけで勝手にやめることはしない。続けられない事情が出たら、黙らずに話す。前にも言ったことしか約束できないけど」
空は紅茶へ視線を落とした。
「由美さんは、正直すぎます」
「安心させるのが下手なのは、賢司だけじゃないみたい」
「夫婦ですね」
空の声から、わずかに力が抜けた。
賢司が広げていた資料を指した。
「この金額を見て、東京へ行くのをやめようと思いましたか」
「少し怖くなりました」
「それは悪いことではないと思う。知らないから怖い場合もあるけど、知ったから分かる怖さもある。その怖さは、準備するために使える」
「じゃあ、東京へ行ったほうがいいってことですか」
「そうは言っていません」
「言いそうな顔でした」
「気をつけます」
空はノートに何かを書いた。
由美の席からは文字が見えなかった。覗き込まないよう、窓の外へ目を向ける。
ロータリーでは、バスが停留所へ入り、数人の乗客が降りてきた。買い物袋を持った女性、杖をついた男性、小さな子どもの手を引く若い夫婦。
どの人にも、見えない暮らしがある。
「由美さんと賢司さんは、私に何をしてほしいんですか」
空が言った。
最初の面会でも聞かれた質問だった。
「何かを返してほしいと思ってませんか。会いに来たんだから、私も会わなきゃいけないとか。東京のことを教えたから、お礼を言わなきゃいけないとか」
「思っていないつもりです」
賢司が答えた。
「つもり?」
「自分では求めていないつもりでも、態度に出ることはあるかもしれないから。そのときは言ってほしい」
「言われないと分からないんですか」
「分からないこともあると思う」
「面倒ですね」
「はい」
賢司が認める。
空は由美を見た。
「由美さんも?」
「私も。たぶん、賢司より顔に出る」
「それは分かります」
「もう分かるの?」
「書店で私が本を戻したとき、買いたそうな顔をしてました」
由美は息を止めた。
「気づいてたんだ」
「見てましたから」
「ごめんなさい」
「買ってくれなかったから、別にいいです」
「欲しくなかった?」
「少し欲しかったです。でも、買ってもらったら読まなきゃいけない気がするから」
由美が想像したとおりだった。
よかれと思って渡すものが、相手にとっては宿題になる。
「買わなくてよかった」
「でも、次に来たときになくなってたら、少し後悔するかもしれません」
「それも自分で決めることだよ」
恵が穏やかに言った。
「今日買わなかったことも、あとで買うことも、空が選べばいい」
「なくなってたら?」
「取り寄せられるか、店員さんに聞いてみればいい」
空はうなずいた。
由美は、買っておいて次に渡すこともできると思った。だが、それをすれば、空が自分で買う機会を奪う。
何もしないことは、冷たさではない。
相手の選択が生まれるまで待つことも、関わり方の一つなのだと、由美はようやく理解し始めていた。
「もし私が、食堂みたいなところでずっと働くって言ったら、どう思いますか」
空が尋ねた。
「ずっとというのは、卒業後も?」
「はい。事務の仕事を探すより、浜田さんのところで雇ってもらうとか。できるかは分かりませんけど」
「空さんが望んでいるなら、悪いとは思わない」
由美は答えた。
「東京に行くより?」
「比べられないよ。どちらがいいかは、空さんが仕事に何を求めるかで変わるから」
「給料は東京のほうが高いですよね」
「高くても、生活費も高い。海辺食堂で働くなら、住む場所をどうするかも考えなきゃいけない。どちらにも良いところと大変なところがあると思う」
「夢がないですね」
「夢だけで生活できたらいいんだけどね」
「由美さん、本を売る仕事なのに」
「本の中と同じようにはいかないよ」
空はしばらく考えていた。
「でも、本を読んで、やってみようと思うことはあります」
「うん」
「食堂の黒板も、図書室にあった本を見て変えたし」
「それなら、本が役に立ったんだね」
「由美さんが売った本かもしれません」
「だったら嬉しいな」
由美がそう言うと、空は嫌そうな顔をしなかった。
喫茶店を出る時間が近づいた。
賢司は用紙をファイルへ戻そうとしたが、空が手で押さえた。
「これ、もらってもいいですか」
「もちろん」
「本当に?」
「空さんのために作った資料だから」
「さっき、何かをもらうと宿題みたいになるって話をしたばかりです」
「これは空さんが欲しいと言ったから渡すんです。読んだ感想を聞くつもりもないし、このとおりに進路を決めてほしいとも思っていない」
空は用紙を二つに折り、進路案内の本へ挟んだ。
「初期費用が抜けてますけど」
「次に会う機会があれば、追加したものを――」
「賢司」
由美が止めた。
賢司は言葉を切り、空を見た。
「必要なら、支援センターを通して知らせてください」
「そうします」
空は鞄を閉じた。
会計は、事前に決めたとおり、それぞれが自分の分を支払った。空は財布から小銭を取り出し、紅茶代をきっちり数えてトレーへ置いた。
店を出ると、書店の前には先ほどより多くの人がいた。
親子連れが行き交い、子どもが手にした風船が何度も天井へぶつかっている。空は人の流れに押されないよう、恵の隣を歩いた。
駅ビルを出たところで、空が振り返った。
「次は、二人が来てください」
由美は意味を測りかねた。
「どこへ?」
「私の町です」
空は海のある方角を指した。
「海辺食堂じゃなくて、町を歩くだけ。二人は旅行で来たのに、道に迷ってばかりで、ちゃんと見てないでしょう」
「空さんが案内してくれるの?」
「まだ決めてません。長谷川さんに聞いて、大丈夫だったらです」
「もちろん、長谷川さんたちがいいと言ったら」
嬉しさが声に出すぎないよう、由美は慎重に答えた。
「いつがいい?」
賢司が尋ねる。
「それも、あとで決めます」
「分かりました」
「海辺食堂には行きません。浜田さんたちに、まだ説明してないから」
「うん」
「若葉ホームにも来ないでください」
「分かった」
「駅で待ち合わせして、海のほうを歩くくらいです」
「ありがとう」
由美は言った。
空が眉を上げる。
「またお礼ですか」
「これは言わせて。空さんの暮らしている町を案内してもらえるのは、嬉しいから」
空は少し困ったように視線を逸らした。
「案内するって決まったわけじゃありません」
「決まってから、もう一度お礼を言う」
「何回言うんですか」
そう言いながらも、空は笑っていた。
支援センターまでの帰り道では、四人がほぼ横に並んで歩いた。歩道の狭い場所では二人ずつになり、広くなるとまた並ぶ。
由美は、空の隣へ行こうとはしなかった。
信号で離れても、角を曲がって姿が見えなくなるわけではない。急がなくても、同じ道を進んでいれば追いつける。
支援センターの前に着くと、空は由美と賢司へ軽く頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
由美が答える。
「本、読まなきゃいけないと思わなくていいからね」
「自分で買った本なので、読みます」
「そうだった」
「由美さん、たまに変なこと言いますね」
「たまにかな」
「今のところ、毎回です」
空は恵と一緒に建物の中へ入っていった。
自動扉が閉まる直前、空が一度だけ振り返った。由美が手を上げると、空も胸の前で小さく手を振った。
扉が閉まり、その姿が見えなくなる。
「町を案内してくれるって」
由美が言った。
「まだ決まってないと言ってた」
「分かってる」
「由美、今すぐ予定を空けそうだから」
「空けないよ。連絡が来てから確認する」
「本当に?」
「本当」
二人は駐車場へ向かった。
車に乗ると、由美は助手席の扉を閉め、しばらく前を見ていた。
「今日、どうだったと思う?」
「僕に聞くのか」
「賢司はどう感じた?」
「前回より、空さんのことを知れたと思う」
「うん」
「でも、知ったのはほんの一部だ」
「うん」
「由美が本を買わなかったのはよかった」
「気づいてたの?」
「買いたそうな顔をしていたから」
「空さんにも言われた」
「分かりやすいんだな」
賢司がエンジンをかける。
「あなたは資料を作りすぎ」
「一枚だっただろう」
「情報の量の話。空さんが聞かなかったら、路線ごとの家賃まで説明するつもりだったでしょう」
「役に立つと思った」
「空さんが必要だと言ったら、そのときにしよう」
「分かってる」
「本当に?」
「今日、分かった」
車がゆっくりと駐車場を出た。
「由美」
「何?」
「東京へ来てほしいと思っていると言ったこと、後悔してる?」
由美はすぐに答えられなかった。
窓の外では、駅前の建物が後ろへ流れていく。
「少し」
「言わないほうがよかった?」
「分からない。空さんを不安にさせたかもしれない。でも、来ても来なくても同じだと言い切ったら、それも嘘だった」
「僕も、東京に来たら力になれると思ってる」
「うん」
「ただ、それが空さんを東京へ呼ぶ理由になってはいけない」
「そうだね」
由美は膝の上で両手を組んだ。
「空さんが町を案内したいと言ったとき、家に招いてもらえるような気持ちになった」
「町は家じゃない」
「分かってる。でも、空さんの側にあるものを見せてもらえるんだと思って」
「期待しすぎるなよ」
「賢司に言われたくない」
「僕は期待してないとは言ってない。期待と決定を分けようとしてる」
由美は窓に映る自分の顔を見た。
嬉しさを隠しきれていない。
「私も、分けないとね」
「ああ」
関係はまだ始まったとも言えなかった。
空は二度会ってくれた。次は自分の町を案内してもよいと考えている。それだけだ。
それでも、一度目にはなかったものが、今日の二時間には確かにあった。
卵焼きの形について話したこと。
紙袋を買うかどうかで言い合ったこと。
賢司の資料から初期費用が抜けていたこと。
空が自分で本を選び、自分の財布から代金を払ったこと。
将来を決めるほど大きくはなく、忘れてしまうほど小さくもない時間だった。
*
四日後、相沢から連絡が入った。
空と恵、若葉ホームの責任者、支援センターの担当者で話し合い、次回は空の希望どおり、町の中を歩くことになったという。
日程は一か月後。
待ち合わせは町の駅。恵が同席し、海沿いの遊歩道と図書館を回る。海辺食堂と若葉ホームには立ち寄らない。天候が悪い場合は、図書館と地域交流館で過ごす。
由美は条件を一つずつ確認した。
『空さんから、由美さんに見てもらいたいものがあるそうです』
「何でしょう」
『海辺食堂の新しい黒板を作ることになったそうで、二つ案を考えていると。写真を送ってもよいか、空さんから希望がありました』
「もちろんです」
『画像は支援センターを経由してお送りします。感想も、こちらへ返信してください』
「分かりました」
その日の夕方、由美の携帯電話に二枚の画像が届いた。
一枚目は、料理名を中央へ大きく配置し、値段を右下へ置いたもの。
二枚目は、左側に料理の絵を描き、右側に料理名と短い説明を並べたものだった。
どちらも下書きで、白い紙に鉛筆で線が引かれている。二枚目の端には、青いペンで小さく「字が多い?」と書かれていた。
由美は拡大し、細部まで確認した。
最初に浮かんだのは、どちらも上手だという言葉だった。だが、それだけでは空の問いに答えていない。
由美は仕事用のノートを開き、それぞれの案の長所を書き出した。
一枚目は、料理名と値段が離れているため、視線が移動する。料理名の下へ値段を置けば、一度に読める。
二枚目は、料理の特徴が伝わりやすい。しかし文字が多いため、店の前を歩きながら読む人には届きにくい可能性がある。説明を一文減らし、絵と料理名を近づけるとよい。
書き終えたあと、由美は読み返した。
細かすぎるかもしれない。
空は専門家の添削を求めているわけではない。自分の案を否定されたと感じるかもしれない。
何度も書き直し、最後に短い文章へまとめた。
〈一枚目は、料理名がすぐ目に入るので、通りかかった人にも伝わりやすいと思います。値段を料理名の近くへ置くと、さらに見やすくなりそうです。二枚目は、どんな料理なのかが分かりやすく、食べてみたいと思いました。ただ、少し離れた場所から見るなら、説明を一文減らしてもよいかもしれません。どちらを選ぶかは、黒板をどこに置き、誰に見てもらいたいかで変わると思います〉
送信する前に、賢司へ見せた。
「どう?」
「いいと思う」
「褒め足りないかな」
「空さんは、褒めてほしくて送ったのかな」
「分からない」
「それなら、聞かれたことに答えればいいんじゃないか」
「そうだね」
由美は文章を相沢へ送った。
翌日、短い返事が届いた。
〈空さんからです。「二枚目の説明を短くして、料理名と値段を近づけます。ありがとうございました」とのことです〉
由美は画面を見つめた。
返事の末尾には、絵文字も、親しげな言葉もなかった。
それでよかった。
空は必要なことを尋ね、由美は自分にできる範囲で答えた。頼まれていない本を贈らず、進路を決めず、感想以上のものを要求しなかった。
一本の線が、二人の間をまっすぐ結んだわけではない。
支援センターと若葉ホームを通り、何人もの手で安全を確かめながら、細く遠回りして届いた言葉だった。
由美は携帯電話を伏せ、夕食の支度を始めた。
一か月後、空の町を歩く。
その先のことは決めない。
次に会ったとき、空が何を見せ、何を話したいと思うのかを待つ。
名前のない時間は、急いで形を与えなくても、少しずつ三人のあいだに積み重なり始めていた。




