第十章 海までの地図
十一月最初の日曜日、賢司は予定より三十分早く町へ着いた。
東京の自宅を出たときは薄曇りだった空が、海へ近づくにつれて明るくなり、駅前のロータリーには淡い日差しが落ちていた。吹く風は冷たく、歩道脇の植え込みでは、黄色くなった葉が乾いた音を立てている。
「まだ九時半だよ」
助手席の由美が腕時計を見た。
「遅れるよりいいだろう」
「三十分前は早すぎる。空さんたちが来ても、約束の時間までは車で待っていようね」
「どうして?」
「私たちが先に立って待っていたら、空さんが急かされるでしょう」
「約束の時間まで車にいればいいということか」
「そういうこと」
賢司は駅前の駐車場へ車を入れた。
空から町を案内したいという申し出があったと聞いた日から、由美は天気予報を毎日確認していた。雨が降った場合に備え、図書館と地域交流館の開館時間も調べている。
賢司も同じだった。
駅周辺の駐車場を調べ、混雑しそうな時間帯を確認し、帰りの道路状況まで予測した。だが、それを由美には言っていない。言えばまた、計画しすぎだと指摘される。
「傘、後ろにある?」
由美が尋ねた。
「折り畳みが二本、長いのが一本」
「三本?」
「天気が変わるかもしれない」
「予報は晴れだよ」
「海沿いは変わりやすい」
「空さんの分まで用意したの?」
「空さんが持っていなかった場合に備えて」
「持っていると思うけど」
「持っていれば使わなければいい」
由美が笑った。
「何?」
「賢司らしいなと思って」
「悪いことか」
「悪くない。ただ、傘を渡す前に、必要か聞いてね」
「分かってる」
賢司はエンジンを切った。
静かになった車内で、駅前を行き交う人々を眺める。休日の朝だからか、人は少ない。改札から出てくるのは、買い物袋を持った高齢者や、部活動の鞄を肩に掛けた中学生が中心だった。
前にこの町を訪れたとき、賢司は道に迷うことしか考えていなかった。
海沿いの道路から狭い路地へ入り、カーナビの指示に従って曲がるたび、目的地から離れていった。空に道を尋ね、海辺食堂へ入り、夜には潮路で再会した。
あの日は、町を眺めているつもりで、何も見ていなかった。
海がある。観光客向けの店がある。古い建物が多い。賢司の記憶に残っているのは、その程度だった。
空は、ここで暮らしている。
休日の風景ではなく、朝起きて学校へ行き、働き、友人と話し、ときに一人になりたくなる場所として、この町を知っている。
「賢司、あれ」
由美が駅の入口を指した。
空と恵が並んで歩いてきた。
空は茶色のジャケットにジーンズ姿だった。肩には、前回と同じ布製の鞄を掛けている。恵は紺色のコートを着ていた。
時計を見ると、待ち合わせの十五分前だった。
「もう行ってもいいかな」
「いいんじゃない?」
二人は車を降りた。
冷たい風が頬を撫で、潮の匂いがした。
「おはようございます」
空が先に挨拶した。
「おはよう」
由美の声が明るくなる。
「早かったね」
「由美さんたちも」
「私たちは今、車から出たところ」
由美が答える。
賢司は由美を横目で見た。嘘ではない。車から降りたのは、確かに今だった。
恵が四人の顔を見回した。
「今日の予定を確認します。まず駅から図書館まで歩いて、そこから海沿いへ出ます。昼食は商店街で買って、天気がよければ公園で食べる。二時半ごろには駅へ戻る予定です」
「けっこう歩きます」
空が言った。
「大丈夫ですか」
その視線は由美へ向けられていた。
「私に聞いてる?」
「賢司さんは歩けそうだから」
「私だって歩けるよ」
「前に信号で走ろうとして、止められてたから」
「あれは歩けないんじゃなくて、待てないだけ」
「今日は急がなくて大丈夫です」
空はそう言い、駅前の道へ足を向けた。
「じゃあ、行きます」
四人の先頭を空が歩く。
賢司は自然にその後ろへ続いた。地図を開く必要はなかった。
*
駅前の大通りから一本入ると、道幅が急に狭くなった。
両側には二階建ての住宅と小さな店が並び、軒先の植木鉢や自転車が道路へ少しはみ出している。日曜の朝でも開いているのは、八百屋とパン屋くらいだった。
「ここ、近道です」
空が路地を指した。
車一台が通れるかどうかという細さで、突き当たりには古い石段が見える。
「図書館は反対方向じゃないのか」
賢司が言うと、空が振り返った。
「道はつながってます」
「地図だと、こっちの大通りを――」
「また地図を見てるんですか」
「確認しただけです」
「前も地図を見て迷ってましたよね」
「あれはカーナビだ」
「同じです」
空は迷わず路地へ入った。
賢司は携帯電話をポケットへ戻した。
石段を上がると、小さな神社の境内へ出た。銀杏の木が一本立ち、地面には黄色い葉が積もっている。社殿の脇を抜ける細道が、図書館の裏手へ続いていた。
「本当につながってた」
由美が感心したように言う。
「毎日通ってるから」
「学校へ行く道?」
「駅へ行くときは、だいたいここです。朝は階段が面倒だから、大通りを通ることもありますけど」
「雨の日は滑りそうだな」
賢司は足元を見た。
「滑ります」
「手すりが片側にしかない」
「賢司」
由美に呼ばれ、賢司は口を閉じた。
「何ですか」
空が尋ねる。
「この人、すぐに危ないところを探すの」
「仕事の癖だ」
「医療機器の会社なのに?」
「事故が起きる可能性を考えるのも、仕事の一部です」
「この階段は、ずっと前からこんな感じです」
「ずっと事故がないから、これからもないとは限らない」
「長谷川さんと同じこと言いますね」
空は少し笑い、石段を上り切った。
境内の端に古い鉄棒があった。塗装は剝がれ、地面には使われた跡がない。
「小さいころ、ここで遊んでました」
空が言った。
「神社で?」
「この先に学童があったから。今は閉まってますけど」
「鉄棒、得意だったんです。逆上がりもできました」
「今もできる?」
由美が尋ねる。
「たぶん無理です」
「やってみれば?」
「由美さんが先にやってください」
「私は昔からできない」
「じゃあ、言わないでください」
空は鉄棒に近づかず、社殿の脇を通り過ぎた。
賢司は振り返り、誰もいない境内を見た。
空の小学生時代を想像しそうになり、やめた。
小さな体で鉄棒にぶら下がる姿も、転んで膝を擦りむく姿も、賢司は見ていない。知らない時間を、都合のよい映像で埋めるべきではない。
図書館は、町役場の隣にある二階建ての建物だった。壁の白い塗装は所々がくすみ、入口には文化祭や健康相談会のポスターが貼られている。
「立派でしょう」
空が言った。
「思っていたより大きい」
賢司が答えると、空が眉を寄せた。
「田舎だから小さいと思ってたんですか」
「そういう意味では」
「今、思ってたよりって言いました」
「町の規模から考えると、蔵書も多そうだという意味です」
「言い直しましたね」
「空さん、賢司に厳しいね」
由美が笑う。
「適当なこと言うからです」
図書館へ入ると、古い紙とワックスの匂いがした。
受付にいた女性が空に気づき、笑顔を向けた。
「空ちゃん、予約の本、来てるわよ」
「ありがとうございます。あとで借ります」
「今日はお友達と一緒?」
空の表情が一瞬固まった。
「東京の知り合いです」
「そう。ゆっくりしていってくださいね」
女性は由美たちへ軽く頭を下げた。
由美も賢司も、同じように頭を下げた。
東京の知り合い。
その呼び方が、現在の関係を最も正確に表しているのだろう。賢司は、失望も嬉しさも感じなかった。ただ、名前が一つ与えられたことで、立つべき位置が分かりやすくなった。
「いつも来るの?」
由美が尋ねた。
「月に二、三回です。学校の図書室は早く閉まるから」
「予約してたのは、どんな本?」
「別に、何でもいいでしょう」
「そうだね。ごめん」
由美がすぐに引いた。
空は数歩進んだあと、振り返った。
「東京で一人暮らしをした人の体験談です」
「進路のため?」
「それもあります。でも、いろんな仕事をしてる人が載ってるから」
空は受付へ戻り、予約していた本を受け取った。貸出手続きを済ませ、布の鞄へ入れる。
「先月買った本は読んだ?」
賢司が尋ねた。
「半分くらい」
「どうだった?」
「大学へ行かない場合のことが少なかったです」
「やっぱり大学向けだったか」
「でも、奨学金にもいろいろあることは分かりました」
「進学も考え始めたの?」
空はすぐに答えなかった。
窓際の閲覧席へ目を向ける。
「考えるだけです」
「うん」
「行くって決めたわけじゃありません」
「分かっています」
「お金がかかるし、勉強が特別できるわけでもないし」
「成績は――」
聞きかけて、賢司は言葉を止めた。
「何ですか」
「いや。聞かれたくないことなら、聞かないほうがいいと思って」
「普通くらいです。数学は苦手で、国語はわりといいです」
「数学が苦手でも、学ぶ方法はある」
「すぐ勉強の話にしますね」
「進学の話をしていたから」
「今は図書館を案内してるんです」
空は先へ歩き出した。
一階には一般書と新聞、雑誌の閲覧席があり、二階には児童書と学習室があった。
空は窓際の席を指した。
「学校帰りは、だいたいあそこに座ります」
「勉強するの?」
由美が尋ねる。
「宿題をしたり、本を読んだり。若葉ホームでやると、芽衣がすぐ話しかけてくるから」
「懐かれてるんだね」
「うるさいだけです」
そう言う空の表情は、困っているようには見えなかった。
学習室の隣には、小さな展示コーナーがあった。町の小学生が描いた海の絵や、地域の古い写真が並んでいる。
空は、かつて港の近くにあった工場の写真を指した。
「昔は、あっちに大きな工場があったらしいです。今は空き地になってます」
「雇用も多かったのかな」
賢司が言った。
「昔の話ですよ」
「工場がなくなって、町を出る人が増えた?」
「たぶん。高校の先生も、働く場所が少ないって言ってます」
「それで東京を考えたの?」
「それだけじゃないです」
空の声が少し硬くなった。
「仕事が多いからって、前にも言いました」
「ごめん。理由を一つに決めようとした」
「賢司さんは、何でも原因を見つけないと嫌なんですか」
「見つければ対策を考えられるから」
「見つからなかったら?」
「見つかるまで調べる」
「大変ですね」
「自分でもそう思う」
空は展示された写真へ視線を戻した。
「私は、理由が一つじゃないこともあると思います」
「うん」
「ここにいたくない日もあるし、ずっとここにいたいと思う日もあります。東京へ行きたいけど、怖いし。大学も少し気になるけど、働いたほうがいいとも思います」
「どれも今の気持ちなんだね」
由美が言った。
空はうなずいた。
「だから、まだ計画を作らないでください」
「分かりました」
賢司は素直に答えた。
計画を作らない。
仕事では考えられないことだった。目的を定め、期限を置き、必要な手順を整理する。数字のない計画は願望にすぎないと、何度も部下へ言ってきた。
だが、空の人生は事業ではない。
目的も期限も、賢司が置くものではなかった。
*
図書館を出ると、空は商店街へ向かった。
アーケードの屋根はところどころ透明な板へ替えられ、差し込む日差しが床に四角い模様を作っていた。閉まったままのシャッターが多く、かつての店名だけが看板に残っている。
それでも、魚屋の前には買い物客が集まり、総菜店からは揚げ物の匂いが漂っていた。
「ここでお昼を買います」
空が立ち止まったのは、小さなパン屋だった。
店先の看板には、焼きそばパン、コロッケパン、あんパンと手書きされている。
「海辺食堂じゃないんだ」
由美が言った。
「今日は行かないって言いました」
「分かってる。空さんがよく来るお店なのかなと思って」
「たまに来ます。高校の購買にも、ここのパンが入ってます」
店に入ると、五十代くらいの女性が奥から出てきた。
「あら、空ちゃん。今日は学校じゃないのね」
「日曜日です」
「そうだった。曜日が分からなくなっちゃうわ」
女性は笑い、由美と賢司を見た。
「こちらは?」
空の肩がわずかに動いた。
「東京から来た知り合いです」
「まあ、遠くから。ご親戚?」
「違います」
空の声がはっきりと響いた。
店内に一瞬、沈黙が落ちた。
女性は悪気がないことを示すように笑った。
「ごめんなさいね。空ちゃんが大人の人と一緒にいるから、ご両親かと思って」
「違います」
空はもう一度言った。
「私たちは、空さんの知人です」
賢司が言葉を添えた。
「今日は町を案内してもらっています」
「そうだったの。空ちゃん、しっかり案内してあげてね」
「はい」
空は棚へ向き直り、パンを選び始めた。
由美は何も言わなかった。
表情は普段と変わらない。ただ、コートのポケットの中で、右手を強く握ったことに、隣にいた賢司だけが気づいた。
それぞれパンを買い、店を出た。
空はしばらく黙って歩いていた。
アーケードを抜け、海へ向かう道へ入ったところで、足を止める。
「さっきのこと、嫌でしたか」
空は由美ではなく、賢司に尋ねた。
「親戚か、ご両親かと聞かれたこと?」
「違うって言ったことです」
「嫌ではなかった」
「本当に?」
「少し驚いた。でも、空さんが違うと思っているなら、違うと答えるのが正しい」
「由美さんは?」
由美は、すぐには答えなかった。
その沈黙に空の表情が強張る。
「少しだけ、寂しいと思った」
由美は言った。
「由美」
「でも、それは空さんが悪いわけじゃない。私は自分が望んでいることを、まだ完全には整理できていないから。空さんに違う呼び方をしてほしいとは思ってない」
「本当に、少しだけですか」
「もう少し寂しかったかもしれない」
空は黙った。
「ごめんなさい」
「由美、すぐ謝るな」
賢司が言う。
「だって」
「空さんは、謝ってほしいと言ってない」
由美は口を閉じた。
空は二人を見比べた。
「夫婦で止めるんですね」
「由美が謝りすぎるから」
「賢司は説明しすぎるでしょう」
「それは認める」
空の肩から、少し力が抜けた。
「私、二人が何なのか、まだ分からないんです」
「うん」
「親戚じゃないし、家族でもないし。友達っていうのも変だし」
「知り合いでいいよ」
賢司が言った。
「東京の、がつくんですね」
「遠いからね」
「もし私が東京へ行ったら、東京の知り合いじゃなくなる?」
「東京にいる知り合いになる」
「同じじゃないですか」
「そうだな」
空が笑った。
賢司は、正しい答えを探すのをやめた。
今はそれでよいのだと思った。
*
海沿いの公園には、木製のベンチと屋根のついた休憩所があった。
正面には防波堤が伸び、その向こうで海が光っている。風は強かったが、日差しの下にいれば寒くはない。
四人は休憩所のテーブルを囲み、買ってきたパンを広げた。
空はコロッケパンと小さな牛乳。恵は野菜サンド。由美はあんパンとコーヒー。賢司は焼きそばパンを選んでいた。
「賢司さん、そういうの食べるんですね」
空が言った。
「どういう意味?」
「もっと、健康に気をつけてるものを食べるのかと思いました」
「会社では弁当が多いけど、焼きそばパンも食べる」
「由美さんが作るんですか、お弁当」
「自分で作る日もある」
賢司が答えると、由美が首を傾げた。
「冷凍食品を入れて、ごはんを詰めるだけでしょう」
「それも弁当だ」
「卵焼きは?」
「作らない」
「炒り卵になるから?」
空が尋ねた。
「その話、まだ覚えてたのか」
「聞いたことは、わりと覚えてます」
空はコロッケパンを一口食べた。
風が吹くたび、紙袋が飛ばされそうになる。賢司は自分の携帯電話を袋の上へ載せた。
「ここにはよく来るの?」
由美が海を見ながら尋ねた。
「たまに」
「一人で?」
「莉子と来ることもあります。バイトのあと、一人で座ってることもある」
「海、好き?」
空はすぐには答えなかった。
「好きな日と、嫌いな日があります」
「どう違うの?」
「風が強い日は嫌いです。髪がぐちゃぐちゃになるし。夏は観光客が多くて落ち着かない。でも、誰もいない朝は好きです」
「朝も来るの?」
「眠れないときだけです。もちろん、長谷川さんたちに言ってから」
最後の一言は、賢司が心配する前に付け加えたようだった。
「僕はまだ何も言ってない」
「言いそうな顔してたから」
「そんなに顔に出るかな」
「二人とも出ます」
空は牛乳の容器を両手で包んだ。
「小さいころは、海の音が怖かったです」
由美も賢司も、言葉を挟まなかった。
「夜でもずっと聞こえるから。何か大きいものが、近くで息をしてるみたいで」
空は海を見たまま続けた。
「空、海が建物を壊しに来るって言ってたよね」
恵が懐かしそうに言った。
「そんなこと言ってません」
「言ったよ。風の強い夜に眠れなくて、廊下に出てきたの」
「言ってません」
「それで二人で窓から海を見た。ここまでは来ないから大丈夫って話したでしょう」
空は不満そうに恵を見た。
「長谷川さんも、絶対とは言わなかったです」
「そこまで覚えてるの?」
「聞いたことは覚えてるって言ってるでしょう」
「そのころから、絶対って言葉を信用してなかったのかもしれないね」
恵の言葉に、空は返事をしなかった。
「今は、海の音は怖くない?」
由美が尋ねた。
「すぐには平気になりませんでした。でも、毎日聞いてるうちに慣れました」
「今は?」
「眠れないとき、波の音を聞くと、まだ夜なんだって分かります」
「まだ夜?」
「朝になると、漁船の音がするから」
空はそれだけ言い、牛乳を飲んだ。
沈黙が落ちた。
気まずい沈黙ではなかった。波が防波堤へ当たる音と、遠くを走る車の音が、言葉の空いた場所を満たしている。
やがて空が、潰しかけていた牛乳の容器から手を離した。
「二人は、私の両親のことを聞きたいですか」
賢司は由美を見た。
由美も答えを迷っているようだった。
「知りたい気持ちはある」
賢司は言った。
「でも、空さんが話したくないなら聞かない」
「私も知らないんです」
空の声は平坦だった。
「顔も声も覚えてません。どんな人だったのかも、二人がどういう関係だったのかも知りません。私には、両親との思い出が一つもないんです」
賢司は言葉を失った。
空が施設で暮らしていることは知っていた。両親と暮らせない事情があるのだろうとも考えていた。
だが、その事情を勝手に想像しないよう努める一方で、心のどこかでは、空にも両親との記憶があるものと思い込んでいた。
知らないという状態を、賢司は理解していなかった。
「学校で、親の仕事を聞かれることがあります」
空が続けた。
「緊急連絡先を書く紙もあるし、小さいころは家族の絵を描く授業もありました。先生が気をつけてくれることもあるけど、全部を避けられるわけじゃないから」
「そうだね」
由美が静かに答えた。
「両親に会いたいかって聞かれることもあります。でも、知らない人に会いたいかって聞かれても、分かりません」
「会いたいとも、会いたくないとも言えない?」
「はい。どちらか答えないといけないように聞かれるのが嫌です」
「今、僕たちも同じことをしたね」
賢司は言った。
「両親の話を聞きたいと言った」
「私は、聞きたいかって尋ねました」
「それでも、知りたいと答えたことで、話さなければいけないと思わせたかもしれない」
「少しは」
「ごめんなさい」
空は賢司を見た。
「賢司さんも謝るんですね」
「謝ります」
「由美さんほどじゃないけど」
「比べなくていい」
由美が口を挟む。
空は海へ顔を戻した。
「私は、両親を知らないことを、いつも悲しいと思ってるわけじゃありません」
「うん」
「最初から知らないから、思い出して寂しくなることもないです。莉子が家族から電話をもらってると、いいなと思うことはあるけど、それも毎回じゃない」
空は言葉を選びながら続けた。
「かわいそうだって言われると、何をかわいそうだと思われてるのか分からなくなります。知らないことなのか、施設にいることなのか、家族がいないことなのか」
「僕たちも、最初はそう思っていたかもしれない」
賢司は認めた。
「空さんが施設で暮らしていると聞いて、何か足りないものがあるように考えた」
「今は違うんですか」
「若葉ホームにいる人たちや、この町での暮らしを見ないまま、足りないと決めるのは違うと思ってる。今日も、僕たちが知らなかった場所をたくさん教えてもらった」
「でも、家族はいません」
「そうだね」
賢司はその事実を別の言葉で薄めなかった。
「家族がいないことを、空さんがつらいと思う日もあるかもしれない。でも、僕たちが勝手にその場所へ入って、足りないものを埋めたと思うことはできない」
「家族になりたいと思ってないんですか」
空の問いに、由美の肩が動いた。
賢司はすぐに答えられなかった。
なりたいとも、なりたくないとも、簡単には言えない。
「今の僕たちが、そう言うのは早いと思う」
「どうして?」
「空さんが僕たちを家族だと思っていないから。それに、僕たちも、家族という言葉に何を求めているのか、まだ確かめている途中だから」
「子どもがほしかったんですよね」
「うん」
「私なら、子どもの代わりになると思いましたか」
「最初に空さんのことが気になったとき、そういう気持ちがまったくなかったとは言えない」
賢司は胸の奥にあるものを確かめながら言った。
「でも、空さんは十五歳まで自分の生活をしてきた。僕たちの知らない時間や、大切な人がいる。それを消して、最初から僕たちの子どもだったように扱うことはできない」
「したいとは思いませんか」
「そうだったらよかったのにと想像することはあるかもしれない。でも、それは現実ではない。空さんの過去を、僕たちの都合で作り替えることはできない」
空は賢司の顔を見つめた。
「難しいですね」
「難しいです」
「もっと簡単に、家族になろうって言う人もいると思います」
「そのほうが安心できる?」
「分かりません」
空は少し俯いた。
「何も知らない両親より、一度知った人がいなくなるほうが怖いと思うことがあります」
その言葉に、由美が息を止めた。
「若葉ホームには、実習やボランティアで来る人もいます。何度か遊んだり、話したりしても、決まった期間が終わると来なくなる。ちゃんと最後に挨拶してくれる人もいるけど、いつの間にか来なくなる人もいました」
「それで、途中でいなくなる人が嫌だと言ったの?」
由美が尋ねた。
「それだけじゃありません。学校の先生も替わるし、若葉ホームの職員も辞めることがあります。仕方ないって分かってます」
「分かっていても、嫌なものは嫌だよね」
「はい」
空は牛乳の空容器を指で折り畳んだ。
「二人が、絶対いなくならないって言わなかったのは、よかったです。でも、本当は、言ってほしかった気もします」
賢司は胸の奥に痛みを感じた。
空が欲しい言葉は分かっている。
何があってもいなくならない。
ずっとそばにいる。
言えば、今だけは安心させられるかもしれない。だが、その言葉を守れるかどうかは、誰にも保証できない。
「今も、絶対とは言えない」
賢司は言った。
「はい」
「でも、次の約束は守る。会うと決めた日は来る。来られない事情ができたら、黙らずに説明する。一回ずつなら約束できる」
「一回ずつ?」
「今日来ることは約束できた。そして今、ここにいる。次に会うと決まったら、その約束を守る。それを積み重ねるしかないと思う」
「何回積み重ねたら、いなくならないって分かるんですか」
「分からない」
「やっぱり安心させるのが下手です」
「そうだね」
空は少し笑った。
「でも、前よりはましです」
「ありがとう」
「褒めてません」
「分かっています」
食べ終えたパンの袋を畳み、空は近くのごみ箱へ捨てに行った。
由美が海を見たまま言った。
「賢司、あれでよかったのかな」
「分からない」
「絶対とは言えないって、何度も言う必要ある?」
「言ってほしい気もすると言われたときは、迷った」
「私も」
「でも、今言えること以上の約束はできない」
「うん」
空が戻ってきたため、二人は話を止めた。
「何を話してたんですか」
「賢司の答えでよかったのかって」
由美が答える。
「私に聞かないんですか」
「聞いていい?」
「今日は、それでいいです」
空はベンチへ座り直した。
「今日は?」
「次に同じことを聞くかもしれないから」
「何度でも聞いていい」
由美が言った。
「答えが変わってたら?」
「変わった理由を話す」
「理由を言えば、変わってもいいんですか」
「よくないこともあると思う。でも、変わっていないふりをするよりはいい」
空はしばらく考えたあと、鞄から一枚の写真を取り出した。
「これ、黒板です」
海辺食堂の入口に置かれた黒板の写真だった。
中央に「秋鯖の塩焼き定食」と大きく書かれ、文字のすぐ下に値段がある。左側には焼き魚の絵が添えられ、右下には小さく「数量限定」と書かれていた。
「二枚目の案にしたんだ」
由美が写真を受け取った。
「説明は減らしました。料理名と値段も近づけました」
「見やすい。数量限定も目立ちすぎていないから、料理名の邪魔をしてないね」
「浜田さんは、もっと大きく書けって言いました」
「何を一番伝えたいかで変わるよ。早く注文してほしいなら、数量限定を大きくする方法もある」
「前と言ってることが違いませんか」
「置く場所と目的で変わるって言ったでしょう」
「正解がないんですね」
「ないことも多いよ」
空は写真を返してもらい、鞄へしまった。
「仕事って、そういうものですか」
「由美の仕事は、そうなんじゃないか」
賢司が答える。
「賢司さんの仕事は、正解がありますか」
「数字だけなら、正解があるように見える。でも、どの数字を重く見るかで結論は変わる」
「じゃあ、賢司さんも正解がないんですか」
「最善と思えるものを選ぶだけです」
「間違えたら?」
「修正する」
「人のことも?」
空の問いに、賢司は黙った。
自分の資料から初期費用が抜けていれば、数字を足せばよい。売上予測が外れれば、前提を見直せる。
人との関係は、同じようにはいかない。
一度口にした言葉は、表の数字のように消せない。誰かを傷つけてから訂正しても、傷つける前には戻らない。
「簡単には修正できないと思う」
賢司は答えた。
「だから、決める前に確認する。間違えたら謝って、できることを考える。それでも元に戻らないことはある」
「賢司さんも謝るんですね」
「謝ります」
「由美さんばっかりかと思ってました」
「僕も謝るよ」
「この前、資料から初期費用が抜けてたときは、申し訳ないって言ってました」
「よく覚えてるな」
「聞いたことは覚えてます」
空は同じ言葉を繰り返し、今度ははっきり笑った。
*
公園を出たあと、空は海沿いの遊歩道を北へ歩いた。
観光客向けの土産物店を通り過ぎ、漁港の近くまで来ると、人の姿が少なくなった。岸壁には小さな漁船が係留され、縄や籠が積まれている。
「ここから先は、入っちゃ駄目です」
空が黄色い柵を指した。
「作業する人の邪魔になるから」
「空さんは入ったことあるの?」
由美が尋ねる。
「ありません。浜田さんに何度も言われてます」
「賢司も入りそうだから、言っておいて」
「入らないよ」
「珍しい機械があったら見に行きそう」
「仕事と関係ない」
「そういう問題?」
空が二人の間に入り、柵から離れるよう手で示した。
「二人とも、こっちです」
遊歩道の先には、小さな展望台があった。
階段を上ると、町全体を見渡せた。海沿いに連なる家々、その向こうに駅と図書館の屋根がある。遠くの丘の上には、高校の建物が見えた。
「あれが高校です」
空が指した。
「通学は電車?」
「自転車です。雨の日はバス」
「バスは一時間に何本?」
賢司が尋ねる。
「また計算するんですか」
「通学が大変なのかと思って」
「朝は二本あります。帰りは部活が終わる時間に一本」
「乗り遅れたら?」
「図書館で待つか、歩きます」
「高校から若葉ホームまで?」
「四十分くらいです」
「夜は危ない」
「賢司」
由美が止める。
「でも、暗い道もあるだろう」
「長谷川さんたちが迎えに来ることもあります」
空が答えた。
「毎回じゃないですけど」
「一人で帰ることも?」
「あります」
賢司は、街灯の位置や人通りを確認したい衝動に駆られた。
空が呆れたように見ている。
「また何か考えてますね」
「帰り道のこと」
「私、今までちゃんと帰ってます」
「今まで大丈夫でも、これからも――」
「階段と同じ話です」
「そうだね」
賢司は言葉を止めた。
心配すること自体が悪いわけではない。だが、心配を理由に空の行動を制限する権利はない。
「心配してくれるのは、嫌じゃないです」
空が言った。
「でも、知らないことを全部危ないって言われると、嫌です」
「分かった」
「本当に?」
「知らないことは、まず聞くようにする」
「聞かれたくないこともあります」
「そのときは答えなくていい」
「面倒ですね」
「空さんも、同じことを何度も確認するね」
賢司が言うと、空は驚いた顔をした。
言いすぎたかと思ったが、空は怒らなかった。
「だって、二人が本当に覚えてるか分からないから」
「聞いたことは、わりと覚えています」
賢司は空の言葉を借りた。
空が目を細める。
「それ、私の言葉です」
「覚えていたから使った」
「そういう使い方じゃありません」
「違った?」
「少し違います」
由美と恵が笑った。
空も口元を隠すように海へ顔を向けた。
展望台から下りる前に、空は鞄から折り畳んだ紙を取り出した。
「これ、二人に」
賢司は受け取る前に恵を見た。
「受け取って大丈夫です」
恵がうなずいた。
「空が自分で渡したいと言ったものです」
由美が紙を受け取った。
開くと、駅から図書館、商店街、公園、展望台までの道が描かれていた。曲がり角には目印となる店や建物が書き添えられている。
端には、小さな文字で注意書きがあった。
〈神社の階段は雨の日に滑る〉
〈パン屋の前は自転車が多い〉
〈海辺は風が強い〉
〈地図を見すぎない〉
最後の一文を見て、賢司は空を見た。
「これは僕に向けて?」
「二人にです」
「由美は地図を見てない」
「由美さんは、周りを見ないで先に歩きそうだから」
「否定できない」
由美は地図を丁寧に畳み、肩に掛けた鞄へ入れた。
持ち手の付け根には、赤い糸で縫い直した跡がある。
空がその部分を見つめた。
「そこ、直したんですか」
「うん。前にほつれて、自分で縫ったの」
「赤い糸で?」
「これしかなかったから。目立つよね」
「別に。ちゃんと縫えてます」
「近くで見ると曲がってるよ」
空は自分の鞄からペンケースを取り出した。
角の部分が青い糸で補修されている。
「私も、ここを直しました」
「きれいに縫えてる」
「家庭科で習ったから」
「私より上手だね」
「由美さんは、糸の色を合わせなかったから目立つだけです」
「でも、赤いのも悪くないでしょう」
「悪くないです。どこを直したか、すぐ分かるから」
空はペンケースを鞄へ戻した。
由美も、地図を入れた鞄の口を閉じる。
赤い糸と青い糸。
色は違い、縫い目の形も違う。
それでも、どちらも一度ほつれた場所を隠さず、今も使い続けるために縫われていた。
*
駅へ戻ったのは、予定より十分早い二時二十分だった。
歩き慣れた空が時間を見ながら道を選んでいたため、遅れることはなかった。
ロータリーの端で、四人は足を止めた。
「今日はありがとうございました」
空が言った。
「こちらこそ、案内してくれてありがとう」
由美が答える。
「町、どうでしたか」
「前に来たときより、ずっと広く感じた」
「広くはないです」
「道の広さじゃなくて。図書館も、神社も、パン屋も、公園も、前は知らなかったから」
「観光する場所じゃないですけど」
「空さんが普段見ている場所を歩けてよかった」
由美の言葉に、空は小さくうなずいた。
「賢司さんは?」
「海辺食堂と潮路だけで、この町を知ったつもりになっていたと分かりました」
「二つしか行ってないのに?」
「そうだね」
「それに、地図を見ても分からない道がありました」
「神社の近道?」
「それも。空さんにとって大事な場所は、普通の地図には書かれていないから」
空は不思議そうに賢司を見た。
「今日もらった地図には書いてあるだろうけど、図書館のどの席に座るか、海の音をどう聞いているかまでは、普通の地図には載っていない」
「全部書いたら、地図じゃなくなります」
「そうだね」
「賢司さん、たまに難しいこと言います」
「由美には、いつも理屈っぽいと言われる」
「それは分かります」
「まだ三回しか会ってないのに?」
由美と同じ問いを返すと、空は笑った。
「三回会えば、少しは分かります」
少し。
その言葉が、賢司にはちょうどよく思えた。
「次のことは、また長谷川さんたちと話して決めます」
空が言った。
「分かりました」
「二人は、また会いたいですか」
「会いたい」
由美が即答した。
空が賢司を見る。
「僕も会いたいです」
「そうですか」
「でも、空さんが考えてからでいい」
「もう少し考えます」
「うん」
空と恵が駅の改札へ向かう。
数歩進んだところで、空が振り返った。
「次に会うなら、私から質問があります」
「どんな?」
由美が尋ねる。
「それは次に聞きます」
空はそれだけ言い、恵と並んで改札の向こうへ消えた。
賢司は、どんな質問か考え始めた。
進学のことか。東京での暮らしか。二人の家のことか。里親制度についてか。
「考えない」
由美が隣で言った。
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「何を聞かれるかくらい、考えてもいいだろう」
「先に答えを用意したら、空さんが本当に聞きたいことを聞けなくなるよ」
「何も準備しないわけには」
「質問を聞いてから考えればいい」
賢司は改札を見た。
空の姿はもうなかった。
「そうだな」
二人は駐車場へ向かった。
車へ戻ると、由美は鞄から空の地図を取り出し、もう一度開いた。
「曲がり角が分かりやすいね」
「縮尺は合ってないけど」
「そこを指摘する?」
「地図として見れば」
「空さんが聞いたら怒るよ」
「分かってる。本人には言わない」
賢司は地図の端に書かれた〈地図を見すぎない〉という文字を見た。
「これ、家に持って帰っていいんだよな」
「そのためにくれたんでしょう」
「個人的な情報は書かれていない?」
「若葉ホームも学校名も入ってない。相沢さんたちが確認してるよ」
「そうか」
由美は地図を元どおり畳んだ。
「使っていない部屋に置こうか」
賢司は一瞬、返事ができなかった。
自宅の三つ目の部屋。かつて子ども部屋にしようと考え、今は段ボールや季節外れの物を置いている部屋。
「どうして、あの部屋に?」
「地図を広げて保管できるから」
「空さんの部屋にするみたいにならないか」
由美は自分の言葉に気づき、地図を見下ろした。
「そうだね。今はやめよう」
「リビングの引き出しでいいんじゃないか」
「うん。二人が使うものだから」
由美は地図を鞄へ戻した。
賢司はエンジンをかけた。
駐車場を出るとき、無意識にカーナビの案内を見た。画面には、東京までの道が青い線で示されている。
右折まで二百メートル。
その先は道なり。
目的地までの到着予定時刻も表示されていた。
それでも賢司は、今日歩いた神社の石段も、空が座る図書館の窓際も、海の音を聞く公園のベンチも、画面の中にはないことを知っていた。
「賢司、次の角、右だよ」
由美が言った。
「分かってる」
「今、通り過ぎそうだった」
「カーナビを見ていたから」
「空さんの注意書き、もう忘れたの?」
賢司は苦笑し、交差点を右へ曲がった。
次の約束はまだない。
次に何を聞かれるのかも分からない。
それでも、急いで答えを用意する必要はなかった。
一度ずつ会い、その日の約束を守る。
知ったつもりにならず、分からないことを聞く。
今の賢司にできるのは、それだけだった。
助手席では、由美が赤い糸で直した鞄を膝に載せている。その中には、空が描いた一枚の地図が入っていた。
海の町から東京へ戻る道を、車はゆっくりと走り始めた。




