第十一章 扉の手前
空が次の質問を口にしたのは、町を案内してもらった日から二週間後だった。
場所は、最初の面会にも使われた子ども家庭支援センターの面会室だった。空の隣には恵が座り、由美と賢司の間には、何も置かれていない椅子が一脚あった。
窓の外では、冬を前にした風が植え込みを揺らしている。曇った空から差す光は弱く、午後三時を過ぎたばかりなのに、部屋の中はもう夕方のように薄暗かった。
「この前、次に会ったら質問があるって言ったの、覚えてますか」
空が尋ねた。
「覚えてる」
由美が答える。
「賢司は、何を聞かれるかずっと考えてたみたいだけど」
「ずっとではない」
賢司が言う。
「最初の三日くらい」
「十分、長いでしょう」
空は少し笑った。
「何だと思いましたか」
「進学のことか、東京での暮らしのこと。あとは、僕たちとの関係をどう考えているか」
「三つも考えたんですか」
「ほかにも少し」
「賢司」
由美が止めると、賢司は口を閉じた。
空は二人の顔を見比べたあと、膝の上で両手を組んだ。
「二人の家を見てみたいです」
由美は、聞き間違えたのかと思った。
「家?」
「はい」
「私たちの?」
「ほかに誰の家があるんですか」
「そうだけど」
胸の奥から喜びが込み上げた。すぐに「来て」と言いそうになり、由美は唇を結んだ。
隣の賢司も黙っている。由美と同じように、言葉を選んでいるのだろう。
「どうして見たいと思ったの?」
由美は尋ねた。
「私の町は、二人に見せたからです」
「同じように、私たちが暮らしている場所を知りたい?」
「それもあります」
「ほかには?」
空は机の表面を見つめた。
「前に、使っていない部屋があるって言ってましたよね」
由美の胸にあった喜びが、別の緊張へ変わった。
「覚えてたんだ」
「聞いたことは覚えてます」
空は何度か口にした言葉を、今日も繰り返した。
「子ども部屋にするつもりだった部屋が、今も残ってるって」
「うん」
「本当に何も変えてないのか、見てみたいです」
由美は、すぐには答えられなかった。
使っていない部屋にあるものを思い浮かべる。
季節外れの布団。古い旅行鞄。賢司が処分できずにいる仕事関係の資料。読まなくなった本を詰めた段ボール。壁際の小さな棚には、かつて由美が買い集めた児童書が並んでいる。
空のために準備したものは何もない。
それでも、空が部屋を見たとき、どう感じるかは分からなかった。
「見て、どうしたいの?」
由美が尋ねると、空の眉がわずかに動いた。
「見たいだけじゃ駄目ですか」
「駄目じゃない。理由を知りたかっただけ」
「私が行く前に、二人が部屋を作ってたら嫌だから」
その言葉は、迷いなく由美の胸へ刺さった。
「作ってないよ」
「だから、自分で見たいんです」
「疑ってる?」
聞いた瞬間、恵が由美を見た。
空はしばらく黙っていた。
「少しは」
由美は自分の膝へ視線を落とした。
「そうだよね」
「嫌ですか」
「信用してもらえてないことは、少し寂しい。でも、空さんが疑う理由は分かる」
「私、由美さんを傷つけることばっかり言ってる気がします」
「そう思わせたなら、ごめん」
「また謝りました」
「これは謝っていいところでしょう」
空は困ったように恵を見た。
恵は口を挟まず、小さく笑っている。
「僕たちだけでは決められない」
賢司が言った。
「空さんを家へ招きたい気持ちはあります。でも、今の関わり方では、支援センターと若葉ホームの確認が必要です。長谷川さんにも一緒に来てもらうことになると思う」
「二人きりで行くつもりはありません」
「うん」
「断られることもありますか」
「あるかもしれない」
「二人が嫌だから?」
「そうではなく、安全に訪問できるか確認するためです」
「部屋が汚いとか?」
「それも確認されるかもしれない」
賢司の答えに、由美は思わず彼を見た。
「汚くはないでしょう」
「使っていない部屋には段ボールがある」
「あれは、あなたの資料が多いから」
「由美の本もある」
「今、それを空さんの前で言い合う?」
「聞かれたから答えただけだ」
空が笑った。
「汚いなら、少し安心します」
「どうして?」
由美が尋ねる。
「私が来るために、何でもきれいにして待ってるほうが怖いから」
「掃除くらいはするよ」
「普通の掃除ならいいです。私の好きそうなものを置くとか、新しいベッドを買うとかは、やめてください」
「しない」
由美は答えた。
空のための部屋を用意する光景を、一度も想像したことがないとは言えない。だが今、その想像が空にとってどれほど重いものになるか分かった。
「使っていない部屋だけじゃなくて、台所とか、リビングも見たいです」
「もちろん」
「賢司さんが、本当に自分でお弁当を作ってるのかも」
「それは家を見ても分からない」
「台所を見れば、料理してるかは分かります」
「電子レンジしか使ってないって、ばれるね」
由美が言うと、賢司は不満そうな顔をした。
「包丁も使う」
「何を切るの?」
「冷凍食品の袋」
「それは包丁で切らないで」
空が吹き出した。
すぐに笑いを収めようとしたが、恵まで笑ったため、諦めたように口元を緩めた。
「家を見たいという希望は、私から相沢さんへ伝えるね」
恵が言った。
「実現できるかは、二人の家を確認してから決まると思う。空も、その間に本当に行きたいか、もう一度考えて」
「行きたいって言ったのに?」
「一度決めても、気持ちが変わっていいから」
「二人は、変わったら嫌ですか」
「残念には思う」
由美は正直に答えた。
「でも、無理に来てもらうほうが嫌」
「分かりました」
空はうなずいた。
「あと、行けることになっても、泊まりません」
「うん」
「自分の服とか、歯ブラシとかも持っていきません」
「日帰りなら必要ないね」
「帰りたくなったら、すぐ帰ります」
「分かった」
「使っていない部屋を見ても、そこを私の部屋にするとは決めません」
「もちろん」
「お昼を食べても、家族になったことにはなりません」
「ならないよ」
由美が一つずつ答えると、空の肩から少しずつ力が抜けていった。
空は、家へ行くことより、行ったあとに何を期待されるのかを恐れている。
玄関を一度またいだだけで、帰る場所を選んだことにされたくない。食卓を囲んだだけで、家族という役を与えられたくない。
「私たちは、空さんが家に来たからといって、何かを決めたことにはしない」
賢司が言った。
「空さんが僕たちの家を見て、僕たちも空さんが家の中でどう感じるかを知る。それだけです」
「賢司さんは、家の中でも計画表を作るんですか」
「作りません」
「本当に?」
「来る時間と帰る時間くらいは決める」
「それは必要です」
「食事の時間も」
「それも必要です」
「見る部屋の順番は?」
「それはいりません」
空が即答した。
「分かりました」
「今、少し残念そうでした」
「そんなことはありません」
「顔に出てます」
由美は、賢司が反論する前に笑った。
*
面会の翌週、相沢から電話が入った。
空の自宅訪問を検討するため、朝倉家の生活環境を確認したいという。由美と賢司は、翌週の土曜日に相沢を迎えることになった。
電話を切った直後から、由美は室内を見回した。
リビングの雑誌。ダイニングテーブルの郵便物。ソファの背に掛けたままのカーディガン。洗面所の棚に並ぶ化粧品。玄関に出したままの靴。
普段の暮らしを見てもらうはずなのに、急にすべてがだらしなく見える。
由美は雑誌をまとめ、郵便物を仕分けし始めた。
「何をしてる?」
賢司が尋ねた。
「片づけ」
「来週だろう」
「一週間しかない」
「普段どおりでいいと言われたじゃないか」
「普段どおりでも、最低限の片づけは必要でしょう」
「普段は郵便物が散らばってるのか」
「昨日、あなたが置いたんでしょう」
「僕宛てのものだけじゃない」
「そういう話をしてるんじゃない」
由美は封筒を種類ごとに分け、引き出しへ入れた。
賢司は廊下の奥にある使っていない部屋へ向かった。
「ここも片づける必要があるな」
「何をするつもり?」
「段ボールを減らす。床が見えないところもあるから」
「空さんは、きれいにしすぎないでって言ってた」
「安全に歩けるようにするのは別だろう」
「でも、全部なくしたら、空さんが来るために部屋を空けたように見える」
「では、どこまで残す?」
「私に聞かれても」
由美は部屋の入口に立った。
六畳ほどの洋室には、二人が長年、決められないまま置いてきたものが積まれている。
窓際には古いスーツケース。壁際には本の入った段ボールが三箱。折り畳んだ客用布団。壊れてはいないが使わなくなった小型の扇風機。賢司のゴルフバッグまである。
「これは物置だな」
賢司が言った。
「前から物置だよ」
「空さんに見せていい状態ではない」
「見せたくない状態、じゃなくて?」
「同じだろう」
「違う。危ないから片づけるのか、私たちがよく見られたいから片づけるのかで変わる」
「両方ある」
賢司は正直に答えた。
「支援センターの人に、管理のできない家だと思われたくない」
「私も」
由美は認めた。
「空さんに、だらしないと思われたくない」
「それも同じだ」
「でも、空さんは本当の家を見たいんだと思う」
「本当の家でも、来客前には掃除するだろう」
「そうだけど」
どこまでが普通の掃除で、どこからが空のための舞台を作ることになるのか、由美には分からなかった。
賢司は床に置かれた段ボールを一つ持ち上げた。
「少なくとも、足元のものは移動する。窓を開けられるようにする。捨てるかどうかは別として、積み直す」
「うん」
「家具は買わない」
「もちろん」
「カーテンも替えない」
「古いけど、汚れてはいないからね」
「児童書は?」
賢司が壁際の小さな棚を見た。
由美は返事をしなかった。
棚には、子どもを望んでいたころに買った本が並んでいる。
いつか読み聞かせるかもしれないと思って選んだ絵本。妊娠した友人から勧められた図鑑。仕事で担当した児童書の見本。どれも新品に近く、角が擦れていない。
「隠す?」
賢司が尋ねた。
「隠したら、空さんに見せるために部屋を変えたことになる」
「そのままにする?」
「うん」
「聞かれたら?」
「本当のことを話す」
由美は棚の前へしゃがんだ。
一冊の絵本を引き抜く。柔らかな色で描かれた動物の親子が、表紙で寄り添っている。
買った当時は、この絵を眺めるだけで、自分にもいつか同じ時間が訪れるように思えた。
今は、表紙に描かれた親子を見ても、空の姿は浮かばなかった。
浮かべてはいけないのではない。
空は、その絵本の中に収まるような存在ではなかった。すでに自分の好みを持ち、自分で本を選び、自分の財布から代金を払う十五歳の少女だった。
「埃だけ拭こう」
由美は絵本を棚へ戻した。
「並べ替えもしない」
「分かった」
二人はその日、床へ置かれた荷物を壁際へ寄せ、窓までの通路を作った。
捨てたのは、空になった段ボール二箱と、壊れた延長コードだけだった。児童書も、古いカーテンも、畳んだ布団も、そのまま残した。
片づけが終わると、部屋は以前より広くなったが、誰かのための部屋には見えなかった。
「これでいいのかな」
由美が言った。
「相沢さんに見てもらえばいい」
「また答えを人に任せる」
「そのための確認だろう」
賢司は窓を閉めた。
*
相沢が訪ねてきたのは、翌週の土曜日、午後一時だった。
由美は玄関で迎え、スリッパを勧めた。来客用の新しいものを買うべきか迷ったが、結局、以前からある灰色のスリッパを洗って出した。
「普段の生活を確認するものなので、構えなくて大丈夫ですよ」
相沢はそう言ったが、由美の緊張は解けなかった。
リビングへ案内し、ダイニングテーブルで当日の条件を確認する。
「今回の訪問は、空さんが朝倉さんご夫妻の生活を知るための交流です。宿泊や委託を前提としたものではありません」
「承知しています」
賢司が答えた。
「空さんにも何度か説明しています。家へ行くことと、今後の生活の場を決めることは別です」
「はい」
「滞在は三時間程度。長谷川さんが最初から最後まで同席します。空さんが帰りたいと希望した場合は、予定より早くても終了します」
「私たちが引き留めてはいけないということですね」
「そうです。理由を尋ねすぎないことも大切です」
由美はうなずいた。
「食事は、空さんが一緒に作ってみたいそうです」
「一緒に?」
由美の声が弾んだ。
相沢はそれを見逃さなかった。
「由美さん」
「はい」
「楽しみにされるのは自然なことです。ただ、空さんが当日、作りたくないと言う可能性もあります」
「分かっています」
「一緒に作ることを予定にしても、守るべき約束にはしないでください」
「はい」
由美は返事をしながら、自分がすでに台所へ並ぶ三人の姿を想像していたことに気づいた。
空の隣で野菜を切る。賢司が不慣れな手つきで卵を割る。完成した料理を食卓へ並べる。
それはまだ起きていない。
起きないかもしれない。
「何を作るかは決まっていますか」
賢司が尋ねた。
「空さんは、普段のお昼ごはんがいいと言っています」
「普段の?」
「特別な料理ではなく、二人が休日に食べているものを知りたいそうです」
由美と賢司は顔を見合わせた。
「私たち、休日のお昼は別々のことも多いよね」
由美が言った。
「冷蔵庫にあるものを食べるか、外へ行くか」
「麺類が多い」
「賢司は冷凍うどんでしょう」
「由美はパンだけの日がある」
「空さんが来る日に、パン一つというわけにはいかないでしょう」
「それは特別な食事になるのでは?」
「普通でも、来客があれば少しは考えるよ」
二人のやり取りを、相沢は黙って聞いていた。
「空さんから、もう一つ希望がありました」
「何ですか」
「卵料理を作りたいそうです。賢司さんの卵焼きが、本当に炒り卵になるのか確かめたいと」
由美は思わず笑った。
賢司は真面目な顔で相沢を見た。
「本人がそう言ったんですか」
「はい」
「では、卵焼きを作ります」
「賢司が?」
「僕の卵焼きを確認したいんだろう」
「失敗する前提で来るんだよ」
「練習しておく」
「練習したら、普段どおりじゃなくなるでしょう」
「失敗するところを見せるために作るわけではない」
「また正解を出そうとしてる」
相沢が小さく笑った。
「練習するかどうかも、お二人で決めてください。ただし、上手にできても失敗しても、それを空さんとの関係の評価に結びつけないでくださいね」
「料理の出来で、ということですか」
「料理だけではありません。空さんが笑ったから訪問は成功、静かだったから失敗、という捉え方をしないでほしいということです」
由美は背筋を伸ばした。
「楽しかったかどうかを、確認してはいけないんですか」
「尋ねることはできます。ただ、楽しかったと言わせるような聞き方は避けてください。空さんが帰ったあとの振り返りは、長谷川さんたちが行います」
「私たちは聞けない?」
「次の面談で、空さんが話したいことを聞いてください。訪問直後は、お二人への遠慮が残っている可能性があります」
由美は、自分が玄関で「楽しかった?」と尋ねるところを想像した。
その問いに「いいえ」と答えるのは難しい。
「分かりました」
「それから、写真は撮らないでください。空さんが希望しても、今回は支援センターへ確認してからにしましょう」
「はい」
「近所の方へ、空さんの事情を説明する必要もありません。偶然会った場合は、知人が訪ねてきたとだけ伝えてください」
「分かりました」
「高価なものや現金を渡すこともしません」
賢司が言った。
「はい。交通費と食事については、事前に決めた方法で扱います」
条件の確認を終えると、相沢は室内を見て回った。
玄関、リビング、台所、洗面所、浴室。薬の保管場所や、ベランダの施錠も確認された。
由美は、採点されているような気持ちになった。
洗面台の水垢や、冷蔵庫に貼った古い予定表まで見られている気がする。だが相沢は、家の美しさではなく、空が安全に過ごし、必要なら一人になれる場所があるかを確かめているのだろう。
「空さんが途中で疲れた場合、どこで休んでもらいますか」
相沢が尋ねた。
「リビングのソファでしょうか」
由美が答える。
「一人になりたいと言った場合は?」
「使っていない部屋を使ってもらう?」
賢司が言った。
「でも、その部屋を見たいという希望がありますよね。そこで休むよう勧めると、空さんの部屋だという印象を与えませんか」
由美が指摘した。
「寝室は、もっと違うだろう」
「私の仕事部屋なら?」
由美はリビング脇の小部屋を指した。
仕事机と本棚が置かれ、扉を閉めれば廊下やリビングから姿が見えなくなる。
「空さんが選べるようにしておくのはどうでしょう」
相沢が言った。
「リビングに残る、由美さんの仕事部屋へ行く、予定を切り上げて帰る。選択肢を伝えてください」
「分かりました」
最後に、相沢は使っていない部屋へ入った。
由美と賢司が一週間前に片づけた通路を歩き、棚に並ぶ児童書を見た。
「この本は?」
「私が買ったものです」
由美は答えた。
「いつか子どもが生まれたら読みたいと思って。仕事で扱った見本も混じっています」
「空さんに見せるために置いたものではないんですね」
「違います。ずっと前からあります」
「空さんから尋ねられたら、今のように説明してください」
「はい」
相沢は室内を見回した。
「この部屋をどうするか、お二人の間で決めていますか」
「決めていません」
賢司が答えた。
「今は物置に近い状態です」
「空さんのために空ける予定は?」
「ありません」
由美は言った。
言葉にすると、胸のどこかが痛んだ。
空のための部屋を作らない。
それは、空を拒むことではない。空が求めていない役割を、先に用意しないためだった。
「今後、空さんとの関係が変わった場合は、そのときに本人を含めて考えます」
賢司が続けた。
「私たちだけでは決めません」
「それでよいと思います」
相沢は部屋を出た。
台所へ戻る途中、由美は食器棚の下段にある黄色い縁取りの皿を思い出した。
一度も子どもが使うことのなかった、小さな皿。
空が来る日に、あれを使ってはいけない。
隠す必要もない。だが、空のための皿として差し出すべきではなかった。あの皿は、由美と賢司が過去に抱いた願いのために買ったものだ。空がその願いを引き継ぐ理由はない。
「食器について聞いてもいいですか」
由美は自分から言った。
「どうぞ」
「子ども用に買った小さな皿が、一枚あります。ずっと使わずに残しているものです」
「空さんに使う予定ですか」
「いいえ。普通の食器を使います」
「それなら問題ありません」
「隠したほうがいいでしょうか」
「空さんが食器棚を開ければ、目に入る可能性はありますね。隠すことが不自然だと思うなら、そのままでよいのではないでしょうか。ただ、尋ねられたときに、空さんのために買ったものではないと説明できるようにしてください」
「はい」
相沢は、由美の気持ちを慰める言葉を口にしなかった。
それがありがたかった。
使われなかった皿にどんな思いが残っているかは、由美自身が引き受けるものだった。
*
相沢が帰ったあと、由美は食器棚を開けた。
下段の奥に、黄色い縁取りの小さな皿が重ねてある。
長いあいだ使っていないため、薄く埃がついていた。由美は皿を取り出し、水で洗った。
「使うのか」
賢司が尋ねた。
「使わない。でも、汚れたまま置いておく必要もないでしょう」
柔らかな布で水気を拭き、元の場所へ戻す。
「空さんが見つけたら、何て言う?」
「昔、私たちが子どもを望んでいたころに買ったと話す」
「それだけ?」
「空さんのためではないことも」
「傷つかないかな」
「分からない。でも、空さんのために買ったと嘘をつくよりいい」
「捨てる選択もある」
由美は皿を見つめた。
「今、空さんが来るから捨てたら、この皿と空さんを結びつけることになる気がする」
「残すのも同じじゃないか」
「そうかもしれない」
由美は食器棚の扉を閉じた。
「すぐに決めなくていいよ。これは私たちの過去のものだから、空さんとは別に考えたい」
「分かった」
夕食のあと、二人は訪問当日の昼食について話し合った。
卵焼き、ごはん、味噌汁。冷蔵庫にあるもので作れる、小さな昼食。
由美は副菜を何品か用意しようとしたが、賢司に止められた。
「普通の昼食がいいと言っていた」
「卵焼きと味噌汁だけじゃ寂しいでしょう」
「焼き魚を足す?」
「そうすると、定食みたいになるね」
「それでいいんじゃないか」
「空さんは海辺食堂で魚を食べ慣れてるよ」
「では、肉か」
「何が好きか聞く?」
「聞かれたことに答えるだけではなく、こういうときは尋ねてもいいだろう」
「そうだね」
二人は相沢を通して、食べられないものと昼食の希望を確認した。
二日後、返事が来た。
〈食物アレルギーはありません。昼食は、卵焼き、ごはん、味噌汁で十分とのことです。お二人が普段使っている食器で食べたいそうです〉
由美は文章を二度読んだ。
普段使っている食器。
空は、用意された特別な席ではなく、二人の生活の中にあるものを見ようとしている。
「副菜はいらないって」
由美が言うと、賢司は冷蔵庫を開けた。
「漬物くらいは普段も出す」
「そうだね」
「卵焼きの練習をする」
「本気?」
「普段使っている台所で、普段作っていないものを作るんだから、一度くらい試してもいいだろう」
「空さんは、失敗するのを見たいんじゃない?」
「それは空さんの都合だ」
賢司は卵を二つ取り出した。
「今日から作るの?」
「一回だけだ」
由美は止めずに見守った。
賢司はボウルへ卵を割り、箸で混ぜた。塩を入れすぎそうになったところで、由美が瓶を取り上げる。
「多い」
「まだ入れてない」
「手の角度で分かる」
「では、由美が入れて」
「それだと賢司が作ったことにならないでしょう」
「塩の量くらい教えてくれてもいいだろう」
「空さんに聞けばいいんじゃない?」
「当日、隣にいるなら聞く」
卵焼き器に卵液を流す。
火が強すぎたのか、端がすぐに固まり、中央はまだ液体のままだった。賢司は箸で巻こうとしたが、卵は途中で裂けた。
「火が強いよ」
「先に言ってくれ」
「自分で作るって言ったでしょう」
二度目の卵液を流し、破れた卵を包もうとする。形は次第に崩れ、最後には厚みのある炒り卵のようになった。
賢司は皿へ移し、しばらく見つめた。
「やっぱり炒り卵だね」
「味は卵焼きだ」
「空さんの言ったとおり」
由美は一切れ口へ入れた。
少し焦げ、塩が足りない。それでも食べられないほどではない。
「どう?」
「卵焼きではないけど、食べられる」
「次はできる」
「練習は一回だけじゃなかったの?」
賢司は答えず、崩れた卵を食べ始めた。
由美は笑いながら、自分の箸を伸ばした。
*
訪問の日は、十二月の第二土曜日に決まった。
空と恵は午前十時に町を出て、正午前に由美たちの最寄り駅へ到着する。駅で待ち合わせ、一緒にマンションへ向かう。滞在は三時間。午後三時には家を出て、駅まで見送る。
当日の朝、由美は六時に目を覚ました。
目覚まし時計が鳴る前だった。
隣では賢司が眠っている。由美は音を立てないようベッドを抜け、リビングへ向かった。
窓の外には、冬の東京が広がっている。低い建物の屋根は朝の光を受け、遠くの高層ビルは薄い霞に包まれていた。
由美はカーテンを開け、窓を少しだけ開いた。
冷たい空気が入り、暖房の効いた室内を撫でる。
空が、この景色を見る。
そう考えただけで、胸の奥が騒いだ。
由美はリビングを見回した。
クッションの位置を直しかけ、手を止める。昨日、普段の掃除は済ませた。これ以上整えれば、誰も暮らしていない展示室のようになってしまう。
ダイニングテーブルには、空からもらった町の地図を置かなかった。
持っていることを示したい気持ちはあった。大切にしていると伝えたかった。
しかし、それを見える場所へ飾れば、空に喜んでほしいという要求になる気がした。
地図は、普段どおりリビングの引き出しに入れてある。
使っていない部屋の扉も閉めたままにした。隠すためではない。空が見たいと言ったとき、自分で開けてもらうためだった。
台所へ行き、冷蔵庫を開ける。
卵、味噌、豆腐、葱、漬物。ごはんは炊く前である。すべて揃っていることを確認し、由美は冷蔵庫を閉じた。
「確認は一回でいいだろう」
背後から賢司の声がした。
「起きてたの?」
「冷蔵庫を三回も開ければ起きる」
「三回も開けてない」
「今ので三回目」
「見てたの?」
「音がした」
賢司は欠伸をし、コーヒーメーカーへ水を入れた。
「緊張してる?」
由美が尋ねる。
「してる」
「珍しく正直」
「嘘をつく理由がない」
「空さん、来てくれるかな」
「予定が変わったという連絡はない」
「そういう意味じゃなくて。駅まで来ても、やっぱり帰りたいって思うかもしれない」
「そのときは帰ってもらうしかない」
「残念じゃない?」
「残念だよ」
賢司はコーヒーメーカーのスイッチを押した。
「でも、残念だという顔をしないようにする」
「顔に出るよ、きっと」
「由美よりは出ない」
「私だって気をつける」
コーヒーの香りが広がった。
二人はいつものマグカップで飲み、いつものパンを焼いた。空が来る日だからといって、朝まで特別にする必要はない。
朝食後、賢司は卵焼き器を出して位置を確認した。
「もう置いておくの?」
「探す時間を減らすためだ」
「普段どおりの台所を見たいって言ってたでしょう」
「卵焼き器を出しておくくらいはいいだろう」
「戸棚に戻して」
「あとで使う」
「空さんが来るまで三時間あるよ」
賢司は不満そうに卵焼き器を戻した。
「由美こそ、冷蔵庫を何度も開けていた」
「もう開けない」
「約束できる?」
「そのくらいできる」
言いながら、由美は冷蔵庫の扉へ目を向けた。
賢司が笑った。
*
午前十一時四十分、二人は家を出た。
待ち合わせは正午だったが、駅まで歩けば十分ほどかかる。早すぎないよう、途中の公園で数分時間を調整した。
改札前へ着いたのは、約束の五分前だった。
掲示板に電車の到着が表示される。
由美は改札の向こうを見つめた。
「ずっと見てると、出てきにくいんじゃないか」
賢司が言った。
「どうして?」
「待ち構えているように見える」
「じゃあ、どこを見ればいいの」
「普通にしていればいい」
「普通って何?」
「携帯電話でも見ていれば」
「空さんが出てきたときに気づかなかったら失礼でしょう」
「では、そのままでいい」
「賢司も改札を見てるじゃない」
二人が小声で言い合っていると、改札の向こうに恵の姿が見えた。
その隣を空が歩いている。
空は紺色のコートを着て、肩に布製の鞄を掛けていた。旅行用の荷物はない。足元は履き慣れたスニーカーだった。
改札を通り、二人の前まで来る。
「こんにちは」
空が言った。
「こんにちは。遠いところ、お疲れさま」
由美は、来てくれてありがとうと言いそうになり、別の言葉を選んだ。
「電車、大丈夫だった?」
「座れました」
「疲れてない?」
「まだ家にも着いてません」
「そうだね」
恵が笑った。
「空、朝から少し緊張してるんです」
「長谷川さん」
「帰りたくなったら、いつでも言ってね」
由美が言うと、空はわずかに眉を寄せた。
「まだ来たばかりなのに、帰る話をするんですか」
「選べるようにしておいたほうがいいと思って」
「分かってます。今日は行きます」
四人は駅を出た。
由美と賢司が先頭に立たないよう気をつけながら、歩道を進む。空は見慣れない建物や店を眺め、ときどき立ち止まりそうになる。
「人、多いですね」
「今日は少ないほうだよ」
賢司が答える。
「これで?」
「平日の朝は、もっと多い」
「毎日、この駅を使うんですか」
「僕は使う。由美は別の路線」
「同じ家から違う駅へ行くんですか」
「歩く時間は少し変わるけど、どちらも使えるから」
「東京って、駅がたくさんありますね」
「路線も多いよ」
「迷いませんか」
「最初は迷った」
賢司が答えると、空は意外そうな顔をした。
「賢司さんでも?」
「僕を何だと思ってるんですか」
「地図が好きな人」
「好きというより、必要だから見る」
「見ても迷うんですね」
「地図と実際の出口が分かりにくい駅もある」
「それなら、私も迷いそう」
「そのときは、駅員に聞けばいい」
賢司が答えた。
「僕に電話してもいい、と言いそうになりました」
「言わないんですか」
「今は直接、電話できないから」
「そうですね」
空は前を向いた。
その声に失望があったのか、由美には分からなかった。
マンションが見えてきたところで、空の歩みが遅くなった。
「あれですか」
空が高層の建物を見上げた。
「うん」
「何階ですか」
「十二階」
「高いですね」
「エレベーターがあるから、上るのはすぐだよ」
「そういうことじゃなくて」
空は建物の上部を見つめた。
玄関前まで来ると、由美は自動扉の鍵を開けた。
「ここから先も、嫌になったら戻っていいからね」
「分かってます」
「由美、何度も言わなくていい」
「確認してるだけ」
「空さんは覚えてる」
「聞いたことは覚えてます」
空が同じ言葉を返した。
エレベーターの中では、四人ともあまり話さなかった。
階数を示す数字が、一つずつ上がっていく。
空は鏡張りの壁へ映る自分の姿を見たあと、閉じた扉へ視線を戻した。
十二階に着き、廊下へ出る。
由美は玄関の鍵を開けた。
扉を押しながら、胸の奥で何かが大きく鳴る。
空を迎えるための新しい靴も、子ども用のスリッパも用意していない。玄関にあるのは、由美と賢司が普段履いている靴と、相沢が確認した灰色の来客用スリッパだけだった。
「どうぞ」
由美はそれ以上の言葉を足さなかった。
空は開いた扉の前に立ち、室内を見た。
すぐには入らなかった。
由美も賢司も急かさず、恵も空の後ろで待った。
数秒後、空は小さく息を吸った。
「お邪魔します」
自分の意思で靴を脱ぎ、朝倉家の敷居をまたいだ。




