第十二章 誰のものでもない部屋
「お邪魔します」
空は自分の声が思っていたより小さかったことに気づいた。
玄関の内側には、黒い革靴と茶色のパンプスが一足ずつ並んでいた。壁際には傘立てがあり、透明な傘と紺色の折り畳み傘が収められている。
子どもの靴はなかった。
動物の絵がついたスリッパも、名前を書いた傘もない。
由美から灰色の来客用スリッパを渡され、空は靴を揃えてから履いた。足の大きさは少し合わず、歩くたび踵が浮いた。
「鞄は、ここへ置いてもいいし、持っていてもいいよ」
由美が廊下脇の棚を指した。
「持ってます」
「分かった」
由美はそれ以上勧めなかった。
空は鞄の持ち手を握ったまま、玄関から続く廊下を見た。
正面には閉じた扉が二つあり、奥から白い光が差している。空の暮らす若葉ホームとは、音の響き方が違った。
誰かが走る足音も、名前を呼ぶ声も、職員室の電話も聞こえない。暖房の動く微かな音と、四人のスリッパが床を擦る音だけがある。
「静かですね」
空が言うと、由美が振り返った。
「いつも、だいたいこんな感じ」
「隣の家の音も聞こえないんですか」
「廊下で誰かが話していれば少し聞こえるけど、部屋の中まではほとんど聞こえないよ」
「上の階の足音は?」
「たまに聞こえる」
「この前、椅子を引きずる音がしてた」
賢司が言った。
「あれは上からだったの?」
「たぶん」
「私は賢司が何か動かしてると思ってた」
「夜中に家具を動かさない」
「仕事部屋で椅子を引いたのかと」
「疑う前に聞けばいいだろう」
「二人でも、誰が出した音か分からないんですね」
空が言うと、由美は笑った。
「分からないこと、けっこうあるよ」
空はもう一度、廊下の奥を見た。
住宅の広告で見るような、何もかもが整った家を想像していた。床には埃一つなく、台所には高価な鍋が並び、空のための新しいスリッパが置かれている。
けれど玄関の隅には、賢司のものらしい靴べらが倒れていた。棚の上には、由美宛ての封筒が一通、開けられないまま置かれている。
誰かを迎えるための家ではなく、二人が暮らしている家だった。
「最初に、どこを見る?」
由美が尋ねた。
空は奥に並ぶ扉を見た。
「使っていない部屋です」
「今すぐ?」
「駄目ですか」
「駄目じゃないよ」
由美は一瞬だけ賢司を見た。
「こっち」
廊下の右側にある扉の前へ進む。
由美が取っ手へ手を伸ばしかけ、止めた。
「空さんが開ける?」
「私が?」
「見たいと言ったのは空さんだから。嫌なら私が開けるけど」
空は迷ったあと、取っ手を握った。
冷たい金属の感触が手のひらへ伝わる。
扉を押すと、カーテンの隙間から入った光が床を細く照らしていた。
部屋にはベッドがなかった。
壁紙も白いままで、机も箪笥もない。窓際には古い旅行鞄が置かれ、壁に沿って段ボールや布団が積まれている。隅には小さな扇風機とゴルフバッグがあった。
「本当に物置ですね」
「そうでしょう」
由美は安心したような、困ったような顔で答えた。
「少し片づけたんじゃなかった?」
恵が尋ねる。
「床に置いていたものを壁際へ寄せました。空さんが歩いて、転ばないように」
賢司が説明する。
「捨てたものは?」
「空の段ボールと壊れた延長コードだけです」
「カーテンも替えてない?」
空が窓を見た。
薄い灰色のカーテンは、端が少し色褪せている。
「替えてないよ」
由美が答える。
「壁も?」
「何もしてない」
「新しいものは?」
「置いてない」
空は室内へ入り、床の中央に立った。
自分のために用意されたものが一つもないことを確かめ、胸の奥に入っていた力がわずかに抜けた。
同時に、理由の分からない寂しさも感じた。
自分の部屋ではないと分かり、安心している。
それなのに、何もないことへ傷つきそうになる。
反対の気持ちが同時に生まれ、空は戸惑った。
「そこに本があります」
壁際の小さな棚を指した。
「見てもいい?」
「どうぞ」
棚には、絵本や児童書が並んでいた。背表紙は日焼けしておらず、何度も読まれたような傷もない。
空は一冊の絵本を抜き出した。
表紙には、森を歩く動物の親子が描かれている。
「これ、誰が読んだんですか」
「誰も読んでない」
由美が答えた。
「由美さんも?」
「私は買ったときに読んだよ。でも、子どもに読んだことはない」
「二人に子どもができたら読むつもりだった?」
「うん」
由美は空の隣へ来ず、扉の近くに立っていた。
「私が仕事で扱った見本もあるけど、自分で買った本もある。いつか使うと思って、残していました」
「捨てようと思わなかったんですか」
「何度か思った。でも、捨てれば、子どもがいなかったことまで片づけたように感じそうで」
「捨てても、いなかったことは変わらないですよ」
「そうだね」
「だったら、どうして?」
「捨てられなかったから、としか言えないかな」
由美は答えを整えなかった。
空は絵本の表紙を撫でた。
自分には、誰かから読み聞かせてもらった記憶がほとんどない。幼いころの記憶そのものが曖昧で、最初に読んだ本が何だったのかも覚えていなかった。
けれど、由美がその役をするために待っていたとは思わなかった。
この本が待っていたのは、名前も顔もない、由美が思い描いた子どもだ。空ではない。
「私に読んでほしいですか」
「いいえ」
由美ははっきり答えた。
「空さんが読みたい本なら読めばいい。でも、この本を読んでほしいとは思ってない」
「どうして?」
「空さんのために選んだ本ではないから」
「私が読みたいって言ったら?」
「もちろん、読んでいいよ」
「持って帰っても?」
由美はすぐに返事をせず、恵を見た。
「空が持ち帰りたいなら、今回については確認が必要かな」
恵が答える。
「借りたいなら、支援センターを通して相談しよう」
「面倒ですね」
「面倒でも、最初はそのほうがいいよ」
空は絵本を棚へ戻した。
「借りたいわけじゃありません。聞いただけです」
「うん」
由美は残念そうな顔をしなかった。
「もし私が、この部屋を使うって言ったら、全部片づけるんですか」
「空さんが使うことを、みんなで決めたらね」
「全部捨てる?」
「何を残して、何を動かすか、空さんと話して決める」
賢司が答えた。
「この本も?」
「空さんが要らないなら、別の場所へ移す。捨てるかどうかは、由美と僕で考える」
「壁の色は?」
「変えたい?」
「まだ私の部屋じゃありません」
「そうだった」
賢司はうなずいた。
「今は、誰の部屋なんですか」
空が尋ねる。
「誰の部屋でもない」
由美が答えた。
「私たちの家の一部ではあるけど、賢司の部屋でも、私の部屋でもない。物を置くために使ってるだけ」
「子ども部屋じゃないんですね」
「今は違う」
「私の部屋でもない」
「うん」
由美は寂しさを隠すような笑い方をしなかった。
空はもう一度、部屋を見回した。
窓までの通路だけが片づけられ、ほかの場所には二人の過去が積まれている。自分の好きな色も、読んでいる本も、欲しい家具も置かれていない。
空を閉じ込めるための部屋ではなかった。
だからこそ、入ってもすぐに出られる。
「もう大丈夫です」
空は廊下へ戻った。
由美は扉を閉める前に尋ねた。
「開けておく?」
「閉めてください」
「分かった」
扉が静かに閉じた。
*
次に案内されたのはリビングだった。
大きな窓の向こうに、東京の町が広がっている。高い建物の隙間を電車が走り、道路には車が絶えず行き交っていた。
町の展望台から見る景色とは違った。海は見えない。屋根や窓や看板が、遠くまで重なっている。
「高い」
空は窓へ近づいた。
「怖い?」
賢司が尋ねる。
「下を見なければ大丈夫です」
「ベランダには、私たちも一緒に出ることになってる」
「長谷川さんから聞いてます」
「無理に出なくていいよ」
「出たいです」
賢司が鍵を開け、四人でベランダへ出た。
冷たい風が吹き抜け、空の髪を持ち上げる。町の音は地上より遠く、車の走行音が一つの低い響きにまとまって聞こえた。
「あっちが由美の使う駅」
賢司が指した。
「向こうに見える高い建物の辺りが、僕の会社の方向です」
「会社も見えるんですか」
「建物までは見えない」
「地図があれば分かりますか」
「方角くらいなら」
「今日は地図を見ないんですか」
「空さんに注意されたから」
「覚えてたんですね」
「聞いたことは、わりと覚えています」
賢司が言うと、空は笑った。
由美はベランダの隅に置かれた鉢植えの土を指で確かめていた。
「枯れてるんですか」
空が尋ねる。
「冬だから葉が落ちただけ。春になれば、たぶん芽が出る」
「何の木?」
「ブルーベリー」
「実がなるんですか」
「去年は三粒」
「三粒だけ?」
「二人で分けられなくて、賢司が一粒、私が二粒食べた」
「どうして由美さんのほうが多いんですか」
「私が育ててるから」
「水をやり忘れることがあるだろう」
「賢司は気づいても、自分ではやらないでしょう」
「やると、量が多いと言われる」
「だからって、何もしない理由にはならないよ」
空は鉢植えを見下ろした。
「来年は四粒なるといいですね」
「空さんが来たときに実があったら、一粒食べる?」
由美が尋ねた。
「来年も来るって決まってません」
「あ」
由美の表情が曇った。
また先の予定へ自分を入れられた。
空はすぐに強く言いすぎたと思ったが、言葉を取り消せなかった。
「ごめん。来ることがあって、空さんも食べたいと思ったら、という意味」
「分かってます」
「でも、決めつけたよね」
「少しだけ」
「気をつける」
「はい」
気まずさが残った。
恵が室内へ戻るよう促し、四人はベランダを出た。
空は窓の外を振り返った。
来年の春、この鉢に葉が出るころ、自分は高校二年生になっている。由美と賢司に会い続けているかは分からない。
分からないことを、今から決めなくていい。
それでも、三粒しかならない実のうち一粒を勧められたことが、心のどこかに残った。
*
昼食を作る前に、空は洗面所で手を洗った。
歯ブラシは二本だけだった。青と白のコップが並び、棚の下には賢司の髭剃りが置かれている。誰かが来ることを想定して追加されたものはない。
台所へ戻ると、賢司が冷蔵庫から卵を出していた。
「卵焼き器、どこですか」
空が尋ねる。
「ここ」
賢司が流し台の下の戸棚を開けた。
「新しいですね」
「ほとんど使っていないから」
「練習したんでしょう」
「一回だけ」
「できましたか」
「食べられるものはできた」
「卵焼きは?」
「形にこだわる必要がある?」
「やっぱりできてないんですね」
空はジャケットを脱ぎ、由美から借りた灰色のエプロンを身につけた。新しいものではなく、由美が普段使っているらしい。ポケットの端に、薄い染みが残っている。
「空さんは卵焼きをお願いしていい?」
由美が尋ねた。
「賢司さんが作るんじゃないんですか」
「教えてもらえますか」
賢司が頭を下げた。
「浜田さんみたいに上手にはできません」
「僕よりは上手でしょう」
「それはそうだと思います」
空が答えると、恵が笑った。
由美は米を研ぎ忘れていないか心配だったらしく、炊飯器の蓋を一度開けた。白い湯気が上がる。
「由美さん、途中で開けたら駄目じゃないですか」
「今はもう炊けてるから大丈夫」
「朝から冷蔵庫も何度も開けてた」
賢司が言う。
「それは言わない約束でしょう」
「約束はしていない」
「緊張してたんですか」
空が尋ねる。
「してた」
「私が来るから?」
「うん」
由美はごまかさなかった。
「ちゃんと迎えなきゃと思って。でも、ちゃんとしすぎると空さんが嫌がるから、どこまで準備するか分からなくなった」
「普通でいいって言いました」
「普通が一番難しかった」
「いつも卵焼きは作らないんですよね」
「作らない」
「それなら、もう普通じゃないです」
空が言うと、由美は困った顔になった。
「じゃあ、作るのをやめる?」
「やめません。私が食べたいから作ります」
「それなら、空さんが決めたことになるね」
「はい」
空は卵を三つ割り、ボウルへ入れた。
「賢司さん、混ぜてください」
「どのくらい?」
「白身が切れるくらい」
「何回?」
「回数は決まってません」
「目安は?」
「見れば分かります」
「初めての人には分からない」
「本当に細かいですね」
空は賢司の隣に立ち、箸の動かし方を見た。
「もう少し速く。泡立てないように」
「速くして、泡立てない?」
「そうです」
「難しいな」
「まだ混ぜてるだけですよ」
由美は豆腐と葱の味噌汁を作りながら、二人のやり取りを聞いていた。
「浜田さんも、最初はそんなふうに教えたの?」
「浜田さんは、見て覚えろって言います」
「今どき厳しいね」
「でも、失敗したら、どこが違うかは教えてくれます」
「怒らない?」
「忙しいときは怒ります。お客さんに出せないものを作ったら困るから」
「空さんが失敗したものは、どうするの?」
「賄いで食べます」
「それはいいな」
「同じ失敗を何度もすると、賄いが失敗したものばっかりになります」
卵液に塩と少量の出汁を入れ、空は賢司に卵焼き器を温めるよう言った。
「火が強いです」
「まだ卵を入れてない」
「先に弱くしてください」
「弱すぎると固まらないんじゃないか」
「練習で炒り卵になったんでしょう」
賢司は黙って火を弱めた。
一回目の卵液を流し、奥から手前へ巻く。途中で端が破れた。
「あ」
「破れた」
「見れば分かる」
「火が強かった?」
「巻くのが遅いです」
「次は早くする」
二回目の卵液を流す。賢司は急ぎすぎ、まだ固まっていない卵を巻こうとした。
「今度は早すぎます」
「加減が難しい」
空が箸を添え、形を整えた。
「ここを持ち上げて。そうです」
「空さんがやったほうが早くない?」
由美が言う。
「賢司さんが作るんです」
三回目で、ようやく形がまとまった。
完成した卵焼きは片側が少し厚く、表面には裂けた跡が残っている。それでも炒り卵ではなかった。
「できた」
賢司が言った。
「半分くらい私が直しました」
「僕が焼いたことに変わりはない」
「仕事でもそうやって、自分がやったことにするんですか」
「しません」
空は笑いながら包丁を取り、卵焼きを六つに切った。
皿を出そうと、由美に場所を尋ねる。
「上の棚に白い皿があるよ」
空は食器棚を開けた。
上段には白い皿や深い青色の鉢が並び、下段の奥に、小さな皿が一枚見えた。黄色い縁取りが施され、中央には小さな雲の絵が描かれている。
ほかの食器より明らかに小さい。
「これは?」
空が取り出すと、由美の表情が変わった。
「昔、買ったもの」
「子ども用ですか」
「うん」
「この部屋の本と同じ?」
「同じころに買った」
「使ってないんですか」
「一度も」
空は皿を両手で持った。
「私が来る前から、ここにあった?」
「あったよ」
「私のためじゃない?」
「違う」
由美ははっきり答えた。
「空さんに使ってもらおうと思って残したものではないの」
「じゃあ、誰のためですか」
「子どもができたら使うつもりだった。でも、その子はいなかった」
空は皿の中央に描かれた雲を見た。
「捨てなかったんですね」
「捨てるかどうか、まだ決められないから」
「今も?」
「うん」
「私が使ってもいいですか」
由美が息を止めた。
空はそれに気づいた。
「嫌なら使いません」
「嫌じゃない。ただ、空さんが使えば、この皿が空さんのためのものになるような気がして」
「一回使っただけで?」
「私が勝手に、そう思ってしまうかもしれない」
「じゃあ、使わないほうがいいですね」
「空さんが本当に使いたいなら、止めないよ」
空は皿を白い皿と見比べた。
黄色い皿は、今の自分には小さすぎる。卵焼きを六切れ載せれば、それだけでいっぱいになるだろう。
「今日は、こっちにします」
空は黄色い皿を元の場所へ戻し、白い皿を取り出した。
由美は安堵したようにも、残念そうにも見えた。
空はそれがどちらなのか尋ねなかった。
黄色い皿は、自分のものではない。
だから使わなかった。
それだけでよかった。
*
昼食は、ダイニングテーブルで食べた。
白い皿に載せた卵焼き。豆腐と葱の味噌汁。炊きたてのごはん。小鉢には、冷蔵庫にあった漬物が盛られている。
「いただきます」
四人で手を合わせた。
空は最初に卵焼きを食べた。
少し塩が薄く、巻き方も均等ではない。だが、外側は焦げておらず、中は柔らかかった。
「どう?」
賢司が尋ねる。
「卵焼きです」
「味は?」
「普通です」
「普通か」
「失敗じゃないってことです」
「浜田さんなら、店に出す?」
「出しません」
「そこまではいかないか」
「でも、賄いなら食べます」
空は二切れ目を口へ入れた。
「次は、もう少し出汁を入れてもいいかもしれません」
「次?」
由美が反応した。
空は箸を止めた。
「卵焼きを作る次です。私が来る次とは言ってません」
「分かってる」
由美はそう答えたが、少し嬉しそうに見えた。
食卓の上にはテレビも音楽もなかった。
壁の時計が針を動かす音が聞こえる。暖房の風が、カーテンをわずかに揺らしている。
「毎日、こんなに静かなんですか」
空が尋ねた。
「食事中?」
「家の中が」
「平日は、どちらか一人しかいない時間も多いから、もっと静かだよ」
由美が答えた。
「寂しくないですか」
「寂しい日もある」
「二人いるのに?」
「二人いても、話さない日はあるから」
「喧嘩して?」
「疲れてるときや、別のことを考えているとき。賢司は仕事を家へ持ち帰ると、ほとんど話さなくなる」
「由美も本を読み始めると、返事をしない」
「聞こえてないだけ」
「それを返事をしないと言うんだ」
空は味噌汁の椀を置いた。
「若葉ホームでは、静かにならないです」
「夜も?」
「消灯時間を過ぎれば少しは。でも、誰かが話してるし、廊下を歩く音もします。小さい子が泣くこともあるし」
「ここの静かさは嫌?」
由美が尋ねた。
「まだ分かりません」
「静かなほうが勉強はできそうだけど」
賢司が言う。
「勉強しに来たんじゃありません」
「例えばの話です」
「すぐに役に立つか考えますね」
「悪い癖だ」
賢司は自分で認めた。
「ここで暮らしたら、静かすぎて眠れないかもしれません」
空が言うと、由美の箸が止まった。
「暮らすことも考えてる?」
「考えただけです」
「うん」
「もし」
空は言葉を切った。
聞くかどうか迷った。今日、家へ来た目的の一つは、使っていない部屋を確かめることだった。
もう一つは、その先のことを尋ねることだった。
「もし私が高校を卒業して、東京に来ることになって、住むところが見つからなかったら」
由美と賢司が空を見る。
「ここに泊めてくれますか」
部屋の静けさが、急に重くなった。
由美は今にも答えそうになった。しかし、賢司が机の下で何か合図をしたのか、口を閉じた。
「今、泊まっていいって言わないんですか」
空が尋ねる。
「言いたい」
由美が答えた。
「でも、今ここで言っていいのか考えてる」
「どうして?」
「空さんが困ったときに、絶対ここへ来られると思わせる約束になるから」
「来ちゃ駄目なんですか」
「駄目とは言ってない」
「じゃあ、いいんですか」
由美は返事に詰まった。
賢司が箸を置いた。
「住む場所がなくなるまで、何も考えずに待つことはしない」
「どういうことですか」
「空さんが東京へ来ると決めたら、その前に住居を探す。会社の寮や支援付きの住宅、空さんが利用できる制度も確認する。僕たちの家に滞在することを選択肢に入れるなら、それも若葉ホームや支援センターと一緒に考える」
「でも、見つからなかったら?」
「その場合に、ここへ来ることを最初から否定はしない」
「はっきり言ってください」
空の声が強くなった。
「泊めてくれるんですか、くれないんですか」
「今は、約束できない」
賢司が答えた。
胸の奥が冷たくなった。
家まで見せてもらい、誰も使っていない部屋も見た。そこにはベッドも机もなかったが、片づければ一人が眠ることはできる。
空いている場所があるのに、約束できないと言う。
「だったら、何のために家へ呼んだんですか」
空は言った。
「何も決めないなら、見せる必要なんかなかったでしょう」
「空さんが見たいと言ったから」
賢司が答えた。
「僕たちの家を見ることと、将来ここで暮らすことは別だと、最初に確認しました」
「分かってます」
「空」
恵が穏やかに呼んだ。
「分かってるけど」
空は俯いた。
自分でも、何に腹を立てているのか整理できなかった。
部屋を用意されていたら嫌だった。
自分の場所が何も用意されていなければ、寂しかった。
泊まっていいと即答されれば、信用できないと思ったかもしれない。それでも、約束できないと言われると、拒まれたように感じる。
「空さん」
由美が言った。
「今日のうちに約束はできない。でも、もし空さんが住む場所のことで困ったら、私たちは知らないふりをしない」
「何をするんですか」
「空さんの希望を聞いて、一緒に方法を探す。ここで過ごす方法も、そのとき本当に空さんが望んでいるなら考える」
「絶対じゃないんですね」
「うん」
「若葉ホームを出たら、もう長谷川さんたちは助けてくれないかもしれない」
「卒園した途端に、すべての関わりが終わるわけじゃないよ」
恵が言った。
「住む場所も進路も、卒業する前から一緒に考える。空が希望すれば、卒園後も相談できる支援先につなぐ」
「でも、ずっとではないでしょう」
「ずっと同じ形ではない。でも、空が一人で全部を決める必要はないよ」
空は白い皿の上に残った卵焼きを見た。
「二人も、相談する人の一人になるんですか」
由美が答える。
「空さんがそうしてほしいなら」
「住む場所をくれる人じゃなくて?」
「それだけで関係を決めたくないの」
「どうしてですか」
「私たちが住む場所を提供する代わりに、空さんへ何かを求める関係になりたくないから。感謝するとか、家族として振る舞うとか、私たちの望む進路を選ぶとか」
「そんなことしません」
「今はそう思っていても、私が期待してしまうかもしれない」
由美は自分の胸へ手を当てた。
「だから、私たちだけで決めない。空さんが困る前に、長谷川さんや相沢さんと一緒に考える。私が気持ちだけで約束しそうになったら、止めてもらう」
「由美さんは、私を泊めたいんですか」
「困っているなら泊めたいと思う」
「賢司さんは?」
「必要で、安全にできる方法なら」
「条件が多いです」
「多いと思います」
「家族だったら、そんなに考えないでしょう」
空の言葉に、賢司はしばらく黙った。
「家族だからこそ、考えなければならないこともある」
「二人だけでも家族ですか」
「僕はそう思っています」
「子どもがいなくても?」
「うん」
賢司は由美を見た。
「由美と僕は、空さんと出会う前から家族です」
空は由美を見た。
由美もうなずいた。
「子どもがいないことで、足りないと感じていた時期はあった。でも、二人で暮らしてきた十九年が家族じゃなかったとは思わない」
「じゃあ、二人には私がいなくてもいいんですね」
由美の顔が痛みに歪んだ。
「必要か、必要じゃないかで会っているんじゃない」
「どう違うんですか」
「空さんがいないと私たちが家族になれないから会っているんじゃない。空さんと会って、話したいと思ったから会ってる」
「分かりません」
「うん。私も、うまく説明できない」
由美は無理に言葉を重ねなかった。
空は残っていた卵焼きを口へ入れた。
冷め始めていたが、味は変わらない。
家族になるために必要とされているのではない。
その言葉に安堵すべきなのか、寂しがるべきなのか分からなかった。
「ごはん、もう食べたくない?」
恵が尋ねた。
「食べます」
「休憩してもいいよ」
「大丈夫です」
空は味噌汁を飲んだ。
由美も賢司も、話を続けようとはしなかった。
四人はしばらく黙って食べた。
時計の針が動く音が、再び聞こえ始めた。
*
食後、空は由美の仕事部屋を見せてもらった。
先ほどの会話で帰りたい気持ちもあったが、すぐに帰ると言えば、賢司と由美を困らせるために言っているような気がした。
それに、仕事部屋は見てみたかった。
壁一面の本棚には、小説、実用書、児童書、仕事に関する資料が並んでいた。机の上にはパソコンと、色のついた紙見本、数冊の本が置かれている。
「これは何ですか」
空は、同じ本の表紙が小さく印刷された紙を指した。
「書店に置く広告の案。まだ決定前のものだから、内容はほかの人に話さないでね」
「見てもいいんですか」
「表紙はもう発表されているから大丈夫。こっちの文章は、まだ見せられないから隠すね」
由美は一枚の紙を裏返した。
「何種類も作るんですか」
「最初にいくつか案を出して、編集や営業の人と相談して決めるの」
「全部、由美さんが考える?」
「一人で考えることもあるけど、デザイナーに頼むこともあるよ」
「どれが売れるか分かるんですか」
「分からない。予想はするけど、外れることも多い」
「正解がないんですね」
「うん」
由美が机の引き出しから、余った紙と色鉛筆を出した。
「何か描いてみる?」
「私に仕事をさせるんですか」
「ごめん。興味があるかと思って」
「やりたくないって言ったら?」
「片づける」
由美は紙を戻そうとした。
「まだ、やらないとは言ってません」
「どうする?」
「少しだけ」
空は机の前へ座った。
先ほどの本の表紙を見ながら、どの言葉を大きくするか考える。内容を詳しく知らないため、表紙と帯に書かれた紹介文だけが手がかりだった。
「これ、どんな人が読む本ですか」
「働き始めて数年くらいの人。仕事がうまくいかなくて、少し疲れている人に読んでもらいたいと、編集者は考えてる」
「元気になる本?」
「元気を出せと言う本ではないかな。疲れていることを、いったん認めてもいいと書いてある」
「じゃあ、頑張ろうって書いたら駄目ですね」
「私は合わないと思う。でも、空さんがそう思うなら、案として書いてもいいよ」
空は考え、紙の中央に短い言葉を書いた。
〈止まっても、明日は来る。〉
その下に本の題名を書き、余白を広く残した。
「さっきの黒板より、何も書いてませんね」
由美が言った。
「余白があったほうが読みやすいって、由美さんが言ったんでしょう」
「覚えてたんだ」
「聞いたことは覚えてます」
由美は紙を手に取り、少し離して見た。
「目に入ると思う。表紙の色とも合ってる」
「本当に?」
「うん。ただ、明日は来る、という言葉を重いと感じる人もいるかもしれない」
「明日も仕事があるっていう意味になるから?」
「そう受け取る人もいるかもね」
「難しい」
「正解は一つじゃないから」
空は紙を見直した。
由美は褒めるだけではなく、引っかかる部分も言った。それが嬉しかった。
「この紙、持って帰ってもいいですか」
「空さんが作ったものだから、もちろん」
由美は恵へ確認した。
「大丈夫ですよ」
恵が答える。
「鞄の中で折れないように、何かに挟む?」
由美が尋ねた。
「本に挟みます」
「透明なファイルがあるよ」
「それは、もらっていいんですか」
「家にある使いかけのものだけど」
空は迷った。
「今日は、本に挟みます」
「分かった」
由美はすぐにファイルを引き出しへ戻した。
空は自分で描いた紙を、図書館から借りた本の間へ挟んだ。
「地図、どうしましたか」
「あの地図?」
「私が渡したやつです」
「リビングの引き出しに入れてあるよ」
「飾らなかったんですか」
「飾ったほうがよかった?」
「別に」
「道を確認するときに使うものだと思ったから、ほかの地図と一緒に置いてる」
「捨ててませんか」
「捨ててないよ。見る?」
「見ます」
由美はリビングの引き出しを開け、折り畳まれた地図を取り出した。
端に少し折り目が増えていたが、空が渡したときと変わらない。
「使いましたか」
「家に帰ってから、二人で道を確かめた。神社の近道は、市販の地図には載ってなかった」
「地図として、役に立ったんですね」
「うん」
「額に入れたりしなかった?」
「しなかった」
「よかったです」
「どうして?」
「私が描いたからって、何でも大切な記念にされたら困るから」
「道を忘れないために、大切にするのはいい?」
「それなら」
空は地図を元の形に畳み、由美へ返した。
由美は再び引き出しへ入れた。
*
午後二時半を過ぎたころ、恵が時計を確認した。
「空、そろそろ片づけようか」
「もう帰る時間ですか」
「三時にはここを出る予定だったでしょう」
「そうでした」
「もう少しいたい?」
由美が尋ねかけ、言い直した。
「予定どおり帰る? それとも、長谷川さんと相談する?」
「予定どおり帰ります」
「分かった」
空は借りたエプロンを畳み、由美へ返した。
「洗わなくていいですか」
「こちらで洗うよ」
「卵がついてるかもしれません」
「大丈夫」
「自分で洗うこともできます」
「今日は時間がないから、私が洗う」
由美はエプロンを受け取った。
台所には、昼食で使った食器が伏せてある。空も洗うつもりだったが、由美と賢司が片づけるからと言った。
空は玄関へ向かった。
使っていない部屋の前で、一度足を止める。
扉は閉じたままだった。
自分から開ければ、もう一度見ることはできる。だが、空は取っ手へ手を伸ばさなかった。
玄関で灰色のスリッパを脱ぎ、自分の靴を履く。
「今日は――」
由美が言いかけ、口を閉じた。
「何ですか」
「来てくれてありがとう、と言いそうになった」
「言わないんですか」
「お礼を言われるために来たんじゃないでしょう」
「そうですけど」
「だから、今日は気をつけて帰ってね」
「楽しかったか、聞かないんですか」
由美が少し驚いた顔をした。
「聞いてほしい?」
「聞かれたら、困ると思います」
「じゃあ、聞かない」
「楽しくなかったわけじゃありません」
「うん」
「でも、全部楽しかったわけでもないです」
「うん」
由美は、それ以上聞かなかった。
「卵焼きは、食べられる味でした」
空が賢司へ言った。
「次は、もっときれいに巻けると思う」
「また練習するんですか」
「一回でやめる理由はない」
「次に私が来るって意味じゃありませんからね」
「分かっています」
賢司は真面目に答えた。
由美が玄関の扉を開ける。
廊下へ出ると、部屋の中より空気が冷たかった。
由美と賢司は駅まで見送ると言ったが、恵が一緒にいるため、空はマンションの入口まででよいと断った。
自動扉の前で、四人は立ち止まった。
「次に会うかどうかは、長谷川さんと相談して決めます」
空が言った。
「うん」
「家じゃなくて、外がいいかもしれません」
「分かった」
「まだ決めてません」
「決まったら、相沢さんを通して教えてください」
賢司が答えた。
「はい」
空と恵は駅へ向かって歩き出した。
振り返ると、由美と賢司は自動扉の前に立っていた。追いかけてこない。手も大きく振らず、二人並んでこちらを見ている。
空は胸の前で小さく手を上げた。
由美も同じ高さに手を上げた。
*
帰りの電車では、空は窓際に座った。
東京の建物が少しずつ低くなり、やがて畑や冬枯れの木々が見え始める。
恵は空の隣で、何も聞かずに待っていた。
「本当に物置でした」
空が先に言った。
「使っていない部屋?」
「はい。段ボールと布団と、ゴルフバッグがありました」
「安心した?」
「少し」
「がっかりもした?」
空は恵を見た。
「どうして分かるんですか」
「空が安心したときの顔だけじゃなかったから」
「私の部屋ができてたら嫌でした」
「うん」
「でも、本当に何もなかったら、それはそれで、少しくらい何かあってもよかったって思いました」
「どちらも空の気持ちだよ」
「勝手ですよね」
「気持ちは、いつも一つに揃わないから」
空は窓へ視線を戻した。
「黄色い皿がありました」
「由美さんから、事前に聞いていたよ」
「私には小さかったです」
「そう」
「使ってもいいって言われたけど、使いませんでした」
「どうして?」
「私のために買ったものじゃないから」
恵はうなずいた。
「使ったら、私のものにされそうな気がしました」
「由美さんも、それを心配していたみたいだね」
「だから、使わなくてよかったです」
「うん」
「でも、いつか使いたいと思うかもしれません」
「そのとき、もう一度考えればいい」
電車が小さな駅へ停まり、数人の乗客が降りた。
「ここに泊めてくれるか聞きました」
「聞いたね」
「約束してくれませんでした」
「どう感じた?」
「嫌でした」
「うん」
「でも、すぐにいいって言われても、嘘だと思ったかもしれません」
「うん」
「長谷川さん、うんしか言いませんね」
「今は、空の話を聞いてるから」
空は唇を尖らせた。
「卒業したら、私はどこに住むんですか」
「空が何を選ぶかで変わる。就職先の寮、支援付きの住居、民間の部屋、進学するなら学生寮もある。若葉ホームから通える仕事を選ぶ可能性もある」
「二人の家も?」
「それを選択肢にできるかは、これから話し合うことになる」
「まだ早いですか」
「考え始めるのは早くないよ。でも、朝倉さんたちの家だけを頼りにする形にはしないほうがいいと思う」
「どうして?」
「空が二人に嫌なことを言えなくなる可能性があるから。住む場所を失いたくなくて、我慢してしまうかもしれない」
空は返事をしなかった。
泊めてもらう代わりに感謝しなければならない。由美と賢司が望む人間にならなければならない。
そんなふうになるつもりはない。
だが、住む場所を失うかもしれないと思えば、自分がどう変わるかは分からなかった。
「二人と会うこととは別に、住む場所を考えたほうがいいんですね」
「そうだね。別に考えたうえで、二人を頼りたいと思ったら、そのとき相談すればいい」
「長谷川さん」
「何?」
「卒業したあとの住まいについて、詳しく聞きたいです」
「分かった。進路担当の職員と、支援センターの人にも相談しよう」
「大学に行く場合も?」
「もちろん」
「まだ行くって決めてません」
「考えるために知りたいんでしょう」
「はい」
空は鞄から借りた本を取り出した。
頁の間には、由美の仕事部屋で作った広告の案が挟まっている。
〈止まっても、明日は来る。〉
書いたときは、少しよい言葉だと思った。
今見ると、明日が必ず来ると言われることは、励ましにも脅しにもなると分かる。
空は消しゴムを取り出し、「明日は」の文字を消した。
代わりに、別の言葉を書く。
〈止まってから、選んでもいい。〉
「変えたの?」
恵が尋ねた。
「こっちのほうがいいと思って」
「由美さんに見せる?」
「次に会ったら」
答えてから、空は自分の言葉に気づいた。
次に会ったら。
会うかどうかは、まだ決めていないと言ったばかりだった。
それでも、その言葉を消そうとは思わなかった。
*
若葉ホームへ戻ると、玄関まで莉子が出てきた。
「おかえり。どうだった?」
「寒かった」
「東京も寒いの?」
「同じ冬なんだから寒いよ」
「家、大きかった?」
「普通」
「タワーマンション?」
「十二階」
「高いじゃん。部屋、もらった?」
空は靴を脱ぐ手を止めた。
「もらってない」
「何しに行ったの?」
「見に行っただけ」
「もったいない」
「部屋は、もらうものじゃないでしょ」
「空ちゃんの部屋になるかもしれないんじゃないの?」
「まだ誰の部屋でもない」
空は靴を揃え、自分の鞄を持ち上げた。
「お土産は?」
「ない」
「東京まで行ったのに?」
「遊びに行ったんじゃないから」
「じゃあ、ごはんは?」
「賢司さんが卵焼きを作った」
「おいしかった?」
「普通」
「一番困る答え」
莉子が笑った。
談話室から芽衣の声が聞こえる。テレビの音、食器の重なる音、職員が誰かを注意する声。朝倉家では聞こえなかった音が、廊下まで溢れている。
空は自分の部屋へ戻り、鞄から本を取り出した。
由美の仕事部屋で書いた紙を机へ置く。
青い糸で直したペンケースの隣に、消し直した言葉が並んでいる。
朝倉家の使われていない部屋は、空のものではなかった。
黄色い皿も、由美が買った絵本も、自分のためのものではない。
そのことを、自分の目で確かめられた。
寂しさは残っている。
だが、誰かの願いの中へ押し込まれなかったことへの安堵もあった。
空は机の引き出しから新しいノートを取り出した。
一頁目に、卒業後の住まい、と書く。
その下へ、今日聞いた選択肢を並べた。
会社の寮。
支援のある住宅。
民間の部屋。
学生寮。
若葉ホームから通う。
最後の行に、朝倉家、と書きかけた。
少し考え、消さずに、その前へ疑問符をつけた。
どれを選ぶかは、まだ決めない。
誰かに住む場所を与えてもらうのを待つのではなく、自分で知り、自分で比べる。
そのうえで、助けてほしいと思ったときには、助けてほしいと言えるようになりたかった。
空はノートを閉じた。
廊下から、夕食を知らせる恵の声が聞こえる。
「今行きます」
返事をして立ち上がる。
朝倉家の静かな部屋も、若葉ホームの騒がしい食堂も、今の空が自分のものだと言える場所ではなかった。
それでも、自分の足で訪れ、自分の目で確かめ、自分の意思で帰ってきた。
次にどの扉を開けるかは、誰かに決められる前に、自分で選びたかった。




