第十三章 選択肢の春
一月半ばの土曜日、空は恵と並んで、子ども家庭支援センターの相談室に座っていた。
窓の外には、朝から降り始めた雨が細い線を引いている。暖房はついていたが、床から上がってくる冷気までは消えていなかった。
机の上には、住まいと進路について、と書かれた資料が何種類も並んでいる。
就職先の寮。
学生寮。
支援を受けながら暮らす住宅。
民間の賃貸住宅。
若葉ホームからの通学や通勤。
どれも空が帰りの電車で恵から聞いた言葉だったが、紙に印刷されて並ぶと、まったく別のものに見えた。
「これを全部、今決めるんですか」
空が尋ねると、向かいに座る相沢奈緒が首を横に振った。
「今日は決めません。どんな選択肢があるか知るための時間です」
「いつまでに決めるんですか」
「進学か就職かによっても変わります。空さんはまだ高校一年生だから、今すぐ一つに絞る必要はありません」
「でも、時間は決まってますよね」
「そうですね」
相沢は曖昧に慰めなかった。
「高校を卒業する時期は決まっています。ただ、それまでに選んだものを、卒業後ずっと変えられないわけではありません。最初は寮に入り、あとから一人暮らしへ移る人もいます。逆に、一人暮らしを始めたあと、支援のある住居へ移る人もいます」
「失敗したら変えていいんですか」
「変えることを失敗と呼ばなくてもいいと思います」
「でも、お金がかかります」
「かかります。だから、できるだけ困る前に相談してほしいんです」
空は資料へ視線を戻した。
どの欄にも、朝倉家とは書かれていない。
書かれていないのが当然だと分かっている。個人の家の名前が、制度の説明書へ載るはずがない。
それでも空は、その言葉を探した。
「朝倉さんたちの家で暮らす場合は、どれですか」
相沢は空の顔を見た。
「それを選択肢として考えたいですか」
「考えるだけです」
「うん」
「住むって決めたわけじゃありません」
「分かっています」
相沢は資料を一枚、空の前へ置いた。
上部には、里親制度について、と書かれていた。
「朝倉さんご夫妻が空さんを家庭へ迎えて暮らす場合、未成年の間は、まず里親委託という形を検討することになります」
「里親になったら、二人が私の親になるんですか」
「暮らしの中で養育する人にはなります。ただ、里親委託だけでは、戸籍上の親子にはなりません」
「戸籍は変わらない?」
「はい。空さんは水瀬空のままです」
その言葉を聞き、空は自分でも気づかないほど深く息を吐いた。
「学校でも?」
「転校する場合も、正式な名前は水瀬空です。朝倉という名字になるわけではありません」
「住所は?」
「実際に暮らす場所へ住民登録を移すかどうかは、委託の形や関係機関の判断を含めて確認します。ただ、住所が変わることと、名字や戸籍が変わることは別です」
「二人と同じ家に住んでも、家族じゃないんですか」
「どの意味で家族という言葉を使うかによります」
「戸籍では?」
「里親委託だけなら、親子として同じ戸籍に入ることはありません」
「じゃあ、他人のまま?」
「法律上の親子ではない、ということです」
「同じ家で暮らして、学校にも行かせてもらって、ごはんも食べるのに?」
「そうです」
空は資料の文字を見つめた。
同じ家で暮らしても、戸籍では家族にならない。
そのことに安心すべきなのか、寂しがるべきなのか分からなかった。
使われていない部屋を見たときと似ている。
自分のために何も準備されていないことへ安堵しながら、何もないことに傷つきそうになった。
「養子縁組をしたら、変わるんですか」
空が尋ねると、恵がわずかに姿勢を正した。
相沢は声の調子を変えずに答えた。
「変わります。養子縁組は、里親委託とは別の制度です。成立すれば、法律上の親子になります」
「二人の戸籍に入る?」
「普通養子縁組の場合、戸籍にも養親と養子の関係が記載されます。名字も原則として養親の名字になります」
「朝倉空になるんですか」
「由美さんと賢司さんが共同で養親になれば、そうなります」
空は無意識に、自分の名前を頭の中で繰り返した。
朝倉空。
音だけなら、おかしくはない。
水瀬空より柔らかく聞こえる気もする。しかし、自分の名前ではないようにも感じた。
「里親になったら、絶対に養子縁組もしないといけませんか」
「いいえ。里親として長く一緒に暮らしても、養子縁組をしない人たちもいます」
「二人がしたいと言ったら?」
「空さんが望んでいないのに、勝手に成立させることはできません」
「私が十五歳だから?」
「十五歳以上の養子縁組では、本人の意思が必要です。ただし、未成年者を養子にする場合は、本人同士が合意するだけではなく、原則として家庭裁判所の許可も必要になります」
「裁判所へ行くんですか」
「必要になれば、手続きについて詳しく説明します。ただ、今すぐそこまで進める話ではありません」
「どうして?」
「空さんと朝倉さんご夫妻は、まだ一緒に暮らしたことがないからです」
相沢は淡々と言った。
「数回会い、家へ一度行ったことと、毎日同じ家で暮らすことは違います。学校へ行く朝も、誰かが体調を崩した日も、喧嘩をした日も、同じ家で過ごすことになります。その経験をしないまま、戸籍上の親子になることを先に決める必要はありません」
「里親は、やめることができるんですか」
「空さんの生活の場を変える必要が生じた場合は、児童相談所などが状況を確認して判断します。空さんが我慢し続けなければならない仕組みではありません」
「私が朝倉さんたちの家へ行って、やっぱり嫌だと思ったら、若葉ホームへ戻れますか」
「試しに宿泊する段階なら、もちろん戻れます。委託後についても、空さんが安心して暮らせない状態を放置することはしません」
「二人が、やっぱり無理だと言うこともありますか」
「可能性がないとは言えません」
空の指先が冷えた。
相沢は、その変化に気づいたようだった。
「ただし、気分だけで突然終わらせるものではありません。朝倉さんご夫妻にも、困ったことが起きたときには、空さんへ直接結論を突きつける前に支援機関へ相談するよう伝えます」
「それでも、終わることはあるんですね」
「あります」
「養子になったら、終わらない?」
「普通養子縁組には、離縁という手続きがあります。戸籍上の親子になれば絶対に関係が壊れない、とは言えません」
空は唇を噛んだ。
「何を選んでも、絶対はないんですね」
「そうですね」
「だったら、戸籍を変える意味は何ですか」
「法律上の親子として、扶養や相続などの権利と義務が生じます。家族として手続きが必要なときに、関係を証明できるようにもなります」
「気持ちが変わるわけじゃない?」
「戸籍を変えた日に、急に気持ちが変わるわけではないと思います」
「家族になる日が、決まるわけでもない?」
「それを決めるのは、戸籍だけではないでしょうね」
相沢は書類を閉じた。
「だから、暮らし始めること、名字を変えること、法律上の親子になることを、全部一度に決めなくていいんです」
空は自分の名前をノートに書いた。
水瀬空。
小学校へ入ったときも、中学校の卒業証書を受け取ったときも、この名前だった。海辺食堂の名札にも、学校の教科書にも、若葉ホームの自分の棚にも、水瀬と書かれている。
両親の顔も声も知らない。
水瀬という名字が誰から来たものなのか、空には実感がなかった。けれど、両親を知らないからこそ、この名前は誰かのものではなく、自分自身のものになっていた。
「私は、今は水瀬のままがいいです」
空は言った。
「うん」
恵が答えた。
「二人の家に住むかもしれないけど、名前まで一緒に変えるのは嫌です」
「それでいいと思います」
相沢が言った。
「朝倉さんたちにも、自分で伝えたいですか」
「はい」
「今日、このあと二人も来る予定になっています。ここで話す?」
空は少し考えた。
「長谷川さんと相沢さんも、いてください」
「もちろん」
「私がうまく言えなかったら、説明してくれますか」
「頼まれたらね」
「最初から助けてください」
空が言うと、恵が笑った。
「分かった」
*
午後二時を少し過ぎたころ、由美と賢司が相談室へ入ってきた。
由美は雨に濡れたコートを腕へ掛け、賢司は透明なファイルを持っていた。
空はファイルを見た。
「また資料ですか」
「今日、支援センターから渡されるものを入れるためです。中は空です」
賢司はファイルを開き、何も入っていないことを見せた。
「そこまでしなくても、信じます」
「確認したそうな顔をしていたから」
「してません」
「してたよ」
由美が言う。
「賢司、家を出る前に中身を全部抜いてたから」
「由美」
「隠すことじゃないでしょう」
空は少し笑った。
二人が席に着くと、相沢が今日の相談内容を説明した。
空が卒業後の住居について学びたいと申し出たこと。学生寮や就職先の寮、支援付き住宅について資料を見たこと。そして、朝倉家で暮らすことも選択肢の一つとして考えたいと言ったこと。
「本当に?」
由美の声が弾んだ。
すぐに空の表情を見て、声を抑える。
「ごめんなさい。嬉しくて」
「まだ決めてません」
「うん。分かってる」
「考えたいって言っただけです」
「それでも、嬉しい」
由美は気持ちを隠さなかった。
空は、その嬉しさを負担に感じた。同時に、何も感じられないよりはよかったとも思った。
「ただし」
空は言った。
「条件があります」
賢司が姿勢を正した。
「聞きます」
「今は、養子にはなりません」
由美の顔から笑みが消えた。
「養子?」
「さっき、里親と養子縁組の違いを聞きました」
空は由美の反応を見た。
「二人の家に住むことになっても、戸籍は変えません。私は水瀬空のままでいたいです」
「分かりました」
賢司が答えた。
「由美さんは?」
由美はすぐに返事ができなかった。
「嫌ですか」
「嫌というより」
由美は言葉を探した。
「私は、いつか空さんと法律上も家族になれたらと思っていたんだと思う」
「思っていた?」
「自分でも、はっきり考えないようにしてた。でも、今聞いて、残念だと思ったから」
「やっぱり朝倉空になってほしいんですか」
「いつか、空さんも望んでくれるなら」
「私は今、水瀬です」
「うん」
「朝倉にならないと、二人の家には住めませんか」
「そんなことはない」
由美は強く首を横に振った。
「名字を変えることを、暮らすための条件にはしない」
「ずっと水瀬のままでも?」
由美は一度、息を整えた。
「それが空さんの選択なら、受け入れる」
「残念でも?」
「残念だと思う気持ちは、私が自分で引き受ける。空さんに変えてもらうものじゃない」
空は由美を見つめた。
「由美さんは、正直ですね」
「隠すと、たぶん顔に出るから」
「もう出てました」
「やっぱり?」
「はい」
由美は困ったように笑った。
「僕も、いつか普通養子縁組を選択肢として考えたいと思っています」
賢司が言った。
「でも、今決めるべきではない。空さんの名字を変えることと、一緒に暮らすことは別です」
「賢司さんは、残念じゃないんですか」
「少しは」
「二人とも同じですね」
「夫婦だから、同じところもあります」
賢司は透明なファイルを机へ置いた。
「ただ、戸籍を変えれば関係が安定すると考えるのは、順番が逆だと思う。まず、一緒に暮らせる関係を作る。そのあとで、空さんが法律上の親子になりたいと思ったときに考える」
「十八歳になったら、自分で決められるんですか」
「成年になったあとは、未成年の今とは手続きが変わります」
相沢が答えた。
「ただし、十八歳になった日に決める必要はありません。大学生になってからでも、社会人になってからでも考えられます。養子縁組をしないという選択もできます」
「二人は、それまで待てますか」
空が尋ねる。
「待つ」
由美が答えた。
「何年でも?」
「空さんが考えるための時間なら」
「途中で、養子になってくれないなら一緒に住めないって言いませんか」
「言わない」
今度の由美の答えには、迷いがなかった。
「分かりました」
空は小さくうなずいた。
「ほかの条件は?」
賢司が尋ねる。
「まだあります」
空はノートを開いた。
恵と相沢へ話したあと、一人で書き加えたものだった。
「最初から、ずっと住むとは決めません。何回か泊まって、本当に暮らせそうか確かめます」
「はい」
「嫌になったら、若葉ホームへ戻れるようにしてください」
「僕たちだけで決めることではないけれど、その条件が守られる形にしたいと思います」
「私の部屋は、勝手に作らないでください」
「分かった」
「ベッドも机もカーテンも、私が決めます」
「うん」
由美の返事が少し嬉しそうになった。
「まだ買うって決めてません」
「分かってる」
「今ある絵本を捨てないでください」
由美が驚いた顔をした。
「空さんは、要らないんじゃなかった?」
「要らないとは言ってません。私のために買ったものじゃないから、二人が捨てるかどうかを決めればいいと思います」
「うん」
「私が部屋を使うことになって、邪魔なら別のところへ動かしてください。でも、私が来るから捨てたとは言わないでください」
「分かった」
「黄色い皿も」
「捨てないよ」
「私に使わせなくていいです」
「うん」
「使いたくなったら、自分から言います」
由美の目がわずかに潤んだ。
「泣かないでください」
「泣いてない」
「泣きそうです」
「少しだけ」
「由美」
賢司が低く呼んだ。
「分かってる。空さんに何か言わせるために泣いてるんじゃない」
由美は目元を指で押さえた。
「続けて」
空はノートへ視線を戻した。
「若葉ホームには、いつでも行けるようにしてください」
「もちろん」
賢司が答えた。
「莉子や芽衣に会うことも、海辺食堂の仕事も、二人が住んでいる町から遠いという理由だけでやめさせないでください」
「海辺食堂へ通い続けるのは、距離的に難しいかもしれない」
賢司が言った。
空の顔が上がった。
「やっぱり、やめろって言うんですか」
「そうではありません。ただ、東京から毎週通う場合、交通費と移動時間が大きくなる。学校や部活動を始めるなら、両立できるか考える必要がある」
「まだ部活動をするって決めてません」
「可能性の話です」
「賢司さんが決めることじゃありません」
「決めていません。続けたいという希望をどう実現するか、一緒に考えたいだけです」
「無理だと思ってるでしょう」
「簡単ではないと思っています」
「空」
恵が声をかけた。
「賢司さんは、海辺食堂をやめる条件を出したわけではないよ」
「でも、通うのは難しいって」
「実際、片道にどのくらいかかるか、学校生活と両立できるかは確認する必要がある。空が続けたい気持ちも、その中に入れて考えよう」
空は唇を結んだ。
朝倉家へ行けば、何かを失う。
同じ高校へ通うことはできない。莉子や芽衣と毎日顔を合わせることもなくなる。海辺食堂で同じように働くことも難しい。
二人と暮らすことだけを見ていたときには、考えたくなかったことだった。
「全部は持っていけないんですね」
空が言った。
「場所が変わる以上、まったく同じ生活を続けることは難しいと思う」
賢司は答えた。
「でも、何を残したいかは空さんが決める。その方法を一緒に探したい」
「方法がなかったら?」
「そのときは、どちらを選ぶか、空さんが決める」
「朝倉さんたちの家へ行かないって決めても?」
「もちろん」
賢司の返事に迷いはなかった。
「私たちと暮らすために、大切なものを全部諦めてほしいとは思わない」
由美が続けた。
「でも、私たちと暮らせば何も失わない、とも言えない。住む場所や学校が変われば、できなくなることもあると思う」
「それでも来てほしいんですか」
「来てほしい」
「私は、何かを諦めるかもしれないのに?」
「それでも来てほしいと思ってる。でも、私が来てほしいから選んでとは言わない」
空はノートを閉じた。
「ずるいですね」
「そうかもしれない」
「来てほしいって言われたら、断りにくくなります」
「それは、ごめん」
「でも、来てほしくないって言われるよりはいいです」
由美は返事をせず、空を見ていた。
相沢が机の中央へ新しい用紙を置いた。
「今の話を踏まえて、次の段階を説明してもいいですか」
「はい」
空が答えた。
「まず、朝倉さんご夫妻には、里親登録に必要な手続きを正式に進めてもらいます。これまでに受けた研修や家庭訪問に加えて、追加の確認や審査があります」
「どのくらいかかりますか」
賢司が尋ねた。
「時期や審査日程によります。すぐに登録されるとは約束できません」
「空さんの新学期には間に合いますか」
「間に合わせることを先に目的にしないでください」
相沢の声が少し厳しくなった。
「登録と委託は、学校の予定に合わせて急ぐものではありません。朝倉さんご夫妻が里親として適切か、空さんが家庭で暮らすことを望んでいるか、生活環境や学校の受け入れを含めて確認します」
「分かりました」
賢司が答えた。
「空さんは、その間に宿泊交流を重ねます。最初は一泊。そのあとの希望と状況を見て、二泊、週末の滞在という形を検討します」
「毎週行くんですか」
「最初から毎週にはしません。若葉ホームで過ごす週末も必要です」
「私が決められますか」
「希望は空さんに聞きます。ただ、学校や体調、朝倉さんご夫妻の予定もあるので、全員で調整します」
「二人が仕事なら、行けない?」
「どちらか一人だけのときに宿泊するかは、もう少し関係ができてから考えます。最初は、二人がそろう日にしましょう」
「分かりました」
「学校についても、まだ転校を決めません。まず、朝倉さんのお宅から通える学校を見学し、今の高校に残る場合と比べます」
「今の高校から通えませんか」
「毎日の通学は難しい距離です」
分かっていた答えだった。
それでも空は、資料の端を指で押さえた。
「転校したら、今の学校の友達とは会えなくなります」
「会えなくなるわけではないよ」
恵が言った。
「毎日会うことはできなくなるけど、連絡を取ったり、こちらへ来たときに会ったりはできる」
「部活にも、途中から入れますか」
「学校によると思う」
「空、部活をしたいの?」
恵が尋ねた。
「少しだけ」
「何部?」
「まだ決めてません」
空は由美を見た。
「転校先を、二人だけで決めないでください」
「決めないよ」
「偏差値とか、大学に行きやすいかだけで選ばないでください」
賢司が何か言いかけたが、由美が先に答えた。
「空さんが通いたい学校を一緒に探す」
「部活も見ます」
「うん」
「制服も」
「うん」
「お金は?」
「授業料や必要な費用については、制度上の扱いも確認しながら、私たちに負担できるものは負担します」
賢司が答えた。
「払ってもらったら、やめにくくなりませんか」
「学校を?」
「朝倉さんたちの家で暮らすことを」
部屋が静かになった。
「僕たちが払ったお金を理由に、空さんを引き留めることはしません」
「本当に?」
「支払う前に、何の費用を誰が負担するか、支援センターと確認します。空さんが途中で若葉ホームへ戻ることになった場合に、返してもらうこともしません」
「書いて残しますか」
「必要なら、書面にします」
相沢が答えた。
「お金が関わることは、曖昧にしないほうがいいでしょう」
「お願いします」
空はノートに、費用は書面、と記した。
「まだ、家族じゃないみたいですね」
書きながら言うと、由美の表情が曇った。
「家族なら、お金のことを決めなくていい?」
相沢が尋ねた。
「分かりません」
「家族の間でも、お金や生活の約束を言葉にすることはあります。書面を作るから家族ではない、とは限りません」
「でも、戸籍も違います」
「そうですね」
「名字も」
「はい」
「私は、二人をお父さんとお母さんとは呼びません」
「呼ばなくていいよ」
由美が言った。
「戸籍が同じになっても?」
「空さんが呼びたいと思わない限りは」
「養子になったら、呼ばないと変です」
「変じゃない。名字や戸籍が変わっても、呼び方まで決められるわけじゃないから」
「由美さんは、呼んでほしくないんですか」
由美は答えに迷った。
「呼んでもらえたら、嬉しいと思う」
「やっぱり」
「でも、そのために養子縁組をしたいわけじゃない」
「本当に?」
「本当。空さんが由美さんと呼び続けても、法律上の親子になりたいと思うかもしれない」
「どうして?」
「家族として責任を持ちたいから」
「責任?」
「困ったときに助けるという気持ちだけじゃなくて、法律上も親子として互いに支え合う関係になること。空さんの子どもが生まれたら、その子とも家族になる」
「子どもなんて、まだ分かりません」
「例えばの話」
「先すぎます」
「そうだね。ごめん」
由美は苦笑した。
「だから今、決めなくていいんだと思う」
空は、自分に子どもがいる未来を想像できなかった。
結婚するかどうかも分からない。誰かと暮らすことさえ、まだ選んだことがない。
それでも、由美が自分の知らない未来まで考えていることが、怖いだけではなかった。
「養子の話は、しばらくしないでください」
空が言った。
「分かった」
「私から聞くまで」
「うん」
「十八歳になっても、二人から言わないでください」
由美と賢司は顔を見合わせた。
「約束します」
賢司が答えた。
「僕たちから結論を求めません」
「由美さんも?」
「約束する」
「忘れないでください」
「聞いたことは、覚えてるよ」
由美が空の言葉を借りた。
「それ、私の言葉です」
「覚えていたから使ったの」
今度は由美が言った。
空は少しだけ笑った。
*
相談を終えて若葉ホームへ戻る車の中で、空は膝の上に資料を載せていた。
相沢から渡された封筒には、里親制度、住まい、学校見学についての資料が分けて入っている。
「疲れた?」
運転席の恵が尋ねた。
「少し」
「今日は、たくさん決めたからね」
「何も決めてません」
「水瀬のままでいることは決めたでしょう」
「今は、です」
「うん」
「長谷川さんは、私が養子になったほうがいいと思いますか」
恵はすぐに答えなかった。
「空は、私がどちらか決めたら、そのとおりにする?」
「しません」
「なら、私の希望を先に言う必要はないと思う」
「ずるいです」
「大事なことだから」
車は雨の高速道路を走っていた。窓を流れる水滴の向こうで、町の灯りが長く伸びている。
「もし養子になったら、私は朝倉空になるそうです」
「そうだね」
「水瀬空じゃなくなる」
「うん」
「私の両親が水瀬だったかも分からないのに、どうして嫌なんでしょう」
「空が今まで使ってきた名前だからじゃないかな」
「名前が変わったら、私も変わりますか」
「戸籍や名札に書く名字は変わる。でも、空が覚えていることや、大切にしている人まで変わるわけではないと思う」
「若葉ホームで水瀬って呼ばれなくなるのは、嫌です」
「養子縁組をしても、莉子たちは好きなように呼ぶんじゃない?」
「莉子は、空ちゃんとしか呼びません」
「じゃあ、変わらないね」
「学校の友達は?」
「空がどう呼んでほしいか話せばいい。でも、正式な書類には新しい名字を書くことになる」
「面倒ですね」
「大きな選択だよ」
「由美さんは、朝倉になってほしいみたいでした」
「そう見えたね」
「嫌でした」
「うん」
「でも、少し嬉しかったです」
「うん」
「長谷川さん、また、うんしか言わない」
「二つとも空の気持ちだから」
空は封筒の端を指でなぞった。
「今は、水瀬でいたいです」
「それでいいよ」
「でも、ずっととは決めません」
「うん」
「朝倉になるかもしれないって、思っててもいいですか」
「もちろん」
空は窓の外を見た。
雨の向こうに海は見えなかった。
*
若葉ホームへ戻ると、莉子が談話室のソファで漫画を読んでいた。
空の持つ封筒を見るなり、漫画を閉じる。
「何それ」
「資料」
「学校の?」
「住むところとか、里親とか」
「朝倉さんの家に行くの?」
「まだ決めてない」
「名字も朝倉になる?」
「ならない」
「養子じゃないんだ」
「一緒に住むことと、養子になることは別なんだって」
「へえ」
莉子は興味があるのかないのか分からない声を出した。
「もし空ちゃんが朝倉になったら、何て呼べばいいの?」
「空でいいでしょ」
「水瀬って呼んだら怒る?」
「普段、名字で呼ばないじゃん」
「学校の先生は呼ぶでしょう」
「それは変わる」
「じゃあ、別の人みたい」
莉子の言葉に、空の胸が動いた。
「私も、そう思う」
「朝倉空も悪くないけど」
「どっちなの」
「呼びやすいほうでいいんじゃない?」
「そういう問題じゃない」
「名前なんて、本人が嫌じゃなければ何でもいいよ」
莉子は漫画を開き直した。
「私、水瀬空って名前、嫌いじゃない」
空は言った。
莉子は頁をめくる手を止めた。
「知ってる」
「言ったことないけど」
「空ちゃん、教科書に名前書くとき、けっこう丁寧だもん」
「普通に書いてるだけ」
「はいはい」
莉子は再び漫画へ目を落とした。
空は封筒を抱え、自分の部屋へ戻った。
机の上には、卒業後の住まいについて書き始めたノートがある。
会社の寮。
支援のある住宅。
民間の部屋。
学生寮。
若葉ホームから通う。
疑問符をつけた朝倉家。
空は鉛筆を取り、その横に新しい言葉を加えた。
〈里親委託。戸籍は水瀬のまま〉
さらに下へ書く。
〈養子縁組は別。今は決めない〉
その文字を二重線で囲んだ。
*
二月に入ると、朝倉家への二度目の訪問が決まった。
今度は日帰りではなく、一泊する。
土曜日の午前中に到着し、日曜日の午後に戻る予定だった。恵も近くの宿泊施設に滞在し、空が帰りたいと希望した場合は、夜中でも連絡できるようにする。
空は持ち物の一覧を自分で作った。
着替え。
歯ブラシ。
洗面道具。
携帯電話の充電器。
学校の課題。
図書館から借りた本。
青い糸で直したペンケース。
由美からは、寝間着やタオルを用意するという連絡が来たが、空はどちらも自分のものを持っていくと返事をした。
使っていない部屋には、まだベッドがない。
そのため、今回は客用布団を敷くことになった。布団は前から家にあったもので、新しく買ったものではないことも確認した。
「そこまで聞く?」
莉子が呆れたように言った。
「聞く」
「枕も?」
「枕は借りる」
「誰が使ってた枕?」
「知らない」
「そこは聞かないんだ」
「洗ってあるって言ってたから」
空は鞄へ着替えを入れた。
「楽しみ?」
莉子が尋ねる。
「分からない」
「嫌?」
「分からない」
「行きたくない?」
「行きたいから行くの」
「じゃあ、楽しみなんじゃない?」
「行きたいことと、楽しみなことは同じじゃない」
「面倒くさいね」
「うるさい」
莉子はベッドの上から身を乗り出した。
「もし夜中に嫌になったら、帰ってくるの?」
「長谷川さんに連絡する」
「本当に?」
「そのために近くに泊まってくれるから」
「帰ってきても、起こさないでね」
「心配してるんじゃないの?」
「心配はしてる。でも、夜中は眠いから」
莉子はそう言って、空の鞄のファスナーを閉めた。
「ちゃんと帰ってきてね」
「日曜日に帰るって言ったでしょう」
「聞いたことは覚えてます」
「それ、私の言葉」
空が言うと、莉子は笑った。
*
宿泊前の最後の面談で、空は朝倉家の生活予定を見せてもらった。
到着後に昼食。
午後は近所を歩くか、家で過ごす。
夕食は三人で相談して決める。
入浴の順番も、その場で決める。
就寝時間は、空の普段の生活に合わせて午後十一時まで。
翌朝は七時半に起き、朝食後、近くの高校を外から見に行く。
「予定、多くないですか」
空が言った。
「最低限しか書いてない」
賢司が答える。
「散歩するかも決めてる」
「外へ行くか、家にいるかは空さんが選べるようにした」
「何もしない時間は?」
賢司が予定表を見る。
「午後二時から四時まで」
「それは、何もしない時間を予定にしただけです」
「空さんが自由に過ごせる時間だ」
「自由なら、時間を決めないでください」
「では、どう書けばいい?」
「書かなくていいです」
賢司は予定表の〈自由時間〉という欄を二重線で消した。
「夕食も、当日決めるなら書かなくていいです」
「食べる時間は必要だろう」
「おなかが空いたら食べます」
「それでは遅くなるかもしれない」
「若葉ホームでも、多少は時間が変わります」
「何時ごろ?」
「六時半から七時くらい」
「では、六時半から七時の間」
「書くんですか」
「目安として」
空は恵を見た。
「二人で決めていいと思うよ」
「長谷川さん、止めてください」
「空も希望を言えてるし、賢司さんも直してるから」
空は予定表を見た。
宿泊するだけなのに、会議の資料のようだった。
「賢司さん」
「何ですか」
「家で暮らし始めたら、毎日こういう表を作るんですか」
「作りません」
「本当に?」
「最初だから、確認のために作っただけです」
賢司は予定表の余白を、指先でとんとんと叩いた。
「私の一日を全部決められるのは嫌です」
「分かっています」
「部活に入ったら、帰りが遅くなるかもしれません」
「部活の時間が分かれば、帰宅予定を考えます」
空は少し黙り、次の質問を選ぶように賢司を見た。
「毎日、報告するんですか」
「未成年の間は、帰宅時間くらい知らせてほしい」
「由美さんも?」
「私も、遅くなるときは連絡してほしいと思う」
「二人も連絡するんですか」
「僕たちも、夕食に間に合わないときは連絡します」
賢司が答えた。
「空さんだけに求める約束にはしません」
「だったら、少し考えます」
「少し?」
「暮らすかどうかを」
空が言うと、由美の表情が曇った。
「予定表のせいで?」
「予定表だけじゃありません」
「何が嫌?」
「まだ分かりません。泊まってみないと」
由美は何か言いたそうだったが、口を閉じた。
「分かった。泊まってから考えて」
その答えに、空はうなずいた。
名字も、戸籍も、学校も、住む場所も、今すぐ一つに決める必要はない。
水瀬空のまま、朝倉家に一晩泊まる。
合わなければ戻る。
もう一度確かめたいと思えば、次の約束をする。
それだけでよかった。
面談を終えて部屋を出る前に、空は賢司の予定表を手に取った。
「これ、もらってもいいですか」
「いいけど」
「嫌だったところに印をつけます」
「全部消えるかもしれないな」
「そのときは、予定表なしです」
「分かりました」
空は用紙を半分に折り、鞄へ入れた。
青い糸で直したペンケースの隣に、朝倉家で過ごす最初の夜の予定が収まった。
そこには、家族になる、とは書かれていない。
水瀬という名字を変える、とも書かれていない。
ただ、一晩を同じ家で過ごすために必要なことだけが書かれていた。
空は、そのくらいの約束なら信じてみてもよいと思った。




