第十四章 初めての夜
朝倉家に泊まる土曜日、空は朝六時に目を覚ました。
出発は八時半だった。まだ二時間以上ある。
もう一度眠ろうと目を閉じたが、廊下を歩く職員の足音や、洗面所の扉が開く音が耳に入る。上段では莉子が毛布にくるまり、規則正しい寝息を立てていた。
空は音を立てないようベッドから出た。
机の脇には、昨夜用意した布製の鞄が置いてある。
着替え、歯ブラシ、洗面道具、充電器、寝間着、学校の課題、図書館から借りた本。青い糸で直したペンケースも入れた。
何度も確認したので、忘れ物はないはずだった。
それでも鞄を開け、底まで手を入れた。
「何時だと思ってるの」
上段から莉子の声が落ちてきた。
「起きてたの?」
「空ちゃんが、ずっとがさがさしてるから」
「ごめん」
「忘れ物?」
「確認してただけ」
「昨日も三回確認してた」
莉子の顔がベッドの縁から逆さに現れた。
「旅行じゃないんだから、忘れたら借りればいいじゃん」
「借りたくないの」
「どうして?」
「返さなきゃいけないから」
「返せばいいでしょ」
「借りたものが多いと、泊めてもらったうえに、いろいろしてもらうことになる」
「泊めてもらう時点で、もうしてもらってるよ」
「分かってる」
「じゃあ、一個くらい増えても同じじゃない?」
「同じじゃない」
莉子は理解できないという顔をして、布団へ戻った。
「帰ってくるの、明日の夕方?」
「五時くらい」
「お土産は?」
「買わない」
「東京のお菓子」
「自分で買ってきて」
「冷たい」
莉子の声は、すでに眠りへ戻りかけていた。
空は鞄のファスナーを閉めた。
借りることが嫌なのではない。
借りた相手から、いつか返してほしいと言われることが怖かった。
物なら返せる。
金なら、働けば返せるかもしれない。
けれど、親切や期待を返す方法は分からない。
朝倉家で一晩過ごせば、二人の中で何かが進む。空の中でも、何かが変わるかもしれない。
その変化まで借りたもののように感じたくなかった。
*
空と恵が朝倉家へ到着したのは、午前十一時を少し過ぎたころだった。
最寄り駅の改札では、由美と賢司が並んで待っていた。
前回と同じ灰色のコートを着た由美は、空の鞄を見るなり手を伸ばしかけた。
「持とうか」
「自分で持ちます」
「あ、うん」
由美はすぐに手を下ろした。
「重くない?」
「一泊分しか入ってません」
「学校の教科書もあるんでしょう」
「課題だけです」
「無理に宿題しなくてもいいのに」
「月曜日に出すので」
「それは、やらないといけないね」
賢司は、二人の会話が終わるまで黙っていた。
「おはようございます」
空が挨拶すると、賢司が頭を下げた。
「おはようございます。予定どおりで大丈夫ですか」
「予定表、持ってきました」
空は鞄の外ポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。
賢司が作った予定表には、赤いペンで何本も線が引かれている。
午後二時から四時までの自由時間は消されていた。散歩、映画、読書という候補も消してある。夕食の時間だけは残し、横に〈おなかの具合で変更〉と書いた。
「かなり消えたな」
賢司が言った。
「自由時間は、書かなくていいので」
「起床時間も?」
「日曜日くらい、目覚ましなしで寝たいです」
「朝、高校を見に行く予定は?」
「起きられたら行きます」
「学校の外から見るだけでも、時間は決めたほうが」
「賢司」
由美が止めた。
「今日は、空さんが予定を決めるんでしょう」
「最低限の目安は必要だと思う」
「駅へ戻る時間は決まってる。それで十分だよ」
賢司は予定表を見直した。
「分かりました」
空は紙を受け取り、再び鞄へ入れた。
恵が四人の顔を見回した。
「最初に支援センターとの約束を確認します。空は、いつでも私に連絡できます。帰りたいと思った場合、夜中でも構いません」
「はい」
「朝倉さんたちは、空が帰りたいと言ったら、理由を聞いて引き留めないでください」
「分かっています」
賢司が答えた。
「体調が悪くなった場合も連絡をお願いします。それから、今夜八時に一度、空と電話で話します」
「二人がいないところで話すんですよね」
「もちろん。空が話した内容も、本人の許可なく二人へ詳しく伝えません」
由美が空を見た。
「私たちは、席を外すからね」
「はい」
「楽しかったって言わなくても大丈夫だから」
「まだ何もしてません」
「そうだった」
由美は少し笑った。
マンションへ向かう途中、恵と由美が前を歩き、空と賢司が後ろを歩いた。
「寝る部屋は、前と同じです」
賢司が言った。
「何も変えてませんか」
「床へ布団を敷けるよう、ゴルフバッグを少し動かしました」
「どこへ?」
「僕の仕事部屋です」
「ほかは?」
「変えていません」
「絵本も?」
「そのままです」
「黄色い皿も?」
「食器棚にあります」
「分かりました」
賢司は歩きながら、何か言いたそうにしていた。
「何ですか」
「そこまで確認しないと、不安ですか」
「はい」
空が答えると、賢司は黙った。
怒ったようには見えなかった。
「分かりました」
しばらくして、それだけ言った。
*
朝倉家へ着くと、前回と同じ灰色のスリッパが出されていた。
空は靴を脱ぎ、鞄を自分で持ったまま廊下を進んだ。
使っていない部屋の扉は閉まっている。
「先に荷物を置く?」
由美が尋ねた。
「はい」
空は自分で扉を開けた。
部屋は前回と変わっていなかった。
窓際の旅行鞄。壁に沿って積まれた段ボール。古い扇風機。小さな棚に並ぶ絵本。ゴルフバッグがなくなったぶんだけ、床が少し広くなっている。
中央には、畳んだ客用布団が置かれていた。
「布団、敷いてませんね」
「空さんが、どこに敷くか決めたほうがいいと思って」
由美が答えた。
「どこでもいいです」
「窓の近くは冷えると思う」
「では、壁側」
「扉の近くだと、廊下の音が気になるかもしれない」
「この家、ほとんど音がしないでしょう」
「それでも、賢司が夜中に水を飲みに行くことがあるから」
「由美もトイレに起きる」
「そういうことを空さんに言わなくていいでしょう」
空は部屋の中央を指した。
「ここでいいです」
「分かった。今、敷く?」
「夜でいいです」
「自分でできる?」
「若葉ホームでも敷いてます」
「そうだね」
由美は、それ以上手を出さなかった。
空は鞄を壁際へ置いた。
「扉は、閉めていいですか」
「もちろん」
「鍵は?」
「この部屋にはついていません」
賢司が答えた。
「寝室と仕事部屋にも、内側から掛ける鍵はないよ」
「そうですか」
「必要だと思う?」
「まだ分かりません」
「暮らすことになって、必要なら取りつけることも考えます」
「まだ暮らすって決めてません」
「はい」
賢司は言い直さなかった。
空は部屋を出た。
前回と同じ部屋なのに、今夜自分が眠ると思うだけで、見え方が違っていた。
*
昼食は、由美が作った焼きうどんだった。
特別な料理ではなく、冷蔵庫に残っていた野菜を使ったという。キャベツ、玉ねぎ、豚肉。皿は前回と同じ白いものだった。
「本当に普段も食べるんですか」
空が尋ねた。
「月に一回くらいは」
由美が答える。
「賢司は、味が濃いほうが好きだけど」
「由美が薄すぎるんだ」
「塩分を考えてるの」
「味がしなければ食事にならない」
「空さんは、どっちがいい?」
「普通です」
「また普通」
賢司が言った。
「悪い意味じゃありません」
恵も一緒に昼食を食べた。
四人でいる間は、前回の訪問とあまり変わらなかった。恵が会話の間へ入ることで、沈黙が長くなりすぎない。
昼食後、恵は空と二人で話した。
「今のところ、どう?」
「まだ、ごはんを食べただけです」
「帰りたい気持ちは?」
「ないです」
「不安なことは?」
「夜になってから考えます」
「分かった」
恵は午後三時まで滞在した。
空の寝る部屋と連絡手段をもう一度確認し、由美と賢司にも注意事項を伝える。
「では、八時に電話します」
「はい」
「何かあったら、八時を待たなくていいからね」
「分かってます」
玄関の扉が閉まった。
空と由美と賢司だけになった。
先ほどまでと同じ家なのに、急に広くなった気がした。
由美が空を見る。
「何をしようか」
「何でもいいです」
「映画を見る?」
「見たいものがないです」
「買い物へ行く?」
「夕食の?」
「それもあるけど、近所を歩くだけでも」
空は鞄の中の課題を思い出した。
「宿題してもいいですか」
「もちろん」
「せっかく来たのに?」
「宿題も、空さんの普段の生活でしょう」
由美の答えに、空は少し安心した。
「どこでやる?」
「この部屋で」
リビングを指す。
「使っていない部屋じゃなくていいの?」
「机がないから」
「ダイニングテーブルを使って」
空はノートと教科書を広げた。
数学の課題だった。
教科書の例題を読み、問題を解く。数式を書き始めると、由美と賢司の動きが気にならなくなった。
賢司はソファで仕事の資料を読み始めた。由美は仕事部屋から一冊の本を持ってきて、空の向かいへ座った。
三人とも別のことをしている。
若葉ホームで宿題をするときは、芽衣が話しかけてきたり、莉子が音楽を流したりする。職員が誰かを呼ぶ声も聞こえる。
朝倉家では、紙をめくる音と、シャープペンシルがノートを擦る音しか聞こえない。
最初は落ち着かなかった。
自分が立てた音だけが、部屋中へ広がっている気がする。
消しゴムを落とすと、由美が顔を上げた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「音がしたから」
「消しゴムを落としたくらいで謝らなくていいよ」
由美は再び本へ視線を戻した。
空は床の消しゴムを拾った。
十五分ほどすると、賢司が席を立った。
「コーヒーを飲むけど、何か要りますか」
「いりません」
「紅茶もある」
「大丈夫です」
「ジュースは?」
「喉、渇いてません」
「分かりました」
賢司は自分と由美のコーヒーだけを用意した。
「由美は飲むって言ってないよ」
「いつも、この時間に飲むだろう」
「今日は違うかもしれない」
「要らない?」
「飲む」
「では、問題ない」
「結果だけ合ってればいいと思ってる」
「飲むか尋ねなかったことが問題?」
「そう」
「では、次から聞く」
二人のやり取りを聞き、空は顔を上げた。
「毎日、そういう話をしてるんですか」
「どういう話?」
由美が尋ねる。
「コーヒーを飲むか聞いたとか、聞かなかったとか」
「毎日ではないけど」
「夫婦って、もっと大事な話をするものだと思ってました」
「大事な話ばかりしていたら疲れるよ」
「コーヒーの話も、由美には大事らしい」
「飲むかどうかじゃなくて、聞かずに決めたことでしょう」
「結局、飲むのに?」
「そこが分からないから、何度も同じ話になるの」
空は再びノートへ目を落とした。
夫婦になれば、何も言わなくても分かり合えるわけではないらしい。
十九年暮らしても、コーヒー一杯で言い合う。
そのことが、少しおかしく、少し安心できた。
*
宿題を終えたあと、三人で夕食の買い物へ出た。
歩いて十分ほどの場所にあるスーパーは、若葉ホームの近くの店より広かった。野菜売り場だけでも何列もあり、同じ種類の商品が価格や産地ごとに並んでいる。
「何を食べたい?」
由美が空へ尋ねた。
「二人は、いつも何を食べるんですか」
「今日は鍋にしようかと話してた」
「今、初めて聞いた」
賢司が言う。
「昨日、冷蔵庫の前で言ったでしょう」
「返事を求められた覚えがない」
「聞こえてなかったんじゃない?」
「由美が独り言みたいに言ったんだろう」
空は二人を見た。
「鍋でいいです」
「何鍋が好き?」
「何でも」
「寄せ鍋、豆乳鍋、味噌鍋、キムチ鍋」
「普通ので」
「寄せ鍋かな」
由美は籠を持ち、野菜を選び始めた。
白菜一玉の価格を見て、空は隣の半分に切られたものを指した。
「三人なら、半分で足りませんか」
「長谷川さんは夕食を食べないから、三人だね」
「一玉は多いです」
「残ったら明日使えるよ」
「何に?」
「味噌汁か、炒め物」
「本当に使いますか」
「使う」
「由美、先週の大根も残ってる」
賢司が言った。
「明日使うつもり」
「先週もそう言っていた」
「じゃあ、半分にしよう」
由美は一玉を戻した。
肉売り場では、空が価格を見比べた。
「こっちのほうが安いです」
「でも、量が少ない」
「百グラムの値段も、こっちが安いです」
賢司が表示を確認した。
「本当だ」
「空さん、よく見てるね」
「食堂でも仕入れの値段を聞くことがあるから」
「海辺食堂では、空さんも買い出しするの?」
「浜田さんの奥さんと一緒に行くことがあります」
「それなら、空さんに選んでもらおう」
「全部は嫌です」
「どうして?」
「私が安いものばかり選んだら、二人が食べたいものを買えなくなるから」
「食べたいものがあるなら言うよ」
「本当に?」
「僕は牛肉も少し入れたい」
賢司が言った。
「高いです」
「少しくらいならいいだろう」
「豚肉だけで十分です」
「空さんが払うわけじゃない」
「だからです」
空の声が少し強くなった。
由美が籠を持つ手を止めた。
「私たちがお金を出すから、安いものを選ばないといけないと思ってる?」
「思ってません」
「思ってるように見える」
「二人が普段買わないものを、私が来たから買うのは嫌です」
「牛肉も、たまには買う」
賢司が言った。
「空さんのためだけじゃない。僕が食べたいから」
「本当に?」
「はい」
「だったら買えばいいです」
空は肉売り場から離れた。
数歩進んだところで、賢司が追いついた。
「怒りましたか」
「怒ってません」
「声が低かった」
「聞いたこと、覚えてるんですね」
「はい」
「お金のことを気にしすぎるの、嫌ですか」
「嫌ではない。でも、僕たちが払うものを全部、空さんが決める必要はないと思う」
「高いものを買ってもらったら、何か返さないといけません」
「夕食の肉に、お返しは求めません」
「そういうことじゃありません」
「では、どういうこと?」
空は答えられなかった。
牛肉を買ってもらったから、何を返すというのか。笑顔で食べることか。おいしいと言うことか。次も泊まりたいと伝えることか。
「今は分かりません」
「分かりました」
賢司はそれ以上聞かなかった。
結局、鍋には豚肉と少量の牛肉を入れた。
会計は由美が済ませた。空は袋詰めを手伝い、重いほうの袋を持った。
「半分持つよ」
由美が言った。
「これくらい大丈夫です」
「お金を払ったから、荷物を持つの?」
「違います。私も食べるから」
「それなら、お願いします」
由美は素直に軽い袋だけを持った。
*
夕食の準備は、三人で行った。
賢司が白菜を切り、由美が出汁を作り、空は豆腐や茸を皿へ並べた。
「賢司さん、白菜が大きすぎます」
「煮れば小さくなる」
「食べにくいです」
「口に入らなければ、そこで切ればいい」
「鍋の中で?」
「箸で分けられる」
「食堂だったら怒られます」
「家です」
賢司は大きさの違う白菜を鍋へ入れた。
由美が後ろから覗き込む。
「本当に大きいね」
「空さんも言ってる」
「二人とも細かい」
「前に、卵焼きは形も大事だって話したでしょう」
「白菜は巻かない」
「そういう問題じゃありません」
鍋を食卓へ運び、三人で囲んだ。
湯気が上がり、窓が少し曇る。
空は牛肉を一切れ食べた。豚肉とは違う脂の甘さがした。
「どう?」
賢司が尋ねる。
「おいしいです」
「無理に言ってない?」
由美が言う。
「本当においしいです」
「なら、よかった」
「でも、豚肉だけでもよかったです」
「それは別の話です」
賢司は自分の器へ牛肉を入れた。
鍋を食べている間、何度か沈黙があった。
けれど、湯気の向こうで誰かが野菜を取り、出汁を足し、空いた皿を重ねる。話さなくても、三人が同じものを食べていることは分かった。
若葉ホームでは、食事中も誰かが話している。小さい子が苦手なものを残し、職員が一口だけ食べようと促す。莉子が空のおかずを取ろうとする。
朝倉家の食卓は静かだった。
寂しいというより、まだ自分の声をどのくらいの大きさで出せばよいか分からなかった。
「毎日、三人で食べることになるんですか」
空が尋ねると、由美の箸が止まった。
「もし暮らすことになったら?」
「はい」
「毎日は難しいと思う。私も賢司も、帰りが遅い日があるから」
「私が先に食べる?」
「そういう日もあるね」
「一人で?」
「一人が嫌なら、帰る時間を合わせられる日は合わせる。でも、空さんも部活やアルバイトで遅くなるかもしれないでしょう」
「家族なら、毎日一緒に食べるんじゃないんですか」
由美は少し考えた。
「そういう家族もいると思う。でも、私たちは今まで、別々に食べる日も多かった」
「私が来たら、変えますか」
「変えられるところは変えたい」
「私のために?」
「三人で暮らすなら、三人に合う形にするために」
「二人の生活を変えたくないです」
「変えずに一人だけ増えるのは無理だよ」
由美は静かに言った。
「空さんにも変わるところがある。私たちにもある。どちらかだけが今までどおりというのは、たぶんできない」
「嫌になりませんか」
「なることもあると思う」
「私のせいで?」
「空さんのせい、と感じる日もあるかもしれない。でも、暮らし方を変えると決めるのは私たちだから、空さんだけの責任にはできない」
「賢司さんも?」
「僕も同じです」
「二人が喧嘩するかもしれない」
「すると思う」
「私が来たから?」
「空さんに関係することで喧嘩することはあるでしょう。でも、夫婦の喧嘩を空さんの責任にはしません」
賢司は大きすぎる白菜を箸で二つに分けた。
「今も、白菜の切り方で意見が違う」
「それは喧嘩じゃありません」
「喧嘩になる前に僕が折れた」
「折れた人は、そんな言い方しない」
由美が言い返す。
空は二人を見て、少し笑った。
*
午後八時になると、恵から空の携帯電話へ連絡が来た。
空は使っていない部屋へ移り、扉を閉めた。
『今、話せる?』
「はい」
『二人は近くにいる?』
「リビングです」
『部屋へ入ってこないよう伝えてある?』
「言ってませんけど、入ってこないと思います」
『鍵がない部屋だから、必要なら扉の前で声をかけないよう私から確認するよ』
「大丈夫です」
『今日、ここまでどうだった?』
空は床に座り、畳んだ布団へ背中を預けた。
「普通でした」
『普通というのは?』
「宿題して、買い物に行って、鍋を食べました」
『嫌だったことは?』
「牛肉を買うかどうかで、少し嫌になりました」
『どうして?』
「高いものを買ってもらいたくなかったから」
『二人には言えた?』
「少しだけ」
『ほかには?』
「予定表は、ほとんど消しました」
『空が決めたかったんだね』
「予定がない時間まで決められたくないです」
『うん』
「でも、何をしていいか分からない時間もありました」
『それは困った?』
「少し。でも、宿題はできました」
『帰りたい?』
空は部屋を見回した。
まだ布団を敷いていない床。閉じたカーテン。児童書の並ぶ棚。壁際に積まれた段ボール。
「今は、帰らなくていいです」
『今夜、眠れなかったら?』
「連絡します」
『我慢しなくていいからね』
「分かってます」
『二人に伝えてほしくないことはある?』
「特にありません。でも、牛肉の話は言わなくていいです」
『分かった。明日の朝にも一度、連絡するね』
通話を終えると、空はしばらく携帯電話を握っていた。
扉の向こうから、人の気配はしない。
二人が聞き耳を立てていないことは分かった。だが、何も聞こえないことが、かえって落ち着かなかった。
空は扉を開けた。
由美と賢司は、リビングのテレビを小さな音で見ていた。
「電話、終わった?」
由美が尋ねる。
「はい」
「何か、私たちに言っておくことはある?」
「今はありません」
「分かった」
「何を話したか、聞かないんですか」
「聞かないよ」
「気にならない?」
「気になる。でも、二人がいないところで話す約束だから」
由美はテレビへ視線を戻した。
空はソファの端へ座った。
画面では、旅番組が雪の町を紹介していた。出演者が温かい料理を食べ、おいしいと何度も言っている。
三人で画面を眺めた。
由美は途中で立ち上がり、台所から蜜柑を三つ持ってきた。
「食べる?」
「はい」
今度は、空が答えるまで皮を剝かなかった。
*
入浴は、空が最初だった。
洗面所には、由美たちのものとは別に、白いタオルが一枚用意されていた。
「タオル、持ってきました」
「そうだったね」
由美は白いタオルを棚へ戻した。
「シャンプーは、あるものを使っていい?」
「はい」
「洗面所の扉に鍵はあるから」
「分かりました」
「何か必要なら呼んで」
「大丈夫です」
「由美」
リビングから賢司が呼んだ。
「分かってる。もう行く」
由美は洗面所を出て、扉を閉めた。
空は内側から鍵を掛けた。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。それなのに、知らない場所で一人になった途端、自分の輪郭まで薄くなったように見えた。
浴室は若葉ホームより狭かった。
誰かが次を待っていないので、急いで洗う必要はない。それでも空は、いつもと同じ時間で入浴を終えた。
持参したタオルで髪を拭き、自分の寝間着に着替える。
洗面台に歯ブラシを置こうとして、手を止めた。
由美と賢司の歯ブラシが二本、コップに立ててある。その隣には空いた場所があった。
置けば、三本になる。
空は歯を磨いたあと、水気を拭き、歯ブラシを自分の袋へ戻した。
洗面所を出ると、由美が廊下にいた。
「ドライヤー、使う?」
「持ってきてません」
「ここにあるよ」
「借りてもいいですか」
「もちろん」
由美は洗面台の引き出しからドライヤーを出し、空へ渡した。
「使い終わったら、ここへ戻せばいい?」
「うん」
「壊したら?」
「普通に使って壊れたなら、空さんのせいにはしないよ」
「落としたら?」
「気をつけてね」
「落として壊したら、弁償します」
「そのとき考えよう」
「今決めてください」
「空さん」
由美はドライヤーを持つ空の手へ視線を落とした。
「借りるたびに、壊したときのことを決めないと使えない?」
「決めたほうが安心です」
「分かった。わざとではなく、普通に使って壊れた場合は弁償しなくていい。乱暴に扱って壊した場合は、長谷川さんたちと相談する。それでどう?」
「分かりました」
「では、使って」
由美は寝室へ向かった。
空は洗面所へ戻り、鏡を見ながら髪を乾かした。
温かな風の音に包まれている間だけ、この家の静けさが消えた。
*
午後十一時前、空は使っていない部屋へ布団を敷いた。
由美も手伝うと言ったが、断った。一人用の布団くらい、自分で敷ける。
床へ敷布団を広げ、白いシーツをかける。掛け布団と枕を置くと、部屋の中央に初めて眠る場所ができた。
それでも、空の部屋には見えなかった。
一晩だけ誰かが使う、客のための場所だった。
「暖房は、これ」
賢司が壁の操作盤を指した。
「夜中に暑かったり寒かったりしたら、自分で変えていいです」
「何度まで?」
「空さんが眠れる温度で」
「電気代は?」
「気にしなくていい」
「でも」
「風邪をひくほうが困ります」
「消して寝るかもしれません」
「その場合も、朝起きて寒くないようタイマーを――」
「賢司」
由美が廊下から止めた。
「空さんが自分で決めるって」
「分かりました」
賢司は操作盤から離れた。
「携帯電話は充電できる?」
「はい」
「水は?」
「自分で持ってきます」
「台所のコップを使っていいよ」
「ペットボトルがあります」
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
由美も扉の前に立った。
「本当に、いつでも呼んでね」
「はい」
「帰りたくなったら、長谷川さんに連絡して」
「分かってます」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉じた。
空は内側から鍵を掛けようとして、鍵がないことを思い出した。
パジャマのまま布団へ入り、照明を消す。
カーテンの隙間から、向かいの建物の光が差していた。若葉ホームの部屋より明るい。遠くで車が走る音がする。
空は目を閉じた。
莉子の寝返りの音が聞こえない。
廊下を歩く職員の足音もない。
芽衣が水を飲みに行き、誰かに注意される声もない。
海の音もなかった。
静けさの中で、自分の呼吸だけが大きくなる。
右を向き、左を向く。
枕の高さが合わない。掛け布団が軽すぎる。暖房を消すと寒く、つけると喉が乾いた。
携帯電話を見ると、午後十一時四十分だった。
恵に連絡すれば、迎えに来てくれる。
今から帰れば、日付が変わるころには若葉ホームへ戻れるかもしれない。莉子を起こさず、下段のベッドへ入れる。
空は恵の名前を画面に表示させた。
発信ボタンへ指を置く。
帰りたいのか、眠れないだけなのか、分からなかった。
朝倉家が嫌なわけではない。
由美も賢司も、約束を破っていない。部屋を勝手に作らず、空のものを用意せず、予定も押しつけなかった。
だからこそ、帰ると言う理由が見つからなかった。
理由がなくても帰ってよいと聞いている。
それでも空は発信ボタンを押せなかった。
喉が渇き、布団から出た。
ペットボトルは空になっていた。台所へ行けば水がある。
扉を開け、暗い廊下へ出た。
リビングの奥に、小さな明かりが見えた。
賢司がダイニングテーブルに座っていた。パソコンは閉じたままで、湯気の立つマグカップを両手で持っている。
「起こしましたか」
空が尋ねると、賢司が振り返った。
「起きていました」
「仕事?」
「今日はしない約束です」
賢司はマグカップを傾け、湯気の匂いを確かめるように鼻を寄せた。
「誰との?」
「由美と。空さんが泊まる日に、仕事を持ち込まないことにしました」
「私のために変えたんですね」
「空さんが来ているのに、仕事ばかりしていたら失礼だと思ったから」
「午後は資料を読んでました」
「あれは、月曜日の会議資料を確認しただけです」
空は棚に寄りかかり、腕を組んだ。
「仕事じゃないんですか」
「仕事です」
「約束、破ってる」
「由美には、三十分までならいいと言われました」
「細かいですね」
「決めておかないと、何時間でも読んでしまうから」
賢司は向かいの椅子を引いた。
「座りますか」
「水を飲みに来ただけです」
「コップは上の棚です」
空は台所へ行き、白いコップへ水を注いだ。
リビングへ戻っても、賢司は何も聞かなかった。
「眠れないんですか」
空から尋ねる。
「少し」
「どうして?」
「明日の予定を考えていました」
「予定表、ほとんど消しました」
「だから考える必要はないんですけどね」
「仕事のことも?」
「少し」
「由美さんに、仕事をしないって約束したのに?」
「考えるだけなら、止められません」
空は向かいの椅子へ座った。
「賢司さんも、眠れないことがあるんですね」
「あります」
「この家は静かなのに」
「静かでも眠れない日はあります」
「私は、静かだから眠れません」
「若葉ホームは、もっと音がする?」
「人がいる音がします」
「ここにも人はいます」
「二人しかいません」
「今夜は三人です」
賢司の言葉に、空はコップを持つ手を止めた。
「一晩だけです」
「そうですね」
「私が帰ったら、また二人です」
「はい」
「寂しいですか」
「少しは」
「帰りたくなっても、言いにくくなるから、そういうことを言わないでください」
「すみません」
賢司は素直に謝った。
「寂しいのは、僕の問題です。空さんが残る理由にはしません」
「長谷川さんに電話しようと思いました」
「今から?」
「まだ、しようと思ってるだけです」
「帰りたい?」
「分かりません」
「何が嫌でしたか」
「嫌なことは、あまりありません」
「では、眠れないだけ?」
「それも分かりません」
空は窓の外を見た。
「海の音がしないから」
「海の音?」
「若葉ホームでは、夜でも聞こえます。ここは車の音しか聞こえません」
「窓を少し開けてみますか」
「寒いです」
「すぐ閉めます」
賢司はリビングの窓を数センチだけ開けた。
冷たい空気とともに、遠くの車の音が入ってくる。電車が鉄橋を渡るような響きも、わずかに聞こえた。
「海とは違いますね」
「違います」
「でも、何も聞こえないよりはまし?」
「少し」
二人は窓の前に立ち、夜の町を見た。
道路の照明と建物の窓が、遠くまで続いている。眠っている町ではなく、誰かが今も働き、移動し、帰る途中にいる町だった。
「賢司さん」
「何ですか」
「私が、ずっと水瀬のままでも、本当にいいですか」
養子の話は自分から聞くまでしないよう、空が決めた。
だから、今は聞いてよかった。
「いいです」
「考えなかったんですか」
「普通養子縁組について?」
「はい」
「調べました」
「約束と違う」
「空さんに結論を求めないという約束です。僕たちが制度を知ることまでやめたわけではありません」
「朝倉空になってほしいですか」
賢司はすぐに答えなかった。
「いつか、空さんが望んで、法律上も親子になれたら嬉しいと思います」
「由美さんと同じですね」
「夫婦ですから」
賢司はマグカップを両手で包み、視線を空へ戻した。
「私が一生、望まなかったら?」
「残念には思うでしょう。でも、一緒に暮らした時間が消えるわけではない」
「戸籍が違ったままでも、家族になれるんですか」
「なれると思っています」
窓の外で、波の音がひとつ大きく響いた。
「どうやって分かるんですか」
「分かりません」
「また、それですか」
「一緒に暮らしながら、空さんと決めるしかないと思います」
「家族になったって、紙に書くんですか」
「空さんは、書いたほうが安心しますか」
「分かりません」
賢司は窓を閉めた。
再び部屋が静かになる。
「眠れないなら、電車の音を流せるかもしれない」
「携帯電話で?」
「環境音の動画があります」
「海の音も?」
「あると思います」
「本物じゃないです」
「そうですね」
「でも、少し聞いてみたいです」
賢司は自分の携帯電話で波の音を探した。
小さなスピーカーから、一定の間隔で波が寄せる音が流れる。
若葉ホームで聞く海とは違った。
風の強さも、遠くの漁船の音もない。波だけが同じ調子で繰り返される。
「変です」
「消しますか」
「もう少し」
空は椅子に座り、目を閉じた。
作られた波の音の向こうに、冷蔵庫の動く音と、賢司がマグカップを置く音が聞こえた。
しばらくすると、廊下から足音がした。
「二人とも、何してるの?」
由美が寝間着の上にカーディガンを羽織り、リビングへ入ってきた。
「空さんが眠れないそうです」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「長谷川さんに連絡する?」
「まだしません」
「帰りたい?」
「まだ分かりません」
由美は空の隣へ座ろうとして、一脚空けた向こうの椅子へ腰を下ろした。
「何か温かいものを飲む?」
「水を飲みました」
「牛乳は?」
「いりません」
「分かった」
由美は波の音に気づいた。
「海?」
「賢司さんが出しました」
「本物とは違うでしょう」
「同じこと言った」
賢司が言う。
「でも、少し聞いてます」
「私たち、寝室へ戻ったほうがいい?」
由美が尋ねる。
「どうして?」
「一人になりたいかと思って」
「一人だと静かすぎます」
「じゃあ、ここにいる」
「何をするんですか」
「何もしないよ」
由美は椅子の背へもたれた。
賢司も席を立たなかった。
三人で、携帯電話から流れる波の音を聞いた。
話さない時間が続いた。
それでも午後の沈黙とは違った。
今は、三人とも眠れずにいるわけではない。眠れない空のために二人が起きている。そう考えると申し訳なくなった。
「二人とも、寝ていいです」
空が言った。
「空さんは?」
「もう一回、布団に入ります」
「帰らなくて大丈夫?」
「まだ朝までいるって決めてません」
「分かった」
由美は、安心した顔を隠しきれていなかった。
空が見ていることに気づくと、表情を戻す。
「無理しなくていいからね」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
空は使っていない部屋へ戻った。
扉を閉め、布団へ入る。
携帯電話で、賢司が見つけたものとは別の波の音を探した。海鳥の声や音楽が入っていないものを選び、音量を小さくする。
偽物の波が、枕元で繰り返される。
その向こうで、由美と賢司が寝室へ戻る足音が聞こえた。
二人の扉が閉じる。
朝倉家に、人がいる音が残った。
空は、恵の名前を表示していた画面を閉じた。
*
目を覚ますと、カーテンの隙間が明るくなっていた。
携帯電話を見ると、午前八時十二分だった。
目覚ましを掛けずに、八時まで眠ったのは久しぶりだった。
夜中に何度か目を覚ました気がする。それでも、いつ眠りに落ちたのかは覚えていない。
部屋の外から、食器の触れ合う音が聞こえた。
空は布団の中で、その音を聞いた。
誰かが起きている。
朝食を準備している。
呼ばれるまで待つべきか、自分から出るべきか迷った。
そのとき、扉が二度、軽く叩かれた。
「空さん、起きてる?」
由美の声だった。
「起きてます」
「入っていい?」
「待ってください」
空は急いで起き、寝間着の上からカーディガンを羽織った。
「いいです」
扉が少しだけ開いた。
由美は中へ入らず、廊下から顔を覗かせた。
「おはよう」
「おはようございます」
「眠れた?」
「少し」
「朝ごはん、できてるけど、急がなくていいよ」
「今、行きます」
「着替える?」
「顔を洗ってから」
「分かった」
由美は扉を閉めた。
勝手に入らなかった。
それだけのことが、空には大きかった。
洗面所へ行くと、歯ブラシは二本のままだった。
空は袋から自分の歯ブラシを出し、歯を磨いた。終わると水気を拭き、再び袋へ戻す。
鏡の中の自分は、昨日より少し髪が乱れていた。
*
朝食は、トースト、目玉焼き、サラダだった。
賢司が作った目玉焼きは、片方の黄身が崩れていた。
「卵焼きより簡単だと思った」
賢司が言う。
「卵を割るときに失敗したんですか」
「フライパンへ落とすとき、殻が入った」
「取ろうとして黄身を割ったの」
由美が説明する。
「味は同じです」
「賢司さん、前にも言ってましたね」
「目玉焼きは、形が違っても目玉焼きです」
「黄身が割れたら、目玉に見えません」
「食べれば同じです」
「だから、そういう問題じゃありません」
三人で朝食を食べた。
八時半に恵から電話が入り、空は仕事部屋を借りて話した。
『朝までいられたね』
「はい」
『眠れた?』
「最初は眠れませんでした」
『連絡しようと思った?』
「思いました」
『しなかったのは、どうして?』
「分かりません」
『我慢した?』
「少しは。でも、賢司さんと由美さんが起きてきて、三人で波の音を聞きました」
『帰らないよう説得された?』
「されてません」
『朝までいると自分で決めた?』
「決めたというより、眠りました」
『それも一つの結果だね。今日、予定どおり過ごせそう?』
「はい」
『帰る時間を早めたい場合は言ってね』
「分かってます」
通話を終えてリビングへ戻っても、由美と賢司は内容を尋ねなかった。
「学校、見に行く?」
由美が聞いた。
空は窓の外を見た。
冬の空は晴れている。
「行きます」
*
朝倉家から歩いて十五分ほどの場所に、都立高校があった。
日曜日だったが、校庭では運動部が練習していた。掛け声と笛の音が、道路まで聞こえてくる。
校門の外から校舎を見上げる。
古い建物だった。新しさは今の高校と変わらないが、窓の数が多く、校庭も広い。
体育館の裏から、楽器の音が聞こえた。
「吹奏楽部かな」
由美が言った。
「日曜日も練習するんですね」
「部活によると思う」
校門脇の掲示板には、文化祭のポスターが残っていた。色鮮やかな鳥が翼を広げ、その中に行事の日程が書かれている。
空はポスターへ近づいた。
「美術部制作、と書いてある」
由美が下部の文字を読んだ。
「こういうの、やってみたい?」
「分かりません」
「食堂の黒板に似てるね」
「全然違います。こっちは絵も上手だし」
「でも、人に見てもらうものを作るところは同じでしょう」
「由美さんは、すぐ仕事につなげますね」
「ごめん」
「謝らなくていいです」
空はポスターを見つめた。
今の高校にも美術部はある。
入ろうと思ったことはなかった。
放課後は図書館へ行くか、若葉ホームへ戻る。週末は海辺食堂で働く。部活動を始めれば、その時間がなくなる。
若葉ホームから部活へ通うことを禁じられているわけではない。それでも空は、自分から希望したことがなかった。
道具を買う費用。帰宅時間。試合や発表会の送迎。小さな子どもの世話を手伝う時間。アルバイト代。
考えれば、やらない理由はいくつも見つかった。
「部活、したかった?」
賢司が尋ねた。
「考えたことがありません」
「今は?」
「少し考えてます」
「見学してみる?」
「まだ、この学校に転校するって決めてません」
「転校を決めるために見学するんです」
「今日、勝手に入ったら駄目でしょう」
「正式な見学は、相沢さんたちに相談してからです」
賢司は掲示板の学校名を確認した。
「ほかにも通える学校はあります」
「偏差値を調べるんですか」
「学校を選ぶには必要な情報です」
「部活も調べてください」
「分かりました」
「私も調べます」
「はい」
「賢司さんだけで一覧表を作らないでください」
「一緒に作る?」
「まだ作るって決めてません」
「では、空さんが必要だと言ったら」
「そうしてください」
校庭から、走る生徒たちの掛け声が聞こえた。
空は校門の前から離れた。
転校することも、朝倉家で暮らすことも決めていない。
それでも、放課後に制服のまま美術室へ向かう自分を、ほんの少しだけ想像した。
*
朝倉家へ戻ると、空は自分で布団を畳んだ。
シーツを外し、どこへ置けばよいか由美に尋ねる。
「洗濯籠へ入れて」
「布団は?」
「そこに畳んでおいてくれれば、あとで押し入れへ戻すよ」
「自分で戻します」
「上の段だから、無理しないで」
「椅子を使えば」
「転んだら危ない」
「子どもじゃありません」
「空さんだからじゃなくて、私も賢司に上のものを取ってもらうよ」
「由美は背が低いから」
賢司が言う。
「そこまで低くない」
「では、僕が戻します」
「私が使ったのに」
「家の物を家の場所へ戻すだけです」
空は畳んだ布団を賢司へ渡した。
「お願いします」
「はい」
鞄へ着替えと洗面道具を入れる。
忘れ物がないか確認した。
歯ブラシも、充電器も、ペンケースもある。
部屋には、空が持ってきたものが一つも残っていない。
「全部、持って帰るの?」
由美が尋ねた。
「はい」
「歯ブラシくらい置いていってもいいよ」
空の手が止まった。
「次が決まっていないのに?」
「また泊まることになったら使えると思って」
「置いたら、また来ないといけないみたいになります」
「そうだね。ごめん」
由美はすぐに引いた。
空は歯ブラシを鞄へ入れた。
少しだけ置いていきたいと思ったことは、言わなかった。
*
午後三時、恵が迎えに来た。
玄関で、空は灰色のスリッパを揃えた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
由美が答える。
「楽しかったかは、聞かないんですか」
「聞かない約束だから」
「約束ではありません」
「相沢さんから、帰るときに答えを求めないよう言われたの」
「そうですか」
「空さんから話したくなったら、そのとき聞く」
空は靴を履いた。
「眠れなかったけど、朝までいました」
「うん」
「鍋はおいしかったです」
「牛肉も?」
賢司が尋ねた。
「はい」
「買ってよかった?」
「おいしかったことと、買ってよかったかは別です」
「そうですか」
「でも、食べたことは後悔してません」
「分かりました」
賢司は少し笑った。
「次の宿泊については、空さんが決めてからでいい」
「はい」
「予定表は、もう作らないほうがいいですか」
「必要な時間だけ書いてください」
「起床時間は?」
「書かなくていいです」
「夕食は?」
「食べる時間になったら決めます」
「分かりました」
由美が空の顔を見た。
「また泊まりたいと思った?」
尋ねてから、自分で口を押さえた。
「ごめん。聞かないつもりだったのに」
「もう聞きました」
「答えなくていいよ」
「もう一回だけなら」
由美の目が大きくなった。
「一泊?」
「今度も一泊です」
「うん」
「二泊は、まだ嫌です」
「分かった」
「次は、歯ブラシを置いてもいいです」
言ったあと、空は由美の顔を見られなかった。
「使ったものを置くだけです。新しいのを買わないでください」
「分かった。入れる場所も、空さんに決めてもらう」
「はい」
空は玄関の扉を開けた。
廊下の冷たい空気が頬へ触れる。
「帰ってから、やっぱり次は嫌だと思うかもしれません」
空は念を押した。
「そのときは、そう言って」
由美が答えた。
「歯ブラシは?」
「次に来ると決まってから置けばいい」
「分かりました」
「気をつけて帰ってね」
「はい」
空は恵と並んで廊下を歩き出した。
振り返ると、由美と賢司は玄関の前に立っていた。
空は小さく手を上げた。
二人も手を上げる。
エレベーターの扉が閉じ、その姿が見えなくなった。
*
帰りの電車で、恵が尋ねた。
「どうだった?」
「静かでした」
「ほかには?」
「予定表は要りません」
「うん」
「賢司さんは、白菜を大きく切ります」
「それは困った?」
「食べにくかったです」
「由美さんは?」
「コーヒーを飲むか聞かれなかっただけで、賢司さんに文句を言います」
「三人で喧嘩した?」
「してません」
「嫌なことは?」
「借りるものが多いです」
「何を借りたの?」
「ドライヤーと布団と枕と、コップ」
「泊まれば、必要になるものだね」
「壊したらどうするか決めました」
「全部?」
「ドライヤーだけ」
「決めて、安心した?」
「少し」
恵は窓の外へ目を向けた。
「次も泊まりたい?」
「一回だけなら」
「一回ずつ決める?」
「はい」
「分かった。支援センターへ伝えるね」
空は鞄の外ポケットから予定表を取り出した。
赤い線で消した項目の下に、実際にしたことを書き加える。
宿題。
買い物。
鍋。
恵との電話。
波の音。
学校まで散歩。
どれも家族になるための予定ではなかった。
名字を変えるためでも、朝倉家へ移ると決めるためでもない。
三人で過ごした、初めての一晩だった。
空は用紙の一番下に、小さく書いた。
〈もう一回、一泊〉
その文字を囲まず、二重線も引かなかった。
一度ずつ確かめればいい。
夜になって帰りたくなれば、帰ることもできる。
それでも朝まで残ったことは、由美にも賢司にも決められなかった、自分自身の選択だった。




