第十五章 歯ブラシの場所
二度目の宿泊が決まったのは、最初の一泊から三週間後だった。
前日の金曜日、空は学校から若葉ホームへ戻る途中、駅前のパン屋へ立ち寄った。
財布の中身を確認してから、あんパンを一つ、カレーパンを一つ、塩パンを二つ買う。四つにしたのは、恵も一緒に朝倉家まで行くからだった。
紙袋を鞄へ入れ、若葉ホームへ戻る。
玄関で空を待っていた莉子が、すぐに匂いに気づいた。
「パン買った?」
「明日の」
「一個ちょうだい」
「駄目」
「四個もあるじゃん」
「朝倉さんたちと食べるから」
「三人なのに?」
「長谷川さんの分も」
「優しい」
「そんなんじゃない。朝ごはんにするだけ」
空は紙袋を抱え直した。
「由美さん、前にあんパン食べてたから」
「覚えてたの?」
「聞いたことだけじゃなくて、見たことも覚えてます」
「カレーパンは賢司さん?」
「たぶん食べると思って」
「塩パンは?」
「私と長谷川さん」
莉子はにやにやしながら、空の顔を覗き込んだ。
「何」
「別に」
「言いたいことがあるなら言って」
「楽しみにしてるんだなと思って」
「違う」
否定してから、空は言葉を止めた。
楽しみではないと言い切る理由が、今回は見つからなかった。
「少しは」
「え?」
「少しは、楽しみ」
莉子が大げさに目を見開いた。
「空ちゃんが認めた」
「うるさい」
「長谷川さんに言おう」
「言ったらパンあげない」
「私の分はないじゃん」
「次に買ってくる」
言ってから、空は自分でも驚いた。
次。
朝倉家へ行ったあと、またこのパン屋へ寄ることを、自然に想像していた。
莉子も気づいたようだったが、何も言わなかった。
「じゃあ、クリームパン」
「安いのでいい?」
「けち」
「自分のお金なんだから、決めるのは私」
「一番高いやつ」
「買わない」
二人は言い合いながら、談話室へ向かった。
*
翌朝、空は恵と電車に乗った。
膝の上には、着替えを入れた布製の鞄がある。前回より荷物は少なかった。宿題は金曜日の夜に終わらせ、図書館の本も持ってこなかった。
「今回は予定表、持ってないの?」
恵が尋ねた。
「賢司さんが作らないって言ってました」
「空は、何をしたいか考えてきた?」
「午後に学校を見せてもらいます」
「正式な見学だね」
「はい」
前回、校門の外から見た都立高校だった。支援センターが学校へ連絡し、校内を案内してもらえることになっている。
転校を決めるための見学ではない。
今の学校と比較するため。
何度もそう説明された。それでも空は、どんな教室があり、どんな生徒がいるのか気になっていた。
「美術部も見られるそうです」
「楽しみ?」
空は窓の外を見た。
冬の田畑が後ろへ流れていく。
「少し」
「そう」
「今、驚きませんでした?」
「どうして?」
「私が楽しみって言ったから」
「楽しみなことを楽しみと言っただけでしょう」
「莉子は驚きました」
「莉子は空をからかいたかったんじゃない?」
「たぶん」
空は鞄の外ポケットを開けた。
「パンを持ってきました」
「朝倉さんたちに?」
「長谷川さんの分もあります」
「ありがとう」
「朝ごはんに食べるつもりです。贈り物じゃありません」
「分かった。朝食への持ち寄りだね」
「相沢さんに確認しました」
「そこまでしたの?」
「何か持っていくなら、聞いたほうがいいと思って」
「うん。空が安心できるなら、それでいいよ」
恵は窓へ視線を戻した。
空は鞄の中の紙袋に触れた。
前回は、何かを受け取るたびに返す方法を考えた。
今回は、自分から持っていくものがある。
パン四個で何かが釣り合うわけではない。それでも、朝倉家へ行く自分が、空の鞄だけを持つ客ではなくなる気がした。
*
駅の改札を出ると、由美と賢司が待っていた。
賢司は手に何も持っていない。
空は周囲を見回した。
「予定表は?」
「作っていません」
「本当に?」
「携帯電話の予定には、学校見学の時間と帰りの電車だけ入っています」
「見せてください」
「確認しますか」
「冗談です」
空が言うと、賢司は一瞬黙った。
「今のは、冗談だったんですか」
「分かりませんでした?」
「半分くらい本気かと」
「少しは本気です」
「やっぱり」
由美が笑った。
「空さん、今日は前より表情が柔らかいね」
言われた途端、空の顔から笑みが消えた。
「あ、ごめん。そういうことを言われると困るよね」
「少し」
「もう言わない」
「今日は、パンを持ってきました」
空は話題を変えた。
「パン?」
「明日の朝、食べる分です。由美さんはあんパンで、賢司さんはカレーパン。違うほうがよければ交換してください」
由美が紙袋を受け取った。
「私があんパンを好きなの、覚えてたの?」
「この前、海の町で食べてました」
「ありがとう」
「高いものじゃありません」
「値段に対してじゃなくて、覚えていてくれたことにお礼を言ったの」
由美は紙袋を胸へ抱えなかった。中を何度も覗いたりもしない。買い物袋と同じように片手で持った。
それが空には心地よかった。
「カレーパンも好きです」
賢司が言った。
「たぶん食べると思いました」
「どうして?」
「牛肉を買いたがってたから」
「カレーとは関係ないと思います」
「肉が好きそうです」
「否定はしません」
「やっぱり」
四人で駅を出た。
恵は朝倉家で昼食を取ったあと、空たちと一緒に高校を見学し、夕方には近くの宿泊施設へ移ることになっている。
朝倉家へ向かう道を、空は前回より覚えていた。
コンビニの角を曲がり、小さな公園を通り過ぎる。大通りの信号を渡れば、マンションが見える。
「こっちで合ってますよね」
空が言うと、賢司がうなずいた。
「覚えていたんですね」
「地図を見なくても分かります」
「前回、一度しか歩いてないのに」
「賢司さんより方向は分かります」
「僕は、この辺りで迷ったことはありません」
「旅行では迷ってました」
「あれはカーナビの指示が」
「まだ言い訳するんですか」
「空さん、賢司には本当に遠慮がないね」
由美が笑う。
「嫌ですか」
空が賢司へ尋ねる。
「いいえ」
「本当に?」
「何でも同意するつもりはありませんが、言いたいことを言ってもらうのは嫌ではないです」
「じゃあ、予定表は細かすぎます」
「それはもう聞きました」
「覚えてるならいいです」
空は少し先を歩いた。
前回は、二人の後ろをついてマンションへ向かった。
今日は曲がり角が分かる。
それだけで、知らない町ではなくなったように感じた。
*
玄関には、前回と同じ灰色のスリッパが置かれていた。
空は自分で履き、鞄を持って使っていない部屋へ向かった。
「ただい――」
言葉が口から出かけ、止まった。
誰にも聞こえなかったと思ったが、後ろにいた由美が足を止めた。
空は何も言わず、部屋の扉を開けた。
中は前回と同じだった。
中央には畳んだ布団が置かれ、壁際には段ボールや旅行鞄がある。絵本も、同じ順番で棚に並んでいた。
新しいものはない。
「何か、言いかけた?」
由美が尋ねた。
「何も」
「そう?」
「荷物、置きます」
空は鞄を床へ置いた。
胸の内側が熱かった。
ただいま、と言いかけた。
一度泊まっただけの家に。
自分でも信じられなかった。
由美が聞き取らなかったことに安堵しながら、聞いてほしかったような気もした。
「先に、歯ブラシを置いてもいいですか」
「もちろん」
空は鞄から歯ブラシの入った袋を取り出した。
洗面所には、由美と賢司の歯ブラシが二本並んでいる。前回と同じだった。
「どこに置く?」
由美が尋ねる。
「空いているところ」
「この歯ブラシ立て、四本まで入るよ」
白い陶器の歯ブラシ立てには、穴が四つあった。
左から、賢司の青い歯ブラシ。由美の白い歯ブラシ。一つ空けて、最後の穴も空いている。
空は自分の緑色の歯ブラシを持ったまま迷った。
二人の間へ置けば、三本が並ぶ。
一つ離して置けば、自分だけ別になる。
「どこでもいいよ」
由美は急かさなかった。
空は、由美の白い歯ブラシの隣へ、自分のものを差した。
青、白、緑。
三本が間を空けずに並んだ。
「ここにします」
「うん」
「勝手に動かさないでください」
「掃除するときは?」
「掃除が終わったら、同じところに戻してください」
「分かった」
「私が来なくなったら、捨てていいです」
「すぐには捨てないと思う」
「どうして?」
「忘れ物かもしれないから、支援センターへ確認する」
「そうしてください」
空は洗面所を出ようとした。
「空さん」
「何ですか」
「置いてくれて、ありがとう」
「またお礼ですか」
「うん」
「歯ブラシを置いただけです」
「それでも、嬉しかったから」
由美の目は潤んでいなかった。大げさに喜んでもいない。
空は何と答えればよいか迷い、洗面台の鏡を見た。
三本の歯ブラシが、鏡の下に映っている。
「私も」
言葉が小さくなった。
「何?」
「置く場所があって、少し嬉しかったです」
由美は笑った。
何も言わず、それ以上喜びを見せなかった。
空は今度こそ洗面所を出た。
*
昼食後、四人は高校へ向かった。
前回は閉まっていた校門が開いている。昇降口では担当の教員が待っていた。
相沢から事情を聞いているらしく、教員は空へ必要以上に優しい声を出さなかった。
「今日は校内を見て、聞きたいことがあれば何でも聞いてください。転入を決めるための試験や、単位の確認は別の日になります」
「はい」
「今は一年生ですね」
「はい」
「新年度から二年生として転入する場合、今の学校で取得した単位を確認します。授業の進み方が違う科目については、補う必要があるかもしれません」
「春から入れると決まったわけではないんですよね」
「そうです。手続きと試験があります。ただ、検討するために学校を知ってもらうことはできます」
廊下を歩きながら、教員が教室や特別教室を案内した。
冬休み明けの校舎には、文化祭や部活動の掲示物がまだ残っていた。生徒会が作った新聞、写真部の作品、美術部の展覧会案内。
空は足を止めた。
廊下の壁に、手描きのポスターが並んでいる。
動物愛護の募金、図書委員会の読書週間、演劇部の公演。印刷された文字だけでなく、絵具や色鉛筆で描かれたものも多い。
「これは美術部が作ったんですか」
空が尋ねた。
「全部ではありません。各部活動の生徒が作ったものもあります。文化祭の大きな看板は、美術部が中心です」
「途中からでも入れますか」
「もちろん。ただ、活動内容によっては一年生から準備しているものもあります」
「絵が上手じゃないと駄目ですか」
「美術部については、顧問の先生から聞きましょうか」
教員は空たちを美術室へ案内した。
扉を開けると、絵具と木材の匂いがした。
室内には、三人の生徒がいた。一人は大きな紙に背景を塗り、二人は段ボールを切っている。
「来年度の新入生歓迎会で使うものを作ってるんです」
顧問の女性教員が説明した。
「今日は部員が少ないですが、普段は十人くらい。絵を描く人もいれば、立体作品やポスターを作る人もいます」
「初心者でも入れますか」
空が尋ねた。
「経験のない生徒もいます。絵を描くことだけが活動ではないから、興味があれば見学からで大丈夫ですよ」
作業をしていた女子生徒が顔を上げた。
「文化祭では、パンフレットも作ります。パソコンを使う人もいるし、看板の文字だけ担当する人もいます」
「文字だけでも?」
「私、人物の絵が苦手だから、去年は文字と背景をやりました」
女子生徒は、作りかけの看板を指した。
赤い文字の周りに、白い線が引かれている。遠くからでも読めるよう、文字の間隔が広く取られていた。
「離れて見ると、こっちのほうが読みやすいんです」
空は数歩下がって見た。
「本当だ」
「近くで見てきれいでも、体育館の後ろから読めないと意味がないから」
海辺食堂の黒板を作ったとき、由美も似たようなことを言っていた。どこへ置き、誰に見てもらうかで変わる。
「私、食堂の黒板を書いたことがあります」
空は自分から言った。
「おすすめの料理とか、値段とか」
「それなら、ポスターも向いてると思う」
「絵は、あまり描けません」
「黒板の写真、ある?」
「あります」
空は携帯電話を取り出し、秋鯖の塩焼き定食を書いた黒板の写真を見せた。
女子生徒は画面を覗き込んだ。
「見やすい。魚の絵もかわいい」
「絵は、食堂の人が描きました」
「文字の色、二色だけなんだ」
「増やすと、どこを見ればいいか分からなくなるから」
「誰かに教わったの?」
空は少し離れた場所にいる由美を見た。
由美は口を挟まず、空の返事を待っている。
「出版社で広告を作ってる人に、少しだけ」
「すごい。家族?」
空の胸が縮んだ。
「違います」
すぐに答えたあと、由美の表情を見そうになり、やめた。
「今、お世話になってる人です」
その言葉が正しいのか分からなかった。
東京の知り合い。
お世話になっている人。
里親になるかもしれない人。
どれも間違いではないが、すべてを表してはいない。
「その人も今日来てるんですか」
「はい」
「じゃあ、聞きたいこと、たくさん聞けそう」
「たくさん聞くと、仕事の計画を立てられます」
空が言うと、由美が困った顔をした。
「今日は立てないよ」
女子生徒が笑った。
「仲いいんですね」
空は否定しようとして、口を閉じた。
「まだ、分かりません」
「何が?」
「仲がいいかどうか」
空はもう一度、由美を見た。
「でも、前よりは話します」
由美の口元が、静かに緩んだ。
顧問から活動日や必要な道具について聞いた。週に三日。文化祭前は土曜日にも活動する。道具は学校のものを使えるが、個人で購入するものもある。
「アルバイトと両立してる人はいますか」
「います。ただ、毎回参加できないときは、事前に相談してもらっています」
「途中から入っても、迷惑じゃないですか」
「迷惑かどうかではなく、自分が何をしたいか考えてみてください」
顧問の言葉に、空はうつむいた。
自分が何をしたいか。
その問いを向けられると、いつも困った。
できるか。お金は足りるか。誰かに迷惑をかけないか。卒業後の役に立つか。
空は、やりたいことより先に、できない理由を探す癖がついていた。
「やってみたいです」
声が思ったよりはっきり出た。
由美も賢司も、何も言わない。
顧問がうなずいた。
「転入することになったら、いつでも見学に来てください」
「はい」
空はもう一度、作りかけの看板を見た。
自分がこの場所で絵具のついた筆を持ち、誰かと相談しながら文字を描く姿を、前回より鮮明に想像できた。
*
高校から朝倉家へ戻る途中、空は由美と並んで歩いた。
恵と賢司は数歩前にいる。
「美術部、入りたい?」
由美が尋ねた。
「入ってみたいです」
今度は迷わず答えた。
「そう」
「どうして、もっと喜ばないんですか」
由美が驚いた顔をした。
「喜んでいいの?」
「分かりません」
「空さんがやってみたいと思ったことは嬉しい。でも、私が喜びすぎたら、入らなきゃいけないと思わせるでしょう」
「少しくらいなら、喜んでもいいです」
「じゃあ、少しだけ」
由美は両手を胸の前で小さく握った。
「嬉しい」
「何ですか、それ」
「少しだけ喜んでる」
「変です」
空は笑った。
「今の学校では、部活に入ろうと思わなかったの?」
「中学のときも、あまり考えませんでした。若葉ホームに帰れば、小さい子もいるし、バイトもしたかったから」
「小さい子の世話をするよう、頼まれてる?」
「毎日じゃありません。でも、芽衣が宿題を聞きに来たり、花音が職員さんと喧嘩したときに話を聞いたりします」
「空さんがいなくても、若葉ホームは大丈夫だよ」
「分かってます」
空の声が少し硬くなった。
由美はすぐに言葉を足さなかった。
「分かってるけど」
空は自分から続けた。
「私がいなくなったら、莉子は一人であの部屋を使うことになります」
「寂しがると思う?」
「寂しいって言わないと思います」
「空さんも?」
「私も言わないと思います」
「今は?」
「少し寂しいです」
空は前を歩く恵の背中を見た。
「まだ朝倉さんたちの家へ行くって決めてないのに、若葉ホームを出ることを考えると寂しいです。でも、転校したら部活ができるかもしれないと思うと、楽しみです」
「うん」
「両方思うのは、ずるいですか」
「ずるくないよ」
「由美さんは、私が寂しいって言ったら、来なくていいって思いますか」
「思わない」
「楽しみって言ったら、早く来てって思う?」
「思うかもしれない。でも、急がせないようにする」
「本当のことを言っても、どちらかに決めなくていいですか」
「いいよ」
由美は空の顔を覗き込まなかった。進行方向を見たまま歩いている。
「私も、嬉しいことと寂しいことを同時に感じることがあるから」
「どんなとき?」
「仕事で大きな企画を任されたとき。嬉しいけど、失敗したらどうしようと思う。友達が子どもの話をするときも、幸せそうで嬉しいけど、自分にはなかったことを考えて寂しくなる」
「今も?」
「今も」
「私がいるのに?」
由美の足がわずかに遅くなった。
「空さんと会っていることと、私が子どもを持てなかったことは別だから」
「私がいても、寂しいんですね」
「寂しい気持ちを消すために、空さんに来てほしいわけじゃないの」
「前にも言ってました」
「うん」
「今は、前より分かる気がします」
空は言った。
「私も、二人の家へ行きたいことと、若葉ホームを離れたくないことが一緒にあるから」
由美はしばらく黙っていた。
「似てるね」
「少しだけ」
二人は歩く速度を上げ、恵と賢司へ追いついた。
*
夕食は、空の希望でお好み焼きに決まった。
「どうして、お好み焼き?」
スーパーでキャベツを選びながら、賢司が尋ねた。
「鍋は、三人とも黙って食べる時間が長かったから」
「静かなのが嫌だった?」
「嫌じゃないけど、今日は何かしながら食べたいです」
「ホットプレート、しばらく使ってないね」
由美が言った。
「動くんですか」
「たぶん」
「確認してから材料を買ったほうがよくないですか」
「昨日、賢司が出してたよ」
「聞いてない」
「動作確認だけです。予定表は作っていません」
「お好み焼きを作るって、決めてたんですか」
空が疑うと、賢司が首を横に振った。
「由美が、もしかしたら空さんは皆で作れる料理を選ぶかもしれないと言ったので」
「もし私がカレーって言ったら?」
「ホットプレートは片づけました」
「何でも準備するんですね」
「準備したことを、選ぶよう求めなければ問題ないと思います」
空は少し考えた。
「そうですね」
「今のは、賢司さんの考えに賛成した?」
由美が尋ねる。
「たまには」
「珍しい」
「そんなに驚かなくても」
三人で材料を選んだ。
キャベツ、豚肉、山芋、葱、卵。由美が海老を籠へ入れようとしたが、空が価格を見て迷う。
「海老は、三人とも食べたいから買います」
由美が先に言った。
「まだ何も言ってません」
「顔に出てた」
「二人に言われたくありません」
由美が笑い、海老を籠へ入れた。
前回と同じように、空は袋詰めを手伝った。
由美が支払い、空と賢司が一袋ずつ持つ。
今回は、支払った金額を何度も確認しなかった。
*
朝倉家へ戻ると、恵は空と二人で短く話したあと、宿泊先へ移った。
空は玄関まで見送った。
「八時に電話するね」
「はい」
「何かあったら、それより前でも」
「覚えてます」
「今日は、昨日より楽しそうな顔してる」
「長谷川さんまで言うんですか」
「ごめん」
「でも、今日はいいです」
恵が少し驚いた顔をした。
「楽しいです」
自分から言うと、胸がくすぐったくなった。
「そう」
「それだけ?」
「大げさに喜んだら、空が嫌がるでしょう」
「皆、気を使いすぎです」
「空が気を使わせたところもあるんじゃない?」
「そうかもしれません」
空は笑った。
「八時に電話します」
「うん」
恵が帰ったあと、空は玄関の扉を閉めた。
リビングへ戻ると、由美と賢司がホットプレートを出している。
「長谷川さん、行きました」
「うん」
「今日は、まだ帰りたくないです」
空は自分でも驚くほど自然に言った。
由美はホットプレートを持ったまま動きを止めた。
「今、喜んでいい?」
「少しくらいなら」
「嬉しい」
「それ、前にもやりました」
「少しだけ喜ぶ方法が、ほかに思いつかないの」
賢司がホットプレートのコードを差し込んだ。
「喜ぶ前に、これが動くか確認します」
「昨日、確認したんでしょう」
「移動させたときに、コードが抜けかけたかもしれない」
「本当に賢司さんらしいですね」
空が言うと、賢司が顔を上げた。
「僕らしい、というのが分かるようになりましたか」
「少しは」
「三回会えば少し分かると言っていたから、今はもっと分かる?」
「予定を作る。心配する。料理の形は気にしない。地図を見る。説明が長い」
「悪いところばかりですね」
「カレーパンが好き」
「それは悪いところではない」
「由美さんのことも分かります」
「何?」
「すぐ謝る。すぐ先のことを考える。あんパンが好き。本を読んでると返事をしない」
「最後は賢司から聞いたでしょう」
「本当に返事しないのか、今度試します」
「やめて」
由美が笑った。
空も声を上げて笑った。
笑い声がリビングへ広がった。
前回は、自分が出した音が部屋中へ響くことが怖かった。
今は、静かな家の中へ自分の声が混じることが、少し嬉しかった。
*
夕食の準備では、賢司がキャベツを切った。
「大きいです」
空が言う前に、賢司が包丁を止めた。
「まだ、二回しか切っていません」
「その二回が大きいです」
「お好み焼きにすれば、多少大きくても」
「火が通りにくいです」
「では、空さんが見本を見せてください」
空は賢司から包丁を受け取り、細く刻んだ。
「このくらい」
「細かすぎない?」
「さっきまで、形は気にしないって言ってたでしょう」
由美が指摘する。
「火の通り方に関わるなら、話は別です」
「都合がいいですね」
空が言う。
「料理は理屈です」
「卵焼きはできないのに?」
「練習中です」
生地を作り、キャベツ、葱、山芋、卵を混ぜる。
ホットプレートへ丸く流し、豚肉と海老を載せた。
「誰が返す?」
由美が尋ねた。
「賢司さん」
空が答える。
「どうして僕?」
「形を気にしないから」
「失敗する前提ですか」
「一枚目は、賢司さんの練習です」
賢司は二本のへらを持ち、生地の下へ差し込んだ。
「まだ早くない?」
由美が言う。
「表面が乾いてきた」
「中は?」
「返さなければ分からない」
「空さんはどう思う?」
「もう少し待ったほうがいいです」
「二対一か」
「多数決じゃないです」
賢司が待ってから勢いよく返す。
お好み焼きは途中で傾き、端の一部が折れた。
「あ」
三人の声が重なった。
「形は気にしないんでしょう」
空が笑う。
「味は同じです」
「またそれ」
由美が折れた部分をへらで寄せた。
「二枚目は、三人で返そう」
「三人で?」
「へらが二本しかありません」
賢司が言う。
「私は掛け声をする」
「それは作ったことにならないでしょう」
「朝倉家では、応援も役割なの」
「今、作りましたね、その決まり」
空は笑いながら、二枚目の生地を流した。
一枚目のお好み焼きは形が崩れていたが、味は悪くなかった。
「おいしい」
空が自分から言うと、由美が箸を止めた。
「本当に?」
「本当に。海老を入れてよかったです」
「よかった」
「買ってもらったから言ってるんじゃありません」
「分かってる」
「前は、分からなかったでしょう」
「今日は分かる気がする」
「どうして?」
「空さんが笑ってるから」
空は自分の口元へ触れた。
「笑ってなくても、本当のことはあります」
「そうだね。ごめん」
「でも、今日は本当に楽しいです」
言葉にすると、胸の奥が少し軽くなった。
楽しいと言えば、次も来なければならないと思っていた。
由美と賢司に期待させると考えていた。
だが、今日が楽しいことと、次に来るかどうかは別だ。自分で分けて考えてよいのだと、ようやく思えた。
「私も楽しい」
由美が言った。
「僕も」
賢司が続ける。
「二人は、私が来たからでしょう」
「空さんも、僕たちがいるからでは?」
賢司に言われ、空は少し考えた。
「そうです」
認めても、負けたような気持ちにはならなかった。
*
午後八時の電話で、空は恵に言った。
「今日は楽しいです」
『うん』
「驚かないんですか」
『驚いてほしい?』
「少しくらい」
『それなら、少し驚いた』
「嘘っぽいです」
『空が楽しいと言えるくらい、安心できたことは嬉しいよ』
「でも、ずっと住みたいって決めたわけじゃありません」
『楽しいと感じるたびに、決めてないって言わなくてもいいんじゃない?』
「どうして?」
『空が決めるまで、誰も結論にしないと約束したでしょう』
「二人は、期待してると思います」
『期待することまで止めるのは難しいよ。でも、その期待に応えるかどうかは空が決めることじゃない』
「前より、楽しいって言っても怖くなくなりました」
『うん』
「部活も、やってみたいです」
『美術部?』
「はい。黒板より大きいものを作ってみたい」
『いいね』
「今の学校を離れるのは、嫌です」
『それも話した?』
「由美さんに少し」
『賢司さんには?』
「まだです」
『話したいと思ったら話せばいいよ』
「今日、夜中に眠れなかったら、どうしますか」
『まず空がどうしたいか考える。迎えに来てほしいなら行くし、電話で話したいなら話す』
「今日は、眠れる気がします」
『そう』
「波の音がなくても」
『朝になったら、また教えて』
通話を終えると、空はしばらく携帯電話を見つめた。
恵に楽しいと言った。
部活をやりたいとも言った。
どちらも、誰かに言わされた言葉ではなかった。
*
入浴を終え、空は洗面台の前に立った。
三本並んだ歯ブラシのうち、緑色のものを取る。
歯を磨き終わると、前回のように水気を拭いて袋へ戻す必要はなかった。
由美の白い歯ブラシの隣へ差し戻す。
ドライヤーは、何も尋ねずに借りた。
壊した場合の話もしなかった。
乱暴に扱わなければいい。使い終わったら元へ戻せばいい。
それだけのことだった。
髪を乾かしてリビングへ行くと、由美と賢司が古い写真を見ていた。
「何の写真ですか」
空が隣へ座る。
「結婚式の写真」
由美がアルバムを少し傾けた。
白いドレス姿の由美と、黒い礼服を着た賢司が並んでいる。今より若いが、二人だとすぐに分かった。
「賢司さん、髪が長い」
「今よりは」
「由美さん、細い」
「今も変わらないよ」
「少し違います」
「正直だね」
「由美のドレスは、食事をすると苦しかったらしい」
賢司が言う。
「それ、今言わなくていいでしょう」
「自分で、ケーキを食べられなかったと言っていた」
「二人は、どうやって知り合ったんですか」
空が尋ねると、由美と賢司が顔を見合わせた。
「友達の結婚式」
由美が答えた。
「私の大学時代の友達と、賢司の会社の先輩が結婚したの」
「その日に話したんですか」
「受付で、賢司がご祝儀袋を落としたから」
「落としていない。鞄へ入れようとして、少し手を滑らせただけだ」
由美はその言い訳がおかしいというように、口元を緩めた。
「床に落ちたんでしょう」
「由美が拾いました」
「何て言ったんですか」
「大事なものですよ、って」
「そんな言い方だった?」
「もっと怖かった」
賢司が心外だという顔をした。
「失礼ね」
「それで、賢司さんが由美さんを好きになったんですか」
「そのときは、怖い人だと思いました」
「由美さんは?」
「頼りなさそうな人だと思った」
「お互い、最初は好きじゃなかったんですね」
「そうだね」
「何回目で好きになったんですか」
空の質問に、由美が笑った。
「面接みたい」
「聞かれたくないなら、いいです」
「嫌じゃないよ。何回目かは覚えてないけど、賢司が自分の失敗を隠さない人だと分かってからかな」
「失敗?」
「待ち合わせの店を間違えたり、映画の時間を勘違いしたり」
「今と同じですね」
「今ほど携帯電話が便利じゃなかったから」
賢司が反論する。
「携帯電話があっても、旅行で道に迷ったでしょう」
「それを言われると、返せません」
空はアルバムの頁をめくった。
二人が旅行先で撮った写真。新しい家へ引っ越した日の写真。由美が赤い糸で直した鞄も、古い写真の中に写っている。
「二人の写真ばかりですね」
「子どもがいないから」
由美が言い、すぐに空を見た。
言葉を取り消そうとしたようだった。
「謝らなくていいです」
空が先に言った。
「本当のことでしょう」
「うん」
「二人だけでも、たくさん写真があります」
「十九年分だからね」
「若葉ホームにも写真があります。皆で海へ行ったときとか、運動会とか」
「空さんも写ってる?」
「だいたい、端です」
「どうして?」
「真ん中へ行くと、小さい子が前に入ってくるから」
「見てみたい」
由美が言った。
「そのうち」
「うん」
「今すぐ送ってとは言わないんですね」
「言わない。空さんが見せたいと思ったら見せて」
「一枚くらいなら、次に持ってきます」
口にしてから、空はアルバムを見たまま続けた。
「莉子と一緒に写ってるのがあります。海で、二人とも髪がぐちゃぐちゃになってるやつ」
「楽しみにしてる」
「期待しすぎないでください」
「少しだけにする」
由美が言う。
空は笑った。
*
夜十一時、空は自分で布団を敷いた。
扉を閉めようとして、少し迷う。
「開けておく?」
廊下にいた由美が尋ねた。
「少しだけ」
「どのくらい?」
空は扉を手のひら一枚分だけ開けた。
「これくらい」
「分かった。リビングの明かりは消すけど、廊下の足元灯はつけておくね」
「はい」
「波の音は?」
「今日は、なくて大丈夫です」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
由美が寝室へ戻る。
空は布団へ入った。
扉の隙間から、廊下の柔らかな光が差している。
寝室から、由美と賢司の声が小さく聞こえた。何を話しているかまでは分からない。やがて扉が閉まり、家は静かになった。
前回と同じ静けさだった。
けれど洗面所には、空の歯ブラシが残っている。
自分がこの家にいることを示すものが、鞄の外にも一つある。
携帯電話で波の音を探す必要はなかった。
空は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、明日の朝、あんパンとカレーパンを三人で食べる光景が浮かんだ。
*
朝、空はコーヒーの香りで目を覚ました。
時計を見ると七時半だった。
扉の隙間から、台所の音が聞こえる。
空は起き上がり、寝間着のまま廊下へ出た。
由美が台所で湯を沸かしている。賢司はまだ起きていないらしい。
「おはよう」
由美が振り返った。
「おはようございます」
「眠れた?」
「はい」
「波の音は?」
「聞きませんでした」
「そう」
由美は嬉しそうにしたが、何も言わなかった。
空は持ってきた紙袋を開けた。
「あんパンです」
「覚えていてくれたんだね」
「昨日も言いました」
「もう一回、嬉しかったから」
由美はあんパンの袋を大事そうに持ち直した。
「カレーパンは、賢司さんが起きてから温めます」
「塩パンは?」
「私と長谷川さんの分だったけど、長谷川さんはここで朝ごはんを食べないから、一個余ります」
「半分ずつ食べる?」
「誰と?」
「私と空さん」
空は棚からもう一枚、皿を取り足した。
「由美さんは、あんパンも食べるでしょう」
「半分なら食べられる」
「朝から食べすぎです」
「空さんも半分食べるんでしょう」
「そうでした」
二人で塩パンを半分に切った。
由美が皿を出そうとしたので、空が食器棚を開けた。
白い皿を二枚取り出す。
下段の奥に、黄色い縁取りの皿が見えた。位置は前回と変わっていない。
空はそれに触れず、棚を閉じた。
「コーヒー、飲んでみる?」
由美が尋ねた。
「苦いですか」
「牛乳を入れれば、少しは」
「由美さんのは?」
「ブラック」
「苦くないんですか」
「最初は苦かったけど、仕事を始めてから飲むようになった」
「苦いものに慣れるの、大人っぽいですね」
「大人でも、苦いものは苦いよ」
「少しだけ飲んでみたいです」
由美は小さなカップへコーヒーを注ぎ、牛乳を多めに入れた。
空は一口飲んだ。
「苦い」
「牛乳、足す?」
「もう少し飲みます」
二口目は、最初より苦くなかった。
「おいしい?」
「まだ分かりません」
「無理しなくていいよ」
「でも、嫌いじゃないです」
寝室の扉が開き、賢司が出てきた。
「おはようございます」
空が言うと、賢司は目を細めた。
「おはようございます。早いですね」
「七時半です」
「休日なら早い」
「カレーパン、温めますか」
「お願いします」
「自分で温めてください」
「今、お願いしますと言ったのに」
「トースターの使い方が分からないので、教えてください」
空は自分から笑った。
由美も笑い、賢司はまだ眠そうな顔でトースターの前へ立った。
*
帰る時間が近づくと、空は布団を畳み、着替えを鞄へ入れた。
洗面所へ行き、忘れ物がないか確認する。
緑色の歯ブラシだけは、持ち帰らなかった。
青、白、緑。
三本が同じ歯ブラシ立てに並んでいる。
「本当に置いていく?」
由美が洗面所の入口から尋ねた。
「昨日、置くって言いました」
「うん」
「次に来なかったら、相沢さんに聞いてください」
「分かった」
「勝手に新しいものと替えないでください」
「同じ場所に置いておく」
「毛先が開いたら?」
「空さんに聞く」
「そこまで聞かなくていいです。自分で替えます」
「じゃあ、そうして」
空は鏡の中の由美を見た。
「由美さん」
「何?」
「昨日、楽しかったです」
由美は振り返った。
「学校も、お好み焼きも、写真を見たのも」
「うん」
「夜も眠れました」
「うん」
「次は、二泊でもいいかもしれません」
由美の目が大きくなる。
「本当に?」
「まだ決めてません」
「決めてから言って」
「由美さんが喜ぶと思って」
「喜ばせようとして言ったの?」
「違います。私も、もう少しいてもいいと思いました」
「それなら、嬉しい」
由美は空へ近づこうとして、足を止めた。
抱き締められると思った。
空は体を引きかけた。
「ごめん。今、抱き締めたくなった」
由美が言った。
「しないんですか」
「空さんが嫌かもしれないから」
空は由美を見た。
由美は両腕を下ろし、答えを待っている。
抱き締められた記憶を、空はほとんど持っていなかった。小さい子を抱き締めたことはある。芽衣が泣いたときに背中へ腕を回したこともある。
自分が抱き締められる側になることは、想像すると息苦しかった。
それでも、由美の腕を拒みたいとは思わなかった。
「少しだけなら」
空は言った。
「本当に?」
「嫌になったら離してください」
「うん」
由美がゆっくり腕を伸ばした。
空の肩と背中へ、柔らかな力が触れる。
強く抱き締めず、逃げられる隙間を残している。
由美のカーディガンから、洗剤とコーヒーの匂いがした。
空は腕を上げられなかった。両手を体の横へ下ろしたまま、由美の肩越しに洗面台を見た。
三本の歯ブラシが並んでいる。
数秒後、空から一歩下がった。
由美はすぐに腕を離した。
「これくらいでいいです」
「うん」
「嫌じゃなかったです」
「ありがとう」
「またお礼」
「これは言わせて」
由美は目元を押さえた。
「泣いてるんですか」
「少しだけ」
「泣かないでください」
「嬉しいだけだから、空さんは何もしなくていい」
空は迷ったあと、由美の袖を指先でつまんだ。
「一回だけですよ」
「分かってる」
「次もするって決めたわけじゃありません」
「うん」
「でも」
空は袖を離した。
「私も、少し嬉しかったです」
由美は今度、泣きながら笑った。
*
恵が迎えに来ると、空は玄関で靴を履いた。
「忘れ物は?」
恵が尋ねる。
「歯ブラシは置いていきます」
「忘れたんじゃなくて?」
「置いていくって決めました」
「そう」
「写真も、次に持ってきます」
「何の写真?」
賢司が尋ねる。
「莉子と海で撮った写真です。由美さんたちの結婚式の写真を見せてもらったから」
「僕も見ていい?」
「三人で見せてもらったでしょう」
由美が言う。
「空さんの写真のことです」
「見ていいです。でも、笑わないでください」
「笑いません」
「髪がすごいことになってます」
「それでも」
「賢司さんが笑ったら、予定表を全部捨てます」
「今後、予定表を作らないという意味ですか」
「冗談です」
「また分かりにくい」
「今度は分かったでしょう」
「半分くらい」
空は笑った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
由美が答える。
「次のことは、帰ってから長谷川さんたちと考えます」
「うん」
「二泊でもいいかもしれないって、由美さんには言いました」
「聞きました」
賢司の声が少し明るくなる。
「まだ決めてません」
「分かっています」
「でも、今は帰りたいから帰るんじゃありません」
空は玄関の外へ一歩出た。
「莉子にパンを買う約束をしたから」
「クリームパン?」
由美が尋ねる。
「どうして知ってるんですか」
「昨日、空さんが長谷川さんに話してた」
「電話、聞いてたんですか」
「買い物へ行く途中、空さんが自分で話したでしょう」
「そうでした」
空は恵と並んで歩き出した。
エレベーターの前で振り返る。
「また来ます」
考えるより先に、言葉が出た。
由美と賢司が、同時にうなずいた。
「待ってる」
由美はそれだけ答えた。
*
帰りの電車で、空は窓際に座った。
恵が隣で尋ねる。
「今回は、どうだった?」
「楽しかったです」
空は迷わず答えた。
「美術部を見ました。ポスターを作ってました。途中からでも入れるそうです」
「入りたい?」
「はい」
「朝倉さんの家は?」
「前より静かじゃなかったです」
「家の音が増えた?」
「私が話したからだと思います」
「そうかもしれないね」
「由美さんに、抱き締められました」
恵が空を見る。
「嫌だった?」
「少し怖かったです」
「うん」
「でも、嫌じゃなかったです。私がいいって言ってからでした」
「そう」
「次は、私からできるかもしれません」
「急がなくていいよ」
「分かってます」
空は窓へ視線を戻した。
朝倉家の洗面所には、緑色の歯ブラシが残っている。
いつでも戻れる証明ではない。
家族になった証明でもない。
次に来るまで置いておくと、自分で決めた一本だった。
それでも、鞄の中に入れずに帰ることができた。
「長谷川さん」
「何?」
「二泊してみたいです」
「もう決めたの?」
「はい」
「分かった。相沢さんと朝倉さんたちに伝えるね」
「お願いします」
空は自分から頭を下げた。
今度は、誰かに答えを求められたからではない。
自分がもう少し、あの家で過ごしてみたいと思った。
それを言葉にしても、すぐに何もかも決まるわけではないと知っていた。
だから空は、楽しみだと思う気持ちを、打ち消さずに残しておくことができた。




