第十六章 善意の境界線
三月に入ってから、朝の光が少しだけ早く部屋の奥まで届くようになった。
由美は土曜日の朝、カーテンを開けたまま、ダイニングテーブルの上を三度確認した。
空が来るまで、あと二時間ある。
昼食に使う皿。三人分の箸。麦茶を入れたガラスのポット。買ってきたばかりの苺は洗わず、冷蔵庫の野菜室に置いたままにしてある。空が来てから、一緒に洗えばいい。
そう考えて準備を止めたはずなのに、由美の手はまたテーブルへ伸びた。わずかにずれていた箸置きを直し、椅子の背に掛かっていた賢司のカーディガンを畳む。
「さっきから、同じところを回ってない?」
キッチンで珈琲を淹れていた賢司が言った。
「回ってないわよ」
「テーブル、三回拭いた」
「二回です」
「見てた限りでは三回」
由美は布巾を持ったまま振り返った。
「賢司こそ、冷蔵庫に貼った予定表、外してくれた?」
「外した」
「本当に?」
「冷蔵庫の横の引き出しにしまった」
言われた場所を開けると、透明なファイルの中に、二泊三日の予定が一枚にまとめられていた。
到着予定時刻。昼食。休憩。学校の資料を見る時間。夕食。入浴。就寝。翌日の外出予定。若葉ホームへ戻る時刻。
以前なら、賢司がこうした表を作ってくれることをありがたいと思っただろう。実際、抜け落ちるものが少なくなり、確認もしやすい。
けれど空は、最初の宿泊でその表を見たとき、冗談めかして言った。
「トイレの時間まで書かれてなくてよかったです」
賢司は笑えず、由美だけが吹き出した。
そのあと空も笑ったから、気まずさは残らなかった。ただ、その言葉が冗談だけではなかったことを、二人とも理解していた。
「見せないの?」
由美が尋ねると、賢司は珈琲をカップに注ぎながら答えた。
「必要なことだけ、口で確認する。空さんが予定を知りたいと言ったら見せる」
「そうね」
「ただ、学校の説明会の時間は動かせないから、それだけは伝えておかないと」
「わかってる」
近くの高校を見学するのは午後二時からだった。
前回は校門の外から眺めただけだったが、今回は相沢が学校側へ連絡を取り、校内を案内してもらえることになっている。転校はまだ決まっていない。若葉ホームから通っている現在の高校に残る可能性もあるし、朝倉家から通える学校へ移る可能性もある。
どちらを選んでも、空自身が納得して決められるようにする。
そのための見学だと、相沢は繰り返し念を押していた。
「部屋は?」
賢司が尋ねた。
「何も変えてないわよ」
由美は少し早口で答えた。
「確認しただけだよ」
「わかってる」
廊下の突き当たりにある部屋は、空が初めて訪れたときとほとんど変わっていない。
段ボール箱を二つ納戸へ移し、床に掃除機をかけた。窓際には、もともと賢司の書斎に置いてあった折り畳み式の小さな机を運んだが、広げてはいない。必要なら使える。必要でなければ、壁に立てかけたままにしておけばいい。
空の部屋と決まったわけではない。
そのことを、由美は何度も自分に言い聞かせていた。
空がここで暮らしたいと望むかどうかも、まだわからない。
緑色の歯ブラシだけが、洗面所で二人の歯ブラシの間に立っている。
前回の宿泊の帰り、空はそれを置いていった。
由美が「忘れてる」と声をかけると、空は靴を履きながら振り返り、「次も来るから、置いておきます」と言った。
たったそれだけのことが、由美には一週間ずっと嬉しかった。
けれど嬉しさを、そのまま空に差し出してはいけない気がした。空が歯ブラシを置いたことに、由美が大きな意味を持たせれば、次に持ち帰りたくなったとき、空はためらうかもしれない。
だから歯ブラシのことには触れない。
由美はそう決めていた。
午前十一時を少し回ったころ、インターホンが鳴った。
画面には空と長谷川恵が並んで映っていた。空は紺色のリュックを背負い、胸の前に紙袋を抱えている。
由美が玄関の扉を開けると、空は前回よりも小さな声で言った。
「こんにちは」
緊張しているのかと思ったが、その目はわずかに笑っていた。
「こんにちは。待ってたよ」
「三回くらい、テーブル拭きながらね」
後ろから賢司が口を挟んだ。
「余計なこと言わなくていいの」
由美が振り向くと、空が声を立てて笑った。
「本当に三回拭いたんですか」
「二回です」
「僕が見たのは三回」
「賢司」
「はい」
恵も笑いながら、空のリュックを指した。
「今回は二泊分、自分で用意しています。昨日から何度も確認していたので、たぶん忘れ物はないと思います」
「たぶん、じゃないです。ちゃんと入れました」
「充電器は?」
「入れました」
「学校の資料」
「入れました」
「パジャマ」
「入れました」
「青い筆箱」
「それは忘れるわけないでしょう」
空は唇を尖らせた。
その表情が年齢相応に見えて、由美は胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
初めて会ったころの空なら、忘れ物を指摘されても、ただ「大丈夫です」と答えていただろう。自分のことを話題にされるだけで身体を固くし、相手が望む答えを探していた。
今は、少し不満そうな顔を見せる。
笑われれば、笑い返す。
それが由美には嬉しかった。
空が抱えていた紙袋を差し出した。
「これ、持ってきました」
「何?」
「前に、写真を持ってくるって言ったから」
中には薄い木製の写真立てが入っていた。
若葉ホームの庭で撮った写真だった。桜の木の下に十人ほどの子どもたちと職員が並んでいる。空は後列の端に立ち、隣では莉子が大きく手を振っていた。前列には芽衣と花音が座り、二人とも花びらを握りしめている。
「去年の春です。長谷川さんが焼き増ししてくれました」
「うちに置いていいの?」
「そのために持ってきたんです」
空はそう言ってから、少し迷うように写真立ての角を撫でた。
「でも、どこに置くかは、あとで決めたいです」
「もちろん」
由美が答えると、空は顔を上げた。
「由美さん、今、冷蔵庫の上とか言いそうな顔してました」
「言おうとはしてないわよ」
「考えた?」
「少しだけ」
「やっぱり」
また空が笑った。
恵は午後の見学に同行すること、何かあればいつでも連絡してよいことを確認してから帰っていった。
扉が閉まると、空は玄関に立ったまま、靴箱の上に目を向けた。
そこには、初めて空が描いてくれた帰り道の地図が置いてある。由美が赤い糸で繕った鞄の下に、小さな額へ入れて飾っていた。
「まだ置いてるんですね」
「大事なものだから」
由美はためらわずに答えた。
空は地図と由美の顔を交互に見た。
「道、もう覚えたでしょう」
「覚えたけど、地図がいらなくなったわけじゃないから」
「そういうものですか」
「そういうものです」
由美が空の口調を真似ると、空は「変なの」と言いながら靴を脱いだ。
洗面所へ向かった空は、緑色の歯ブラシが前と同じ場所にあることを確認した。手を洗い、鏡の前で髪を整える。今日は後ろで一つに結んでいたが、移動の途中で緩んだらしく、黒いゴムが毛先の近くまで下がっていた。
「ゴム、取れそう」
由美が言うと、空は鏡を見た。
「あ、本当だ」
「結び直そうか」
口にしてから、由美は一瞬身構えた。
空の髪に触れることは、これまでなかった。
空は鏡越しに由美を見たあと、肩をわずかにすくめた。
「お願いします」
由美は背後に立ち、空の髪からゴムを外した。肩甲骨の下まである髪が、さらりと広がる。
指で梳かすと、空の肩が一度だけ強張った。
「痛かった?」
「痛くないです。人にやってもらうの、慣れてないだけ」
「やめようか」
「大丈夫。続けてください」
由美は急がず、髪を一つに束ねた。
強く引きすぎないように気をつけながらゴムを二度、三度と回す。最後に結び目を整えると、空は首を左右に振った。
「上手ですね」
「毎朝、自分の髪でやってるから」
「私がやると、右か左に寄るんです」
「次は自分でやるところを見せて。こつを教える」
「じゃあ、明日の朝」
空は自然にそう言った。
明日の朝もここにいる。
当然のことなのに、由美は喉の奥が熱くなった。
「うん。明日の朝」
声に余計なものが混ざらないよう、短く返した。
昼食は、賢司が作った焼きそばだった。
空は食卓につくなり、皿を見て目を丸くした。
「多くないですか」
「一人一玉で計算した」
「野菜も肉も入ってますよね」
「入ってる」
「一玉だけの量じゃない」
「食べきれなければ残していい」
賢司が真面目な顔で答えると、空は箸を持ったまま由美を見た。
「賢司さん、料理すると多くなりません?」
「なる。本人は認めないけど」
「由美さんも多いと思ってたんだ」
「思ってる。ずっと」
「二人とも、食べる前に話しすぎじゃないかな」
賢司は少し不満そうに言った。
空は一口食べ、「おいしい」と言ってから、さらに半分ほどを平らげた。残りは賢司の皿へ移した。
「最初から、このくらいでよかったです」
「次は少なくする」
「この前も聞きました」
「記録しておく」
「表にしなくていいですからね」
空が言うと、三人の笑い声が重なった。
食後、空はリュックから青い糸で繕った筆箱と、一冊のスケッチブックを取り出した。
「見てもらいたいものがあります」
由美の前に置かれたスケッチブックには、飲料水の瓶や菓子の箱、駅に貼られたポスターが鉛筆で描かれていた。
形を写しただけではない。
瓶の横には、文字の大きさや色についての短い感想が書かれている。菓子の箱には、売り場で見たとき、どこへ最初に目が向いたかを矢印で示してあった。
「これ、全部、空ちゃんが?」
「はい。由美さんに、仕事のことを聞いてから、気になったものを描いてみました」
「すごい」
思わず口から出た。
空の表情がわずかに曇った。
由美はすぐに言い直した。
「ごめん。すごいだけじゃ、何がいいと思ったかわからないよね」
「別に、そこまで言ってないです」
「でも、ちゃんと見たい」
由美は最初の頁へ戻った。
スーパーで見かける調味料の瓶が並んでいる。同じ大きさの瓶でも、商品名を縦に置くか横に置くかで、印象が異なることが丁寧に描き分けられていた。
「空ちゃんは、どれが一番いいと思った?」
「これです」
空が指したのは、余白の広い簡素なラベルだった。
「どうして?」
「文字が少ないから、遠くからでも名前がわかる。あと、少し高そうに見えます」
「実際に売り場で手に取った?」
「はい。でも値段を見て戻しました」
「その判断も大事よ。見た目に惹かれても、値段で戻す人がいる。作る側は、誰に手に取ってほしいかを考えないといけないから」
空は鉛筆を持ち、由美の言葉を書き留めた。
「全部、書かなくてもいいのよ」
「忘れるから」
「じゃあ、私がもう少しゆっくり話す」
由美は頁をめくりながら、一つずつ感想を伝えた。
線が整っていることより、空が自分の目の動きを覚えていること。色の違いだけでなく、売り場に置かれた高さまで書いていること。人が何を見て、何を感じるかに関心を持っていること。
空は黙って聞いていた。
けれど、その沈黙は以前のものとは違っていた。
相手の言葉が終わるのを待ち、無難な返事を探しているのではない。聞いたことを自分の中で確かめ、納得できないところには首を傾げる。
「でも、絵は上手じゃないです」
「絵を上手に描く仕事だけじゃないよ。何をどう伝えるかを考える仕事もある」
「美術部に入ったら、こういうこともできますか」
「学校によると思う。絵を描くことが中心かもしれないし、文化祭のポスターを作ることもあるかもしれない」
「今日、聞いてもいいですか」
「もちろん。空ちゃんが聞いてみて」
「由美さんも、聞いてくれますか」
「一緒に?」
「私がうまく聞けなかったときだけ」
頼られた。
その事実が、由美の胸の中へ明るく広がった。
「わかった。空ちゃんが困ったときだけね」
午後、相沢と恵が合流し、五人で高校を訪れた。
案内を担当した教員は、転校の手続きには現在の学校との調整が必要であり、単位や履修科目によっては補習が必要になる可能性があると説明した。
空は持参した小さなノートに、聞いたことを書き込んでいった。
教室、図書室、体育館を回り、最後に美術室へ案内された。
扉を開けた瞬間、絵の具と木材が混ざった匂いが漂ってきた。
土曜日だったが、美術部の生徒が数人残っていた。窓際には描きかけの静物画が並び、奥の机には文化祭で使ったらしい大きな看板が立てかけられている。
空の足が、入口で止まった。
教員が振り返った。
「入って大丈夫ですよ」
空は一歩ずつ、慎重に中へ進んだ。
壁には過去の作品が貼られていた。人物画や風景画だけでなく、地域の祭りのポスター、学校案内の表紙、菓子の包装を想定したデザインもある。
空は包装デザインの前に立ち、長い間見つめていた。
由美は口を挟まず、少し離れたところで待った。
やがて空が教員へ尋ねた。
「あの、美術部では、絵以外のものも作れますか」
「もちろん。毎年、文化祭の案内や部誌も作ります。去年は商店街から頼まれて、催しのポスターも作りましたよ」
「初心者でも入れますか」
「入れます。経験のない人も多いです」
「道具は、自分で買うんですか」
「共同で使えるものもあります。個人で揃えたい場合は相談ですね。最初から高いものを買う必要はありません」
空はそこで一度、由美を見た。
由美は何も言わず、うなずいた。
「見学だけでもできますか」
「転校が決まる前でも、日程を調整できれば大丈夫です」
空の口元が、ほんの少し上がった。
「見てみたいです」
帰り道、空はいつもよりよく話した。
美術室にあったポスターのこと。文化祭の看板の文字が少し曲がっていたこと。共同で使える道具があるなら、自分で全部揃えなくてもいいこと。
「空ちゃん、楽しそうだったね」
由美が言うと、空はすぐには答えなかった。
歩道の白線を踏まないように歩きながら、やがて小さく言った。
「ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「かなり」
空は照れたように笑った。
「でも、まだ決まってないから。今の学校に残るかもしれないし」
「そうだね」
「莉子にも、まだちゃんと話してないです。転校したいって言ったら、早く出ていきたいみたいに聞こえるかもしれないから」
「若葉ホームを嫌いだから転校するわけじゃないでしょう」
「はい」
「それは、莉子ちゃんにも伝わると思う」
「でも、わかってもらえるのと、寂しくないのは違うから」
由美は返す言葉を探した。
空は自分が寂しいだけでなく、残される莉子の寂しさも考えている。
「そうね。わかっても、寂しいことはあるね」
その答えがよかったのかどうか、由美にはわからなかった。
けれど空は「はい」と言い、また白線を避けながら歩き始めた。
その夜、三人は餃子を作った。
空は皮の中央に具を置きすぎて、閉じるたびに端から肉がはみ出した。
「入れすぎ」
賢司が言うと、空は自分の餃子と賢司の餃子を見比べた。
「賢司さんのは少なすぎです」
「焼いたときに開かない適量だよ」
「見た目が寂しい」
「餃子に寂しさは関係ないと思う」
「あります。由美さん、どっちが食べたいですか」
由美は二人の間に置かれた餃子を眺めた。
「空ちゃんの」
「ほら」
「ただし、ちゃんと閉じてるもの」
「それは賢司さんのです」
三人で包んだ餃子は、大きさも形もばらばらだった。
焼き上がると、空の餃子のいくつかは皮が破れた。賢司は何も言わずに皿へ移したが、空はその一つを箸で持ち上げた。
「失敗したの、私が食べます」
「失敗じゃないよ。味は同じ」
「さっき、開くって言ったでしょう」
「開いたとは言ったけど、失敗とは言ってない」
「細かい」
空は笑いながら口へ運んだ。
夕食のあと、空は若葉ホームへ電話をかけた。芽衣と話し、花音に代わり、最後に莉子としばらく話していた。
「うん。美術室、見た」
空の声が、廊下まで聞こえてきた。
「絵だけじゃなかった。ポスターとかもあった。……まだ決まってないって。わかってる」
一瞬、声が低くなった。
「莉子が中学卒業するまでは、ちゃんと行くよ。約束したでしょう」
電話を終えた空は、リビングへ戻ると、何事もなかったようにソファへ座った。
由美は尋ねたいことを飲み込んだ。
莉子と何を約束したのか。何を「ちゃんと」するのか。
空が自分から話すまで待つ。
そう決めた。
翌朝、由美が洗面所で髪をまとめていると、空が入ってきた。
「昨日の、教えてください」
「髪?」
「はい。右に寄らないやり方」
空は自分の黒いゴムを手首から外した。
由美は空を鏡の前に立たせ、櫛を渡した。
「最初に顔をまっすぐにして、両耳の後ろから同じくらいずつ髪を集めてみて」
空は鏡を見ながら、慎重に髪を集めた。途中で右手側が緩み、やり直す。
「難しい」
「急がなくていいよ」
「由美さん、朝いつもこれをやってるんですか」
「私はもっと短いから、ここまで大変じゃない」
「切ろうかな」
「切りたい?」
「少し。でも、長いほうが結べるから楽なんです」
「だったら、今すぐ決めなくてもいいね」
三度目で、髪はほぼ中央にまとまった。
空は鏡に映る自分の後ろ姿を確認し、満足そうにうなずいた。
「できた」
「上手」
「本当に?」
「今度は、もう少し下で結ぶと首が疲れないかも」
「じゃあ、明日はそうします」
明日もここで朝を迎える。
由美は昨日と同じように、その言葉を静かに受け取った。
空が笑う回数は、確かに増えていた。
冷蔵庫を自分で開け、麦茶を出すようになった。テレビの番組を選んでもいいかと尋ね、賢司の返事を待たずにリモコンを取ることもあった。
昼食のうどんに七味をかけすぎた賢司を見て、「それ、味わかるんですか」と笑った。
由美が仕事のメールを確認していると、隣から画面を覗かないように身体を傾け、「終わったら、昨日のスケッチの続き、見てください」と言った。
空の中から、少しずつ遠慮がほどけている。
その変化に触れるたび、由美はもっと何かをしてやりたくなった。
美術部へ入りたいなら、必要なものを調べたい。
デザインに関心があるなら、可能性を広げたい。
今までできなかったことがあるなら、これからは一つでも多く経験してほしい。
月曜日、職場へ戻った由美は、昼休みに美術用品店のウェブサイトを開いた。
初心者向けの画材セット、スケッチブック、色鉛筆、絵の具、筆、パレット。種類が多く、値段にも幅がある。
高校で使うものが決まってからでよい。
教員も、最初から高いものを買う必要はないと言っていた。
そうわかっているのに、由美は商品頁を閉じられなかった。
「珍しいもの見てますね」
声をかけてきたのは、隣の部署の後輩、村松だった。
「ちょっとね」
「絵、始めるんですか」
「私じゃないの」
由美はそこで言葉を止めた。
空のことを、どこまで話してよいのかわからなかった。
「知り合いの高校生が、美術部に興味を持っていて」
「へえ。だったら、今度うちでやる見学会、いいんじゃないですか」
「見学会?」
「若い人向けの装丁体験です。編集部とデザイン部が一緒にやるやつ。来週の土曜だったかな」
村松は自分の端末で社内予定を確認した。
「まだ募集前ですけど、社員の家族や知人なら先に枠を取れるはずですよ。人数、少ないから、募集が始まったらすぐ埋まると思います」
由美の心が動いた。
空は菓子の包装や本の表紙に関心を持っていた。実際の仕事を見れば、進学や将来について考える手がかりになるかもしれない。
「高校一年生でも大丈夫?」
「中高生向けです。最後に、自分で文庫本のカバーを作るらしいですよ」
空はきっと喜ぶ。
美術室で包装デザインを見つめていた目を、由美は思い出した。
「仮に一人分、押さえることってできる?」
「できますよ。名前は今じゃなくても大丈夫だと思います」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「由美さんが連れてくるんですか」
「まだわからない。でも、行けるならと思って」
村松はその場で担当者へ連絡し、一人分の枠を確保してくれた。
由美は礼を言い、空に知らせようとスマートフォンを手に取った。
しかし、直接の連絡は、必要な場合を除いて控えることになっている。正式な委託が決まるまでは、予定の相談も相沢や恵を通す。
次の宿泊は二週間後だ。
そのとき話せばいい。
けれど見学会は、その翌週に迫っている。空の都合を確認し、同行者について相沢と相談しなくてはならない。
由美は相沢へメールを送った。
空がデザインに関心を持っていること。会社で中高生向けの見学会があること。本人が希望するなら参加させたいこと。枠が少なかったため、一人分を仮に確保したこと。
返事はその日の夕方に届いた。
企画自体は有意義だと思う。ただし、空本人の予定と希望を確かめる前に話を進めないでほしい。まずは次回の面会で情報として伝え、空が参加したいと答えた場合に改めて調整したい。
由美は画面を見つめた。
言われていることは正しい。
まだ申し込んだわけではなく、枠を押さえただけだ。空が嫌なら断ればいい。
それでも、相沢の文面を読むと、自分が何か大切な手順を飛ばしたように感じられた。
帰宅すると、賢司がダイニングテーブルで資料を広げていた。
「何を見てるの?」
「転校した場合に必要になりそうな費用。制服、教材、定期代。大学進学も考えるなら、高校二年からどの程度準備が必要か知っておこうと思って」
表には項目ごとの金額が記され、右端には備考が添えられている。
「空ちゃんには?」
「まだ見せてない。僕たちが把握しておくためのものだから」
「でも、大学へ行くと決めたわけじゃないわよ」
「わかってる。ただ、選択肢として用意できるか確認しておかないと、本人が希望したときに間に合わない可能性がある」
その言葉は、由美が会社見学の枠を確保した理由とよく似ていた。
望んだときに、間に合わないことがないように。
選べるものを、一つでも多く用意するために。
「私の会社で、中高生向けの装丁体験があるの」
由美が話すと、賢司は表から顔を上げた。
「空さんが興味を持ちそうだね」
「一人分、枠を取ってもらった」
「本人には確認した?」
「次に来たときに聞くつもり。行きたくなければ断ればいいし」
「相沢さんは?」
「まず本人に情報として伝えてくれって」
賢司は少し考えた。
「枠を取ったことは、先に言わないほうがいいかもしれない」
「どうして?」
「断りにくくなるから」
「仮に押さえただけよ」
「由美にとってはそうでも、空さんには違うかもしれない」
「じゃあ、人数が埋まって、行きたいと言ったときに行けなかったら?」
「それも含めて、本人が選ぶことなんじゃないかな」
由美は返事をしなかった。
正しいことは、わかっていた。
けれど、何もしないまま機会がなくなることを、由美は恐れていた。
治療を続けていたころ、もっと早く別の病院へ行っていれば、違う方法を試していれば、仕事を休んでいればと、何度も考えた。
選ばなかったものは、あとから数えることしかできない。
空には、そうなってほしくなかった。
次の土曜日、空は玄関に入るなり、写真立てを置いた場所へ目を向けた。
前回、三人で相談し、若葉ホームの写真はリビングの本棚に置くことになった。空が座る位置からも、よく見える場所だった。
「あった」
空が言った。
「動かしてないよ」
「掃除のときに落とすかもしれないでしょう」
「落としてません」
「由美さん、ちょっと得意そう」
「毎日ちゃんと埃も拭いてますから」
「そこまでしなくてもいいです」
空はそう言いながら、嬉しそうに写真立ての向きを少しだけ変えた。
昼食のあと、由美は会社見学の案内をテーブルへ置いた。
「空ちゃんに、見てもらいたいものがあるの」
「何ですか」
空は案内を手に取った。
表紙には、色とりどりの文庫本が並んでいる。中高生向けの装丁体験。デザイナーによる説明。印刷工程の見学。自分で考えたカバーを持ち帰ることもできる。
読み進めるうちに、空の目が明るくなった。
「由美さんの会社でやるんですか」
「そう。来週の土曜日」
「行ってみたい」
由美の胸に喜びが湧いた。
「よかった。枠を取っておいたの」
空の指が止まった。
「枠?」
「人数が少ないから、埋まる前に一人分だけ押さえてもらったの。まだ正式な申し込みじゃないから、行きたくなければ断れるけど」
「いつ、取ったんですか」
「この前、空ちゃんが帰ったあとの月曜日」
空は案内から目を上げた。
「私が行きたいって言う前?」
「そう。でも仮に押さえただけよ」
「来週の土曜日……」
空は小さくつぶやき、スマートフォンの予定を確認した。
「その日、芽衣の発表会です」
「発表会?」
「ホームで、地域の人を呼んでやるんです。芽衣、劇で木の役をするから見にきてって」
「午前中?」
「発表会は午後です」
「見学会も午後なの。時間をずらせるか、聞いてみようか」
「ずらせないと思います」
「まだわからないでしょう。会社に確認すれば――」
「由美さん」
空の声が低くなった。
由美は言葉を止めた。
「私、発表会に行きます」
「うん。だったら会社のほうは断ればいい。別の機会もあると思うから」
「そうじゃなくて」
空は案内をテーブルへ置いた。
「どうして先に取ったんですか」
「行きたいと思ったときに、埋まっていたら困ると思って」
「私が行きたいか、わからなかったのに?」
「だから、仮に取っただけなの。断っても誰にも迷惑はかからないし、空ちゃんが気にする必要は――」
「気にします」
強い声だった。
賢司がキッチンから戻り、二人の間を見た。
「何かあった?」
空は答えず、唇を噛んだ。
由美はできるだけ穏やかに説明しようとした。
「会社の見学会があって、一人分の枠を仮に押さえていたの。でも空ちゃんは若葉ホームの発表会があるから、今回は断ろうって話をしていたところ」
「そうじゃない」
空がもう一度言った。
目の縁が赤くなっていた。
「空ちゃん?」
「私が決める前に、由美さんが決めてる」
「決めてないわ。選べるようにしただけ」
「同じです」
「同じじゃない。行くかどうかは空ちゃんが決められるでしょう」
「でも、もう由美さんは会社の人に頼んだんでしょう。私のために枠を取って、案内も持ってきて、行けるようにしてくれた。そこで嫌だって言ったら、私が断ることになる」
「断ってもいいのよ」
「そう言われても、断りにくいです」
賢司が由美を見た。
以前、賢司自身が言っていたことだった。
由美は胸の内に焦りを感じた。
「でも、空ちゃん、最初に行ってみたいって言ったでしょう」
「案内を見たときは、行きたいと思いました。でも、芽衣の発表会をやめてまで行きたいかは、そのとき知らなかった」
「だから今回は発表会へ行けばいいの。何も責めてないでしょう」
「責めてなくても、私が悪いみたいになる」
「そんなこと――」
「由美さんは思わなくても、私は思うんです」
空は立ち上がった。
その拍子に、テーブルの端に置かれていた紙が床へ落ちた。
会社見学の案内の下から、別の資料が散らばった。
美術用品店の印刷頁だった。
初心者用の絵の具セット。色鉛筆。スケッチブック。机に置くための小さな収納箱。
由美は、それらを空へ見せるつもりではなかった。自分が調べるために印刷し、会社見学の案内と同じファイルへ入れたことを忘れていた。
空が一枚を拾った。
「これ、何ですか」
「美術部で使えそうな道具を、少し調べただけ」
「買ったんですか」
「まだ買ってない」
「まだ?」
「必要なものがわかってから相談しようと思ってた」
「学校も決まってないのに?」
「だから調べただけよ」
「私が美術部に入りたいって言ったから?」
「そうよ。空ちゃんがやりたいことなら、応援したいと思って」
空の顔から、怒りとは違う色が消えていった。
代わりに浮かんだのは、深い戸惑いだった。
「私、見てみたいって言っただけです」
「入ってみたいとも言ったでしょう」
「言いました。でも、まだわからない」
「わからないから、調べてるの」
「どうして由美さんが?」
その一言に、由美は息を詰めた。
「私が調べたらいけない?」
「いけないっていうか……」
空は拾った紙を見つめたまま、言葉を探していた。
「私がやりたいって言ったことが、全部、由美さんの予定になるのが嫌です」
「予定にはしてない」
「なってます」
「なってないわよ」
由美の声も、気づかないうちに強くなっていた。
「私は、空ちゃんが困らないように準備してるだけ。学校が決まってから何もないと困るでしょう。見学会だって、行きたくなったときに行けなかったら、残念に思うかもしれない」
「それを決めるのは私です」
「決めさせないなんて言ってない」
「でも、決める前に全部ある」
空は紙をテーブルに戻した。
指先が震えていた。
「学校の資料も、部活も、会社の見学も、道具も。私が一個言うと、次に来たときには十個になってる」
「たくさん選べたほうがいいでしょう」
「多すぎたら、選べないです」
「空ちゃんのために――」
そこまで口にして、由美は止まった。
空の表情が変わった。
怒りを堪えているのではない。何かに傷つき、その傷を見せまいとしている顔だった。
「それ、言わないでください」
「え?」
「私のためって言われたら、嫌だって言えなくなる」
空の声が掠れた。
「嬉しかったんです」
涙が一粒、頬を伝った。
空はすぐに手の甲で拭った。
「ここに歯ブラシを置いたのも、写真を置いてくれたのも。三人でご飯を食べるのも、朝、髪の結び方を教えてもらったのも。美術部、やってみたいって言えたのも、全部、嬉しかった」
由美は何も言えなかった。
「だから怖いんです」
空は由美を見た。
「嬉しいって言うたびに、次のことまで決まっていくのが怖い。私がもっと喜ばないといけない気がする。やりたいって言ったら、やめたいって言えなくなる気がする」
「やめてもいいのよ」
「今みたいに、説明されます」
空の言葉が、由美の胸へまっすぐ刺さった。
「私は、空ちゃんにわかってほしくて……」
「それです」
「何が?」
「私が嫌だって言ってるのに、由美さんは、自分が悪くないことをわかってほしいって言ってる」
由美は口を閉じた。
否定したかった。
そんなつもりではないと言いたかった。
けれど、空の言う通りだった。
由美はずっと説明していた。空がなぜ傷ついたのかを聞くより先に、自分の善意を理解してもらおうとしていた。
賢司が静かに椅子を引いた。
「空さん、ごめん」
空は賢司を見た。
「僕も、学校にかかる費用や大学進学の準備を、勝手に調べていた」
「賢司さんも?」
「うん。まだ空さんに見せるつもりはなかったけど、同じことをしてる」
「二人で、どこまで決めたんですか」
「何も決めてない。ただ、調べた」
「私のいないところで?」
「そうだね」
「私のことなのに?」
「うん」
賢司は言い訳をしなかった。
「それは、よくなかった。選択肢を増やすつもりだったけど、空さんから見れば、自分の知らないところで自分の先が作られていくことになる」
空は鼻をすすり、俯いた。
由美は自分の膝の上で拳を握った。
「ごめんなさい」
ようやく、それだけを言った。
空は顔を上げなかった。
「私、空ちゃんができなかったことを、これから全部させてあげたいって思ってた」
口にすると、その言葉の傲慢さがわかった。
「でも、それは私が決めることじゃなかった。空ちゃんができなかったことを数えていたのも、私だった。空ちゃんがこれから何をしたいかを、一つずつ聞けばよかった」
空の肩が小さく揺れた。
「聞かれたら、わからないって言うかもしれません」
「うん」
「やりたいって言ったあと、やめるかもしれない」
「うん」
「それでも、怒らないですか」
「怒らない」
答えたあと、由美は言い直した。
「怒らないようにする。もしがっかりしたり、困ったりしたら、それは隠さずに話す。でも、空ちゃんがやめることを、悪いことにはしない」
「約束できますか」
由美はすぐに「できる」と言いかけた。
その言葉さえ、今は軽くしてはいけないと思った。
「努力することしか、今は約束できない」
空はゆっくり顔を上げた。
目が赤くなっていた。
「そこは、できるって言わないんですね」
「言って、また守れなかったら嫌だから」
「ずるい」
「そうかもしれない」
「でも、そのほうがいいです」
空は椅子へ座り直した。
緊張が解けたわけではない。両手は膝の上できつく組まれ、身体は由美から少し離れていた。
賢司がテーブルの資料を一つにまとめた。
「会社見学は、今回は断る。それでいい?」
「はい」
「次に似たものがあったときは、空さんに案内を見せるだけにする。申し込みも、枠を取るのも、空さんが決めたあと」
「はい」
「学校や大学の費用を調べることについては、どうしたらいい?」
空はすぐには答えなかった。
「お金のことは、何も知らないままじゃ困るから、調べてほしいです」
「わかった」
「でも、隠さないでください」
「隠していたつもりはなかったんだけど、結果として同じだね。これからは、調べる前に言う」
「表は、一枚までにしてください」
「一枚?」
「何枚もあると、読む前に嫌になります」
賢司は真剣にうなずいた。
「わかった。一枚にする」
「文字、小さくしないでください」
「二枚になっても?」
「じゃあ二枚まで」
「了解」
空の口元が、わずかに緩んだ。
けれど由美を見ると、その表情はまた硬くなった。
由美はそれを急いで直そうとはしなかった。
その夜、空はいつもより早く部屋へ入った。
寝る前に若葉ホームへ電話をかけたが、リビングには戻ってこなかった。
由美は廊下の突き当たりにある扉を見つめた。
ノックをして、もう一度謝りたかった。
自分が何を考えていたのか、もっと丁寧に話したかった。
けれど、それをすれば、また空に理解を求めることになる。
「今日は、やめたほうがいい」
隣に立った賢司が小声で言った。
「わかってる」
「明日の予定も、決めないでおこう」
「わかってる」
「由美」
「わかってるって言ってるでしょう」
思ったより強い声が出た。
賢司は黙った。
由美は両手で顔を覆った。
「ごめん」
「うん」
「私、何をしてるんだろう」
「空さんを大事にしたかったんだと思う」
「大事にするって、全部準備することじゃないのに」
「僕も同じだった」
「賢司は途中で気づいてたでしょう」
「気づいたのに、止めなかった」
由美は手を下ろした。
「どうして?」
「由美が嬉しそうだったから」
「それで空ちゃんが傷ついた」
「うん」
賢司の返事には逃げるところがなかった。
「僕たちは、空さんのためと言いながら、自分たちが役に立てることに安心してたのかもしれない」
由美は唇を噛んだ。
役に立ちたかった。
空に必要とされたかった。
由美と賢司がいることで、空の人生がよくなると信じたかった。
けれど、誰かの人生をよくすることと、その人の人生を先回りして整えることは違う。
「待つって、何もしないことみたいで怖い」
由美は言った。
「うん」
「待ってる間に、空ちゃんがいなくなったらって思う」
「それでも、待たないといけないときはある」
「賢司は怖くないの?」
「怖いよ」
賢司は閉じた扉を見た。
「でも、怖いからつなぎ止めたら、ここが空さんの家になることはないと思う」
夜が深くなっても、扉は開かなかった。
翌朝、由美が目を覚ますと、キッチンから小さな物音が聞こえた。
空が冷蔵庫の前に立ち、麦茶をコップへ注いでいた。
「おはよう」
由美が声をかけると、空は振り返った。
「おはようございます」
よそよそしい声だった。
それでも、空は自分で冷蔵庫を開けていた。
「朝ご飯、どうする? パンとご飯、どっちもあるけど」
「パンでいいです」
「自分で選ぶ?」
「はい」
由美は皿だけを出し、食パンの袋と数種類のジャムをテーブルへ置いた。
空は食パンを一枚取り、苺ジャムを選んだ。
由美は何も勧めなかった。
賢司が起きてきて、三人で朝食を取った。
会話は少なかった。
空は食べ終えると、皿を流しへ運び、自分で洗った。
「今日は、予定を変えたいです」
蛇口を止めたあと、空が言った。
由美の身体が強張った。
「どうしたい?」
「若葉ホームに、昼過ぎに戻りたいです」
本来は夕方まで滞在する予定だった。
「わかった」
それだけを答える。
「長谷川さんには、自分で電話します」
「うん」
「怒ってますか」
「怒ってない」
「悲しいですか」
由美は少し考えた。
「寂しいし、残念には思う。でも、空ちゃんが悪いとは思ってない」
「そういうふうに言われると、やっぱり少し困ります」
「ごめん」
「謝らなくてもいいです。何も思ってないふりをされるよりはいいから」
空は若葉ホームへ電話をかけた。
恵と話し、昼過ぎに戻ることを決めた。相沢にも連絡が入り、次の宿泊については改めて相談することになった。
荷物をまとめる空を、由美は手伝わなかった。
リュックの口を閉じ、充電器と学校の資料を確認する。その姿を、部屋の入口から静かに見ていた。
折り畳んだ机は、壁際に立てかけられたままだった。
「この机」
空が言った。
「前からありましたか」
「賢司の書斎にあったもの。宿題をするとき、必要なら使えるかと思って移したの」
「私に聞かないで?」
由美は息を飲んだ。
「そう。聞かなかった」
「どうして広げてないんですか」
「使うかどうかは、空ちゃんに決めてもらおうと思ったから」
「半分だけ、先にやったんですね」
「そうだね」
空は机に手を触れた。
「今度来たら、使ってみたいです」
由美は顔を上げた。
「今度?」
「次がいつかは、まだ決めません」
「うん」
「でも、机はそのままでいいです」
「わかった」
「ほかのものは、増やさないでください」
「増やさない」
空はリュックを背負い、洗面所へ向かった。
しばらくして戻ってきた手には、何もなかった。
由美は洗面所を覗かなかった。
緑色の歯ブラシを持ち帰ったのか、置いていったのか、確かめることが怖かった。
玄関で靴を履いた空は、何度か紐を結び直した。
「発表会」
由美が言った。
空の手が止まる。
「芽衣ちゃん、木の役、頑張れるといいね」
「台詞は一つだけです」
「何て言うの?」
「春が来た、です」
「大事な台詞だね」
「本人もそう言ってました」
空は立ち上がった。
賢司がリュックの肩紐がねじれていることを指で示すと、空は自分で直した。
「駅まで送るよ」
「お願いします」
三人で玄関を出た。
並んで歩いたが、空は由美と賢司の少し前にいた。
信号が赤になり、空が立ち止まる。
由美たちが追いつくと、空は前を向いたまま言った。
「昨日、怒ってごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも、言い方はきつかったです」
「きつく言わないと、私は止まらなかったと思う」
空は黙った。
「言ってくれてありがとう」
「ありがとうは、変です」
「そうかもしれない。でも、言ってくれなかったら、私はいいことをしてるつもりのままだったから」
歩行者用の信号が青に変わった。
空は一歩踏み出し、それから由美を振り返った。
「由美さん」
「何?」
「髪、今日は真ん中に結べました」
由美は空の後ろ髪を見た。
昨日より少し低い位置で、黒い髪がきれいにまとまっている。
「本当だ。上手にできてる」
「明日は、莉子に教えます」
「うん」
「だから、教えてもらったことは、なくならないです」
空はそう言い、信号を渡り始めた。
由美はその背中を追った。
なくならない。
それが次も同じように続くという意味ではないことを、由美は知っていた。
教えたことも、食べたものも、笑った時間も、空が持っていく。ここから離れることがあったとしても、由美の手元からすべてが失われるわけではない。
駅で恵に空を引き渡すとき、由美は次の予定を尋ねなかった。
「気をつけて帰ってね」
「はい」
空は恵の隣へ移り、改札へ向かった。
二歩進んだところで振り返る。
「由美さん」
「何?」
「会社の見学、またあったら教えてください」
「案内を見せるだけにする」
「はい。それから考えます」
「わかった」
空は今度こそ改札を通った。
その姿が見えなくなるまで、由美と賢司は同じ場所に立っていた。
帰宅しても、家の中には空の気配が残っていた。
食卓の椅子が少し引かれたままになっている。ソファには、空が読んでいた雑誌が伏せて置かれていた。客用の枕には、長い髪が一本だけ残っていた。
由美はそれらをすぐには片づけなかった。
洗面所の前で立ち止まる。
鏡の下には、三本の歯ブラシが並んでいた。
白。青。緑。
空は緑色の歯ブラシを置いていった。
由美は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れずに、その場を離れる。
置いていったことを喜びすぎない。
次に来ると決めたのだと、勝手に意味をつけない。
ただ、空が今はここへ置くことを選んだ。
それだけでよかった。
リビングへ戻ると、若葉ホームの写真が目に入った。
桜の下で、空が莉子たちと並んでいる。
空がこれまで過ごしてきた場所も、そこで結んだ関係も、由美たちが与えられるものに置き換えることはできない。
由美は写真立ての前にしゃがんだ。
空をこちらへ引き寄せることばかり考えていた。
けれど空には、離したくない手がいくつもある。
その手を切らずに、新しい一本を結ぶには、強く引いてはいけない。
緩んで見えても、待たなければならない。
由美は写真立ての向きを直そうとして、手を止めた。
朝、空が変えた角度のままにしておく。
その位置からなら、写真の中の全員が、窓から差し込む光の中にいた。




