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『血の通わぬ糸』  作者: 久遠 睦


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第十七章 待つという約束

若葉ホームへ戻る電車の中で、空は窓に映る自分の顔を見ていた。

 泣いたあとの目は、まだ少し赤い。

 隣に座る長谷川恵は、駅で空を迎えてから、朝倉家で何があったのかを尋ねなかった。膝の上に鞄を置き、ときどき流れていく景色へ目を向けている。

 その沈黙が、空にはありがたかった。

 朝倉家から予定より早く帰ると連絡したとき、恵は理由を聞かず、「わかった。駅まで迎えに行くね」とだけ答えた。

 問い詰められたら、何と答えてよいかわからなかった。

 由美と喧嘩をした。

 そう説明すれば簡単だった。

 けれど、空の中に残っているものは、怒りだけではない。

 会社見学の枠を勝手に確保されたことも、美術用品を先回りして調べられたことも嫌だった。自分の知らないところで、自分の将来が形を持ち始めることが怖かった。

 それでも、由美を嫌いになったわけではなかった。

 駅で別れる直前まで、もう一度何かを言いたいと思っていた。改札を抜けてからも、振り返れば由美と賢司が同じ場所に立っていた。

 二人が見えなくなるまで歩いたあと、急に胸の奥が空っぽになった。

「空」

 恵の声に、空は顔を上げた。

「次の駅だよ」

「あ、はい」

 電車を降りると、海から吹いてくる風が頬に当たった。

 東京より少し冷たく、潮の匂いがする。

 空はリュックの肩紐を握り、恵と並んで歩いた。

「長谷川さん」

「何?」

「私、歯ブラシを置いてきました」

「そう」

「忘れたんじゃないです」

「うん」

「持って帰ろうと思ったけど、置いてきました」

 恵は前を向いたまま尋ねた。

「どうして置いてきたの?」

「わかりません」

「そっか」

「聞かないんですか」

「今、わからないんでしょう?」

「はい」

「だったら、わかるまで待つ」

 恵の返事は、あまりにも普通だった。

 空は少しだけ腹が立った。

「何でも待てばいいと思ってませんか」

「思ってないよ。待たないほうがいいこともある」

「じゃあ、これは?」

「空が自分でわかりたいと思っていることだから、待つ」

「私が、ずっとわからなかったら?」

「そのときは、わからないまま一緒に考える」

 空は足元へ目を落とした。

 歩道の端に、小さな黄色い花が咲いていた。風に揺れているのに、細い茎は折れなかった。

「長谷川さんは、ずるいです」

「よく言われる」

「誰にですか」

「空に」

「初めて言いました」

「じゃあ、今日から言われることにする」

 空は笑いそうになり、唇を結んだ。

 若葉ホームへ着くと、玄関の扉が勢いよく開いた。

「空ちゃん!」

 芽衣が廊下を走ってきた。

 頭には、緑色の画用紙で作った葉がついた帽子を載せている。明日の発表会で使うものらしい。

「見て! 木!」

 両腕を大きく広げた芽衣を見て、空はしゃがんだ。

「本当に木みたい」

「空ちゃん、明日いる?」

「いるよ」

「絶対?」

「絶対」

「途中でどこか行かない?」

「行かない。最後まで見る」

 芽衣は安心したように笑い、空の首へ両腕を回した。

 空はその小さな身体を受け止めた。

 もし会社見学の日程を先に知っていたら、迷ったかもしれない。

 装丁を体験してみたい。由美の働いている場所を見てみたい。その気持ちは嘘ではなかった。

 けれど、芽衣の発表会へ行きたい気持ちも本当だった。

 二つのうち、どちらかが正しいのではない。

 自分で迷い、自分で選びたかった。

「空ちゃん、早かったね」

 二階から下りてきた莉子が言った。

「うん」

「明日まで帰らないと思ってた」

「予定、変えた」

「何かあった?」

「あとで話す」

 空が答えると、莉子はそれ以上聞かなかった。

 夕食のあと、二人は同じ部屋へ戻った。

 空がリュックから服を出している間、莉子は机に向かい、宿題をしていた。数学の問題集を開いているが、さっきから同じ頁のまま鉛筆が動いていない。

「聞きたいなら、聞けばいいじゃん」

 空が言うと、莉子は振り返った。

「話したくないなら、聞かないほうがいいと思って」

「長谷川さんと同じこと言う」

「じゃあ、聞かない」

「それも腹立つ」

「面倒くさいなあ」

 莉子は椅子を回し、空のほうへ身体を向けた。

「何があったの?」

「喧嘩した」

「由美さんと?」

「うん」

「賢司さんとは?」

「賢司さんも、同じことしてた」

「何したの」

 空は会社見学と美術用品のことを話した。

 莉子は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

「それで、空が怒ったの?」

「怒った」

「由美さんは?」

「謝った」

「怒り返さなかった?」

「最初は説明された。私のためだって」

「空、それ嫌いだもんね」

「嫌い」

「でも、最後は謝ったんでしょう」

「うん」

「じゃあ、もういいじゃん」

「よくない」

「何がよくないの」

「わからない」

 空はリュックの底から青い糸で繕った筆箱を取り出し、机の上へ置いた。

「次の宿泊、決めなかった」

「行かないの?」

「わからない」

「行きたい?」

「それも、わからない」

 莉子はしばらく空を見ていた。

「空さ、行きたくないなら、そんな顔しないと思う」

「どんな顔」

「置いてきたお菓子が気になってるみたいな顔」

「何それ」

「食べたかったのに、怒って帰ってきたから食べられなかった顔」

「お菓子は置いてない」

「じゃあ、何を置いてきたの」

 空は答えなかった。

 莉子が目を細める。

「あるんだ」

「歯ブラシ」

「持って帰ってくればよかったじゃん」

「置いてきたかったの」

「何で?」

「わからないって言ってるでしょう」

 空はベッドへ腰を下ろした。

 莉子も向かいのベッドへ移った。

「私なら、嫌いなところに歯ブラシ置かないけど」

「嫌いとは言ってない」

「じゃあ、好きなの?」

「そういうの、簡単に決められない」

「空って、何でも難しく考えるよね」

「莉子が考えなさすぎるの」

「でも、喧嘩できたんでしょう」

「できたって何」

「だって、空、どうでもいい人には怒らないじゃん」

 空は顔を上げた。

「嫌なことされても、はい、とか、大丈夫です、とか言って終わるでしょう。あとで私に文句言うけど」

「文句じゃない」

「文句だよ。でも由美さんには、その場で嫌だって言った」

「言わないと、わからないと思ったから」

「わかってほしかったんだ」

 莉子の言葉に、空は黙った。

 どうでもよければ、わかってもらおうとは思わない。

 嫌われても、会えなくなっても構わない相手なら、黙って離れればいい。

 由美に言葉をぶつけたのは、わかってほしかったからだ。

 自分の嫌なことを知ったうえで、それでも会い続けてほしかった。

 そこまで考えた瞬間、胸の奥が痛んだ。

「由美さんたち、もう嫌になったかもしれない」

 空が言うと、莉子は眉を上げた。

「何が?」

「私と暮らすの」

「喧嘩したから?」

「面倒だと思ったかもしれない。何かしても嫌って言うし、予定も急に変えるし」

「じゃあ、空は、何をされても喜んでないと一緒に住めないと思ってたの?」

 空は答えられなかった。

「それ、家族っていうより、お客さんじゃない?」

「私、家族なんて知らない」

 思ったより強い声が出た。

 莉子の表情が変わった。

 空は俯いた。

「ごめん」

「私も、ごめん」

 二人の間に沈黙が落ちた。

 空には、両親の記憶がない。

 顔も、声も知らない。

 家族と暮らした時間があったとしても、思い出せるものは何一つなかった。

 若葉ホームでは、食事の時間も、風呂に入る順番も、消灯の時刻も決まっている。職員は空たちを守ってくれるが、勤務が終われば帰っていく。退職する人もいる。

 仲のよかった子どもも、進学や就職で出ていった。

 誰かと一緒に住むことは知っている。

 けれど、誰かの家族になることが何なのかはわからない。

 怒ったあとも、同じ食卓へ戻ってよいのか。

 迷惑をかけても、そこにいてよいのか。

 相手の期待に応えられなくても、次の朝を一緒に迎えられるのか。

 朝倉家で由美と向き合っていたとき、空が最も怖かったのは、自分の意見を言うことではなかった。

 言ったあと、二人がいなくなることだった。

「私、また会いたいのかもしれない」

 空は小さく言った。

「じゃあ、会えばいいじゃん」

「簡単に言わないで」

「簡単でいいこともあるよ」

 莉子は数学の問題集を閉じた。

「会って、もう嫌ならやめればいい。まだ会いたいなら、また会えばいい。住むかどうかは、そのあと考えればいいじゃん」

「莉子、今日だけ長谷川さんみたい」

「それ、褒めてる?」

「半分」

「残り半分は?」

「腹立つ」

「やっぱり文句じゃん」

 空は枕を投げた。

 莉子は笑いながら受け止め、投げ返した。

 翌日の発表会は、若葉ホームの一階にある多目的室で開かれた。

 地域の人や学校の教員が招かれ、折り畳み椅子が三列に並べられている。空は莉子と一緒に、一番前の端へ座った。

 劇の舞台は、冬から春へ移り変わる森だった。

 花音は雪うさぎの役で、白い耳をつけている。芽衣は舞台の中央に立ち、両腕へ画用紙の枝をつけていた。

 子どもたちは何度も台詞を間違えた。

 順番を飛ばし、互いの顔を見ながら笑う。職員が舞台袖から小声で教えると、慌てて次の場面へ進んだ。

 最後に芽衣が一歩前へ出た。

「春が来た!」

 大きな声が部屋に響いた。

 見ている人たちから拍手が起こった。

 芽衣は嬉しそうに笑い、それから客席の空を探した。

 目が合うと、さらに大きく両腕を広げた。

 空は何度も拍手をした。

 来てよかった。

 胸の奥から、迷いのない言葉が浮かんだ。

 同時に、由美にも見せたかったと思った。

 昨日、駅へ向かう前、由美は芽衣の台詞を「大事な台詞だね」と言った。

 発表会が終わったら、芽衣が上手に言えたことを話したかった。

 賢司なら、木の衣装がどうやって作られているのか気にするかもしれない。

 二人はここにいない。

 けれど空の頭の中では、二人が発表会の話を聞いていた。

 それが不思議だった。

 舞台へ駆け寄ってきた芽衣が、空の手を握った。

「ちゃんと見た?」

「見たよ」

「台詞、言えたでしょう」

「一番大きな声だった」

「木だから」

「木って、声大きいの?」

「春を呼ぶから、大きいの」

 芽衣は得意そうに答えた。

「空ちゃんも春、来た?」

 不意に尋ねられ、空は困った。

「どうかな」

「来てないの?」

「少し来たかもしれない」

「少しじゃだめ。いっぱい来るの」

 芽衣はそう言って、ほかの子どもたちのところへ走っていった。

 翌週、空は恵に、由美たちと会いたいと伝えた。

 恵は理由を尋ねなかったが、空は自分から話した。

「この前のことを、もう一度話したいです」

「謝りたい?」

「それも少し。でも、謝るだけじゃないです」

「何を話したいの?」

「二人が、どうして私と住みたいのか」

 恵は静かにうなずいた。

「聞いたことはなかった?」

「最初の面会で聞きました。でも、あのときは、知らない人だったから」

「今は?」

「知らない人ではないです」

 言葉にすると、空の頬が熱くなった。

「由美さんは、急いで何でもやろうとします。賢司さんは、すぐ表を作ります。ご飯の量も多いです」

「よく知ってるね」

「何回も会ってますから」

「空は、二人のどういうところが好き?」

「好きとは言ってません」

「そうだったね」

 恵が笑う。

 空は少し考えた。

「由美さんは、失敗した卵焼きも食べます」

「うん」

「賢司さんは、怒られても、次の日の朝ご飯を作ります」

「うん」

「二人とも、私が帰るとき、見えなくなるまで立っています」

 話しているうちに、胸が詰まった。

「それから、私の写真を置いてくれました。私だけじゃなくて、若葉ホームのみんなが写ってる写真」

「嬉しかった?」

「はい」

 今度は否定しなかった。

「だから、二人が何を考えているのか、ちゃんと聞きたいです」

「わかった。相沢さんに相談しよう」

 面会は、その週の日曜日に決まった。

 場所は、これまでにも何度か使った児童相談所の小さな面談室だった。空の希望で、恵と相沢も同席することになった。

 空が部屋へ入ると、由美と賢司はすでに座っていた。

 由美は立ち上がりかけ、途中で止まった。

「こんにちは」

「こんにちは」

 空は向かいの椅子へ座った。

 以前なら、由美たちの顔色を確かめ、相手が望む返事を探していただろう。

 今日は、自分が聞きたいことを聞くために来た。

「芽衣の発表会、どうだった?」

 由美が尋ねた。

「台詞、ちゃんと言えました。春が来た、って」

「そう。よかった」

「木の衣装も、似合ってました」

「見たかったな」

 由美はそれ以上言わなかった。

 次の見学会を探すとも、写真がほしいとも言わない。

 空は膝の上で両手を組んだ。

「あの」

「うん」

「今日は、聞きたいことがあります」

 由美と賢司が同時に背筋を伸ばした。

「二人は、どうして私と住みたいんですか」

 部屋の空気が静かになった。

 賢司はすぐに答えず、由美を見た。

 由美も迷っているようだった。

「助けたいからですか」

 空は続けた。

「私が施設にいるから? 二人に子どもがいないから? それとも、一人暮らしをさせるのが心配だから?」

「最初は、そういう気持ちもあったと思う」

 由美が言った。

 空は由美の顔を見た。

「最初に空ちゃんと会ったとき、まだ高校生なのに、卒業後の住まいや仕事のことを一人で考えていると知って、気になった。私たちに何かできないかと思ったのも本当」

「やっぱり、助けたいから?」

「今は、それだけじゃない」

 由美は一度息を整えた。

「空ちゃんが特別に困っている子だから、一緒に暮らしたいんじゃない。何度も会って、空ちゃんを知ったから、一緒に暮らせたらと思うようになったの」

「私の何を知ったんですか」

 空の問いに、由美の目元がわずかに緩んだ。

「塩パンが好きなこと。卵焼きは少し甘いほうが好きなこと。髪を結ぶとき、最初は右側へ寄ること。知らない道を説明するときは、目印を細かく描くこと」

「そういうことじゃなくて」

「そういうことなの」

 由美は静かに答えた。

「空ちゃんは、自分より小さい子のことをよく見てる。芽衣ちゃんの発表会も、約束したからというだけじゃなく、本当に見たいと思っていた。莉子ちゃんが寂しくなることも考えてる。誰かに何かをしてもらったら、すぐ返さなきゃいけないと思ってる。でも本当は、甘い卵焼きを食べて、おいしいって笑える子だって知った」

 空は唇を結んだ。

「笑うと、少し右の頬が先に上がることも知ってる。嫌なことがあっても我慢するけど、本当に大切なことなら、怖くても言えることも知った」

「この前、怒ったからですか」

「うん」

「面倒だと思いませんでしたか」

「思わなかったと言ったら嘘になる」

 由美の返事に、空は目を見開いた。

「その日の夜は、どうしたらいいかわからなくなった。空ちゃんを傷つけたことも怖かったし、もう来てくれないかもしれないと思ったら、苦しかった」

「だったら、やめようとは思わなかったんですか」

「思わなかった」

 由美は迷わず答えた。

「空ちゃんが私たちの言うことを何でも聞いてくれるから、一緒に暮らしたいわけじゃないもの。意見が違うことも、喧嘩することもある。それでいなくなるなら、最初から一緒に暮らすことなんて考えられない」

 空の胸の奥で、固くなっていたものが少し緩んだ。

 賢司が続けた。

「僕は、空さんと話していると、自分が何を当然だと思っていたのか気づかされる」

「私、そんなこと言ってますか」

「言ってるよ。予定表が細かすぎるとか、ご飯が多すぎるとか」

 恵が小さく笑った。

 空も少しだけ笑った。

「それだけじゃない。空さんは、わからないことを、わかったふりをしない。怖いことも、時間はかかるけど、最後には言葉にしようとする。僕たちは、その言葉を聞ける二人でいたいと思ってる」

「でも、私がいたら、二人の生活は変わります」

「変わるね」

「お金もかかります。学校のこともあるし、手続きも多いし、私が途中でやっぱり無理って言うかもしれない」

「その可能性も含めて考えてる」

「私より、小さい子のほうが家族になりやすいかもしれません」

 口にした瞬間、由美の顔が曇った。

「空ちゃんの代わりを探しているんじゃない」

「でも二人は、子どもが欲しかったんでしょう」

「欲しかった」

 由美は否定しなかった。

「ずっと前に、私たちの間に生まれる子どものことを考えていた。使わなかった黄色い縁の皿も、その子のために買ったものだった」

 空はその皿を思い出した。

 食器棚の奥に置かれ、まだ一度も自分の前には出されていない。

「でも、空ちゃんにその子の代わりになってほしいわけじゃない。できなかったことをやり直すためでもない。空ちゃんは、その子じゃないから」

「じゃあ、どうして」

「空ちゃんだから」

 由美の声が震えた。

「道を教えてくれた子だったからじゃない。施設で暮らしている子だったからでもない。何度も会って、話して、一緒に食べて、笑って、怒られて、それでも次に会いたいと思った相手が、空ちゃんだったから」

 空は由美から目を逸らした。

 胸の奥が熱くなり、呼吸が浅くなる。

「賢司さんも?」

「僕も同じだよ」

「二人で決めたんですか」

「話し合った。でも、空さんに決めてもらう部分は残してある」

「私が嫌だと言ったら?」

「一緒には暮らさない」

「そのあと、会わなくなるんですか」

 賢司はすぐには答えなかった。

「空さんが会いたくないなら、会わない。でも、一緒に暮らさないことと、大切に思わなくなることは別だと考えてる」

「私がまた怒ったら?」

「話を聞く」

「二人が怒ることもありますか」

「あると思う」

「そのとき、若葉ホームへ戻されますか」

 空の口から出た言葉に、由美が息を呑んだ。

 賢司の表情も強張る。

 相沢が静かに口を開いた。

「そこは、私からも説明していい?」

 空はうなずいた。

「正式に委託されて暮らし始めたあとも、困ったことがあれば話し合いの場を作ります。空さんにも、朝倉さんたちにも相談できる人がつきます。空さんが危険な目に遭う場合や、どうしても生活を続けられない事情が生じた場合は別ですが、一度の喧嘩や意見の違いだけで委託を終えるものではありません」

「でも、絶対ではないですよね」

「絶対とは言えません」

 相沢は正面から答えた。

「人と人が暮らすことだから、何があっても絶対に変わらないとは、誰にも約束できない。ただ、難しいことが起きたとき、すぐ終わりにしないために、私たちがいます。空さんだけに我慢させることも、朝倉さんたちだけに抱えさせることもしません」

 空は膝の上の手を見つめた。

「私、家族がどういうものかわかりません」

 これまで何度も胸の中にあった言葉だった。

 けれど、二人の前で口にするのは初めてだった。

「両親の顔も知らないし、声も覚えてません。誰かに、お父さんとかお母さんとか呼んだ記憶もないです。家でどうやって暮らすのが普通なのかも、わかりません」

「私たちも、三人で暮らす普通は知らないよ」

 由美が言った。

「二人で暮らしたことしかないから」

「でも、夫婦でしょう」

「夫婦だって、最初からうまくできたわけじゃない。今もできないことはある」

「由美は、洗った食器の置き方に細かい」

 賢司が言った。

「今、それを言う?」

「具体例があったほうがいいかと思って」

「賢司は、冷蔵庫の中を勝手に並べ替えるの」

「賞味期限順にしてるだけだよ」

「置き場所を変えたら教えてって何度言った?」

「それは、ごめん」

 二人のやり取りに、空は思わず笑った。

 緊張で固くなっていた部屋の空気が、少しやわらいだ。

「私たちにも、何が正しいかはわからない」

 由美は空へ向き直った。

「家族と呼べるようになるかもわからない。空ちゃんが、私たちを家族だと思えない時期が長く続くかもしれない。それでもいいと思ってる」

「家族って呼ばなくても?」

「呼ばなくていい」

「由美さんと賢司さんのままで?」

「そのままでいい」

「名字も、水瀬のまま?」

「今は変わらない。前に一緒に確認した通りだよ」

「戸籍も?」

「変わらない」

「私が、自分から考えたいって言うまでは?」

「養子縁組の話はしない」

 空は二人の顔を見た。

 そこに迷いがないことを確かめる。

「私、二人が先に諦めると思ってました」

「どうして?」

「私が怒ったから。何をしても喜ばないし、面倒だと思われたかもしれないから」

「喧嘩を一度したくらいで諦めるなら、一緒に暮らす話なんてしないよ」

 賢司が言った。

「でも、私は二人に何も返せません」

「返してもらうためにすることじゃない」

「それでも、もらってばかりになります」

 由美は少し考えた。

「空ちゃんが来た日は、賢司が作る焼きそばが多すぎるって、一緒に言ってくれる」

「それ、返してることになりますか」

「私一人で十九年言っても直らなかったから、大きな助けです」

 賢司が困った顔をした。

「二人とも、本当に多いと思ってる?」

「思ってます」

「空ちゃんが笑うと、家の中の空気が変わる」

 由美が続けた。

「写真を置く場所を三人で考えたり、どのジャムを食べるか迷ったり、髪の結び方を一緒に練習したりする。それは、空ちゃんが私たちにくれた時間でしょう」

「そんなの、何かしてもらったうちに入りません」

「私たちにとっては入るの」

「無理に言ってませんか」

「言ってない。空ちゃんが帰ったあとは、家が静かすぎると感じる」

 由美はそこで言葉を切った。

「でも、空ちゃんがいないと生きていけないとは言わない。そんな責任を背負わせたくないから。私たちは二人でも暮らしていける。そのうえで、空ちゃんと三人で暮らす日々を選びたいと思ってる」

 空は由美の言葉を胸の中で繰り返した。

 二人でも暮らしていける。

 それでも、三人を選びたい。

 空が二人を幸せにしなければならないのではない。二人が不幸だから、その穴を埋めるために呼ばれているのでもない。

「私も」

 声が震えた。

 空は一度、唾を飲み込んだ。

「私も、二人に会わないと、少し寂しいです」

 由美の目が潤んだ。

 空はそれを見て、慌てて続けた。

「少しです。すごくじゃないです」

「うん。少しね」

「由美さんが何でも急いでやるのは嫌です。賢司さんの予定表も、多いご飯も困ります」

「ご飯は直す」

「予定表も直すよ」

「でも」

 空は自分の指先を見つめた。

「髪の結び方を教えてもらった次の日、由美さんに見せたいと思いました。発表会のときも、芽衣のことを話したいと思った。莉子に二人の文句を言ったら、ちょっと嫌な気持ちになりました」

「最後のは、どういうこと?」

「二人のことを悪く言っていいのは、私だけみたいな気持ちになったんです」

 由美が小さく笑った。

「それは、好きってことかな」

「まだ決めません」

「わかった」

「でも、嫌いではないです」

「うん」

「たぶん、少しは好きです」

 口にした途端、顔が熱くなった。

 由美は泣きそうな顔で笑った。

 賢司は眼鏡を外し、レンズを拭くふりをして目元を押さえた。

「二人とも、そういう顔をしないでください」

「どういう顔?」

「大変なことを言われたみたいな顔」

「私たちには大変なことだから」

「次から言えなくなります」

「ごめん。普通にする」

 由美は両手を膝へ置き、表情を整えようとした。

 それがおかしくて、空は笑った。

「空さん」

 相沢が声をかけた。

「次の宿泊については、どうしたい?」

 空はすぐに答えなかった。

 由美と賢司は、何も言わず待っている。

 行ってほしいとも、急がなくてよいとも言わない。

「もう一度、二泊したいです」

 空は言った。

「同じ部屋を使いたい。机も広げてみたいです」

「わかった」

 由美が答えた。

「でも、机以外は増やさないでください」

「増やさない」

「何か置きたいものがあったら、先に聞いてください」

「必ず聞く」

「私も、置きたいものがあったら聞きます」

「うん」

「それから、次の宿泊のとき、学校の費用の表を見せてください。二枚までの」

 賢司がうなずいた。

「文字は大きくしておく」

「お願いします」

 面談を終えたあと、空は恵と一緒に若葉ホームへ戻った。

 電車の中で、恵が尋ねた。

「どうだった?」

「疲れました」

「たくさん話したからね」

「でも、聞けました」

「何を?」

「二人が、どうして私と住みたいのか」

「納得できた?」

「全部じゃないです」

「うん」

「でも、私じゃないといけない理由は、少しわかりました」

 恵はそれ以上尋ねなかった。

 空は窓の外を見た。

 街並みが遠ざかり、やがて海が見えてくる。

 若葉ホームも、朝倉家も、どちらかを選んだ瞬間に片方が消える場所ではない。

 そう思えるまでには、まだ時間が必要だった。

 けれど、二つの場所の間に道がある。

 自分は今、その道の途中にいる。

 二週間後、空は再び朝倉家を訪れた。

 玄関の前に立つと、以前とは違う緊張があった。

 この前、途中で帰った場所だ。

 自分の怒った声が、まだ部屋の中に残っているような気がした。

 インターホンを押すと、由美が扉を開けた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 由美は笑ったが、空の荷物を取ろうとはしなかった。

 玄関にも、以前と変わったものはない。

 新しい靴も、空専用の傘も置かれていなかった。

「何か増えてないか、確認してる?」

 由美に言われ、空は少し驚いた。

「少し」

「部屋も、机を広げただけ。ほかは変えてないよ」

「見てもいいですか」

「もちろん」

 空は靴を脱ぎ、廊下の突き当たりにある部屋へ向かった。

 折り畳まれていた机は、窓際に広げられていた。椅子は、ダイニングで使っていなかったものを一脚移してある。

 机の上には何もない。

 空はリュックを下ろし、青い筆箱とスケッチブックを置いた。

 それだけで、空っぽだった机が自分の場所に見えた。

「椅子の高さ、どう?」

 後ろから賢司が尋ねた。

 空は座ってみた。

「少し低いです」

「クッションを使う?」

「今は大丈夫です。一日使ってから考えます」

「わかった」

「勝手にクッションを買わないでくださいね」

「買わない」

「由美さんも」

「買いません」

 二人の返事が揃った。

 空は笑った。

「そんなに緊張しなくてもいいです」

「気をつけてるの」

「気をつけすぎると、私も緊張します」

 由美と賢司が顔を見合わせた。

「難しいね」

 由美が言う。

「私も難しいです」

 空は机の端を撫でた。

「だから、少しずつでいいんじゃないですか」

「そうだね」

 昼食を終えたあと、三人は学校にかかる費用をまとめた表を見た。

 賢司は約束通り、二枚に収めていた。文字も大きい。

「制服って、こんなにするんですか」

「学校によるけど、冬服と夏服、それからシャツや体操服を含めると、このくらいになる可能性がある」

「中古はないんですか」

「学校に確認してみようと思ってる。空さんが確認していいと言えば」

「聞いてください」

「わかった」

「教科書代は?」

「転校の時期や選択科目によって変わる」

「この定期代、毎月?」

「半年分を買うと少し安くなる」

 空は一つずつ質問した。

 以前なら、お金を出してもらうことへの罪悪感が先に立ち、何も聞けなかっただろう。

 今日は、知りたいと思った。

 知らないまま感謝するより、何にいくら必要なのかを一緒に考えたい。

「大学の分は?」

 空が尋ねると、賢司は別のファイルへ手を伸ばしかけ、止まった。

「今日は高校の分だけにしておく?」

「資料、あるんですか」

「ある。でも、かなり多い」

「何枚?」

「今は十二枚」

「多いです」

「だよね」

「次までに、三枚にしてください」

「二枚じゃなくていいの?」

「大学は、まだ知らないことが多いから三枚」

 賢司は真面目にメモを取った。

 由美が笑う。

「二人で決めるの、上手になったね」

「由美さんの会社見学も、またあったら教えてください」

「案内だけ見せる」

「行きたいって言ったら、そのあと一緒に予定を確認してください」

「うん」

「若葉ホームの予定も、学校の予定もあります」

「忘れない」

「私も、行きたいって言う前に、自分の予定を確認します」

「それなら、お互いさまだね」

 夕方、三人でスーパーへ行った。

 夕食は空の希望で、クリームシチューになった。

 由美が鶏肉を籠へ入れ、賢司がじゃがいもの袋を選ぶ。空は牛乳の値段を見比べた。

「こっちのほうが安いです」

「でも量が少ないよ」

「本当だ」

「値段だけじゃなく、一ミリリットル当たりで考えないと」

 賢司が説明を始める。

「それ、今から計算するんですか」

「暗算でできる」

「買い物に時間がかかる理由、わかりました」

 空が言うと、由美が吹き出した。

 帰り道、賢司が買い物袋を二つ持ち、由美が一つ持った。空は牛乳とパンの入った袋を持った。

 マンションの入口で、空は鞄から鍵を探そうとした。

 まだ自分の鍵はない。

 そのことに気づき、手を止める。

 賢司が共用玄関の鍵を開けた。

 エレベーターを降り、由美が玄関の扉を開ける。

「先に入って」

 由美に言われ、空は一歩中へ入った。

「ただいま」

 何も考えずに口から出た。

 すぐ後ろが静かになった。

 空は振り返った。

 由美と賢司が、驚いた顔で立っている。

「今の、違います」

 空は慌てて言った。

「いつもの癖で」

 若葉ホームへ帰るときも、空は玄関で「ただいま」と言う。

 だから特別な意味はない。

「うん」

 由美が答えた。

 それでも目が笑っている。

「おかえり」

 声は静かだった。

 賢司も続けた。

「おかえり、空さん」

「二人とも、普通にしてください」

「普通だよ」

「顔が普通じゃないです」

「これ以上は何も言わないから」

 空は靴を脱ぎながら、顔が熱くなるのを感じた。

 恥ずかしかった。

 けれど、言い直したいとは思わなかった。

 夕食のあと、空は自分から皿を洗った。

 由美が「手伝う」と言うと、空は隣に立ってもらい、洗った皿を拭く役を頼んだ。

「ここでは、何をしたらいいですか」

 空は皿を洗いながら尋ねた。

「何をって?」

「住むことになったら。家事とか」

「それも三人で決めよう」

「私だけ、何もしないのは嫌です」

「じゃあ、できることを相談しよう。でも、学校が忙しい時期まで同じようにやらなくていいからね」

「由美さんたちも、仕事が忙しいときは減らすんですか」

「減らす」

「本当に?」

「今までは、お互いに黙って無理をして、あとから不機嫌になることが多かったけど」

「それ、よくないです」

「空ちゃんに言われたくないな」

「私は、今、直そうとしてます」

「私も直します」

 由美が笑った。

 空は洗い終えた皿を渡した。

「家族って、家事の分担も決めるんですか」

「家によると思う」

「朝倉家では?」

「今までは二人で決めてた。これから三人になったら、三人で決める」

 これから三人になったら。

 由美は、決まったことのようには言わなかった。

 可能性として、そっと差し出した。

「家族になったら、何でも話さないといけませんか」

「話したくないことは、話さなくていい」

「学校で何があったかも?」

「話したくなったら聞く」

「帰る時間は言います」

「それはお願いしたい」

「誰と出かけるかは?」

「安全のために知りたいけど、どこまで聞くかは相談だね」

「好きな人ができたら?」

 由美の手から、皿が滑りかけた。

「できたの?」

「例えばです」

「びっくりした」

「由美さん、すぐ顔に出ますね」

「気をつける」

「気をつけなくていいです。ちょっとおもしろいから」

 空は笑い、蛇口を止めた。

 寝る前、空は若葉ホームへ電話をかけた。

 芽衣に、シチューを食べたことを話した。莉子には、机を広げてもらったことと、賢司の資料が本当に二枚だったことを伝えた。

「それで、どうだった?」

 莉子が尋ねた。

「何が?」

「また行って」

「普通」

「嘘」

「少し楽しい」

「少し?」

「かなり」

 前にも同じことを言ったと気づき、空は笑った。

「今、笑った?」

「笑ってない」

「そっちのほうが楽しそうじゃん」

「莉子にも、今度写真見せる」

「何の?」

「まだ撮ってない。三人で撮ってもいいかなって思っただけ」

「撮ればいいじゃん」

「まだ言ってない」

「じゃあ、言いなよ」

「簡単に言わないで」

「そればっかり」

 電話を切ったあと、空は洗面所へ向かった。

 緑色の歯ブラシは、以前と同じ場所にあった。

 由美たちが勝手に動かしていないことを確かめ、手に取る。

 鏡の中に、三本の歯ブラシが映っている。

 自分のものが、二人の間にある。

 前回は、その並びに意味を持たせることが怖かった。

 今も、完全に平気になったわけではない。

 けれど、自分でここに置いたものだった。

 誰かに用意された場所ではない。

 空が選んだ場所だった。

 歯を磨き終えたあと、リビングを覗くと、由美と賢司がソファに並んでいた。

「あの」

 二人が同時に振り返る。

「写真、撮ってもいいですか」

「何の写真?」

「三人の」

 由美が目を見開いた。

 空はすぐに付け加えた。

「莉子に見せるだけです。若葉ホームの写真の隣に置くかは、まだ決めません」

「もちろん」

「今じゃなくてもいいです」

「今、撮ろう」

 賢司が立ち上がった。

 空はスマートフォンを棚の上へ置き、タイマーを設定した。

 三人でソファに座る。

 由美が空との間を少し空けた。

「もっと近くてもいいです」

 空が言うと、由美が肩を寄せた。

 反対側では、賢司が姿勢を正しすぎている。

「賢司さん、証明写真じゃないんですから」

「どうしたらいい?」

「普通に笑ってください」

「普通が一番難しい」

 画面の数字が減っていく。

 三。

 二。

 一。

 撮影音が響いた。

 確認すると、由美は目を閉じ、賢司は緊張した顔をしていた。空だけが、二人の様子に笑っている。

「もう一回撮る?」

 由美が尋ねた。

 空は写真を見つめた。

「これでいいです」

「私、目を閉じてるけど」

「由美さんらしいから」

「どういう意味?」

「すぐ慌てるところ」

「じゃあ、賢司は?」

「表を作ってるときの顔です」

「僕も、もう一回撮りたい」

「だめです。これを莉子に送ります」

 空は写真を送った。

 すぐに莉子から返事が届いた。

『二人とも緊張しすぎ。空だけ楽しそう』

 その文字を見て、空はまた笑った。

 由美が隣から画面を覗こうとし、途中で止まった。

「見てもいい?」

「はい」

 空は自分から画面を見せた。

「莉子ちゃん、正直だね」

「いつもです」

「空ちゃん、本当に楽しそう」

「二人がおかしかったからです」

「それでもいい」

 由美は写真を見つめた。

「送ってもらってもいい?」

 空は少しだけ迷った。

「いいです。でも、勝手に誰かに見せないでください」

「見せない」

「会社の人にも」

「もちろん」

「印刷する前にも聞いてください」

「聞く」

 空は由美のスマートフォンへ写真を送った。

 その夜、空は波の音を流さずに眠った。

 扉は少しだけ開けておいた。

 廊下から、由美と賢司の話し声が聞こえる。言葉までは聞き取れないが、二人がまだ起きていることはわかった。

 この前と同じ家だった。

 喧嘩をした場所で、もう一度眠っている。

 怒った声も、泣いた顔も、ここから消えたわけではない。なかったことにしなくても、同じ部屋へ戻ってこられた。

 空は布団の中で目を閉じた。

 家族になるとはどういうことか、まだわからない。

 由美と賢司を、父や母と呼びたいとも思わない。

 朝倉という名字も、黄色い縁の皿も、今は自分のものではない。

 それでも、三人で撮った写真は、空のスマートフォンの中にある。

 自分で置いた歯ブラシが、洗面所にある。

 窓際の机には、青い糸で繕った筆箱が置かれている。

 それだけで、今夜は十分だった。

 翌朝、空は由美より先に起きた。

 キッチンで湯を沸かし、食パンを三枚出す。冷蔵庫から卵を取り出したところで、背後から声がした。

「何してるの?」

 寝起きの由美が、驚いた顔で立っていた。

「朝ご飯」

「一人で?」

「目玉焼きくらいできます」

「手伝おうか」

「今日は私が作ります」

「どうして?」

 空は卵を手にしたまま考えた。

 何かを返さなければならないからではない。

 置いてもらうための条件でもない。

「作りたいからです」

 由美は少し間を置き、うなずいた。

「じゃあ、お願いします」

「賢司さんを起こしてください」

「まだ寝かせておいてもいいんじゃない?」

「目玉焼きが冷めます」

「わかった」

 空はフライパンへ油を引いた。

 一つ目の卵は、黄身が端へ寄った。二つ目は殻が少し入った。三つ目は、ほぼ真ん中に落とせた。

 由美と賢司が席についたとき、空は三枚の皿を並べた。

「形が違う」

 空が言うと、賢司は三枚を見比べた。

「どれが空さんの?」

「一番きれいなの」

「作った人が一番いいものを取るんだ」

「嫌ですか」

「いいと思う」

「由美さんは、黄身が端のです」

「どうして私が一番失敗したものなの?」

「最初に起きてきたから」

「理由になってないよ」

 三人で笑った。

 食べ始めてから、空は箸を置いた。

「次の宿泊なんですけど」

 由美と賢司の手が同時に止まった。

「学校がある日に、ここから通ってみることはできますか」

 賢司がゆっくり箸を置いた。

「今の学校へ?」

「はい。朝早くなるけど、一度やってみたいです。もしここで暮らすなら、転校するまでそういう日があるかもしれないから」

「相沢さんと長谷川さんに相談しよう」

「お願いします」

「空ちゃん」

 由美の声が震えた。

「一緒に暮らすことを、考えてくれてるの?」

 空はすぐには答えなかった。

 窓から入る朝の光が、三人分の皿を照らしている。

「怖くなくなったわけじゃないです」

「うん」

「若葉ホームを出るのも怖いし、莉子たちと離れるのも嫌です。二人とうまくいかなかったらって、まだ考えます」

「うん」

「でも、怖いから考えないのも嫌です」

 空は由美と賢司を順に見た。

「二人と一緒に住むこと、ちゃんと考えてみたいです」

 由美は口元を押さえた。

「泣かないでください」

「まだ泣いてない」

「もう泣いてます」

「少しだけ」

 空は苦笑した。

「返事は、まだ待ってください」

「待つよ」

 由美が答えた。

「でも、待ってる間に諦めないでください」

 賢司が静かに言った。

「諦めない」

「本当に?」

「空さんが自分で考えるために待つ。僕たちが離れるために待つんじゃない」

 由美も何度もうなずいた。

「私も諦めない。空ちゃんが迷っても、怒っても、一緒に考える」

「私が、やっぱり無理って言っても?」

「そのときは、その理由を聞く。でも無理に引き止めない」

「それでも会いたいって言ったら?」

「会う」

「一緒に住まなくても?」

「会うよ」

 空は胸の奥に、ゆっくり息を入れた。

 何を選んでも、すぐにすべてを失うわけではない。

 そう信じることは、まだ難しかった。

 けれど、信じてみたいと思える言葉が、少しずつ増えていた。

「じゃあ、約束してください」

「何を?」

「私が決めるまで待つこと。待っている間に、勝手にいなくならないこと」

 由美と賢司が、空を見た。

「約束する」

 二人の声が重なった。

 空は目玉焼きへ箸を入れた。

 黄身が割れ、皿の上へゆっくり広がった。

「冷めるので食べましょう」

「うん」

 由美は涙を拭きながら笑った。

 賢司は何か言いたそうにしたが、空に見られると黙って食べ始めた。

 朝食のあと、空は洗面所で髪を結んだ。

 以前よりも低い位置で、きれいに中央へまとめられた。

 鏡には、空の後ろで歯を磨く由美と、寝癖を直している賢司が映っている。

 三人とも、同じことをしているわけではない。

 立っている場所も違う。

 それでも、一つの鏡の中にいた。

 空は緑色の歯ブラシを洗い、白と青の間へ戻した。

 今度は、その場所を見ても怖くなかった。

 ずっと置いておくと決めたわけではない。

 けれど今日、自分が戻す場所はここだった。

 空は鏡の中の二人へ言った。

「今日も、帰るとき、駅まで送ってください」

「もちろん」

 由美が答えた。

「でも、見えなくなるまで立ってなくてもいいです」

「それは、私たちが決めてもいい?」

 空は少し考えた。

「じゃあ、好きにしてください」

「そうする」

 空は笑った。

 窓の外では、春の光が、昨日より少しだけ明るくなっていた。


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